Todos los capítulos de 二度目の人生、あなたの隣は彼女に譲ります: Capítulo 1 - Capítulo 10

21 Capítulos

第1話

心ない嘲笑を耳にしても、知代は黙々と作業の手を止めなかった。前世でも、同じだった。あのときの知代は、噂話が聞こえた途端に手元の部品を作業台へ叩きつけ、職場じゅうの視線を集めるなか、ひとりずつ指さして罵り返した。相手が顔を真っ赤にして黙りこむまで。陰では誰もが彼女を「頭がおかしい女」と呼んだ。それでも構わなかった。文幸さえいてくれれば、他人に何を言われようとどうでもよかったのだ。文幸は、県庁から出向してきた職員だった。いつも糊のきいた白いワイシャツを着こなし、すらりと背が高い。端整な顔立ちには、周囲の男たちとは明らかに違う品格が漂っていた。知代はひと目で恋に落ちた。その年、川に飛びこんで文幸の窮地を救った知代は、命の恩を盾にして、自分との結婚を迫ったのである。首尾よく籍は入れた。けれど、知代は痛いほどわかっていた。彼の心には、ずっと清子という幼なじみが住み着いていることを。諦めきれなかった知代は、あらゆる手を使って子を身ごもった。子どもさえいれば、彼の心をつなぎとめられると信じたのだ。ところが、生まれた娘までもが、なぜか清子の背中ばかり追いかけた。毎日「清子おねえちゃん」と慕い、すっかり懐き、実の母親である知代のことなど眼中にないようだった。前世では、会社は東北の過疎の町に新設された工場を立ち上げるため、各部署に応援要員の割り当てを出していた。異例なことに、既婚者までもが対象とされた。その候補名簿に自分の名前が載ったとき、知代は裏で金を積み、つてを頼って、自分の名前をこっそり清子の名前に書き換えさせたのだ。物思いに沈んでいると、路地の入り口がにわかに騒がしくなった。顔を上げると、文幸と清子が肩を並べて歩いてくるのが見えた。うつむきがちに言葉を交わしては、ふたりで笑い合っている。娘の梅谷早百合(うめたに さゆり)も弾んだ声で「清子おねえちゃん!」と呼びながら両手を広げて清子の胸に飛びこんでいった。まるで、絵に描いたような親子3人の姿だった。その和やかな光景は、前世の知代が、死ぬまで手に入れられなかったものだった。清子が地方へ発ったあと、知代は持てるすべてを注ぎこみ、文幸のよき妻になろうと努めた。仕事に没頭するあまり食事を忘れる彼のために、弁当を作って職場まで届けた。毎晩遅くまで残業する彼を、
Leer más

第2話

送別会の席では、誰もが清子を囲んで和やかに笑い合っていた。店に入るなり、早百合が小走りで清子の胸に飛びこみ、無邪気な声をあげる。テーブルの何人かがこっそり目配せを交わし、さりげなく知代の顔色をうかがった。けれど知代は落ち着いた足取りで清子の前まで進み出ると、小さな風呂敷包みをその手の上に載せた。清子がうつむいて包みを解くと、中から出てきたのは香りのついたコールドクリームだった。少し驚いたように顔を上げる。「どうして私がこれを好きだって知ってるの?」知代はクリームへちらりと目をやっただけで、何も答えなかった。知らないはずがないのだ。清子のところから帰ってくるたび、文幸のシャツからはいつもこの甘い香りが漂っていたのだから。前世では、そのことで幾度言い争い、幾度涙を流したかわからない。それでも結局、何ひとつ変わることはなかった。今はもう、嫉妬して争う気力すら湧いてこない。文幸の眉がかすかに動いた。その鋭い視線が、ほんの一瞬、探るように知代の顔へ留まる。けれどすぐに目をそらし、冷ややかに言い放った。「受け取っておけ。これくらい、当然の詫びだ」清子は申し訳なさそうに微笑んでクリームを受け取ると、やわらかな声で言った。「ありがとう、知代さん。気をつかってくれて」言い終えるか終えないかのうちに、文幸はごく自然な仕草で清子の隣へ腰を下ろした。知代はふたりを一瞥しただけで静かに背を向け、末席の隅へひっそりと座った。前世でも、こうして送別会が開かれていた。あのときの知代は何度も輪に入ろうと彼に話しかけたが、返ってくるのは礼儀正しくも短い相槌だけだった。同席していたほかの面々も同じだった。表面上の愛想はよくても、どこか見えない壁を感じたのだ。今度の人生では、もう自分から彼らの領域へ踏みこもうとは思わなかった。すっかり吹っ切れたのだ。彼に執着し、こだわるのはもうやめにした。食事が一段落すると、知代は箸を置いて立ち上がった。周囲の嘲るような視線と含み笑いを背中に受けながら、ひとり店をあとにする。家に帰り着くと、彼女はすぐに自分の荷物をまとめはじめた。夜が明けたら、役所で離婚届をもらってこよう。ところが翌朝早く、玄関の引き戸がけたたましい音を立てて乱暴に開け放たれた。土足のまま上がりこんだ文
Leer más

第3話

「わかったわ。そこまで私を疑うなら、徹底的に調べればいい」知代は床に落ちたティッシュの箱を拾い上げた。「警察に届けて、きちんと調べてもらえば、真相はすぐにはっきりするでしょう」清子は一瞬ぽかんと口を開けたが、すぐに悔しそうに顔を歪めて泣き出した。声が小刻みに震えている。「もういいの。私、もうすぐ遠くへ行くんだし、これ以上大ごとにしたくない。このままでいいの」だが、文幸の声は氷のように冷えきっていた。「この件を、有耶無耶なまま済ませるわけにはいかない」彼はわずかに眉を寄せて、蔑むように知代を見下ろした。「このところ、お前も少しはまともになったと思っていた。だが、結局また同じ卑劣な手段を使うのか。清子が入院しているあいだ、お前が工場で彼女の分まで働いて埋め合わせろ」知代はまじまじと彼を見つめ返した。全身の血が、音を立てて凍りついていくようだった。自分が過去にどれほどの悪事を働いてきたかは、痛いほどわかっている。名簿のすり替えに、結婚の強要。どれひとつとして弁解の余地はない。それでも、せめて真実を調べてから罪を決めてくれるものだと、どこかで期待していたのだ。知代は冷ややかな目でふたりを交互に見据えると、くるりと踵を返し、一度も振り返ることなく病室をあとにした。その日から、知代は清子の穴を埋めるため、ひとりでふたり分のノルマを背負い、朝早くから夜遅くまで機械のように働いた。2日も経たないうちに、職場では早くも噂が広まっていた。「清子さん、入院したんだって。誰かさんがクリームにミョウバンを混ぜたせいで、顔までただれちゃったらしいわよ」誰かがこれ見よがしに声をひそめる。「道理で、あの送別会にわざわざ贈り物なんか持ってきたわけだ。親切を装って、腹の中は真っ黒だったってことね。恐ろしいわ」知代はうつむいたまま黙々と作業を続け、ひと言の反論も口にしなかった。ふたり分の激務に押しつぶされて腰を伸ばすことすらできず、手にできたたこもすっかり擦れて潰れていた。昼休みのチャイムが鳴ると、工員たちは三々五々、連れ立って食堂へ向かった。知代が食堂の隅に空いた席を見つけて腰を下ろし、冷めたご飯をふた口ほど口にしたところで、突如として激しい吐き気に襲われた。青ざめた顔で立ち上がり、足早に流し台のほうへと駆けこ
Leer más

第4話

次に目を覚ましたとき、病室の白く光る蛍光灯がまぶしく目に突き刺さった。ベッドの脇には文幸が座っていた。その目に、一瞬だけ気遣うような色が浮かんだ。「気がついたか。医者の話じゃ、ひとまず大事には至らないそうだ。点滴を打って、しっかり休めってさ」文幸の喉仏が小さく動いた。「腹は減ってないか?何か食べたいものがあれば、俺が……」そこへ、青い作業着姿の女性作業員が慌ただしく病室へ顔を出した。「梅谷さん、川波さんの具合が悪いらしくて、ちょっと来てほしいって!」文幸はそれを聞くなり立ち上がり、言いかけた言葉を飲みこんだ。「先に清子の様子を見てくる」まだ何か言いたそうにしていたが、結局口にしたのは短いひと言だけだった。「……おとなしく寝てろ」慌ただしく去っていく背中を見送りながら、知代の胸には冷ややかな自嘲の念しか湧き上がらなかった。病室は途端に静まり返り、点滴の落ちる規則正しい音だけが響いた。点滴が終わると、知代はナースコールで看護婦を呼んで針を抜いてもらい、靴を履いてベッドを下り、ふらつく足で家へ帰った。門扉を開けたところで、知代は足を止めた。庭の隅に植えてあったバラが根こそぎ抜かれ、代わりにオシロイバナが植えられていた。文幸がバラを好きだと知ってから、ここ数年、手塩にかけて育ててきたものだった。洗面所の窓辺には、歯磨き用のピンク色の陶器のコップがひとつ増えていた。文幸と早百合のコップに、ぴったりと寄り添うように並んでいる。知代のコップは壁際へ追いやられ、うっすらと埃をかぶっていた。寝室の中から清子が出てきて、目を伏せたまま小さく笑った。「知代さん、おかえりなさい」文幸が清子の荷物を手に、知代の前まで来た。「清子は体の具合がよくないし、ひとりで住まわせておくのは心配だ。向こうへ行く手続きが済むまで、しばらくうちに住まわせることにした。そのあいだ、悪いがお前は奥の小部屋を使ってくれ」「知代さん」清子がか細い声で言う。「もし窮屈なら、私、出ていくわ。知代さんを困らせたくないもの」そう言って、うつむいたまま足元の旅行鞄に手を伸ばす。文幸の目が険しくなり、手を上げてそれを制した。「清子はもうすぐいなくなるんだ。お前もいい加減、目の敵にするのは……」知代は、落ち着
Leer más

第5話

文幸も台所に入ってきて、娘の腕を見ると、低い声で言った。「まず冷やせ」清子は早百合を抱いたまま流しの水で腕を冷やしてやり、それから部屋へ向かった。歩きながら、優しく背中をさすってあやしている。知代は喉が詰まって、ひと言も出てこなかった。小さいころの娘も、こうだった。泣きじゃくると知代の胸にもぐりこんできて、しゃくり上げながら「かあしゃん」と呼んでいた。それが今では、よその女の腕の中で、母さんは悪い人だと泣いている。台所は、また静けさを取り戻した。知代はようやく動き出した。しゃがみこんで割れた土鍋の破片を拾い集め、床にこぼれたおかゆを雑巾で拭きとる。文幸の視線が、おかゆでぐっしょり濡れた知代の背中に一瞬留まった。眉がかすかに寄ったが、すぐに目をそらした。そして、そっけなく言った。「早百合のやけどに薬を塗らないと。うちにはやけどの軟膏がない。近くの薬局で買ってきてくれ」騒ぎを聞きつけて、隣の大野のおばさんが心配して様子を見に来ていた。戸口で、たまらず口を挟む。「ここ何日か物騒なんだから。夜遅くに女が一人で出歩くなんて危ないわよ。明日の朝に買いに行ったって同じでしょう?」それを聞いて、文幸は少しためらうような顔をした。ちょうどそのとき、部屋の引き戸が静かに開いた。出てきた清子が、小さな声で言う。「よかったら、私が行きましょうか。どうせ眠れないし」そう言ってから、迷うようにうつむいた。「ただ、私は体調が優れないから、歩くのも遅いし……夜中に早百合ちゃんが目を覚まして、私がいなかったら……」その言葉に、文幸の表情がわずかに動いた。彼はあらためて知代のほうを向いた。「すぐそこだ。お前が行け」知代は小さくうなずいただけで、何も言わずにバッグを手に家を出た。外はもうとっぷりと暮れ、街灯がぼんやりと黄色い光を落としていた。路地へ曲がった瞬間、後頭部に強い衝撃が走った。目の前が真っ暗になり、布袋のようなものを頭から被せられ、そのまま壁に叩きつけられる。背中のやけどを容赦なく押さえつけられ、喉の奥から低くかすれた呻きが漏れた。知代は必死にもがいたが、相手の手を振りほどけない。無数の拳や蹴りが次々と体に飛んでくる。やけどを負った背中を何度も踏みつけられ、骨の髄まで突き刺すような激痛が
Leer más

第6話

言い終えると、革靴の足音は反対の方向へ遠ざかっていった。知代はその場に立ち尽くしていた。顔からはすっかり血の気が引いていた。まさか文幸が、ここまで露骨に清子を庇うとは思いもしなかった。廊下の突き当たりに消えていく背中を見送りながら、知代の口元に自嘲の笑みが浮かんだ。出発まで、あと4日。知代はベッドのそばへ戻ると、迷うことなく自分の服に着替え、黙って病院を出た。家に戻ってからは、清子と娘をわざと避けて、奥の小部屋でひたすら向こうへ持っていく荷物をまとめた。まずは市役所へ行って離婚届の用紙をもらい、自分の欄を書き終えた。それから、身の回りの金目のものをすべて質屋に入れて、東北の厳しい冬に備えた防寒着を買いそろえた。その夜更け。部屋で荷造りが半分ほど終わったところで、戸がいきなり開いた。文幸が怒りもあらわに、1枚の念書を知代の目の前に叩きつけた。「お前の仕業か!?会社から清子に処分に関する通知が出た。証人の証言が全部清子を指してる。お前が告げ口したんだろう?」知代は顔も上げず、目を伏せたまま答えた。「告げ口なんかしてないわ。あの人たちは、もともと清子さんが雇った人たちでしょう」その言葉が終わるや、清子が入ってきて、しゃくり上げながら言った。「知代さん、もしこれが本当だってことになったら、私の評判はめちゃくちゃよ。向こうへ行ってもどんな顔して暮らせばいいの。私の人生、もうおしまいだわ……」両手で顔を覆って、清子は泣き崩れた。知代は目を上げて彼女を見た。心の底から冷たい嘲りが込み上げてきて、危うく声を立てて笑いそうになった。文幸は眉をひそめ、清子のほうへ身を寄せて優しくなだめた。それから振り返り、念書を机に叩きつけた。言葉は短かった。「署名しろ」知代はうつむいて、書面に目を落とした。そこにははっきりと書かれていた。この前のクリームの件は、自分が故意にやったこと。今回清子に殴られたと訴えたのも、嫉妬に駆られて、仕返しのために清子を陥れようとしたこと。知代は目を見開いた。それから両手をわずかに握りしめ、きっぱりと言った。「署名なんかしないわ」文幸は一瞬黙った。そして、冷ややかな声で言った。「大野さん、市役所の出張所で働いてるんだったよな」知代の体がこわばった。「俺に
Leer más

第7話

知代はうつむいたまま、警察官に促されて門を出た。夜が明けたばかりだというのに、表通りにはすでに野次馬が集まっていた。いくらも歩かないうちに、彼女の顔に気づいた者たちが騒ぎ立てる。「あの女だよ!」「清子さんをかぶれさせといて、今度は罪もない人に濡れ衣を着せたんだって!」「へえ、あいつがその鬼嫁かい。ただじゃおかないわよ!」誰かが吐き捨てるように罵声を浴びせると、それをきっかけに周囲から次々と非難の声が上がった。カメラを構える者、行く手を塞ぐ者まで現れ、知代はその場から動けなくなる。やがて、どこからか投げつけられた飲みかけの缶ジュースの中身が肩にかかり、服を濡らした。耳を塞ぎたくなるような罵声が、四方から容赦なく飛んできた。知代は土気色になった顔で頭をかばいながら、足早に路地を抜けていった。警察署に着くと、知代はそのまま取調室へ連れていかれた。虚偽の被害申告をして、清子を陥れようとした疑いについて、長い取り調べを受けた。取り調べの途中、警察官から逮捕状を示され、知代はその場で逮捕された。警察官は事務的な口調で告げた。「今夜はここにいてもらいます。今後の身柄については、手続きを進めたうえで決まります」やがて留置場へ連れていかれ、背後で重い扉が閉まった。無機質な冷たい空気に包まれ、知代はようやく、自分が本当に逮捕されたのだと実感した。壁際に腰を下ろそうとしたとき、支給された毛布を、同室の女にいきなり足で押しやられた。「あんたなんかに、ここでのんびり寝る資格があると思ってんの?」その女は鼻先でせせら笑った。もうひとりも面白がって知代の肩を小突き、嘲るような笑い声を上げた。知代はひと言も言い返さず、冷たい床の隅で膝を抱えてうずくまった。夜になって扉の小窓から配られた食事は、酸っぱい臭いのする傷んだ飯だった。知代はきつく唇を引き結び、こぼれ落ちる涙といっしょに、その飯を無理やり喉の奥へ押しこんだ。食べ終えるころにはひどく喉が渇いていた。水が欲しいと係の者を呼んだが、誰も応えなかった。しばらくして、廊下の向こうから留置係の話し声がかすかに漏れ聞こえてきた。「さっきから水が欲しいって呼んでますけど?」「梅谷さんから話が回ってきてるんだ。放っておけ。水もやらなくていい。しばらく大
Leer más

第8話

遊園地は、家族連れの歓声でわき返っていた。早百合ははしゃいで先を駆け出し、清子がそのあとを追いかけながら、柔らかな声でひとつひとつ子どもの言葉に応えている。優しく、根気強く。けれど文幸は、ずっとどこか上の空だった。乗り物の列に並んでいたとき、早百合が顔を上げてねだった。「父さん、鼻水出た!ちり紙ちょうだい!」文幸は反射的に横へ手を差し出した。けれどその手は、空を切った。一瞬ぽかんとしてから、ようやく思い至った。いつも出かける前にちり紙を用意し、真っ先に手渡してくれる人間が、今は隣にいないのだと。うつむいて自分のズボンのポケットを探り、底でくしゃくしゃになっていたちり紙を1枚取り出して渡す。早百合は鼻にしわを寄せ、不満そうに口をとがらせた。「こんな汚いのやだ!」清子が慌ててしゃがみこみ、なだめる。「今はこれで我慢しよう?あとで一緒においしいもの食べようね」娘はしぶしぶ、それを受け取った。文幸は黙ってそのやり取りを見ていた。けれど胸の奥を、一瞬、大事な何かが抜け落ちたような奇妙な感覚がよぎった。知代は出かけるたび、ちり紙をきれいに畳んで持ち歩き、必要になるとすぐに差し出してくれていた。自分が探し回る必要など、ただの一度もなかった。午後になるにつれて、その空虚な違和感はますます輪郭を帯びていった。早百合が喉の渇きを訴えて、文幸は初めて水筒を持参していないことに気づいた。娘の靴擦れで足にまめができても、いくら探してもばんそうこう1枚出てこない。そのたびに、清子が売店や救護室へ走るのを、その場で待つしかなかった。知代がいたころは、こんな細々としたことは全部、彼女が先回りして完璧に用意してくれていたのに。文幸は原因のわからない苛立ちを覚え、ひどく落ち着かなかった。清子も彼の不機嫌に気づいたらしく、首をかしげて小声で尋ねた。「どうかしたの?どこか具合でも悪い?」文幸は適当に受け流した。「なんでもない」「知代さんのこと?」文幸は答えなかった。清子はわざと声を落とし、切なげなため息をついた。「心配なのはわかるわ。でも、あんなふうに警察沙汰の騒ぎを起こされたら、あなたも少しは自分の立場を考えないと」文幸はちらりと彼女を一瞥し、冷たく言った。「まだ片づいてない仕事がある
Leer más

第9話

夜間救急での手続きは、文幸が想像していた以上に煩雑だった。救急外来の窓口で、当直の看護婦に子どもの様子を矢継ぎ早に尋ねられた。いつから熱が出ているのか。家で薬は飲ませたか。薬のアレルギーはあるか。文幸は言葉に詰まった。答えは途切れ途切れで、まったく見当もつかず答えられない項目さえあった。看護婦は呆れたように眉をひそめ、問診票を渡して記入するよう言った。ボールペンを握ったものの、いくつもの欄が空白のまま、先へ進めない。そのとき文幸は、初めてはっきりと思い知らされた。こうしたことを、自分は今まで何ひとつやってこなかったのだと。処置室で点滴を受けるとき、早百合は注射針を怖がってベッドで激しく泣きわめいた。文幸はパイプ椅子に座ったものの、どうあやせばいいのかまったくわからない。ぎこちない手つきで、そっと背中を一定のリズムで叩いてやることしかできなかった。どう手を貸せばいいのか、どうなだめれば泣き止むのか。何から何まで、見よう見まねでやるしかなかった。翌日の午後、文幸はどうしても外せない仕事があって、清子に早百合を頼んで少しのあいだ病院を離れた。ところが用事を済ませて病室のドアを開けた瞬間、彼の顔色は一気に曇った。ガラスの点滴瓶はすでに空になり、透明な管には血が逆流しはじめていた。早百合は腕の針を気にして動かしたのか、テープも少し浮き、ベッドの上で苦しそうに呻いている。そして、ベッドのそばには誰もいなかった。清子の姿はない。文幸は怒りを押し殺して駆け寄ると、すぐにナースコールで看護婦を呼んだ。駆けつけた看護婦はすぐに点滴を止め、針の状態を確かめてから顔をしかめた。「付き添いの方はどこへ行ったんですか?病室を離れるなら、ひと言声をかけてください。お子さんが針を触ったりしたら危ないですから」文幸は返す言葉もなかった。知代のことを思い出していた。早百合が病気になるたび、彼女はひと晩じゅうそばを離れずに付き添っていた。一度も病室を離れたことはなく、眠くなればベッドの端に突っ伏して少しまどろむだけ。こんな危ないことなど、彼女がついていれば一度だって起きるはずがなかった。清子が病室に戻ってきたのは、それからずいぶん経ってからだった。「ちょっと外に用事があって、出てたの。大丈夫だった?」文幸は彼女を冷ややか
Leer más

第10話

病院の廊下に戻った文幸は、誰もいない長椅子に力なく腰を下ろした。まさか知代が、自分から会社へ掛け合って派遣名簿を元に戻していたとは。あいつはつまらない意地を張っているだけだ。文幸は無理やり自分にそう言い聞かせた。女がひとりで、見知らぬ土地での過酷な労働にいつまで身がもつか。辛抱できなくなれば、そのうち帰ってくるだろう。そのとき少しなだめてやれば、また以前と同じ暮らしに戻れるはずだ。そう考えると、胸に居座っていた重いつかえがいくらか和らいだ。けれど、早百合の具合は日を追うごとに悪くなっていった。熱こそ下がったものの、一向に元気が出ない。文幸の腕の中で小さく丸くなったまま、食事もろくに喉を通らず、口もきかない。看護婦が薬を飲ませに来ても、早百合は青白い唇をぎゅっと結んで、頑なに口を閉ざしたままだった。清子が猫撫で声であやす。「早百合ちゃん、いい子だから、お薬飲もうね。お薬飲まないと早く治らないよ」早百合は相手にせず、ぷいと顔を背けた。文幸の表情がかすかに動いた。彼は清子を制し、その手から薬を受け取った。「俺がやってみる」知代が薬を飲ませるときは、錠剤を細かく砕いてジャムに混ぜ、早百合に薬だと気づかれないように食べさせていた。文幸は記憶の中の知代の手つきをぎこちなくまねて、砕いた薬をジャムに混ぜてスプーンでかき混ぜた。差し出すと、早百合はどうにか少しだけ口にしてくれた。清子がそばでわざとらしくため息をつく。「この子、どうしてこんなに手がかかるのかしら」文幸は彼女を一瞥しただけで、何も言わなかった。夜になると、早百合はまたベッドで泣き出した。熱に浮かされた唇から、途切れ途切れに「母さん」と呼んでいる。清子はしきりに耳元で言い聞かせた。「清子おねえちゃんがずっといるから、怖くないよ」早百合は顔を背けて清子を見ようともせず、泣きじゃくりながら文幸のほうを向いた。「父さん、母さんはどこに行っちゃったの?」文幸は少し黙ってから、かすれた声でなだめた。「……母さんは何日かしたらおうちへ帰ってくるよ」その夜、文幸は少しのあいだ病室を離れ、戻りかけて戸口で足を止めた。中から、早百合が泣き叫ぶ声が漏れてくる。それから、清子の声が聞こえた。いつもの柔らかな口調ではない。抑えきれ
Leer más
ANTERIOR
123
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status