余命7日、夫に奪われた心臓を取り戻します

余命7日、夫に奪われた心臓を取り戻します

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心臓移植を待ち続けた妻。しかし手術当日、医師である夫は彼女に届くはずだった心臓を初恋の女へ渡してしまう。余命はわずか7日。すべてを奪われた彼女は泣きすがる代わりに、離婚と復讐を決意する。死後さえ許さない、裏切りへの最後の制裁が始まる。

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Chapter 1

第1話 私の心臓移植を取り消した夫

2026年8月23日、午前。

病院の天井は、いつ見ても白すぎる。

規則正しく鳴るモニターの電子音。鼻を刺す消毒液のにおい。その中で、私は胸をかきむしるようにして息をあえがせていた。

末期の拡張型心筋症。

駆出率は15%。強心薬を投与し続けても血圧は下がり、最近は心室性の不整脈まで繰り返すようになっていた。担当医には、移植を受けられなければ、残された時間はもう日単位だと言われている。

それでも、今朝だけは耐えられた。

3年待って、ようやく今回の脳死ドナーの心臓を移植される患者に選ばれた。血液型も体格の条件も合っている。手術は午後2時からだった。

「紗月さん、今日さえ乗り切れば大丈夫ですよ。手術の同意書も確認できていますから」

看護師に励まされながら手術着に着替えていたとき、特別個室の扉が開いた。

夫の高瀬怜司だった。

明成医科大学附属病院、心臓血管外科の最年少助教。

きれいに整えた髪と、端正な顔立ち。いつも自信に満ちていたその顔に、かすかな焦りがにじんでいた。

「怜司さん。準備、全部終わった? 私……もう、生きられるんだよね?」

酸素マスクの下で、私はかすかに笑った。

けれど怜司は、枕元まで来ようとしなかった。ベッドの足元に立ち、カルテの角を親指でこすっている。

「紗月。今日のおまえの移植、取り消した」

低く、乾いた声だった。

「……何?」

「手術はできないと記録を変更した。ドナーの心臓は、別の患者に回る」

頭の中が真っ白になった。

「怜司さん、私の状態、わかってるよね。今日手術を受けられなかったら、私、死ぬんだよ」

震える手で酸素マスクを下げると、怜司は眉をひそめた。

「大げさだな。強心薬を入れて酸素をつけていれば、あと数日はもつだろ」

「その数日が過ぎたら? この心臓、誰に渡すの?」

怜司の唇が、一瞬だけ動きを止めた。

「……莉乃だ」

白石莉乃。

怜司が医学生だった頃の初恋の相手で、有名なピアニスト。

「昨日、急性心筋炎で倒れたんだ。来月には海外公演も控えてる。回復を待っていたら、ピアニストとしての人生が終わるかもしれない」

「白石さんは補助循環装置で血圧が安定していて、薬の効果を見る余地があるって言ってたよね。もともと私の次だったじゃない」

「そんな体で何がわかるんだ。莉乃には薬物治療に耐える体力がないんだよ」

怜司は苛立ったように遮った。

「おまえは、もともと我慢できるだろ。次のドナーが見つかるまで待ってくれればいい」

彼が研修医だった頃から、私が耐え続けてきた年月。

それは彼にとって、私ならもっと苦しんでもいいという根拠になっていた。

「高瀬怜司。私に決まった心臓を取り上げたら、長くてもあと7日。主治医のあなたが、いちばんよく知ってるはずよ」

もう、声は震えていなかった。

「大げさに言うな。莉乃の手術が終わったら、また待機登録してやるから」

怜司はカルテに、『感染症の疑いによる移植保留、および患者による同意撤回』と入力した。

私はそんなこと、一言も言っていない。

彼が開いたままにしていた画面には、移植コーディネーターの管理者アカウントで私への臓器配分を止め、白石莉乃の緊急度と検査結果を書き換えた痕跡が残っていた。国の配分システムはその虚偽の記録を事実として処理し、莉乃を次の候補に繰り上げていた。

「莉乃の手術がある。おとなしくしてろ」

怜司はそのまま病室を出ていった。

バタン。

扉が閉まると、私は短縮ダイヤルの1番を押した。

星和医療財団の法務部門を統括する弁護士、桐生蓮が電話に出た。

「紗月? 今日、手術に入るんじゃなかったのか」

「蓮さん。怜司が私の移植を取り消して、白石莉乃を繰り上げた」

電話の向こうが、一瞬静まり返った。

「……間違いないんだな?」

「うん。明成に出した30億円、契約違反で返還請求して。研究資金の口座も仮差押えをお願い」

「紗月、それじゃおまえの治療は?」

「もう終わり。残された時間は、長くても7日だって」

私は点滴の針を抜き、ガーゼを押し当てた。手の甲に赤い染みがみるみる広がる。

虚偽の記録が残るカルテ画面を撮影し、蓮に送った。高瀬怜司の署名も、入力時刻も、はっきり写っていた。

「自分が助けた人を見て笑うとき、何を奪ったのか思い知らせてあげる」

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第1話 私の心臓移植を取り消した夫
2026年8月23日、午前。病院の天井は、いつ見ても白すぎる。規則正しく鳴るモニターの電子音。鼻を刺す消毒液のにおい。その中で、私は胸をかきむしるようにして息をあえがせていた。末期の拡張型心筋症。駆出率は15%。強心薬を投与し続けても血圧は下がり、最近は心室性の不整脈まで繰り返すようになっていた。担当医には、移植を受けられなければ、残された時間はもう日単位だと言われている。それでも、今朝だけは耐えられた。3年待って、ようやく今回の脳死ドナーの心臓を移植される患者に選ばれた。血液型も体格の条件も合っている。手術は午後2時からだった。「紗月さん、今日さえ乗り切れば大丈夫ですよ。手術の同意書も確認できていますから」看護師に励まされながら手術着に着替えていたとき、特別個室の扉が開いた。夫の高瀬怜司だった。明成医科大学附属病院、心臓血管外科の最年少助教。きれいに整えた髪と、端正な顔立ち。いつも自信に満ちていたその顔に、かすかな焦りがにじんでいた。「怜司さん。準備、全部終わった? 私……もう、生きられるんだよね?」酸素マスクの下で、私はかすかに笑った。けれど怜司は、枕元まで来ようとしなかった。ベッドの足元に立ち、カルテの角を親指でこすっている。「紗月。今日のおまえの移植、取り消した」低く、乾いた声だった。「……何?」「手術はできないと記録を変更した。ドナーの心臓は、別の患者に回る」頭の中が真っ白になった。「怜司さん、私の状態、わかってるよね。今日手術を受けられなかったら、私、死ぬんだよ」震える手で酸素マスクを下げると、怜司は眉をひそめた。「大げさだな。強心薬を入れて酸素をつけていれば、あと数日はもつだろ」「その数日が過ぎたら? この心臓、誰に渡すの?」怜司の唇が、一瞬だけ動きを止めた。「……莉乃だ」白石莉乃。怜司が医学生だった頃の初恋の相手で、有名なピアニスト。「昨日、急性心筋炎で倒れたんだ。来月には海外公演も控えてる。回復を待っていたら、ピアニストとしての人生が終わるかもしれない」「白石さんは補助循環装置で血圧が安定していて、薬の効果を見る余地があるって言ってたよね。もともと私の次だったじゃない」「そんな体で何がわかるんだ。莉乃には薬物治療に耐える体力がないんだよ」怜司は苛立ったように遮った。「おまえは、もとも
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第2話 おまえは、あと数日もつだろ
手の甲からにじんだ血が、白いガーゼの端を染めていく。私は血を拭い、ベッドの下から古びた革のバッグを引き出した。結婚して5年。旧姓は、一ノ瀬。星和医療財団の後継者であることを伏せ、明成医大の研修医だった怜司を支えるために家を出たとき、持ってきたバッグだった。両親が生前に用意した30億円の条件付き拠出金で、彼専用の研究室ができた。私は財団の理事会に、彼の採用を何度も働きかけた。怜司は、何もかも自分の実力で手に入れたと信じていた。その思い込みの代償が、私の命になるとは思わなかった。カチャリ。病室の扉が開き、濃紺のスーツを着た長身の男が足早に入ってきた。星和医療財団、法務統括責任者の桐生蓮。「紗月」血のついたガーゼと、外された点滴のチューブを見た途端、蓮の顔がこわばった。「本当に、怜司がおまえの移植を止めたのか」「うん。確認できた?」「送ってくれた臓器配分の通知と、財団の移植センターの記録を照合した。国立移植医療管理局にも、正式に事実確認を求めてある」蓮は短く息を吐いた。怒るほど、口数が少なくなる人だった。「おまえを『感染症の疑い、手術拒否』として虚偽入力していた。一方で、白石莉乃は補助循環への反応と血液検査の数値を書き換えて、緊急度を上げている。2人ともドナーと血液型、体格が合っていたから、システムは次の候補に莉乃を選んだ」「クロスマッチの結果は?」「莉乃の予備検査で、境界域の抗体反応が出ている。それを『確認中』のまま放置していた。手術を押し切るつもりだ」口の中に苦いものが広がった。「書類、持ってきてくれた?」蓮は厚いファイルをテーブルに置いた。【離婚および慰謝料請求訴訟委任状】【条件付き拠出契約の解除・返還請求および債権仮差押申立書】「訴状を出せば、すぐ離婚できるわけじゃない。それでも今日提出すれば、おまえの意思は明確に残せる。拠出金は生命倫理と研究の透明性に関する条項の違反を根拠に返還を求める。まずは口座に残っている研究資金を押さえる」「それで十分」私は委任状に名前を書いた。指先は少し震えたけれど、署名は乱れなかった。廊下の向こうから、車輪が慌ただしく転がる音が聞こえた。「白石莉乃さん、第3手術室へ移動します」病室の扉を開けると、ストレッチャーに横たわる莉乃が見えた。化粧のない顔には酸素マスクがついていたが、
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第3話 余命7日、病院を抜け出して
非常階段を一段下りるたびに、息が上がった。胸の真ん中を締めつける痛みが、波のように押し寄せる。駆出率15%の心臓には、1階分の階段すら重荷らしい。何度も拍動が乱れた。「紗月、こっちにもたれて」蓮は私の肩を抱き、地下駐車場まで支えてくれた。スモークガラスの黒いセダン。その後部座席に体を横たえると、こらえていた咳が一気にあふれた。蓮は用意していた携帯用酸素濃縮器に鼻カニューレをつなぎ、流量を確かめた。冷たい空気が気道を通ると、ぼやけていた視界が少しずつ戻ってきた。車が駐車場を出た途端、スマートフォンが立て続けに鳴った。【高瀬怜司】着信を拒否すると、すぐにメッセージが3件届いた。【紗月、病院の外に出たって本当か?】【重症患者が勝手に出ていって、どうするつもりだ。今すぐ戻れ】【30億と離婚で脅すつもりならやめろ。莉乃の手術が終わってから話そう】死にかけている人間にも、彼はまず戻れと命じる。自分が奪ったものは順番ではなく、私に残された時間なのだと。その認識は、どの文面にもなかった。私は番号をブロックして電源を切り、SIMカードを蓮に渡した。「証拠として、保管しておいて」「わかった」「どこへ行くの?」「東京の西郊にある、財団の保養邸。外部の人間は場所を知らない。緩和ケアの医師と専任の看護師も待機してる」蓮はルームミラー越しに、私の顔色を確かめた。「紗月、今からでも別の移植センターに移れる。緊急登録をやり直して、補助治療を続ければ……可能性がまったくないわけじゃない」「次の心臓がいつ来るかなんて、誰にもわからないでしょう。それまで私の体がもたないことも、わかってる」ハンドルを握る蓮の手が、こわばった。車は静かな林道を抜け、重厚な鉄の門をくぐった。大きなガラス窓の向こうに森を見渡せる、一軒の邸宅だった。病院のにおいの代わりに、ヒノキが香った。寝室の一角には酸素濃縮器と救急薬、移動式のモニターが整えられている。専任の看護師が血圧と酸素飽和度を測った。数値を見るなり、すぐに医師を呼ぶ。意識がかすんだり、息苦しさが増したりしたら、すぐ知らせるようにと念を押された。ベッドに身を預けて座ると、蓮がタブレットと書類鞄を差し出した。「返還請求と仮差押えの申し立ては受理された。おまえ名義の不動産、預金、株式は、今日の時点でおよそ12億円だ」
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第4話 30億円の返還請求と、全財産の寄付
同じ日の夜。明成医科大学附属病院、心臓手術室。自動ドアが開き、怜司は血のついたラテックスの手袋を外した。6時間に及んだ心臓移植手術。紗月に配分されるはずだった心臓は、今、莉乃の胸の中で動いていた。血液型と体格の条件は合っていた。だが、手術直前に確認するはずの抗体検査は、最後まで『判定中』のままだった。助手の医師は、結果を待つべきだと2度進言した。それでも怜司は『ドナー心の虚血時間が延びる』と言って、切開を指示した。最終結果は手術後、自分だけに報告するよう念も押していた。「先生、移植心の拍動は安定しています。血圧も維持できています」「ICUへ移して、1対1でついてくれ。抗体検査の結果は、まず俺に報告するように」怜司はマスクを下げ、長く息を吐いた。初恋の人を救った安堵と、難しい手術を終えた達成感が、疲れを覆い隠していた。紗月が置いていった離婚訴訟の書類も、30億円の返還請求も、死を恐れる妻が感情的になっただけだと思っていた。(莉乃が落ち着いたら、公演の日程を組み直さないとな。紗月だって、何日かすれば結局戻ってくる)白衣を整え、医局の廊下に入ったときだった。「高瀬先生」院長秘書室長が、硬い表情で駆け寄ってきた。「院長がお呼びです。今すぐ大会議室へ。法務部も全員待機しています」「何の用ですか。たった今、手術が終わったところなんですが」「その手術のせいで、病院全体が揺らいでいるんです。お急ぎください」エレベーターで12階へ上がり、大会議室に入ると、話し声がぴたりと止まった。上座には、怜司の父であり、明成医大病院の院長でもある高瀬正臣が座っていた。法務部と財務部の幹部たちは書類を広げたまま、誰一人口を開こうとしない。「父さん、いったい何が……」バシッ!正臣が投げつけたファイルが、怜司の頬を打った。紙の角で切れた皮膚に、細く血がにじむ。「自分が何をしでかしたかわかっていて、手術室に入ったのか!」床に散らばった書類が、怜司の靴先に触れた。【星和医療財団による条件付き拠出契約の解除、および30億円の返還請求】【心臓センターの研究基金5億円、および関連債権の仮差押決定】裁判所の印の下に、申立人代理人として桐生蓮の名があった。「星和医療財団って……紗月の実家は、地方で病院をいくつかやってるだけじゃなかったんですか?」正臣は手のひらで
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第5話 初恋の人のための祝杯
2026年8月24日、午後。明成医大病院、心臓移植ICUの特別隔離室は、静かすぎるほど静かだった。消毒液のにおいと空調の音の間で、心電図モニターが一定の間隔で鳴っている。感染管理のため、生花も香水も持ち込めない。それなのにベッド脇には、怜司がこっそり持ち込んだ小さな銀色の箱と、ノンアルコールのスパークリングジュースが置かれていた。莉乃は患者衣のまま、ベッドの背を起こして座っていた。首には中心静脈カテーテルが入り、胸の真ん中の手術創は厚いドレッシング材に覆われている。担当看護師には面会を10分以内に切り上げるよう言われていたが、怜司は自分が執刀医だからと居座っていた。箱の中には、公演の契約書の控えと、お祝いのカードまで入っている。「怜司さん、本当に、私の心臓になったんだよね?」莉乃は指を広げて、笑った。「指先まで血が流れる感じが違うの。息も、前よりずっと楽」「まだ手術の翌日だぞ。あまり話すな」怜司は紙コップ2つに、少しずつジュースを注いだ。「来月のウィーン・フィルとの共演は難しいだろうけど、きちんとリハビリすれば、また舞台に立てる。俺がそうさせる」莉乃の口元から、すぐに笑みが消えた。「来月じゃなきゃ意味がないのに。あの公演のために、ここまで頑張ってきたんだよ?」「まずは体を治さないと。しっかりリハビリすれば、またピアノの前に座れる」怜司は笑って言ったが、指先はこわばっていた。頬に残った、紙の角で切れた傷がうずく。研究資金の仮差押え。30億円の返還請求。紗月の離婚訴訟。スマートフォンの履歴には、病院幹部からの不在着信が並んでいた。(紗月は、最後まで耐える女だ。5年も俺のそばにいたあいつが、本気で俺を捨てるはずがない)ショックと嫉妬で、話を大きくしているだけだと思った。苦しくなれば、結局は自分のいる病院に戻ってくる。戻ってきたら、少し優しくしてやればいい。「怜司さん」莉乃が彼の袖をつかんだ。「私を助けたこと、後悔してないよね?」「当たり前だろ」返事は早かった。けれど、怜司は莉乃の目を見られなかった。紙コップを1つ渡し、ひっそりと乾杯しようとした、そのとき。隔離室の外で、何人もの足音が止まった。扉が開き、病院の感染管理責任者と、スーツ姿の調査官3人が入ってきた。先頭の男が身分証と立入調査通知書を差し出す。「厚生労働省・国
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第6話 空っぽの家、消えた妻の痕跡
特別隔離室を出た怜司は、豪雨の中、アクセルを踏み込んだ。ワイパーは休みなく動いていたが、フロントガラスはすぐに雨でかすんだ。彼はハンドルに身を寄せ、同じことばかり考えていた。(家にいるはずだ。行くあても、頼る相手もない体で、遠くへ行けるわけがない。家にこもって、俺が迎えに来るのを待ってるんだ)隅田川沿いにある、約130平方メートルのマンション。5年前、結婚と同時に暮らし始めた家だった。怜司は地下駐車場に斜めに車を止め、18階の部屋へ駆けつけた。玄関前で息を切らしながら、慣れた暗証番号を入力する。ピピピッ、ピッ。赤いロックランプがついた。「……何で開かない?」2度、3度と試しても、結果は同じだった。「紗月! 中にいるんだろ。開けろよ!」拳で扉を叩くと、隣室の玄関が少し開いた。怜司はその視線を無視し、財布の奥に入れてあった予備のキーカードを取り出した。2人の共同名義で契約したときに登録したカードだった。カチャリ。扉が開いた。怜司は一歩入ったまま、動けなくなった。人の暮らしていたにおいが、消えていた。紗月の好きだった柔軟剤の香りも、いつも台所からほのかに漂っていたお茶のにおいもない。少し開いた窓から、湿った雨風だけがリビングを吹き抜けていた。「紗月?」明かりをつけると、がらんとした空間が現れた。リビングの中央に飾ってあった結婚写真は、床に下ろされていた。写真の中では、紗月の姿だけが刃物できれいに切り取られている。笑っている怜司が、1人だけ残されていた。寝室のクローゼットには、彼のスーツとシャツしかかかっていなかった。紗月の服も、バッグも、靴も、1つもない。ドレッサーも洗面所も同じだった。歯ブラシ1本、ヘアゴム1つ残っていない。冷蔵庫まで空になっていた。怜司の夜間手術が終わるのを待ちながら、紗月がいつも作り置きを詰めていた容器も、時間別に分けていた薬のケースも消えている。シンクには水滴すらなかった。寝室の隅に、片づけ業者が貼った小さな作業完了シールが落ちていた。紗月が1人で、あの体を引きずって荷物を出したのではない。財団の人間が入り、数時間で彼女の暮らしを丸ごと運び去ったのだ。怜司は管理室へ電話をかけた。午後、星和医療財団の依頼を受けた引っ越し業者が入り、共有名義人である紗月の委任状も確認したと、職員は答えた。荷物の行き先は
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第7話 執行官と特別調査班の来訪
翌朝9時。明成医大病院の本館1階ロビーは、外来患者と付き添いの家族で混み合っていた。その間を、裁判所の執行官、国立移植医療管理局の調査官、検察の捜査官たちが、病院関係者に案内されて入ってきた。拡声器も、怒号もなかった。代わりに、差し出された書類の赤い印が、ロビーの空気を変えた。「星和医療財団が申し立てた債権仮差押決定を送達します。財務部は、対象口座と関連資産の処分を停止してください」執行官たちが財務部へ向かう一方、検察の捜査官は3階の心臓センター研究棟へ上がった。その手には、裁判所が発付した捜索差押許可状があった。一晩中研究室にいた怜司が、しわだらけの白衣で飛び出してきた。「何をするつもりですか。ここは診療区域ですよ」捜査責任者が令状を広げた。「移植対象者の選定資料改ざん、虚偽の診療記録作成、業務妨害の疑いです。研究室のパソコンと外部記憶装置、手術に関する原本記録を確保します」「全部でっち上げだ。紗月が嫉妬して、仕組んだんですよ」怜司が入口をふさぐと、病院の警備員が腕をつかんだ。「先生、どいてください。理事会からの指示です」捜査官たちは研究室のパソコンの電源を切り、封印シールを貼った。金庫の中の私物のノートパソコン、移植委員会議事録の写し、管理者アカウントを書いたメモも、証拠品の箱に収められた。向かいの移植コーディネーター室では、国立移植医療管理局の調査班が、アクセス時刻と承認経路を照合していた。「8月23日午前。患者、高瀬紗月さんの手術同意撤回が入力された直後、同じ端末で白石莉乃さんの緊急度が変更されています。承認には、高瀬怜司先生のアカウントが使われています」調査官の言葉に、周囲の職員が一斉に怜司を見た。「誰かが俺のアカウントを使った可能性だってあるだろ!」「指紋認証のログと、院内の防犯カメラ映像も確認します」怜司は口をつぐんだ。病院はその場で、診療と手術の停止通知を渡した。入館証も回収された。心臓センター長は当直表から怜司の名を消し、予定されていた2件の手術を別の医師に引き継いだ。彼が指導していた専攻医たちさえ、目を合わせようとしなかった。「調査が終わるまで、患者への接触と院内ネットワークへのアクセスを禁止します」「この病院の心臓センターを作ったのは俺だぞ。何の権利があって、俺の手術を止めるんだ!」「センターを
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第8話 暴かれた臓器配分の改ざんログ
2026年8月26日、夕方。東京西郊の丘陵地にある、星和財団の保養邸。そのリビングへ、赤い夕日が長く差し込んでいた。紗月は鼻の酸素チューブをつけ直し、タブレットの画面を見つめた。星和医療財団の法務部が厚生労働省と捜査機関へ提出した資料のうち、紗月自身が公開に同意した記録だけがまとめられていた。【独自:明成医大病院の高瀬怜司助教、妻の心臓移植取り消し記録を改ざんか】「薬の時間だ」蓮が、ぬるめの麦茶と痛み止めを持ってきた。「胸の痛みは?」「さっきより楽。薬が効いてきたみたい」紗月は錠剤をのみ、しばらく息を整えた。心臓は日ごとに力を失っていたが、意識ははっきりしていた。「ニュース、始まったよ」蓮がテレビをつけた。画面には、個人情報の一部を伏せたシステム記録の時系列が映し出された。紗月の移植同意撤回が入力された時刻。莉乃の緊急度が変更された時刻。怜司のアカウントがアクセスした端末の番号。それらが順に表示された。――国立移植医療管理局は、移植対象者の選定資料に虚偽の情報が入力された形跡を確認し、関係者を臓器移植関連法違反の疑いで捜査機関に告発しました。――厚生労働省は病院に対し、高瀬医師の医療行為を当面停止するよう求めるとともに、医師免許の行政処分について検討しています。日本医師会も倫理委員会での審査と、会員としての懲戒手続きに入りました。続いて、病院の出入口の映像に切り替わった。怜司は報道陣を避け、うつむいて歩くうちに、雨に濡れたスロープで足を滑らせた。記者がマイクを差し出すと、濡れた地面に片膝をついたまま叫んだ。「白石莉乃さんは、死ぬかもしれなかったんです! 妻は強心薬で、あと数日はもった。医学的な判断でした!」その言葉が放送されると、ニュースサイトのコメントが次々に増えていった。『その数日が、奥さんに残された全部だったんだろ』『医学的な判断なら、何で記録を偽造したんだよ』『患者を救ったんじゃない。死なせる人間を選んだだけじゃん』怜司が何より大切にしていた学歴と名声は、今や、彼を非難する記事の肩書きでしかなかった。蓮はテレビの音を下げた。「検察が近いうちに身柄の拘束に動く可能性が高い。移植委員会の委員2人も事情聴取を受けた。管理者アカウントを渡したコーディネーターは、改ざんを指示されたと認めてる」「怜司1人でやったわけじゃ
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第9話 最期の日、届いた死亡通知
2026年8月29日、夜。東京西郊にある星和財団の保養邸は、息遣いさえ大きく聞こえるほど静かだった。大きなガラス窓の向こうに、丸い月が浮かんでいた。月明かりがベッドの足元に届き、酸素濃縮器の低い作動音が一定に続いている。紗月は浅く息を吸った。7日。強心薬と痛み止めでつないできた心臓は、もう何度も、次の拍動を忘れるようになっていた。指先は冷えきり、一言話すたびに、胸を長く休ませなければならなかった。ベッドのそばには、緩和ケアの医師と看護師が待機していた。心肺蘇生を含む延命措置を望まないと記した紗月の事前指示書も、カルテのいちばん手前に挟まれている。蓮は、紗月の手を両手で包んだ。「紗月」いつもの落ち着いた声を出そうとしたが、語尾がかすれた。「蓮さん。窓、少しだけ開けてくれる?」蓮は、指2本ほどの幅だけ窓を開けた。晩夏のひんやりした空気と、濡れた木々のにおいが入ってきた。紗月は、ほんの少し笑った。「病院のにおいがしなくて、いいね」「もう話さなくていい。苦しいだろ」「もう、言わなきゃいけないことも、そんなにないから」紗月は、しばらく月を見ていた。「5年間、怜司が望む人になろうとして生きてきたの。静かな妻。待っていてくれる妻。つらくても、顔に出さない妻」息が途切れかけ、また細く続いた。「最後の7日だけは、自分のために使えたね」蓮の手に力がこもった。「すまない。俺がもっと早く気づいていれば……」「蓮さんが謝ることじゃないよ。私が、長く信じすぎたの」紗月は目を閉じ、ゆっくり開いた。「献体の書類も、死後事務の委任も、全部大丈夫だよね?」「確認した。大学と搬送担当にも、もう一度連絡してある。おまえが決めた手順どおりに進む」「怜司には、お墓も、骨壺も、渡さないで」「約束する」「あの人が泣いても、私のためだと思わないでね。自分がなくしたものを、確かめたくて泣くんだから」蓮は何も言わず、紗月の手の甲に額を寄せた。しばらくして。モニターの心拍数が急速に下がった。看護師が酸素の流量を調整し、医師が紗月の手首で脈を確かめる。「紗月さん、そばにいますよ。楽に息をしてくださいね」紗月の視線が、蓮へ戻った。「蓮さん。ありがとう」それが、最後の言葉だった。23時45分。紗月の指先から力が抜けた。心電図の波形が何度か小さく揺れたあ
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第10話 「妻の遺体はどこだ!」
「紗月! 紗月!」明成医大病院、地下2階の霊安室前の廊下へ、怜司がよろめきながら駆け込んだ。シャツのボタンは何個も取れ、転んだ拍子に裂けた手のひらから血が流れていた。充血した目は焦点が合わず、ただ安置室の表示だけを追っている。「高瀬紗月の遺体はどこですか。今、亡くなったと連絡が来たんです!」怜司は受付にスマートフォンを突き出した。当直の職員は氏名と生年月日を確認し、首を横に振った。「本日、こちらにお入りになった記録はありません。葬儀のご予約も入っておりませんが」「もう一度調べてください。明成の患者だったんだから、ここに来てるはずでしょう!」「お亡くなりになった場所も、当院ではありません」怜司は安置室へ駆け寄ったが、2人の警備員が扉の前をふさいだ。「お入りいただけません」「自分の妻を探すのに、誰の許可がいるんだ!」無理に押し入ろうとすると、両腕をつかまれた。鉄の扉の向こうからは、冷却装置の低い振動音だけが聞こえてくる。「紗月! そこにいるなら返事をしてくれ! 俺だ、来たんだよ!」返事はなかった。警備室へ連れ出された怜司は、スマートフォンで東京中央医科大学病院、隅田総合病院、青葉医療センター、白明病院の葬送窓口に次々と電話をかけた。どこにも、高瀬紗月の名前はなかった。星和医療財団の葬送支援部門は、個人情報を理由に回答を断った。紗月の元秘書も、運転手も、電話に出なかった。病院の情報システム部にも連絡したが、すでにアクセス権限を止められていたため、死亡場所も搬送記録も確認できなかった。これまで当たり前のように使っていた病院のシステムは、もう、彼の問い1つ受けつけなかった。「どこへ連れていったんだ……」怜司は廊下の壁に背を預け、そのままずり落ちた。コツ、コツ。靴音が近づいてきた。きちんと黒いスーツを着た桐生蓮が、廊下の向こうから歩いてくる。手には青いファイルを持っていた。「高瀬」怜司は、這うようにして蓮へ近づいた。「桐生さん、紗月はどこですか。顔だけでも、見せてください。俺が悪かった。葬式は俺が出します。夫なんですから」「紗月が、あなたに任せた手続きはありません」「法律上は、まだ俺の妻だ! 訴訟を起こしただけで、離婚したわけじゃないだろ!」怜司の声が裏返った。蓮はしばらく彼を見下ろし、書類を1枚取り出した。【国
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