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准は去っていき、それきり二度と戻ってこなかった。きっと准も、私がもう彼を許すことはないと分かっていたのだろう。それからしばらくして、ようやく准の署名が入った離婚届が届き、一緒に私名義の口座のキャッシュカードも送られてきた。銀行へ行って残高を確かめなくても、その口座に入っているお金だけで、私と翔太がこの先ずっと何不自由なく暮らしていけるくらいだと分かっていた。私はそのカードを受け取った。お金が欲しかったわけではない。ただ、これまで何年も准に尽くしてきたことを思えば、これくらい受け取ってもいいと思った。今なら准も、あのとき私がどんな思いで家を出たのか、少しは分かっているのかもしれない。それから月日が流れ、冬が過ぎて春を迎える頃には、翔太も小学校へ上がる年になっていた。私は再び祖母が残してくれた家を離れ、翔太を連れて都会へ戻った。都会で仕事を再開し、久しぶりにオフィスの窓から大きな川を眺めていると、またここから頑張っていこうと思えた。私と翔太のこれからには、きっと今までよりたくさんの幸せが待っている。今は、そう心から信じられた。(おわり)
その後、見かねた村の人たちが間に入り、明里をその場から連れ出した。見物していた人たちも次々と帰っていき、家の前はようやく静かになった。気づけば、その場に残っていたのは准だけだった。准は私の前に立つと、いつになく穏やかな声で言った。「優衣、悪かった。昔の俺は本当に最低だった。翔太のためにも、もう一度だけチャンスをくれないか?」准は私の顔色をうかがうように笑っていたが、その目にはうっすら涙が浮かんでいた。その顔を見た瞬間、ほんの少しだけ心が揺れた。准は、本当に私のことを愛してくれていたのだろうか。そんなことを、これまで何度も考えた。あの頃は、いくら考えても分からなかった。でも今なら、少なくともこの瞬間の准の気持ちは、本物だと思えた。それでも私は、静かに首を横に振った。「チャンスなら、もうあげたでしょ」「え?いつ?」准はぱっと顔を上げた。私は准の手を取り、そっと右の肋骨の下あたりに当てた。「ここ。あなたが生きるためのチャンスなら、もうあげたでしょ。だから、これを大事にしてくれれば、それでいいの。元は私の一部なんだから」そう言って、私は准に背を向けた。准が手を当てていたその奥には、かつて私が提供した肝臓の一部が移植されていた。
翌朝早く、また外が騒がしくなった。准が何かやっているのかと思い、最初はそのままにしていた。けれど、しばらくすると、どうも私のことを言っているらしい声が聞こえてきた。気になって外へ出ると、明里がビラの束を手に、集まっていた村の人たちへ次々と配っていた。「この人、見た目じゃ分からないでしょうけど、本当はひどい人なんです!私と彼の間に割り込んで、いろんな手を使って邪魔してきたんですよ。子どもまで巻き込んで!人の恋人を奪っておいて、平気な顔してるんですよ?こんなの許せないと思いませんか?しかも今度は、何をしたのか知らないけど、私の彼を何か月もここから帰れなくしてるんです。皆さんもおかしいと思いますよね?」明里の話を聞くうちに、村の人たちもざわざわし始めた。これまで私を信頼してくれていた人たちまで、顔を見合わせてひそひそ話していた。「ええ?優衣先生が?全然そんな人には見えなかったけどねえ」「人って分からないもんだね。うちの子も教わってるけど、大丈夫なのかねえ」「だから言っただろ。都会からわざわざ戻ってきたんだ。何かあったんじゃないかって」好き勝手なことを言われ、私が口を開こうとしたそのときだった。「うそつき!ママは悪くないもん!悪いのそっちだもん!」背後から翔太の声がした。振り返ると、翔太が明里に向かって駆け出していた。私は慌てて翔太を抱き止め、しゃがんで顔をのぞき込んだ。「翔太、大丈夫。ここはママに任せて。先におうちに入ってて。ね?」翔太は明里を睨んだまま、小さな拳をぎゅっと握った。それでも最後は私の言うことを聞いて、しぶしぶ家の中へ戻っていった。「自分は好き勝手しておいて、今度は子どもにまでかばってもらうの?」明里は腕を組み、得意げな顔で私を見ていた。その態度を見て、私は黙って人垣をかき分け、明里の前まで歩いていった。「私のことなら何を言ってもいい。でも、翔太のことまで悪く言うのはやめて」そう言って、私は明里の頬を思いきり叩いた。パシン、と乾いた音が響いた。明里は頬を押さえ、呆然と私を見た。この2年、毎日のように畑仕事をしていたせいか、自分でも驚くほど力が入っていた。明里の頬はすぐに赤く腫れ、口元にはうっすら血がにじんだ。「それと、ひとつ勘違いしてるみた
翌朝、まだ布団の中にいるうちから、外がやけに騒がしかった。何事だろうと思い、眠そうな翔太を連れて外へ出ると、門の前に准のキャンピングカーが停まっていた。車のほうから薄い煙が上がり、ベーコンの焼ける香ばしい匂いがこちらまで漂ってきた。どうやら准は、朝から車の中で朝食を作っているらしい。こんな田舎の村では、キャンピングカーなんて滅多に見かけない。珍しさもあって、近所の人たちが何事かと集まっていた。「翔太、おはよう。ほら、パパが朝ごはん作ったぞ。こっち来て食べないか?」私たちに気づいた准が、笑顔で手を振った。翔太はまだ5歳だ。あんなにいい匂いをさせられたら、食べたくなるのも無理はない。翔太はベーコンバーガーを見て、思わずごくりと唾を飲み込んだ。それでも、食べたいのをこらえるようにぶんぶんと首を横に振った。「いらない!」そう言い残すと、翔太はそのまま家の中へ駆け戻っていった。私は思わず苦笑し、ベーコンを焼いている准のところへ歩いていった。「准、何のつもり?」「別に。翔太を連れて帰るのがだめなら、俺がここにいて一緒に過ごせばいいだろ」准は何でもない顔でそう答えると、集まっていた村の人たちにも、焼き上がったミニバーガーを気前よく配っていた。私たち親子の機嫌を取るというより、まるで村のみんなに朝食を振る舞いに来たようだった。そんな准を見ていると、ふと昔の自分を思い出した。肝臓の半分を差し出してまで、少しでも准に振り向いてほしいと願っていた頃の私だ。どれだけ尽くしても、准が振り向いてくれることはなかった。季節がいくつ巡っても、それは変わらなかった。だから、今さら准が何をしても、もう心は動かなかった。どうやら准は、しばらくここに居座るつもりのようだった。それなら、もう放っておくことにした。私はいつも通り畑に出て、家に戻ると翔太や村の子どもたちに勉強を教えた。門の外に停まっているキャンピングカーにも、なるべく目を向けないようにした。そんなふうにして丸1日が過ぎた頃、さすがに准も我慢できなくなったのか、門の外から声をかけてきた。「優衣、車の水が切れたんだ。悪いけど、少し分けてもらえないか?」私はやかんに井戸水を入れ、そのまま渡した。准はすぐに一口飲むと、嬉しそうに笑った。「
「やっぱり、こんな所にいたのか。もっと早く気づけばよかったよ」准は驚きもせず、こちらを見て薄く笑った。足元の湿った土には革靴の跡がいくつも残っていた。かなり前から、ここで私を待っていたのだろう。私は何も言わず、鍬を肩に担いだまま准の横を通り過ぎようとした。「おい、無視かよ。死んだことになってると、口まできけなくなるのか?」准は私の腕をつかむと、泥のついた服に目をやって鼻で笑った。「あの頃は、ずいぶん大人しそうな学生だったのにな。まさか今じゃ、こんな所で畑仕事とはな」准は平然としているように見えたけれど、苛立っているのはすぐに分かった。この2年、私のことで周りから散々あれこれ言われてきたのだろう。今日は、その鬱憤を晴らしに来たようにしか見えなかった。私は鍬の柄をぎゅっと握った。「准、先に言っておくけど、もう昔みたいに何をされても黙ってるつもりはないから。言い方には気をつけて」「川に飛び込んだんじゃなかったのか?こんなに元気なら、どうして俺に何も言わなかった?」准は私の言葉など聞いていないようだった。「もうあなたには関係ないでしょ」私はそれだけ言って背を向けたが、准は腕をつかんだまま放そうとしなかった。振りほどこうとしても、私の力ではどうにもならなかった。仕方なく、肩に担いでいた鍬を振り上げ、そのまま准に向かって振り下ろした。准はとっさに身をかわしたものの、鍬の先が上着に引っかかり、胸元が大きく裂けた。その拍子に、上着の内側から1枚の写真がひらりと地面に落ちた。准は慌ててしゃがみ込み、落ちた写真を拾い上げた。その写真が目に入り、私は思わず息をのんだ。写真に写っていたのは、私と翔太だった。どうして准が、こんな写真を持っているの?しかも、あんなに慌てて拾うなんて、ますます訳が分からなかった。でも、今はそれどころじゃない。准が写真に気を取られているうちに、私は鍬を手にしたまま庭へ駆け込んだ。門を閉めて内側からしっかり鍵をかけ、ようやく息をついた。「ママ、どうしたの?」庭で遊んでいた翔太が、不思議そうに私を見上げた。「ママは大丈夫。翔太、すぐおうちに入って、ちゃんと鍵かけて。外で何があっても絶対に開けちゃだめだよ。いい?」私は翔太の手を握り、念を押した。「
あれから2年。私は翔太と2人で、田舎でのんびり暮らしていた。暮らしに余裕があるわけではなかったけれど、毎日は驚くほど穏やかだった。余計なことで悩んだり、誰かと張り合ったりすることもなく、人の顔色や機嫌を気にせずに済んだ。朝は家の裏の畑に出て土をいじり、夕方になると翔太と一緒に風に吹かれながら夕焼けを眺めた。お腹が空けば畑のトマトをもいで食べ、喉が渇けば冷たい井戸水を飲んだ。誰かと比べることもなく、自分のペースで暮らせる。そんな毎日が、私には何より幸せだった。翔太も、もう幼稚園に通う年頃になっていた。けれど、一番近い幼稚園でも30キロ以上離れた町にあり、毎日通わせるにはあまりにも遠かった。毎日そこまで通わせるくらいなら、しばらくは私が家で教えてあげればいい。そう思って、ひらがなや簡単な計算、英語、それに短い詩や昔話などを教えるようになった。難関大学を出ていた私なら、翔太くらいの子に勉強を教えるくらいは十分できた。そのうち、村のほかの家からも、うちの子にも教えてほしいと頼まれるようになった。気づけば、都会から翔太を連れて戻ってきた私は、村の人たちから「優衣先生」と呼ばれ、すっかり頼りにされるようになっていた。子どもたちに勉強を教えたり、畑の世話をしたりと、毎日は忙しくも充実していた。村の人たちとも親しくなり、やがて縁談を持ってきてくれる人まで現れた。私がそう簡単には相手を決めないと分かっていたからか、紹介されるのも、町で自分の仕事を持っているような人が多かった。けれど、そのたびに私は笑って断った。なぜか、准とのことはまだ終わっていない気がしていた。あの人とのことがきちんと終わるまでは、他の人と付き合う気にはなれなかった。そんな日々を送っていたある日、鍬を肩に担いで畑へ出ようとしたとき、道の向こうに見覚えのある人影が立っていた。二度と会うことはないと思っていた、あの人だった。