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第4話 30億円の返還請求と、全財産の寄付

last update Veröffentlichungsdatum: 17.09.2026 22:47:37

同じ日の夜。明成医科大学附属病院、心臓手術室。

自動ドアが開き、怜司は血のついたラテックスの手袋を外した。

6時間に及んだ心臓移植手術。

紗月に配分されるはずだった心臓は、今、莉乃の胸の中で動いていた。血液型と体格の条件は合っていた。だが、手術直前に確認するはずの抗体検査は、最後まで『判定中』のままだった。

助手の医師は、結果を待つべきだと2度進言した。それでも怜司は『ドナー心の虚血時間が延びる』と言って、切開を指示した。最終結果は手術後、自分だけに報告するよう念も押していた。

「先生、移植心の拍動は安定しています。血圧も維持できています」

「ICUへ移して、1対1でついてくれ。抗体検査の結果は、まず俺に報告するように」

怜司はマスクを下げ、長く息を吐いた。

初恋の人を救った安堵と、難しい手術を終えた達成感が、疲れを覆い隠していた。紗月が置いていった離婚訴訟の書類も、30億円の返還請求も、死を恐れる妻が感情的になっただけだと思っていた。

(莉乃が落ち着いたら、公演の日程を組み直さないとな。紗月だって、何日かすれば結局戻ってくる)

白衣を整え、医局の廊下に入ったときだった。

「高瀬先生」

院長秘書室長が、硬い表情で駆け寄ってきた。

「院長がお呼びです。今すぐ大会議室へ。法務部も全員待機しています」

「何の用ですか。たった今、手術が終わったところなんですが」

「その手術のせいで、病院全体が揺らいでいるんです。お急ぎください」

エレベーターで12階へ上がり、大会議室に入ると、話し声がぴたりと止まった。

上座には、怜司の父であり、明成医大病院の院長でもある高瀬正臣が座っていた。法務部と財務部の幹部たちは書類を広げたまま、誰一人口を開こうとしない。

「父さん、いったい何が……」

バシッ!

正臣が投げつけたファイルが、怜司の頬を打った。紙の角で切れた皮膚に、細く血がにじむ。

「自分が何をしでかしたかわかっていて、手術室に入ったのか!」

床に散らばった書類が、怜司の靴先に触れた。

【星和医療財団による条件付き拠出契約の解除、および30億円の返還請求】

【心臓センターの研究基金5億円、および関連債権の仮差押決定】

裁判所の印の下に、申立人代理人として桐生蓮の名があった。

「星和医療財団って……紗月の実家は、地方で病院をいくつかやってるだけじゃなかったんですか?」

正臣は手のひらで机を叩いた。

「国内最大の医療財団、その創業者の唯一の相続人だ! おまえの研究室も、自力で獲得したと思っている研究費も、あの家が倫理の遵守を条件に出した金なんだよ!」

怜司の脳裏を、5年分の記憶が駆け抜けた。

当直室の前に弁当を置いていった紗月。自分の採用が決まったとき、誰よりも喜んでいた顔。病院の理事会が、妙にあっさり研究室の新設を承認した日のこと。

実力だけで開いたと思っていた扉の向こうには、紗月がいた。

「もう仮差押えが決まったなんて、そんなこと、あり得るんですか」

「契約書も、虚偽のカルテも、アクセス記録も、全部出されている。裁判所は残っていた研究資金から押さえた。うちはあの拠出金を担保に、センター増築の融資まで受けてるんだ。返還義務が確定すれば、資金繰りが止まる」

正臣は立ち上がり、怜司の胸ぐらをつかんだ。

「今すぐ紗月を探せ。土下座でも何でもして、訴訟を止めろ。できなければ、まずおまえを切る」

怜司は震える手でスマートフォンを取り出した。

『おかけになった電話はおつなぎできません。留守番電話サービスに接続します』

かけ直しても、同じだった。

そのとき、会議室の壁掛けテレビに速報のテロップが流れた。

――星和医療財団の後継者、高瀬紗月さん。個人資産12億円を公益医療信託へ拠出。明成医大病院の高瀬医師に対し、離婚と慰謝料を求め提訴。

画面には、寄付の契約書と、裁判所の受付印が押された訴状の一部が映っていた。

怜司の手から、スマートフォンが滑り落ちた。何も言えないまま、割れた端末を拾おうと腰をかがめ、その姿勢で止まる。

黒いガラスには、青ざめた自分の顔だけが映っていた。

床にぶつかった画面の上で、紗月の名前が無数の亀裂に分断されていた。

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