2026年8月23日、午前。病院の天井は、いつ見ても白すぎる。規則正しく鳴るモニターの電子音。鼻を刺す消毒液のにおい。その中で、私は胸をかきむしるようにして息をあえがせていた。末期の拡張型心筋症。駆出率は15%。強心薬を投与し続けても血圧は下がり、最近は心室性の不整脈まで繰り返すようになっていた。担当医には、移植を受けられなければ、残された時間はもう日単位だと言われている。それでも、今朝だけは耐えられた。3年待って、ようやく今回の脳死ドナーの心臓を移植される患者に選ばれた。血液型も体格の条件も合っている。手術は午後2時からだった。「紗月さん、今日さえ乗り切れば大丈夫ですよ。手術の同意書も確認できていますから」看護師に励まされながら手術着に着替えていたとき、特別個室の扉が開いた。夫の高瀬怜司だった。明成医科大学附属病院、心臓血管外科の最年少助教。きれいに整えた髪と、端正な顔立ち。いつも自信に満ちていたその顔に、かすかな焦りがにじんでいた。「怜司さん。準備、全部終わった? 私……もう、生きられるんだよね?」酸素マスクの下で、私はかすかに笑った。けれど怜司は、枕元まで来ようとしなかった。ベッドの足元に立ち、カルテの角を親指でこすっている。「紗月。今日のおまえの移植、取り消した」低く、乾いた声だった。「……何?」「手術はできないと記録を変更した。ドナーの心臓は、別の患者に回る」頭の中が真っ白になった。「怜司さん、私の状態、わかってるよね。今日手術を受けられなかったら、私、死ぬんだよ」震える手で酸素マスクを下げると、怜司は眉をひそめた。「大げさだな。強心薬を入れて酸素をつけていれば、あと数日はもつだろ」「その数日が過ぎたら? この心臓、誰に渡すの?」怜司の唇が、一瞬だけ動きを止めた。「……莉乃だ」白石莉乃。怜司が医学生だった頃の初恋の相手で、有名なピアニスト。「昨日、急性心筋炎で倒れたんだ。来月には海外公演も控えてる。回復を待っていたら、ピアニストとしての人生が終わるかもしれない」「白石さんは補助循環装置で血圧が安定していて、薬の効果を見る余地があるって言ってたよね。もともと私の次だったじゃない」「そんな体で何がわかるんだ。莉乃には薬物治療に耐える体力がないんだよ」怜司は苛立ったように遮った。「おまえは、もとも
Last Updated : 2026-09-17 Read more