All Chapters of あなたとの結婚、やめました: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

「未登録の指紋です」赤いランプがまた点滅した。もう一度、親指をセンサーに当ててみたけれど、結果は変わらなかった。昌也が都心の高級マンションの最上階を買ったのは、1か月前のことだった。結婚後は、ここが私たちの家になるはずだった。翌日の引っ越し祝いのパーティーに備えて、彼の友人たちが何人か、準備の手伝いに来ていた。それなのに、私は玄関の鍵すら開けられない。隣にいた流佳(るか)が笑った。「もう諦めなよ、珠理。友加里の指紋なら、とっくに登録されてるぞ」廊下には、グラスを手にした昌也の昔なじみの友人たちが立っていた。全員が私を見ている。「昌也と賭けをしたんだ」と流佳が言った。「このことを知ったら、君がキレるかってさ」別の誰かが口を挟んだ。「そういえば最近、珠理がようやく物分りが良くなったって、昌也は言ってたっけ。今夜、騒がなければ明日には珠理の指紋も登録するし、結婚式も予定どおりだって」私は開いたドアの向こうに目をやった。昌也はウイスキーのグラスを片手に、バーカウンターにもたれていた。ここで交わされている会話は、一言残らず聞こえているはずだ。それでも、友人たちを止めようとはしなかった。その近くには、新居のクローゼットにあったシャツを着た友加里が立っていた。私の視線に気づくと、彼女はにこりと笑った。「準備をしているときに、ブラウスにワインをこぼしてしまったんです。長塚さんが、クローゼットにあるものに着替えていいって言ってくれたので......」3日前の私なら、とっくに彼に詰め寄っていただろう。けれど今は、ただセンサーから手を離した。「そう。もういいわ」ようやく、昌也がこちらへ歩いてきた。「何がだ」「私の指紋を登録することよ」バッグを肩にかける。「もう勝手にして」流佳がにやにやしながら言った。「帰るのか?騒がずに帰ったら、昌也の勝ちだぞ」私は足を止めた。「何を賭けたの?」「友加里が君より先に出入りできるようになったと知ったら、君がキレるって俺は言ったんだ。で、昌也はもう騒がないって。君はもうわかったはずだって」だから、みんな私を見ていたのか。私がどう反応するかを待っていたのだ。昌也を見ると、彼は至って平然としていた。私たちの関係を友人たちの面白半分の話題
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第2話

寝室を片づけていると、ベッド脇のサイドテーブルの裏から、古い充電ケーブルが出てきた。半年前、昌也のスマホは、まさにその場所で充電されていた。友加里のことで初めて本気でぶつかったのは、あの夜だった。午前1時を過ぎた頃、昌也がシャワーを浴びに行くと、スマホの画面が光った。友加里からだった。【おやすみなさい、長塚さん。少しは休んでくださいね】数分後、浴室から出てきた彼はメッセージに目をやり、何もおかしくないと言わんばかりに、ごく自然に返信した。【おやすみ、友加里。君もな】私は彼を見た。「いつも夜中にこんなやり取りを?午前1時に、おやすみって送り合う?」昌也が顔を上げた。「友加里は俺の秘書だ。今夜は遅くまで仕事をしてたんだよ」「こんなことまで言う必要があった?」彼の表情から、余裕が消えた。「珠理、たかが一通のメッセージだろ」「男の人が午前1時に私へ同じようなメッセージを送ってきても、昌也は平気なの?」その夜、私たちは初めて友加里のことで激しく言い争った。私は、彼女とは仕事上の一線を守ってほしいと頼んだ。けれど昌也の答えは、たった一言だった。「おやすみって一言で、そこまで怒る必要があるのか?」――翌日の午後、彼は友加里を予約制の家具ショールームへ連れていった。二人で選んだのは、結婚後に私たちが暮らすはずの新居に置くソファとダイニングテーブルだった。帰宅した彼に、なぜ友加里を連れていったのかと尋ねると、昌也はコートを脱ぎながら答えた。「新居の準備を手伝ってもらってるんだ」「二人の距離が近すぎて嫌だって、昨日言ったばかりでしょう」「お前が嫌だと言ったら、俺は何でも言うとおりにしなきゃいけないのか?」また喧嘩になった。それからは、同じようなことの繰り返しだった。ある日、昌也の車の助手席に友加里が座っているのを見つけた。私は車のそばに立ち、なぜ彼女がそこにいるのかと尋ねた。昌也は数秒、私を見つめると、車の反対側へ回り、友加里のために助手席のドアを開けた。「乗ってろ」友加里はためらった。「長塚さん、私は後ろでも......」「いや」彼は身をかがめ、自分の手で彼女のシートベルトを締めた。そして、開いたドア越しに私を見た。まるで、私がどう出るか
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第3話

翌朝、玄関の鍵が回る音がした。最後の段ボール箱に封をしたところで、昌也が入ってきた。その後ろには友加里もいた。リビングにきちんと並べられた4つの箱を見て、二人は足を止めた。昌也は冷ややかな顔をしていた。昨夜、私が一度も電話をしなかったせいだろう。けれど箱を目にした途端、その表情が目に見えて和らいだ。私が、あの新居へ引っ越すのを心待ちにしていると思ったのだ。「もういいだろ」昌也は近づいてきて、箱を見下ろした。「昨日のことは終わりだ。友加里のことで、いちいち突っかかるのはもうやめろ。指紋は今日、登録する。結婚式も予定どおりだ」彼の後ろに立っていた友加里が、柔らかな声で言った。「柏原さん、昨日のことで長塚さんを責めないでください。皆さん、冗談でおっしゃっていただけですから」少し間を置いて、彼女は続けた。「あそこが柏原さんのおうちなのは、わかっています。私は少し、準備をお手伝いしていただけですから」そう話しながら、彼女の手がごく自然に昌也の腕へ添えられた。数か月前の私なら、その手をにらみつけて、なぜ私の婚約者に触れるのかと問い詰めていただろう。今はただ、微笑んだ。「大丈夫よ。もう気にしてないから」昌也は数秒、私の顔を見つめた。私の答えに満足したのが、はっきりとわかった。彼が私の髪に触れようと手を伸ばしてきたので、私は顔をそらした。それでも、昌也は気に留めなかった。「それでいい」時間を確認し、彼は言った。「友加里と会社に戻って、資料を取ってくる。今夜は新居で引っ越し祝いだ。流佳たちも来るんだ。荷物を運び終わったら来いよ」そして、念を押すようにつけ加えた。「遅れるな」「わかった」私はすぐに答えた。昌也の口元がわずかに上がった。昨夜、私が結婚をやめると言ったのも、まだ機嫌が直りきらずに口走っただけだと、本気で信じているのだろう。数分後、二人は出ていった。ドアが閉まった瞬間、私の顔から笑みが消えた。スマホを取り出し、あらかじめ予約しておいた引っ越し業者に電話をかけた。「もしもし。もう上がってきていただいて大丈夫です。箱は4つで、すべて福代(ふくしろ)へお願いします」30分後、作業員が到着した。持っていくものは、それほど多くなかった。ノートパソコン、
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第4話

昌也は数秒間、メッセージを見つめてから私に電話をかけた。けれど、聞こえてきたのは自動音声だけだった。眉をひそめて、もう一度かけ直す。それでも、同じ案内が流れるだけだった。その頃には、部屋はすっかり静まり返っていた。流佳がグラスを置いた。「番号を変えたのか?」昌也は答えず、3度目の電話をかけた。結果が変わらないとわかると、カウンターに置いていた鍵をつかんだ。友加里が立ち上がる。「柏原さん、きっと腹を立てているだけですよ。少し時間を置けば、きっと戻ってきますよ」けれど彼は、もう玄関へ向かっていた。以前のマンションに着くと、部屋の明かりは消えていた。鍵を開けて中に入り、私の名前を呼んだが、返事はなかった。リビングに足を踏み入れた瞬間、彼は立ち止まった。朝に見た4つの箱がなくなっていた。玄関に置いてあった私の靴も、クローゼットのコートも、棚に並べていた本や仕事の資料も消えている。クローゼットの私が使っていた側は空になり、洗面所や浴室にも、私のものは何一つ残っていなかった。今朝、昌也は私が荷造りをするのを見て、すべて新居へ運ぶものだと思い込んでいた。疑いもしなかったから、箱の行き先を尋ねることさえなかった。家具の大半は残っていた。長年、彼が買い与えてきた服やジュエリー、高価な贈り物も、そのままだった。私は、それらにはほとんど手をつけていなかった。持っていったのは、私自身のものだけ。仕事の資料、自分の写真、本、それから、昌也が私にお金を使えるようになる前から、少しずつ集めてきたものだった。そして彼は、ローテーブルに目を留めた。5年前、彼が私にくれた飾り気のない銀の指輪が、印刷された2通の書類の隣に置かれていた。これはあの時に買った安い指輪だった。昌也は、余裕ができたらもっといいものに買い替えると約束していた。けれど私は、一度も買い替えを望まなかった。昌也は隣に置かれた紙を手に取り、一通がウェディングプランナーから、もう一通が式場からのメールだと気づいた。どちらにも、結婚式のキャンセルが完了したことが記されていた。彼の視線が、日付へ移った。昨日だった。初めて、彼の表情が揺らいだ。私が結婚式を取りやめたのは、あの新居へ行く前だった。指紋認証で拒まれるよりも、流佳たちに笑われるより
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第5話

昌也は、どうしても信じられなかった。私は5年間、彼を愛していた。帰りが一時間遅くなるだけで、どこにいたのかと尋ねていた。彼がわざとメッセージを無視すると、夜中まで眠らずに返信を待っていたこともある。そんな私が、跡形もなく姿を消すはずがない。彼はすぐに部下に命じ、私の行き先を調べさせた。私がその日の午後、空港からここを離れたとわかるまでに、1時間近くかかった。さらに1時間もしないうちに、乗ったのは福代行きの便だったと判明した。マンションから運び出された4つの箱も、同じ場所へ送られていた。少し頭を冷やすために、数日離れたわけではなかった。私は、この街を出ていったのだ。昌也はそのまま車を走らせ、私が勤めていたデザイン事務所へ向かった。夜10時近くになっていて、事務所には数人しか残っていなかった。共同経営者の一人が昌也を知っていて、彼の姿を見ると驚いた顔をした。「珠理は?」男は怪訝そうに彼の顔を見てから答えた。「もう辞めましたよ」「福代に行ったのは知ってる」昌也は彼を見据えた。「その理由を知りたいだけなんだ」共同経営者は眉をひそめた。「珠理さんは......もう1週間前に退職したんです」昌也の動きが止まった。「1週間前?」「国際的なデザイン会社の福代支社で、シニアデザイナーの仕事が決まったそうです」男は昌也の顔を見て、彼が本当に何も知らなかったのだと、ようやく気づいたらしい。「先週、昼食を兼ねた送別会もしましたよ。長塚さんは彼女の婚約者でしょう?聞いていなかったんですか?」昌也は何も答えなかった。1週間前。その頃には、私はもう彼と言い争わなくなっていた。帰りが遅くなっても、「わかった」と答えるだけ。友加里が彼の隣に座っていても、何も聞かなくなっていた。彼は流佳たちに、私がようやく、言い争うほどのことではないと理解したのだと話してさえいた。その間、私は退職の手続きを進め、担当していた仕事を引き継ぎ、引っ越しの準備をしていた。それなのに、彼は何一つ気づかなかった。昌也が新居に戻ると、引っ越し祝いのパーティーはまだ続いていた。さっきまで酒を飲んで笑っていた友人たちが、一斉に黙り込んだ。最初に立ち上がったのは流佳だった。「珠理は?」昌也は答
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第6話

福代、午前8時。会議室の大きな窓から朝の光が差し込む中、私はプレゼンテーションの最後のページを表示した。「以上が、ホテルの共用スペース全体の修正案です。ありがとうございました」しばらくの静けさのあと、拍手が起こった。テーブルの上座に座っていた男性が、目の前の資料を閉じた。小田島旬(おだじま じゅん)。この国際的なデザイン会社の創業者であり、デザイン部門の責任者でもある。私を、自ら声をかけて採用してくれた人だった。「素晴らしい」彼は再びスクリーンに目を向けた。「特にロビーの動線がいい。実際の使いやすさを損なわずに、デザイン性も高く引き上げられている」私はリモコンを置いた。「ありがとうございます」旬は隣のプロジェクトマネージャーに資料を渡した。「珠理さんの案で進めましょう」入社したばかりだからと、私の案を疑う人はいなかった。私の仕事を横取りし、別の人の成果として仕上げる人もいない。どれだけ直しても自分の実績にならない仕事のために、夜を費やすことを求められもしなかった。会議が終わり、ドアへ向かおうとしたところで、旬に呼び止められた。「最初の一週間はどうでしたか?」「思っていた以上に、よかったです」「それならよかった」彼は軽く微笑んだ。「珠理さんには、デザインの仕事をしてもらうために来てもらったんです。ほかの人の仕事まで、一人で背負う必要はありません。それぞれの担当はチームに任せて、自分の力を一番発揮できることに集中してください」一瞬、何と答えればいいのかわからなかった。それから、うなずいた。「ありがとうございます。そうします」会議室を出ても、スマホは静かなままだった。不在着信はない。どこにいるのか、なぜ返事をしなかったのかと問い詰める人もいない。私の予定について説明を求めるメッセージも届いていなかった。その静けさには、まだ慣れなかった。こんなに穏やかな気持ちになれたのは、本当に久しぶりだった。――一方、昌也が新居で初めての夜を過ごしていた。朝になる頃には、あちこちが気に障るようになっていた。友加里が選んだソファは、写真では高級感があったが、20分も座っていると体がつらくなった。ダイニングテーブルの上の大きなペンダントライトは低すぎて、下を
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第7話

数週間後、長塚不動産の財務責任者が、慌ただしく昌也の執務室に入ってきた。「社長......!事業用口座の一つで、問題が起きました」昌也が顔を上げる。「いくらだ?」「約1億8000万円です」ホテル事業の一つで、施工業者や資材の納入業者への次回の支払いに充てる予定だった資金だ。「それがどこへ消えた?」財務責任者の表情がこわばった。「昨夜、寺田友加里が管理権限を使って送金しています。銀行が不審な取引として検知したときには、すでに複数の外部口座へ分散されていました」昌也はスマホを取り、彼女に電話をかけた。すぐに留守番電話へ切り替わった。彼女のマンションへ人を向かわせたが、部屋はすでに引き払われていた。服も、書類も、旅行かばんも、何一つ残っていなかった。昌也は机の上の取引記録を見つめ、その表情を冷たくした。――友加里が、自分のそばで働くことで得られる贅沢な暮らしを楽しんでいるのは、以前からわかっていた。けれど、会社の金にまで手をつけるとは思っていなかった。銀行が未処理の送金を凍結し、長塚家の顧問弁護士たちが警察に連絡した。やがて、友加里が空港まで逃げていたことがわかった。けれど彼女の身柄を確保する前に、ネット上でスクリーンショットが拡散し始めた。友加里が、数か月にわたる昌也との私的なメッセージを、SNSに公開したのだ。1時間もしないうちに、ゴシップ系インフルエンサーが転載した。その数は、数十枚に及んだ。1枚には、友加里のこんなメッセージがあった。【返事をもらえなくて、柏原さんがまた怒ってますよ】昌也の返信はこうだった。【明日は助手席に乗れ】別の一枚では、友加里が尋ねていた。【家具選びを手伝っただけで、本当に怒るんですか?】彼は答えていた。【怒るだろうが、放っておけ】続いて、引っ越し祝いの前のやり取りが出てきた。【流佳さんが、絶対にキレるって言ってますよ】昌也は、【騒がないさ】と返していた。最後に公開された一枚が、最もひどかった。友加里はこう尋ねていた。【私の指紋がもう登録されているって、柏原さんに知られたらどうしますか】昌也の返事は、簡潔だった。【知られても構わないさ】スクリーンショットの下には、友加里が書いた長い文章が添えら
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第8話

3か月後、福代には激しい雨が降っていた。デザインサミットが終わり、同僚たちとホテルを出ようとしたとき、一人の男が雨の中をこちらへ向かってきた。階段にたどり着く前に、警備員が彼を止めた。私は足を止めた。――昌也だった。黒いコートはずぶ濡れで、濡れた髪が額に張りついていた。いつも冷静で、何もかも思いどおりにしていた長塚財閥の社長の面影はなかった。「珠理」声がかすれていた。私は動かなかった。昌也はしばらく私を見つめていたが、やがて警備員の手を振りほどき、こちらへ歩いてきた。次の瞬間、私の前で膝をついた。周囲が静まり返った。「すまない......俺が間違っていた」雨が彼の顔を伝い落ちる。「友加里はもううちでは働いていない。あいつのことは、弁護士に任せている。新居の鍵も替えた」私を見上げた彼の目は、すでに赤くなっていた。「だから珠理、一緒に帰ってくれ。スマホはいつでも見ていい。俺がどこにいるか知りたければ、毎日伝える。1日に10回でも、電話してくれていいんだ」彼の声が、さらに低くなった。「だから......だからまだ前みたいに俺のことを気にかけてくれ......頼むよ、珠理」3か月前なら、昌也からそんな言葉を聞けただけで、嬉しくて一晩中眠れなかったかもしれない。けれど今は、ただ奇妙に聞こえた。私は一歩、後ろへ下がった。「まだ、わかっていないのね」昌也が動きを止めた。「スマホを見せてくれなかったから、あなたのもとを離れたんじゃない。彼女があなたの車に乗ったからでも、新居に出入りできたからでもないわ」彼の目を見つめた。「私が傷ついたと伝えるたびに、あなたがわざと、もっとひどいことをしたからよ。私がいつ怒らなくなるのか、見たかったんでしょう」昌也の顔から、少しずつ血の気が引いていった。「珠理......」「あなたの勝ちよ」私の声は穏やかなままだった。「今なら、あなたが誰と一緒にいても、私は別に気にしないから」彼は完全に言葉を失った。私へ手を伸ばしてくる。触れられる前に、私は身を引いた。そのとき、頭上に黒い傘が差しかけられた。旬が隣に立ち、私にコートを差し出した。「車が来たよ」「ええ」昌也の視線が、彼へ移った。「小田島旬」
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第9話

それから、さらに半年が過ぎた。結婚式を1週間後に控え、私はデザイナーのアトリエで、ウェディングドレスの最後のフィッティングをしていた。デザイナーがヴェールの一番外側を整えていると、スマホが鳴った。流佳だった。数秒、その名前を見つめてから電話に出た。「珠理」彼の声は張りつめていた。「昌也に、君が結婚することが知られた」私は鏡に映る自分を見た。「そう」それだけしか反応が返ってこないとは、流佳も思っていなかったようだった。「昨夜、誰かが君と旬の結婚のニュースを共有したんだ。それを見て、昌也が取り乱して......」そうやって知ったのか。数日前、旬の家族が結婚を公表していた。その知らせはすぐに、福代の社交界を扱うコラムや、いくつかのデザイン業界のアカウントに取り上げられていた。流佳が続けた。「あの新居に戻って、リビングの半分をめちゃくちゃにしたんだ。友加里と選んだものは、ほとんど壊してしまった......今は玄関の前に座ってる」少し間を置いて、彼はつけ加えた。「あの指紋認証の鍵の、すぐ前に」私は何も言わなかった。「あの夜、珠理の指紋を登録していれば、こんなことにはならなかったって、何度も言ってるんだ」私はウェディングドレスのスカートを、手のひらでそっとなでた。「今さら登録したところで、何も変わらないわ」「それはわかってる」流佳はしばらく黙った。「でも、あいつは本当に後悔してるんだ」「それは私に何の関係が?」「君たちは5年も一緒にいたんだぞ」私は鏡の中の自分に視線を上げた。「だから?」流佳は答えられなかった。「5年一緒にいたから、もう一度チャンスをあげるべきだっていうの?彼が他の女を使って私を傷つけたのは、その5年があるから、私は離れないと思っていたからよ。私が出ていくことなんて、絶対にないと思い込んで」電話の向こうが静まり返った。少ししてから、私は言った。「......もう彼のことで、もう電話してこないで」通話を終え、彼の番号を着信拒否にした。背後で、デザイナーがヴェールを整え終えた。「できましたよ」私は立ち上がり、鏡の中の自分を見た。きれいだった。それ以上に、心が穏やかだった。ドアをノックする音がした。旬が、私
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第10話

結婚式の日、福代は美しい晴天に恵まれた。式は、海を望むホテルの最上階のテラスで行われた。バージンロードには白い花が並び、海から吹く風がヴェールの裾をふわりと揺らしていた。母が、式場の入口まで付き添ってくれた。その先では、旬が待っていた。私が姿を見せた瞬間から、彼は一度も目をそらさなかった。そばにたどり着くと、彼が私の手を取った。その手のひらは温かかった。旬の誓いの言葉は、飾り気のないものだった。「珠理、君が僕にとってどんな存在なのか、思い悩ませることはしない。不安になったらいつでも聞いてほしい。傷ついた時も、僕に教えて」彼の指が、私の手を優しく握った。「我慢することで、愛される資格を証明する必要なんてないんだ。愛してる、珠理。僕と結婚してください」一瞬、テラスが静まり返った。目頭が熱くなった。昌也は何年もの間、私には直すべきところが多すぎると思い込んでいた。――いちいち聞くな。気にするな。求めすぎるな。傷ついたと伝えるたびに、彼はさらに一線を踏み越えた。そして私は、とうとう何も聞かなくなった。旬は、私に別の姿になることを求めたことがなかった。彼の指に指輪をはめる番になり、私は微笑んだ。「はい。喜んで」周囲から拍手が湧き起こった。旬が身をかがめ、私にキスをした。同じ頃、昌也は、ホテルのロビーに設けられた警備の受付の前に立っていた。――結局、来たのだ。数日前、流佳が会場を教えていた。けれど旬の警備チームには、すでに指示が出ていた。招待されていない人は、貸し切りのフロアへ通さないようにと。昌也はロビーのモニターの下に立ち、映し出され始めた結婚式の写真を見つめていた。その一枚で、私は旬に向かって微笑んでいた。指には、結婚指輪が光っていた。警備員が彼に近づいた。「上の階へはお通しできません」昌也は動かなかった。「1分だけでいい。彼女と話したい」「申し訳ございません。奥様から、本日は招待されていない方とはお会いにならないと、申し付かっております」奥様。その言葉に、彼は黙り込んだ。5年間、昌也は、私がいずれ長塚家の奥様になると信じて疑わなかった。だから、結婚式は先延ばしにしてもよかった。指紋の登録は、明日でよかった。私の傷ついた気持ちも、
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