Alle Kapitel von 元夫が、息子の幼稚園の前をうろついています: Kapitel 11 – Kapitel 20

30 Kapitel

11話. 子どもを預ける、その前に

紗季はA4用紙の上部に、迷いのない手つきで大きく書いた。【無報酬・専属育児運転手および緊急預かりに関する約束書】題名を見た怜司の眉が、ぴくりと動いた。だが、紗季の冷たい視線とぶつかった途端、何も言えなくなる。紗季はペンを走らせながら、読み上げるように続けた。「第一条、甲乙の関係。本契約における甲は藤崎紗季および藤崎陽翔、乙は鷹宮怜司とする」「……乙、鷹宮怜司。確認した」「第二条、勤務条件および報酬。お迎え、公園での見守り、荷物運びなど、乙が行う一切の労働の報酬は〇円。乙は金銭的な対価も、食事の提供も要求できないものとする」「もちろんだ。こっちがお金を払ってでも、させてほしいくらいだよ」「第三条。父親だと陽翔に説明することは、まず二人で相談します。あの子が理解できるよう、私も一緒にいるところで話す。それまでは、あの子が呼んでいる通り、おじちゃんです」怜司はペン先を見下ろした。会ったばかりの大人が自分の父親だなんて、陽翔にも、説明を受けて考える時間が必要だ。けれど、自分が謝る時間を稼ぐために、子どもにまで待ち続けさせていいわけではない。拳を握り、うなずいた。「わかった。必ず守る」そして、続けた。「ただ、先延ばしにするだけにはしたくない。陽翔が先に聞いてきたら、嘘はつかないよ」紗季のペンが、一度止まった。「そのときは、私にもすぐ知らせてください。あの子に、私たちの気持ちの整理までさせたくないので」「第四条、傲慢な態度の禁止。乙は五年前のように『考える時間がほしい』などとふざけたことを言わず、甲の意思に反して偉そうに振る舞わないものとする」怜司は用紙から目を離せなかった。自分が口にした言葉が、契約の条項になって戻ってきた。「第五条。約束を破った場合、子どもを預けるのはやめます。許可なく家に入ったり、子どもを連れ出したりしたら通報します。陽翔に何かしてあげたからといって、私に見返りを求めるのもやめてください」会社の契約書なら、何か所も修正を入れるだろう。だが、この紙は契約というより、紗季がどこまでなら任せられるかを記した境界線だった。怜司は条項を読み返し、名前を書いた。法的な親子関係を変える書類ではない。変えなければならないのは、今日この子に向き合う、自分の態度だった。【乙 鷹宮怜司 署名】「書いたよ、紗季」紗季は用紙を受け
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

12話. 初めてのお迎えとピンクの恐竜

「え……? 砂泥棒のおじさん、なんでまたここにいるの!?」午後四時ちょうど。ひだまり幼稚園の黄色い門の前に、陽翔の声が響いた。お迎えの子どもと保護者でにぎわう中、その手を引いて出てきた担任の顔が、さっとこわばる。近くにいた母親たちのざわめきが、瞬く間に広がった。「待ってください! 泥棒ではありません! 怪しい者じゃないんです!」怜司は反射的に両手を上げ、冷や汗を流した。数百万円のオーダースーツの見栄えなど、どうでもよかった。震える手でスマートフォンを取り出し、契約書の写真を表示する。続けて、紗季が担任に送った、お迎えの代理人を指定するメッセージを見せた。「藤崎紗季さんと交わした約束書と、こちらのメッセージをご確認ください。本日、私は正式に許可を得た、陽翔くんの無報酬の専属運転手です!」担任は画面と書類、今にも泣きそうな怜司の顔を見比べた。さらに紗季へ電話で確認してから、ようやくほっと息をつき、陽翔の手を引き合わせた。「お母様と確認できました。陽翔くん、今日はこのおじちゃんの言うことを聞いて、おうちへ帰ろうね」先生が手を離そうとすると、陽翔は少しだけ踏ん張った。さっきまで大きな声を出していた口が閉じる。怜司は急かさず、その前にしゃがんだ。「ママに、もう一回電話しようか?」受話口から母の声が聞こえて、やっと小さな手の力が緩んだ。陽翔はまず、家に行けば美緒ちゃんがいるのかを確かめた。怜司は通話が終わるまで待ち、それからスマートフォンをしまう。子どもが差し出したのは、手ではなくバッグの紐だった。「はい、先生! さようなら!」門の外へ出た途端、陽翔は背負っていた鮮やかなピンクの恐竜バッグを脱いだ。怜司の太腿にぽんと押しつけ、顎を上げる。「はい、砂泥棒のおじさん。ママの紙に、おじちゃんはぼくの荷物持ちって書いてあったんでしょ? 早く背負って」「に、荷物持ちじゃなくて……正式には育児運転手だよ、陽翔」「タダで働く運転手なら、荷物持ちじゃん。おじちゃん、字が読めないの?」一言も言い返せず、怜司は渡されたバッグを肩にかけた。紐が短くてスーツの肩が引っ張られるのに、伸ばすことすら思いつかなかった。初めて、自分に預けてもらった物。それが、不思議なほど胸に迫った。息子の小さなバッグが胸の近くに触れている。ただそれだけで、目の奥が熱くなる。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

13話. コンビニのハイチュウ大交渉

「いーち……にー……」コンビニの床に座った四歳の陽翔が、容赦なく数える。目を細め、小さな獣のように怜司をにらんでいた。レジにいる二十代のアルバイト店員も、買い物中の客も、いっせいにこちらを見た。――まともそうなスーツの男なのに、子どもに何をしてるんだ。そんな視線が突き刺さる。怜司の額から、冷や汗が噴き出した。紗季に渡された注意事項と、契約の第五条が、頭の中で赤い警告灯になって点滅していた。床に寝転んでも買わない。ハイチュウは非常用に一粒だけ。約束を破れば即座に契約を打ち切られ、場合によっては通報される。契約が終われば、父親として償いながら、そばにいられる機会も失う。だが、子どもが誘拐犯だと叫べば、また一一〇番通報だ。パトカーが来て、交番に戻ることになる。追い詰められた怜司は、厳かな顔で膝を折った。陽翔と目の高さをぴたりと合わせ、低い声で切り出す。「陽翔。この取引を、論理的に再検討しよう」「……何て?」「あの恐竜ロボットは製造原価に対して樹脂成形の仕上げが粗く、減価が著しい。しかもハイチュウ一箱は、おやつの許容量を大幅に超過する。ママの指針にも真っ向から反するんだ」陽翔の目が、さらに細くなった。あきれたようにため息をつくと、店員に怜司を指して見せ、こめかみの脇で指をくるりと回した。「お兄さん、あのおじさん、宇宙人? 日本語わからないのかな。会社で悪いことして、逃げてきた人みたい」「あの、お客さん……小さい子に、そんな難しい話しても。ひとつ買ってあげたらどうですか……」店員の気の毒そうな目に、怜司の首筋がこわばった。陽翔はまた怜司へ向き直り、顎を上げる。「難しいこと言って、格好つけないでよ。口が震えてる。びびってるでしょ? 三までにカード出して。さーん……!」「待った! タイム!」慌てて両手でTの字を作った。四歳児に経済学は通じない。怜司は唾をのみ込み、人生最大の勝負に出た。「陽翔。正々堂々、男同士の勝負をしよう。恐竜クイズだ」「……恐竜クイズ?」玩具のカタログを覚えてしまうほど恐竜が好きだという、息子の興味に賭けた一手だった。「おじちゃんの問題に正解したら、ぶどうのハイチュウを、非常用のおやつとして一粒だけ食べていい。ただし、あの大きなロボットは、ママの許可が出るまでお預け。それでどうだ?」陽翔は素早く考えた。
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

14話. 雨の帰り道、スーツの傘

ざあああっ。空に穴でも開いたような雨だった。桜ヶ丘の商店街を歩いていた人たちが声を上げ、建物の軒下へ逃げ込む。大きな雨粒が、アスファルトに容赦なく跳ね返っていた。「うわあ! 雨! ぼくのスクーター、濡れちゃう!」陽翔がハンドルを握ったまま足踏みした瞬間、怜司の体が動いた。考えるより早かった。高級腕時計や数百億円の投資資産を守るときにも出たことのない、信じがたい反射だった。肩に羽織ったカシミアのジャケットを、一瞬で脱いで広げる。上質なイタリア製の生地を使い、英国サヴィル・ロウで仕立てた、一着数百万円のスーツ。だが今の怜司にとって、それはただ、雨を遮るための大きな布でしかなかった。「陽翔、こっちへ!」ジャケットで陽翔の頭をすっぽり包み、その小さな体を片腕で抱き上げる。胸にしっかり引き寄せ、もう片方の手でスクーターをつかんで脇に抱えた。「おじちゃんの首につかまって! 絶対に離しちゃだめだ!」「うん! つかまった!」水たまりを蹴り、雨の中を走りだす。激しい雨が髪や額、首の後ろを打った。真っ白なシャツは十秒もしないうちに肌へ張りつき、シルクのネクタイは泥水を吸って重く垂れ下がる。革靴の中にまで水が入った。怜司は陽翔の顔の近くでジャケットを合わせ、まず雨をしのげる軒下へ入った。子どもの袖は、少し濡れていた。これ以上濡れないよう抱き直し、紗季に向かっている場所を知らせる。陽翔は怜司の首にしがみついたまま、ふと左の胸に耳を押し当てた。どくん、どくん、どくん。荒く、強く響く心臓の音。雨の中を全力で走った怜司の脈が、耳元を打っていた。陽翔は丸い目で、怜司の顎を見上げた。「おじちゃんの胸、変な音がする。どんどんって、電車が走ってるみたい。なんでそんなに速いの?」雨粒を滴らせながら、怜司は苦しい息の合間に答えた。「陽翔が……風邪をひいたらどうしようって。けがをしたら困るから、びっくりしてるんだ。指一本だって、痛い思いをさせたくないから」「おじちゃん、お馬鹿なの? 濡れてるの、おじちゃんのほうじゃん」小さな手が伸び、濡れた額と目元をそっと拭った。その柔らかな指先の温もりに、怜司の胸がじんとしびれた。喉の奥が、きゅっと詰まる。これまで一度も抱いてやれなかった、自分の子ども。その体温が、冷えた体の奥まで染み込んできた。雨なのか涙なのかもわ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

15話. 三〇二号室の前の、濡れた大型犬

「……何て、陽翔?」怜司の瞳が揺れた。走って苦しかった胸が、今度は別の衝撃で激しく鳴りだす。紗季が変えた家の暗証番号が、誕生日?もしかして、自分の誕生日だろうか。あれほど冷たく突き放し、軽蔑していた紗季が。私たちの人生にあなたの居場所は一ミリもないと、言い切った彼女が。毎日開け閉めする家の鍵に、まだ、自分の誕生日を使っていたのか。(紗季……君は、まだ俺を……)抑えきれない喜びと後悔が絡まり、目の奥が熱くなった。濡れて震える手を胸に当て、泣きそうな声で、おそるおそる尋ねる。「陽翔……もしかして、その番号は……一一二八? 十一月二十八日、だよな?」陽翔は怜司を、虫でも見るような目で見上げた。それから、あきれたように鼻を鳴らす。「一一二八って、どこから出てきたの? おじちゃんの誕生日、十一月二十八日なの?」「……え? 違うのか?」「うちの番号は、〇三〇一だよ。三月一日!」小さな指が、慣れた調子で四つの数字を押した。軽快な解錠音が流れる。それでも動かない怜司を、陽翔はもどかしそうに見上げた。「ママの誕生日、三月一日でしょ! 自分の誕生日に変えたって言ってたのに。おじちゃん、なんで一人でその気になってるの? 三月一日生まれでもないんでしょ? 目までうるうるさせて、何してんの?」「……」「やっぱり、救いようのない泥棒のおじさんだ。何でも勝手に自分のものにしようとするんだね」期待が粉々になった。怜司は力のない笑いをこらえ、冷たい壁に手をついた。当然だ。五年もたって突然現れた、恥知らずな元夫の誕生日を、紗季が玄関の暗証番号にするはずがない。穴があったら入りたい。赤くなった顔を手でこすった。がちゃり、と扉が開き、暖かな家の空気が廊下へ流れ出した。「陽翔、先に手を洗おうね。ご飯、温めてあるよ」中から美緒が顔を出した。子どもの顔と服を確認し、怜司から引き継いだことを紗季へ送る。その返信まで確かめてから、怜司は廊下へ下がった。美緒がタオルを差し出してくれたが、怜司は濡れた髪をざっと拭いただけで返した。「俺は、ここにいます。紗季が帰るまで」美緒は何か言いたげに彼を見たが、やがて陽翔のあとを追って中へ戻った。紗季のほのかなバニラの香りと、子どものパウダーの匂いが混じって、玄関からふわりと漂う。家に入って靴を脱いだ陽翔が、立ち尽く
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

16話. 午前一時、廊下の大型犬

チン、と音がした。午前一時二十分。静まり返った団地の三階で、エレベーターの扉がゆっくりと開いた。川越の印刷工場で、鼻を刺すインクの臭いと機械の轟音にまみれてきた藤崎紗季が降り立った。特色インクのわずかな彩度のずれまで拾い、夜遅くまで印刷に立ち会った。そのかいあって、ようやくクライアントの本部長から最終承認をもらえたのだ。自分の今後を左右する大仕事を守りきった。その実感とともに緊張がほどけ、疲れがどっと押し寄せた。埃のついたコートの前を合わせ、重い足取りで廊下の角を曲がる。頭に浮かぶのは、美緒に預けた陽翔のことばかりだった。鷹宮怜司は子どもを泣かせたり、余計なことをしたりしていないだろうか。不安が胸を圧迫する。だが、三〇二号室の前まで来た紗季は、その場に縫い留められたように足を止めた。「……鷹宮さん?」玄関脇の冷たいタイルの上。怜司が両脚を折り曲げ、壁の角に頭を預けて眠っていた。海老のように丸まった身体のそばには、スーツから落ちた雨水が小さな水たまりを作っている。高級シャツは泥と雨でまだらに汚れ、額にかかった髪は汗と水で乱れていた。雨の中に捨てられ、飼い主を待ちくたびれて眠ってしまった大型犬。その姿に、紗季は呆れて息をのんだ。降られたなら地下駐車場の車に戻ればよかったのに。着替えもせず、こんな床で粘っていたなんて。紗季は靴の先で濡れたズボンを軽くつついた。「鷹宮さん。起きてください。こんなところで何してるんですか」怜司が弾かれたように目を開けた。焦点の合わない目に紗季が映った途端、跳ね起きて背筋を伸ばす。勢いがよすぎてよろめき、壁に肩をぶつけたが、痛みも感じていないらしい。「敬礼……いや、ご報告します!」かすれた声が廊下に響いた。「藤崎陽翔くん、十六時、無事お迎え完了! おやつの規則に従い、ジュースとバナナ半分を摂取! コンビニでの危機は恐竜クイズにより平和的に解決! 十七時十分、自宅への帰還完了! 不審者の侵入ゼロ! 異常ありません!」軍人さながらに声を張る怜司に、紗季は思わず力の抜けた笑いを漏らした。ウォール街を相手にしていた投資会社の社長が、団地の廊下で育児作戦の報告とは。けれど、そのおかしさもすぐに消えた。彼の顔に目が留まったのだ。頬は紙のように白く、青ざめた唇が細かく震えている。吐く息は紗季の頬に触れるほど熱かった。ひどい
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

17話. 三〇二号室の敷居と花柄パンツ

「……入ってください」紗季の冷ややかな声に、怜司は自分の耳を疑った。午前一時二十分。濡れた身体を廊下で縮めていた彼の目に、開け放たれた玄関が映る。人感灯のオレンジ色の明かりが、暗い廊下を照らしていた。五年ぶりだった。彼女が去ってから、何千回となく夢に見た瞬間だ。もっとも、今の自分に大富豪らしい威厳などない。数百万円のスーツは泥で重く垂れ、身体は熱と悪寒で震えていた。「鷹宮さん。入らないなら閉めますよ」「は、入る! 入ります!」扉を閉められてはたまらない。慌てて一歩を踏み出した怜司は、玄関マットに足を載せる直前、ぴたりと止まった。靴と裾から落ちる水が、紗季の清潔な玄関を汚している。「ちょ、ちょっと待って。水が……床を汚す」足を引っ込め、スーツの裾を絞り始めた。その巨体は、凍える自分より彼女の家の汚れを心配しておろおろしている。五年前の尊大な怜司からは想像もつかない姿だった。紗季はため息をついた。「玄関でタオルを使ってください。床は拭けば済みます。騒がないで」その間に、美緒がバッグを手に玄関へ出てきた。夕食のことと陽翔が眠った時刻を書いたメモを紗季に渡し、怜司を横目で見る。「子どもはいい子に寝てたよ。外の大人が言うこと聞かなかっただけ」遅くまでありがとう、と紗季は友人の手を握った。エレベーターに乗るまで見届けて扉を閉めると、食卓の小さな器が目に入った。陽翔の食べ残したご飯だ。怜司は濡れた手を振り、視線を落とした。今日自分がしたことは、あの子の長い一日の、ほんの一部にすぎない。紗季が乾いたタオルを二枚持ってきて、彼の頭にぽんと載せた。清潔な石鹸の匂いが鼻先をくすぐる。彼女の暮らす家の匂いとぬくもりに包まれ、怜司の目が赤くなった。タオルの陰で目元を拭い、ボタンを外そうとする。だが、かじかんだ指が動かない。「はあ……貸してください。指の感覚もないのに、無理しなくていいです」紗季が近づいてジャケットを脱がせ、濡れた首筋と腕をタオルで拭いた。触れられるたび、心臓が肋骨を突き破りそうになる。すぐ近くの彼女は印刷立ち会いの疲れをにじませていたが、それでも眩しかった。「あの、紗季……シャツも全部濡れてるんだけど……」「脱いでください。まさか、そのままよその家のリビングに居座る気ですか?」寝室の収納を探った紗季が、大きめの服を二つ、怜司の腕に放
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

18話. 花柄男の、とんでもないおはよう

「ママ……! うわああん! ママ、早く来て!」朝七時。三〇二号室の静けさを、陽翔の甲高い声が破った。ようやく寝ついたばかりの紗季が、乱れた髪をかき上げながら寝室を飛び出す。「陽翔! どうしたの、何があったの!?」「ソファででっかいタコの怪物が寝てる! 違う、ピンクのお花お化けだ!」プラスチックのおもちゃを棍棒のように振り上げ、陽翔が震えながらソファを指している。紗季はそちらを見て、呆れた息を漏らした。ごんっ!叫び声に飛び起きた怜司が、ガラスのローテーブルの角にすねをぶつけた。「ぐっ……! お、おはようございます! 敬礼!」涙をにじませて背を伸ばし、いきなりリビングで直立不動になる。すねまでの濃いピンクの作業パンツ。肩の縫い目が裂けそうな黄色いTシャツ。寝癖で鳥の巣になった髪。四十二階の社長室に君臨していた男の、あまりにも斬新な姿に、陽翔の口がぽかんと開いた。「あれ……? 砂泥棒のおじさん!?」「ど、泥棒じゃなくて、お迎え担当のおじちゃんだよ。おはよう、陽翔」「なんでそんな服なの? うちの園バスにいるおばあちゃんだって、そんなの着ないよ。お花が爆発してる!」怜司はズボンに咲く花を見下ろした。子どもの前で隠せる場所もない。裾を下げようと引っ張ったが、ゴムがふくらはぎにぴったり食い込み、びくともしなかった。「昨日、雨に濡れすぎたから、ママが泊まっていいって言ってくれたんだ。服はおじいちゃんの」紗季は陽翔の手を取り、台所へ向かった。怜司もついていこうとして、ぶつけたすねをさする。振り返った紗季と目が合い、慌てて手を下ろした。夜中に世話をかけたうえ、朝から心配事まで増やしたくない。「鷹宮さん。ぼんやりしてないで、手を洗ってきてください。朝ご飯を食べたら、陽翔を送ってもらいますから」「朝ご飯……? 俺にも、くれるの?」紗季は答える前に体温計を差し出した。大丈夫だと言っても、手を引っ込めない。「私が確認します。まだ熱があるなら、送りは私がします」怜司はおとなしく額を向けた。夜より下がった数値を見て、紗季が食卓を指す。椅子を引こうとして、怜司は手を止めた。陽翔が踏み台を使って上がろうとしている。その子が座るまでの数秒を待つ。それは、朝食をもらってもいいのかと尋ねるより、先にすべきことだった。紗季がパンと卵を並べた。怜司は空いた椅子を少
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

19話. 首飾りの秘密と、二度目の登園

紗季の冷えた視線が首元に刺さった。怜司は口の中のトーストも飲み込めず、向かいの彼女と目を合わせる。心臓が肋骨を破りそうに暴れていた。「は、陽翔! ただのキーホルダーだよ! 指輪じゃない!」真っ青になって襟を握り、指輪をシャツの奥に押し込んだ。自分の指輪が彼女の引き出しにある。その事実に胸は跳ねたが、今ここで余計なことを言えば追い出されかねない。「嘘だ。おじちゃん、嘘つくと鼻の穴が広がるもん」陽翔がフォークの先で鼻を指した。慌てて鼻を押さえる怜司を一瞥し、紗季がカップを置く。「陽翔。ご飯の時間はよそ見しないで、トーストを食べて。幼稚園に遅れるよ」ぴしゃりと言われ、陽翔は唇をとがらせながらジュースを飲んだ。怜司も干上がった喉を潤す。だが、ほっとする間もなく、紗季が顎で時計を示した。「八時四十分までに園の前です。そろそろ出てください」「あの、紗季……ベランダに干したスーツ、まだ乾いてなくて……」昨夜ずぶ濡れになったスーツには、まだたっぷり水気が残っている。つまり、この花柄パンツと伸びた黄色いTシャツで、真っ昼間のニュータウンを歩かなければならない。「それが? お迎えを頼んだんですから、今日の送りもお願いします。一分でも遅れたら契約解除です」紗季は情け容赦なく玄関を開けた。ただ、脇に掛けていたゆったりしたベージュのロングカーディガンを、彼に放ってよこした。「せめて、そのTシャツを隠してください。ご近所の目に毒なので」ありがたく袖を通した。女性物のボタンは留まらず、その下で花柄の裾が揺れる。姿見に映った自分には呆れたが、息子と登園できるなら、道化の衣装でも構わない。「よし、陽翔! おじちゃん、準備完了!」「……勇気あるね。うちの組の子に笑われたら、知らないふりするから」陽翔が首を振ってキックスクーターに乗る。怜司は園バッグを受け取り、紗季に勢いよく頭を下げた。「安全にお送りいたします!」エレベーターを待ちながら振り返ると、彼女はまだ玄関にいた。「さっきの指輪の話なんだけど……」「先にヘルメットをかぶせてください」顎で子どもを示され、怜司は口を閉じた。バッグの横からヘルメットを外す。あご紐がねじれて手間取ると、紗季は指で向きを教えてくれた。扉が閉まるまで、指輪の話は出なかった。その沈黙を、都合のいい意味に受け取らないよう努めた。登
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen

20話. 彼女の仕事に手を出した奴ら

「何だって……盗作の告発!?」怜司には、青天の霹靂だった。園のベンチから届いていた子どもたちの笑い声が、急に遠のいた。電話の向こうで、紗季の息が苦しげに乱れている。『昨日、川越で夜遅くまでかかって印刷したパッケージです。全部、自分で作ったものなのに。大手のデザイン会社が、自社の案を流用されたって、統括本部に申し立てたそうです。今すぐ会議室へ来いって……行っても、結論は決まってるんでしょうね』弱い立場のフリーランスの話を、大企業がどこまで聞いてくれるのか。彼女には確信が持てなかった。大きな会社の資金力と法務部の威圧に押し切られ、一方的に契約を切られて仕事を失う。そんな話は珍しくなかった。何か月も陽翔を寝かしつけてから夜中に働き、鼻血が出るほど積み重ねたものが、一瞬で消えかけている。「紗季、今どこ?」『タクシーを拾いに、大通りへ出るところです。気にしないで。自分の仕事は自分で何とかしますから……』「そこにいて。動かないで!」低い叫びが園の前に響いた。花柄パンツでおろおろしていた男の目が、一変する。巨額のファンドを動かし、ウォール街や東京の企業買収の猛者を相手にしてきた、鷹宮インベストメントの冷徹な勝負師。その顔が戻っていた。怜司は団地の駐車場まで全力で走った。昨日、紗季の家の近くに停めておいた黒いベントレーだ。エンジンをかけ、ハンズフリーで秘書室長に電話した。『社長! どちらにいらっしゃるんですか。朝から役員会が大騒ぎで――』「会議の話はあとだ。よく聞け」凍るような声に、室長が息をのむ。「化粧品ブランド、ラメールスのリブランディングの競争入札。うちの三号ファンドが五十億円を出資して、三十五パーセントを持っている会社だな?」『はい! 社長が筆頭株主の議決権を委任されている、主要な投資先です!』「法務と会計監査の担当を集めろ。告発したデザイン会社を三分で特定しろ。直近三年間の公共入札の不正、脱税、下請けへの不当な扱い、確認できる資料を全部洗って俺に送れ」『承知しました! 十分以内に準備して待機します!』タイヤをきしませてベントレーが大通りに停まった。青い顔でタクシーを探していた紗季の前で、助手席のドアが開く。トランクに積んであった高級ロングコートを花柄パンツの上から羽織った怜司が、窓を下げた。「乗って、紗季!」「鷹宮さん、何して
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-10-01
Mehr lesen
ZURÜCK
123
CODE SCANNEN, UM IN DER APP ZU LESEN
DMCA.com Protection Status