Todos os capítulos de 二度目の人生、あなたの隣は彼女に譲ります: Capítulo 11 - Capítulo 20

21 Capítulos

第11話

文幸は足早に清子を訪ねた。清子は文幸の姿を見るなり、目を輝かせて愛想よく笑った。「まあ、来てくれたのね。ちょうど文幸に味噌汁を作っていたところよ」文幸は氷のように冷たい声でそれを遮った。「送別会の、あのクリームの件、覚えているな」清子は一瞬言葉に詰まり、それから慌てて言った。「覚えてるわ。もうすぐ向こうへ行くって時に、まさか知代さんにあんなひどいことをされるなんて、思わなかった。どうして急にそんな話を?」「あの日の送別会に来ていた工場の同僚たちに聞いた。知代がお前に箱を渡したとき、封は開いていなかったと、みんながはっきり見ている。知代から受け取ったあと、お前以外に、誰かにあのクリームを渡したことはあるか」清子の顔からさっと血の気が引いた。しどろもどろに答える。「わ、私……覚えてないわ」文幸はポケットからあの調査報告書を取り出し、テーブルの上に置いて彼女のほうへ無造作に押しやった。清子はそれにちらりと目をやり、青ざめた。「もう調べはついている」文幸の口調は、不気味なほど静かだった。清子は一瞬黙りこんだあと、急に顔を覆って声を上げて泣き出した。しゃくり上げながら訴える。「……っ。文幸、私の話を聞いて。私、あなたの力になりたかっただけなの。知代さんがあなたにあんなひどい嫌がらせをするのを、黙って見ていられなくて。少し懲らしめてやろうと思っただけなのよ」「じゃあ、警察の留置場のことはどう言い訳するつもりだ?」清子の泣き声が、ピタリと一瞬止まった。「俺の名前を使って、知代を厳しく扱うよう警察側に働きかけたそうだな」「私……」清子は顔を上げた。頬にはまだわざとらしい涙が伝っている。「ちょっと反省してほしかっただけなの。あの警察の人たちがあそこまでするなんて思わなかった。そんなつもりじゃなかったのよ」「水も与えず、同室の女たちに殴られても放っておき、高熱を出しても取り合わない」文幸はひと言ひと言、ナイフで刻むように区切って言った。「それが、お前の言う『ちょっと反省してほしかった』か?」清子はすがりつくように泣きながら言った。「でも、もとはといえば知代さんが悪いのよ。あの人があなたにあんなことしなければ、私だってこんなこと……」「もういい」文幸は容赦なく遮った。その声
Ler mais

第12話

古びた路線バスのエンジンが止まり、知代は荷物を手に停留所に降り立った。目に飛びこんできたのは、雪をかぶった山々と、トタン屋根の古い家が点々と並ぶ小さな集落だった。停留所の近くには、防寒着に身を包んだ村人が何人か集まってこちらを見ている。「都会から来たんだと。あんな細っこい女が、こんな雪国でいつまで持つんだか」嘲るようなよそ者への笑い声が、耳に突き刺さった。知代は何も言い返さず、目を伏せて自分の両手を見つめた。留置場で2日2晩冷えきった手は、今も腫れ、あちこちひび割れていた。もう、都会暮らししか知らない人間の手には見えなかった。知代は静かに視線を戻し、鞄を持ち上げると、案内役の村の者のあとについて、村の西外れにある大友家へ向かった。会社がしばらくの宿舎として借り上げてくれたのは、母屋の脇に建つ古い離れだった。集落の夜は、耳が痛くなるほど静かだった。板の間に敷かれた薄い布団に横たわり、知代は暗闇の中でぼんやりと天井を見つめていた。前世で、死ぬ間際に見た光景を思い出す。病床のそばに座った文幸の、氷のように冷たく無表情な声。「この人生で、俺はお前に命を救われた借りがあった。これで返し終えたことにする。だから来世では、俺と清子が結ばれるのを邪魔しないでくれ」彼はただそれだけを言った。あのときは胸が張り裂けんばかりの悔恨でいっぱいで、目の前が真っ暗になるように思えた。けれど今は、これまで感じたことのないほど不思議な身軽さだった。今度の人生では、あのふたりを結ばせてやった。離婚の手続きもすっかり済ませて、何のしがらみも未練もなく出てきた。この命は、これから先、知代ひとりのためのものだ。赴任して何日も経たないうちに、集落で揉め事が起きた。その日の午後、知代が新工場での仕事を終えて宿舎へ戻る途中、集会所のほうがひどく騒がしくなっていた。どうやら、集落の共同作業に出た日数と、その日当の精算をめぐって揉めているらしい。「出役の日数は全部ここに付けてある。日当はこれで全部だ。今さら騒いだってどうにもならねえ!」誰かが怒声で言い返した。「うちは5日も余計に出てるんだぞ。なんでうちの取り分がこんなに少ねえんだ!」すかさず別の声が嘲る。「あんたんとこの嫁さん、用水路さらいのときは端っこで休んで
Ler mais

第13話

女たちは一様に呆気にとられた。菊恵の家は、村でも知られた貧しい家だった。畑は小さく、共同作業の日当や日雇いの稼ぎも多くない。古い家で、大人も子どもも狭い部屋に身を寄せ合って暮らし、まともな家具もろくにない有様だ。そばにいた菊恵も、それを聞いてぽかんと口を開けた。「うちなんか、あんな暮らしだよ。おめえさん、嫌でねえのかい」知代は静かに首を横に振った。「雨風をしのぐ寝床がひとつあれば十分です」かつての家は、何年もかけて心を尽くして整えてきた。家をきちんと切り盛りしさえすれば、夫婦の暮らしは続いていくのだと健気に信じていた。けれど結局、丹精込めたバラは根こそぎ抜かれてオシロイバナが植えられ、自分のコップは壁際へ追いやられて埃をかぶっていた。あの場所を「家」だと思っていたのは、最初から最後まで、自分ひとりだけだったのだ。翌朝早く、知代は荷物をまとめ、大友家の離れから母屋の一室へ移った。菊恵は戸口に立ったまま、ばつが悪そうに何度も前掛けで手をぬぐっていた。「狭いとこだけど、勘弁してけろな」知代は中をのぞいた。使い込まれた古い座卓に、ところどころ擦り切れた座布団。質素だが、隅々まできちんと片づいている。「いいお宅ですね」知代は穏やかに微笑んで、鞄を運びこんだ。菊恵は、こっそりと安堵の胸をなでおろした。奥の部屋から大友正男(おおとも まさお)が出てきて、軽く頭を下げた。それが無口な彼なりの挨拶のつもりらしい。戸の陰から子どもがふたり、見慣れぬ客に目を丸くしていたが、菊恵に「中さ入ってろ」と叱られ、慌てて引っ込んだ。知代はそのふたりをちらりと見た。早百合の姿が重なり、胸の奥が鈍く疼いて、すぐに目をそらした。寝床を整えると、知代は休むことなくすぐに外へ出た。台所で忙しく立ち働いている菊恵のそばへ行き、夕飯の支度を手伝おうとする。「いいから、いいから。あんたはお客さんなんだから」菊恵が慌てて止めた。知代は言い争わず、軒先に干してあった青菜を黙々と取りこみに行った。菊恵は戸口から顔をのぞかせて何か言いかけたが、その手際の良さを見て、それ以上は止めなかった。夕飯どき、一家は茶の間の古い座卓を囲んだ。麦の混じったご飯に、じゃがいもと大根の味噌汁、しょっぱい大根の漬物、それに青菜のお
Ler mais

第14話

男の子の名前は大友誠(おおとも まこと)。ちょうど勉強に身を入れたい盛りの年ごろだった。菊恵はしばらく黙っていたが、やがて重い口を開いた。「町まで塾に通わせる金なんか、うちのどこにあるってのさ。父ちゃんの日雇いの稼ぎだって知れてるし、妹もこれから金がかかるんだ。今は学校の勉強で我慢しな」「でも先生が、おれには見込みがあるって。勉強、途中でやめるなって言ったんだ」菊恵は何も言い返せなかった。知代は台所に立ったまま、じっとその声を聞いていた。ふいに、自分もかつて大学の合格通知を受け取ったことを思い出した。けれど文幸のそばにいたくて、進学を諦めてあの町に残ったのだ。あの合格通知の紙は行李の底にしまいこんだまま、二度と取り出すことはなかった。知代は壁にもたれて、そっと目を閉じた。家の中はしばらく静まり返っていたが、やがて誠がまた口を開いた。「そしたら、おれ、畑仕事も家の手伝いも今まで以上にやるから。やること全部終わらせてから勉強する。それでもだめ?」それを聞いていた知代は、胸をぎゅっとつかまれたような切ない気がした。知代は茶の間に入った。母子がそろって驚いて顔を上げた。誠の目は悔しさで赤くなっていた。知代は静かに言った。「月謝なら、私が出します」菊恵は呆然とした。誠の目が、ぱっと希望に輝いた。「そ、そんなわけにはいかねえよ」菊恵が慌てて手を振った。知代は立ったまま動かなかった。「ここで働いていても、私がお金を使うところなんてほとんどありませんから。本人が勉強したいなら、その気持ちを大事にしてあげてください」それでも菊恵は頑なに首を横に振った。押し問答をしていると、ちょうど隣の家の嫁が訪ねてきて、話を小耳に挟んで口を出した。「あんたら、まだ知らねえの?新しい工場に来た若い人が、公民館で子どもらの勉強を見てくれてるんだよ。金はいらねえんだと」誠がぱっと立ち上がった。「ほんと?」「ほんとだよ。もう何人も通ってるさ」誠は振り返って、すがるような目で菊恵を見つめた。菊恵は誠を見て、それから知代を見て、ようやく折れた。「そんなら行ってきな。しっかり勉強するんだよ」誠は力いっぱいうなずいて、白い歯を見せて、弾けるように笑った。それから知代の前に駆け寄り、顔を仰いだ。
Ler mais

第15話

遼は座卓の前に腰を下ろして本を広げ、誠を手招きした。誠の小さな妹もくっついていき、卓の端にちょこんと顎をのせて耳を傾けている。知代は台所で湯を沸かしていた。遼は少し話を進めたところで、ふと顔を上げて知代のほうを見た。「知代さん、この前集会所で計算してらしたの、村の会計を見てる人よりよっぽど正確だったって聞きました。よかったら、子どもたちに算数の問題をいくつか作ってもらえませんか」知代は少し間を置いてから答えた。「……いいですよ」それからというもの、知代はたびたび公民館の学習会を手伝いに行くようになった。午後、工場の仕事を終えてから顔を出し、算数の問題をいくつか黒板に書き、古い教科書を丁寧に仕分けし、授業が終われば黒板をきれいに拭いた。遼が授業をしているあいだは、後ろの隅の席に座って古い本をめくり、誠の授業が終わるのを待って一緒に帰った。あるとき、古い地理の冊子が目に留まった。山や川のこと、各地の風物のことが書いてある。ぼやけた粗い挿絵を眺めながら、知代の指がふと、あるページの上で止まった。思い出したのだ。自分はかつて、本を読むのが何よりも大好きだったことを。あのころは成績も悪くなかった。毎晩、電灯の下で熱心に勉強していた。それが文幸と出会ってからは、彼のことばかりで本を開くこともなくなり、ペンを握ることもなくなった。結婚して早百合が生まれてからは、自分がきれいな字を書けたことさえ、すっかり忘れかけていた。気づけば、それから何年もの月日が過ぎていた。知代は本を閉じ、しばらく表紙に指先を置いたままにしていた。遼は振り返って彼女を見たが、それには触れず、ただこう言った。「宿舎にまだ何冊かあるので、今度持ってきますよ」知代ははっとして、慌てて言った。「そんな、先生にお手数をおかけするわけには」「手間なんかじゃありませんよ」遼は背を向けて、授業を続けた。2日と経たないうちに、彼は本当に本をひと抱え持ってきた。小説もあれば随筆もあり、古い文芸雑誌も2冊あった。遼は特に何も言わず、後ろの机にそれを置くと、前へ戻って授業を始めた。授業が終わって知代が本を片づけに行くと、いちばん上の1冊に紙切れが挟まっていた。【背表紙の糊がはがれかけているので、気をつけてめくってください】
Ler mais

第16話

列車を降りて路線バスに乗り換え、最後は村へ向かう軽トラックの荷台に乗せてもらった。村の入り口に着いたときには、もうすっかり午後になっていた。糊のきいた白いワイシャツを着た都会の男を、道端の婆さんたちがじろじろと怪訝そうに眺めた。「誰をお探しで?」「梅谷知代という女性を」婆さんたちは顔を見合わせ、村の東のほうを指さした。「公民館の前だよ。いま子どもらの勉強を見てるとこだべ」子どもたちの勉強を見ている。文幸は一瞬、自分の耳を疑った。そういえば、人に教える仕事をしてみたいと知代が言っていたことがあった。けれどそれがいつのことだったのか、もうまったく思い出せない。年長の子どもたちが何人か、古いノートを大事そうに抱えてそばを駆け抜けていった。「知代先生の抜き打ちテストだ!」と口々に叫んで笑い合っている。文幸の足が止まった。公民館の前の広場には、古い折りたたみ机と長椅子が出され、10人ほどの子どもたちが集まっていた。いちばん前に、知代がいた。こちらに背を向けている。後ろ姿はずいぶん痩せていた。髪は色あせた手ぬぐいで、後ろでひとつに束ね、シャツの袖を肘までまくり上げている。のぞいた細い腕は、日焼けして浅黒くなっていた。知代は身をかがめて、小さな女の子の手を取り、鉛筆の持ち方を優しく教えていた。女の子は焦って鼻の頭に汗を浮かべている。知代は決して急かさず、その小さな手を包みこんだまま、何度も何度も一緒に線を書いてやった。うまく書けると、女の子の頭をなでて、嬉しそうに口元をほころばせた。文幸は広場の入り口に立ち尽くした。足が地面に縫いつけられたように動けなかった。声もかけられず、ただ知代を見つめていた。瞬きひとつせず、その姿だけを呆然と目で追っていた。あんなに穏やかな表情の知代は、今まで一度も見たことがなかった。静かで、落ち着いていて、少しも焦ったところがない。ずいぶん痩せてしまったのに、その目は生き生きと輝いていた。家にいたころの、いつもうつむいて彼の冷たい視線から逃げていた知代とは、まるで別人のようだった。数えきれない夜のことを思い出す。知代は茶の間に小さな明かりをひとつ灯して、彼の帰りをひとりで待っていた。戸を開けて入ると、うたた寝から飛び起きて、「ご飯は食べたの」と尋ねた。彼は
Ler mais

第17話

知代は早百合の前まで行くと、その小さな手を取った。早百合は一瞬きょとんとして、ますます大声で泣き出した。けれど、知代の手を振りほどこうとはしなかった。文幸が近づいて抱き上げようとすると、早百合は身をよじって嫌がり、知代のそばを離れようとしなかった。知代は早百合を抱き上げることなく、ただ無言で手を引いて歩き出した。文幸はその隣を歩きながら、横目で知代を見た。表情はほとんど動かない。足取りは速くも遅くもなく、早百合とつないだ手は離しもしなければ、強く握りもしなかった。知代の住まいの近くまで来たころ、泣き疲れた早百合は知代の脚にもたれて、まぶたが重そうに下がってきた。文幸が近寄って抱き上げると、早百合はうわ言のように「母さん」と呼び、こてんと首を傾けて眠ってしまった。道中ずっと無言だった文幸が、ようやく重い口を開いた。「……知代」知代は立ち止まり、彼を振り返った。「どうして来たの」拍子抜けするほど穏やかな声だった、怒りすらなかった。文幸の喉が動いた。「早百合が、お前に会いたがってた」知代は答えず、ただ静かに彼を見つめていた。「お前は、前はこんなじゃなかった」文幸は口を開いた。声がかすれていた。「クリームの件は、全部調べがついた。清子が自分で細工したんだ。留置場の2日間も、あいつが俺の名前を使ってお前をひどい目に遭わせた」彼はいったん言葉を切った。「お前に濡れ衣を着せたのは、俺だ」知代は静かな目で彼を見た。「済んだことは、もういいわ」文幸は一歩踏み出して、知代の腕をつかもうとした。「こんな不便な土地で暮らし続けることはない。俺と一緒に家に帰ろう。もう一度、最初からやり直そう」「もう遅いわ」知代は静かに身をかわした。「とっくに、私にはあの家に帰る気なんてなくなってるの」文幸は呆然と立ちすみ、全身の血が凍りついた。「早百合を連れて早く帰って。こんな不便な場所に長くいたら、あの子の体がもたないわ。私は見送らないから」そう言うと、知代は背を向けて去っていった。文幸はその場に立ったまま、長いこと動けなかった。彼は帰らなかった。自治会長の家に頭を下げて頼みこみ、空いている離れを間借りさせてもらうことにした。離れは古く、畳もすっかり日に焼けていた。障子に
Ler mais

第18話

知代は手ぬぐいを丁寧にたたんで、早百合の額にのせた。遼が体温計を取り出して差し出すと、知代はそれを受け取って水銀を下げるために何度か強く振り、早百合の脇の下に手際よく挟んだ。「解熱剤は何時に飲ませたの?」戸口に立っていた文幸は、少し遅れて答えた。「……30分前だ」知代はうなずき、手の甲を早百合の頬に当て、まぶたを軽くめくってから、顔色や呼吸の様子を確かめた。考えるまでもないほど、手慣れた動きだった。遼が洗面器の湯を替えて枕元に置き、知代から手ぬぐいを受け取ると、湯に浸して固く絞り、また手渡す。ふたりは言葉を交わすこともなく、自然に手を動かしていた。文幸は戸口に立って、それを見ていた。薄暗い明かりの中、ふたりの影が壁の上で重なっていた。文幸はその影の外に立っていた。まるで、余計な人間のように。手を貸そうと思った。けれど、手ぬぐいをどれくらい絞ればいいのか、体温計を何度振ればいいのか、何ひとつわからなかった。以前は、こういうことはすべて知代がひとりでやっていた。自分はただそばに立っているだけで、十分に父親として尽くしたつもりになっていたのだ。1時間あまり経つと、早百合の熱は少しずつ下がり始めた。小さな顔の赤みも引き、呼吸も落ち着いてきた。知代はほっと息をつき、布団の端をかけ直してやった。指先が一瞬、早百合の額の上で優しく止まった。それを見て、文幸はぼうっとした。以前も早百合が病気になるたび、知代はこうしてひと晩じゅうそばを離れずに付き添っていた。自分はいつも翌日になってちらりと顔を見に行くだけで、熱が下がればそれでいいと思っていた。知代がひとりでどうやって心細い夜を明かしたのかなど、考えたこともなかった。遼は湯呑みに白湯を注いで机の端に置くと、散らかった薬をひとつずつ拾い上げた。説明書きを読み、分量を確かめて、几帳面に一列に並べていく。それを終えてから、彼は振り返った。「知代さん、自分の胃薬は飲みましたか」知代は少し間を置いた。「……忘れてました」「胃が弱いんですから、忘れちゃだめですよ」遼は白湯の湯呑みを、知代の手元へ押しやった。文幸はその場に凍りついた。知代の胃が悪いなんて、まったく知らなかった。いつからなのか、どれくらいひどいのか、痛むときはどんなふうなのか。何
Ler mais

第19話

文幸はその場に立ち尽くしていた。顔からはすっかり血の気が引いていた。知代の胃が悪くなったのは、あのとき、彼女が自分を訪ねて病院へやってきたころだったのだ。ぼろぼろの体を引きずって会いに来た知代に、自分は何をした?なけなしの生活費を勝手に引き出して清子に回し、診察代すら払えないようにして突き放したのだ。胸が後悔で締めつけられ、激しく痛んだ。夜が明けるころ、早百合は熱が下がり、ぼんやりと目を開けた。最初に口にしたのは、「母さんは?」というかすれた言葉だった。布団のそばには知代が静かに座っていた。早百合はその姿を見るなり口をへの字に曲げ、知代の服の裾にすがりつき、胸に顔をうずめて離れようとしなかった。「母さん、行かないで……母さん、私のこと捨てないで」熱が下がったばかりのかすれた小さな声だった。以前の、かんしゃくを起こして暴れていたころの手のつけられない勢いは、もうどこにもなかった。文幸は戸口に立っていた。ひと晩じゅう眠れず、目は真っ赤に充血していた。早百合はおそるおそる顔色をうかがい、口ごもっては慌てて言い直している。この子は以前はこうではなかった。茶碗を叩きつけても、泣きわめいても、「どうして清子おねえちゃんが母さんじゃないの」と残酷な言葉を叫んでも、あとのことはお構いなしだった。それが今は、心の底から怯えているのだ。ひと言でも言い間違えたら、今度こそ本当に母さんに見捨てられてしまうのではないかと。早百合は顔を上げると、ぽろぽろと大粒の涙をこぼした。「母さん、おうちに帰ろうよ。もう二度と、わがまま言って母さんを怒らせたりしないから」知代は手ぬぐいで、その涙をそっとぬぐってやった。「早百合。泣いても、元には戻らないこともあるのよ」その言葉を聞いて、文幸の胸に激しい焦燥感が込み上げた。早百合があれほどすがりついて泣いても、知代は少しも揺らがなかったのだ。泣き疲れた早百合がまた眠りにつくと、部屋はしんと静かになった。文幸は知代の前に歩み寄った。声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。「知代。これまでのことは、全部俺が悪かった。お前が職場でいじめられても守ってやれなかった。お前が病気になっても、ふたり分の仕事で疲れきっていても、ひと言も気づかってやらなかった」喉が大きく動き、目の
Ler mais

第20話

文幸は町の病院に運ばれた。命に別状はなかったが、出血がひどかった。十数針も縫い、病室に運ばれてきたときには、顔色はまだ白いままだった。付き添ってきた知代は、医師から注意事項を聞いたあと、会計票を手に窓口の列に並んだ。ベッドに横たわったまま、文幸は病室を出入りする知代の姿を静かに目で追っていた。胸の内の思いは、自分でもうまく言葉にできなかった。その日から、知代は毎日やって来た。朝になると、食堂で買ってきたおかゆを枕元の台に置き、前の晩に使った空の器や湯呑みを片づけていく。医師や看護婦が包帯を替えに来ると、そばで見守った。看護婦が手いっぱいのときには、指示を受けながら古い包帯を外したり、新しい包帯を巻くのを手伝った。うつむいて傷の手当てを手伝う知代の姿を見ていると、文幸の喉の奥には、言いたいことがいくつもつかえていた。けれど、何ひとつ口にできなかった。知代は、それを淡々とこなしていた。痛むかとも、具合はどうかとも訊かない。ただ決まった時間に来て、決まった時間に帰っていく。食事の世話は食事の世話だけ、傷の手当ては傷の手当てだけ。余計な言葉も、親しげな眼差しを向けることもなかった。ある日の午後、知代はベッドのそばに座ってりんごの皮をむいていた。おぼつかない手つきで、むいた皮は何度も途中でちぎれた。そのぎこちない手つきを見ていて、文幸はふと思い出した。以前はいつも、自分がりんごの皮をうさぎの形にむいて清子に渡していた。知代にはただの一度だって、むいてやったことがなかった。知代はむき終わったりんごを、文幸の手元の皿に置くと、立ち上がって包丁を洗いに行こうとした。「知代」知代は足を止めた。「毎日来なくてもいいんだぞ」知代は振り返って彼をちらりと見ると、いつもの調子で言った。「あなたは私をかばったせいで怪我をしたんだから。話は、治ってからにして」枕にもたれたまま、文幸はようやく、その言葉の真意をはっきりと理解した。知代がここにいるのは、貸し借りを作りたくないからだ。許したわけでも、戻ってきたわけでもない。まして、もう一度自分を愛してくれたわけでもない。借りがあるなら返す。返し終えたら、それで貸し借りなし。ただそれだけのことなのだ。知代は今、借りを返しているだけなのだ。その味気ない現実
Ler mais
ANTERIOR
123
ESCANEIE O CÓDIGO PARA LER NO APP
DMCA.com Protection Status