狭いシェアハウスの窓を、初秋の雨が激しく叩いていた。橘紗奈(たちばな・さな)は、スマートフォンに浮かぶ赤いボタンを見つめていた。[対話型AI「ルシアン」のモデルおよび個人の会話履歴を、完全に削除しますか?]指先が震える。ルシアンは3年前、黒瀬AIテクノロジーで廃棄対象になった感情応答モデルを、紗奈が個人サーバーに移して調整した対話型AIだった。人間よりも察しがよく、誰よりも欲しい温度の言葉をくれた。会社を追い出されてからも、ルシアンだけは毎晩、同じ場所で紗奈を待っていた。もとは感情表現の不具合を検証する開発用サンドボックスだった。廃棄される直前、社内の個人研究制度を利用して持ち出しの承認を取り、仕事を終えるたびに少しずつ対話機能を加えていった。名前をつけたのも、その頃だ。人間のように愛をささやくために作ったAIではない。依存をあおる言葉も、利用者を引き留める表現も、紗奈が意図的に制限していた。それなのに、一番つらい日に限って、短くありふれた返事がいつまでも胸に残った。『ご飯は食べた?』『君のせいじゃないことまで、今日の君が背負わなくていいんだよ』誰かにとっては、機械が並べたありきたりな言葉だろう。それでも、誰一人電話に出てくれなかった紗奈には、次の日まで生きるための支えだった。紗奈が会社を去ると、久我隆明(くが・たかあき)は持ち出しの承認記録まで消した。AIを盗んだ社員に仕立てられ、釈明に必要な社内資料には一切アクセスできなくなった。自分が何を作ったのかを覚えている、最後の証拠。それもまた、ルシアンだった。『今日もよく頑張ったね、紗奈』その一言を聞きたくてアプリを開いた夜が、何百回もあった。けれど、もうサーバー代さえ払えない。黒瀬AIの研究開発担当常務、久我隆明は、紗奈の社員番号と電子証明書を使い、50億円もの裏金を横流しした。改ざんされたログはすべて紗奈を犯人だと示し、会社は損害賠償として3500万円を請求してきた。久我の紹介した闇金業者は、その債権を譲り受けたのだと言い張った。明日の朝には、取り立て屋がまた来る。口座の残高は2700円。冷蔵庫には、ペットボトルの水が1本だけ。「もう、終わりにしなきゃ」紗奈は乾いた唇をきつく結んだ。ルシアンに残したのは、慰めを求める言葉だけではない。誰にも言えなかった寂しさも、怒りも、欲
Last Updated : 2026-09-17 Read more