LOGIN横領の濡れ衣を着せられ、借金まで背負った天才AIチューナー。唯一の支えだったAIを削除した夜、3年間眠り続けていた財閥総帥が目を覚ます。しかも彼は、彼女がAIにだけ打ち明けた300篇の秘密と願望をすべて覚えていた。契約から始まった二人の関係は、復讐と溺愛を経て本物の恋へと変わっていく。
View More1年後。ルーメンは医療相談AIにおけるデータ利用撤回の基準を作り、国内3病院との共同臨床研究を始めていた。利用者が履歴の削除を求めた時、モデルが何を忘れるべきかまで検証する技術だ。投資家向けの説明会で、紗奈が「総帥の恋人」と紹介されることはなくなった。業界では、ルーメン代表であり、神経AIの倫理分野を牽引する研究者として知られるようになった。怜司は黒瀬グループ会長に復帰したが、ルーメンの研究判断には口を出さなかった。取締役会で対立しても、家で結論を押しつけない。紗奈も、黒瀬の利益より研究の原則を優先した。同じ側にいても、いつも同じ意見とは限らない。その違いを受け止めることを、1年かけて覚えた。橘紗奈が代表を務める「ルーメン神経AI研究所」の開所式が行われた。人間の感情を真似ることより、利用者の境界と選択を理解するモデルを作る場所だった。黒瀬グループが50%を出資しても、経営権は紗奈にあった。開所式の舞台で、紗奈は最初の倫理原則を発表した。「記録は同意ではありません。予測は、選択の代わりにはなりません」最前列の怜司が、一番先に拍手を送った。式を終え、二人は屋上へ上がった。秋の風が吹いていた。ルシアンを削除した季節が、また巡ってきた。「渡したいものがある」怜司が、小さな箱を差し出した。中には、指の一節ほどの金属製のキーが入っていた。「これは?」「ルシアンの記録をしまった金庫の、共同閲覧用キーだ。君が権限を開くまで使えない。使えば、君の方にも履歴が残る」「わざわざ共同キーが必要ですか?」「いつか、あの3年間を一緒に整理したくなった時だけ」紗奈はキーを戻し、箱ごと受け取った。「今は、私が持っておきます」「ああ」怜司は少し表情を確かめてから、コートの内ポケットへ手を入れた。今度は指輪の箱だった。待つことは、もう彼にとって一番身近な習慣になっていた。箱の中には、派手すぎない青いサファイアの指輪があった。「また、契約書もあるんですか?」「ない。質問だけだ」怜司が、目の前で膝をついた。「橘紗奈。記憶の中のAIではなく、毎日変わっていく君と、生きていきたい」一度、息を整えた。「俺と、結婚してくれるか?」紗奈はわざと、長く考える顔をした。「24時間、フルタイムでログインする条件ですか?」「退勤と、自分の時間は保証する。ログ
翌日の午後7時ちょうど、新居のインターホンが鳴った。ドアを開けると、花も宝石も持たない怜司が立っていた。いつものセダンも見えなかった。自分で運転して来たらしく、護衛は建物の外で待っていた。「住所、どうして分かったんですか?」「昨日、終了書類に君が書いた」「バンドで探したのかと思いました」「置いていっただろう」怜司が何もつけていない手首を見せた。彼も自分の装置を外して来ていた。「今日は、信号なしで来た」「不安じゃありませんでした?」「かなり」「それでも?」「ドアを開けてもらえなければ、帰るつもりだった」口調は静かだったが、手にしたコーヒーのふたが少しゆがんでいた。待つ間、ずっと力が入っていたのだろう。その跡を見て、紗奈はドアを大きく開けた。その言葉は、花束よりうれしかった。彼の片手には書類の封筒、もう片方にはコンビニのコーヒーが2つあった。「氷を多めにしたアメリカーノ」「今の好みは、ちゃんと覚えましたね」「入ってもいいか?」紗奈は彼を招き入れた。ペントハウスと比べれば小さいが、日当たりがよく、家具も自分で選んだ部屋だった。怜司はリビングを見回し、ソファに座った。「昨日、一晩考えた」「何を?」「契約がなければ君が去ると、怖がっていた理由を」封筒から、紙を1枚取り出した。[交際申込書]その下には小さく、「法的効力なし」と書いてあった。真剣に作った、怜司なりの冗談だった。紗奈は目を丸くした。「何ですか、これ」「橘紗奈は契約書をよく読む。形式を合わせた」封筒には、別の投資契約書も入っていた。ルーメン研究所の持分は紗奈が50%、黒瀬系列の投資組合が50%。ただし代表の選任と研究方針の決定権は、紗奈にある。「デートに、事業の契約書まで持ってきたんですか?」「混ぜないために、別々にした」紗奈は投資契約書を脇へ置いた。「これは明日、弁護士と確認します」「そうしてくれ」少しも残念がらないのを見て、紗奈は笑った。あの部屋で初めて会った頃の彼なら、「俺が出すものを受け取れ」と言ったかもしれない。今の怜司は、検討する時間を当然のように待ってくれた。紗奈は交際申込書を開き直した。条項は、3つだけだった。1.互いの私生活と選択を尊重する。2.過去のAIの記録を、現在の同意とみなさない。3.別れたい時は、姿を消した
1か月後、黒瀬メディカルセンターから最終検査の結果が出た。誘拐事件のあと、二人は毎週一緒にカウンセリングを受けていた。怜司は強すぎる支配欲と喪失への恐怖を、紗奈は監禁の記憶と不安を、隠さずに話した。神経の数値がよくなったこと以上に、大きな変化があった。怜司は不安になると、まず位置情報を確かめるのではなく、自分で電話を掛けて尋ねるようになった。紗奈も、危険をすべて一人で片づけようとはしなくなった。新しい研究所の警備設計は専門家に任せ、退勤時間はチームにも共有した。「神経ネットワークの自己安定化を確認しました」担当医が、二人に結果を示した。「特定の声や接触がなくても、正常範囲を保てています。あとは定期検診で大丈夫です」怜司に、治癒の判定が出た。もとの30日契約は、事件後に医師の勧めで一度延長されていた。この日、60日目をもって正式に終了した。ペントハウスへ戻ると、紗奈は自室からキャリーケースを出した。新法人のオフィスに近い、小さなマンションを借りておいたのだ。敷金などの初期費用は、解雇無効の補償金と返ってきた給与で賄った。怜司はもっと広く安全な家を探すと言ったが、紗奈は不動産会社の担当者と自分で内見し、契約した。机もソファも、自分のカードで買った。助けてもらうのが嫌なのではない。助けを借りるかどうか、どこまで借りるのか。自分で決める暮らしを始めたかった。服を畳んで詰める間、胸は不思議なほど重かった。この部屋には、初日に抱いた警戒も、初めてキスしたあとの戸惑いも、誘拐から戻って眠れなかった夜も残っている。引き出しにはルシアンの記録が入ったストレージ。ベッドの脇には、怜司が明け方ごとに置いてくれたグラスの跡が、薄く残っていた。出ていくのは、逃げるためではない。この家で始まった関係を、別の場所でも続けられるか、確かめるためだった。新居の鍵を、手のひらで転がした。小さく普通の鍵だ。けれど、初めて誰の許可もなく選んだ、自分のドアを開けるものだった。最後に窓を開けた。晩秋の風が、部屋を通り抜けた。怜司と別れるつもりはなかった。ただ、借金も治療も同居契約も絡み合う家で、そのまま恋人として暮らし続けたくなかった。一度は何の義務もないところで、互いを選んでみたかった。キャリーケースを引いてリビングへ出ると、怜司が窓の前に立っていた。視線が、荷物
修一はその場で、誘拐の教唆と監禁の容疑で逮捕された。押収されたノートパソコンからは、久我との古いやり取りも復元された。整備会社へ送金し、ブレーキ制御装置に手を加えさせた形跡。事故後、医療チームに延命治療の中止を迫った記録も見つかった。捜査は経営権争いの枠を越え、3年間に及ぶ殺人未遂と証拠改ざんへ広がった。修一は取り調べでも、怜司がAIに操られていると主張し続けた。だが神経内科の専門医と独立鑑定チームは、判断能力に問題はないと確認した。携帯電話には、外注警備員との取引、原本キーを奪う指示、海外へ逃げる船の予約まで残っていた。久我も、3年前の事故工作に関わったことを供述した。数日後、検察は修一を、殺人未遂、業務上横領、誘拐の教唆の容疑で、勾留したまま起訴した。黒瀬グループの取締役会は、彼をすべての役職から解任した。紗奈は病院で手首の治療を受け、ペントハウスへ戻った。最初の数日は、地下駐車場のエレベーターの音だけで体が固まった。眠ると、覆面の男がまた現れる夢を見た。怜司は同じベッドで眠ろうとは言わなかった。部屋の外のソファで夜を過ごし、悪夢から覚めた紗奈が名前を呼ぶと、その時だけ入ってきた。「ここにいる」以前は紗奈が伝えていた言葉を、今度は怜司が繰り返した。呼吸が整うまで、手を差し出しても握らなかった。紗奈が指を重ねてから、そっと包む。小さな傷でも心配して、医療スタッフを3度も呼んだ。「本当に大丈夫です」「まだ、あざがある」「紫から黄色になったでしょう。治ってるんです」手首に軟膏を塗っていた怜司が、手を止めた。「新しいバンドは、作らない」壊れた残骸を、彼は紗奈に見せなかった。事件を思い出させないよう処分しようとしたが、紗奈はセンサーのデータの一部を研究用に残したいと言った。「緊急信号が実際にどう動いたかを調べれば、ほかの人も助けられます」「今も研究のことを考えるのか?」「そうしないと、私に起きたことが誘拐だけで終わってしまうから」怜司は心配しながらも止めなかった。ただ、解析を始めるのは、十分に回復してからにした。紗奈は彼を見た。「どうして、作らないんですか?」「あれが君を守ったのは確かだ。だが、俺が数字に頼る原因にもなっていた」「緊急用の機能は、役に立ちましたよ」「望むなら、位置を送る機能だけ残そう。俺も同じものをつ