All Chapters of 五年前妊娠を隠して夫から逃げました ~再会した冷酷CEOが息子に一目で気づき「今度こそ君と結婚し直す」と離してくれません: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話 ママ、このおじさん知ってるの?

第1話 ママ、このおじさん知ってるの?「陽向、本当にここで待てる? お母さん、長くても四十分くらいで戻ってくるけど、途中で寂しくなったら我慢しないで受付のお姉さんに言うのよ」「大丈夫だってば。僕、もう五歳だよ。それに恐竜もいるから」 高瀬陽向は、膝の上に載せた緑色のティラノサウルスを誇らしげに掲げた。つい先週まで「五歳になったら一人で寝る」と豪語していたくせに、結局その日の夜も紗良の布団へ潜り込んできた息子である。彼の言う「もう五歳」は、母親である紗良にとって、あまり信用できる宣言ではなかった。 それでも今日ばかりは陽向を連れてこないという選択肢がなかった。 本来なら保育園へ預けている時間だが、昨夜になって園から急な休園連絡が入り、いつも困ったときに頼っている近所の女性も今日は都合がつかない。久世悠真にも連絡しようか一瞬迷ったものの、彼は午前から外来診療があると知っていたため、さすがに仕事中の小児科医へ「プレゼンのあいだ子守をしてほしい」とは頼めなかった。 そして今日の最終プレゼンだけは、どうしても欠席できない。 紗良が五年前、ほとんど何も持たずに東京を離れ、陽向を育てながら少しずつ育ててきたデザイン会社にとって、今回の大型リゾート施設のリブランディング案件は今後を左右するほど大きな仕事だった。 ホテル、レストラン、物販施設、地域産品のパッケージまで含め、施設全体のブランドイメージを一から作り直す。これを受注できれば、従業員たちへ今年こそ少しまともな賞与を出せる。それだけではない。地方の小さな会社だからという理由で門前払いされることも、これから少しは減るかもしれなかった。 陽向がいるから仕事を諦める。 仕事があるから陽向に我慢をさせる。 その二つの間を行ったり来たりしながら、紗良は五年間を生きてきた。 どちらも完璧にはできない。最近ようやく、それを認められるようになったところだった。「じゃあ、お約束をもう一回だけ確認するね。知らない人についていかない。エレベーターには一人で乗らない。ここから勝手に外へ出ない。それから――」「ジュースは一本だけ」「そこ、一番大事みたいに言わないで」 思わず笑うと、陽向も得意そうに歯を見せた。 会場となる複合ビルのラウンジは広く、プレゼン参加者用に設けられた待機スペースのすぐ隣には受付がある。事前に事
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第2話 五年前に捨てた夫

第2話 五年前に捨てた夫「ママ、このおじさん知ってるの?」 陽向の問いかけに、紗良はすぐには答えられなかった。 知らないと言ってしまえば簡単だったかもしれない。五歳の子どもなら、その場では納得してくれただろう。しかし、目の前にいる玲央を知らない人として扱うには、紗良の身体は彼を覚えすぎていた。 立っているときにわずかに右肩を引く癖も、考え込むときには唇をほとんど動かさずに息を吐くことも、苛立っているほど声が静かになることも知っている。眠れない夜には寝室ではなくリビングのソファへ行き、ブラックコーヒーを飲みながら仕事をしていたことまで、望んでもいないのに記憶の底から蘇ってくる。 忘れたかった男というのは、どうしてこんなにも細かいところまで覚えているのだろう。「……昔、少しだけ知っていた人よ」 紗良はようやくそう答えた。 少しだけ。 自分で言っておきながら、その言葉はずいぶん滑稽だった。 一緒に暮らした。 同じ食卓についた。 同じベッドで眠った。 喧嘩もしたし、笑ったこともあった。彼の妻として人前に立ち、神崎家の親族に頭を下げ、夫が深夜に帰れば夕食を温め直した。最後には、彼との子どもを身ごもったまま離婚届を残して逃げた。 それを「少しだけ知っていた」と呼ぶなら、世の中の大半の人間関係は知人ですらなくなってしまう。 陽向は母親の言葉を疑うことなく、「ふうん」と頷いた。「じゃあ、お母さんの前の会社の人?」「そういうわけじゃないの。大人にはいろいろあるのよ」「またそれだ」「何が?」「お母さん、説明したくないとき、すぐ『大人にはいろいろある』って言う」 紗良は一瞬、本気で返事に困った。 玲央の後ろにいた若い男性社員が、口元を押さえて横を向く。受付の女性まで俯いた。「……陽向。そういうことは、今ここで言わなくてもいいの」「でも本当だよ」「本当でも言わなくていいことが世の中にはあるの」「それも大人?」「それは大人じゃなくても覚えてください」 いつもなら笑える親子のやり取りなのに、今日は喉がひどく乾いていた。 その間、玲央は一言も口を挟まなかった。 ただ紗良を見ていた。 五年前、最後に見たときとは違う目だった。 あの日の玲央がどんな顔をしていたのか、紗良は知らない。離婚届を置いて家を出たとき、彼は家にはいなかったのだか
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第3話 その子はいくつだ

第3話 その子はいくつだ エレベーターが一階へ着くまでの時間が、紗良にはひどく長く感じられた。 陽向はそんな母親の事情など知らず、抱えていたティラノサウルスの口を動かしながら、「今日のハンバーグはチーズ二枚にしてもいい?」と真剣な顔で交渉している。「一枚です」「二枚のほうがおいしいよ」「味の問題じゃなくて、さっきから成功報酬が勝手に増えてるの。プレゼンの結果、まだ出てないんだからね」「でも、お母さん頑張ったんでしょ?」「頑張ったけど」「じゃあ一枚半」「チーズを半分に切る手間を増やさないでください」 陽向は納得できないらしく、恐竜へ「厳しいよね」と同意を求めた。 いつも通りの会話だった。 だからこそ救われる。 五年ぶりに玲央と会ったからといって、世界全部が変わるわけではない。帰れば洗濯物を取り込み、陽向を風呂へ入れ、夕食を作り、寝かしつけたあとには今日のプレゼン資料を整理する。明日になれば社員が出勤し、電話が鳴り、請求書が届く。 玲央は過去だ。 今日偶然、その過去が目の前を横切っただけ。 そう考えればいい。 エレベーターの扉が開くと、広い一階ロビーには午後の日差しが差し込んでいた。ガラス張りの壁の向こうを、スーツ姿の会社員や買い物帰りらしい人々が行き交っている。「お母さん、トイレ行きたい」「今?」「うん。さっきは行きたくなかったんだけど、今なった」「どうして子どもって、建物を出る直前に言うんだろう……」「知らない」「でしょうね」 紗良は苦笑し、陽向を連れてロビー脇の案内表示へ向かった。 手洗いを済ませ、今度こそ帰ろうと建物の正面玄関へ向かったところで、スマートフォンが震えた。 奈々からだった。『社長、すみません。プレゼン室に充電器忘れてます。今、私が持って降ります』「やっちゃった……」「何?」「お母さんの忘れ物」「僕には忘れ物しないでって言うのに?」「大人にもいろいろあるの」 紗良が答えると、陽向はすぐに眉を寄せた。「またそれ」「便利なのよ、この言葉」「ずるい」「大人はずるいところもあります」 奈々が来るまでのあいだ、二人は玄関横のソファで待つことにした。 陽向はそこへ座ると、すぐに鞄から小さな恐竜図鑑を取り出した。最近はひらがなだけでなく簡単な漢字にも興味を持ち始めているものの、まだ読め
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第4話 私の息子です

第4話 私の息子です その日の夜、紗良はハンバーグを焦がした。 正確には、片面を少し焼きすぎただけで食べられないほどではない。それでも普段なら焼き色で済むところが、今日は明らかに一段濃かった。「お母さん、これ、黒いよ」「黒くない。香ばしいの」「黒いところあるよ」「そこは……特に香ばしいところ」「失敗した?」 陽向が遠慮なく尋ねる。 紗良はフライパンを流しへ置きながら、観念して肩を落とした。「はい。ちょっとだけ失敗しました」「プレゼンじゃなくてハンバーグ?」「そう。ハンバーグだけ」「じゃあ大丈夫だね」 陽向はそれ以上気にせず、チーズの載った自分の皿を嬉しそうに引き寄せた。 結局、一枚半にした。 交渉に負けたというより、自分が約束したハンバーグくらい満足に食べさせたかったのだ。もっとも、その気合いの結果が焦げ目なのだから、母親というのは時々ひどく不器用である。「熱いから気をつけて」「分かってる」「ちゃんと野菜も食べてね」「ハンバーグ食べてから」「先に一口」「なんで?」「後回しにすると絶対残すから」 いつもの食卓だった。 小さなダイニングテーブル。 壁に貼られた保育園の予定表。 椅子の背には陽向が脱ぎっぱなしにした薄手の上着が引っかかっていて、窓辺には朝取り込むのを忘れた洗濯物がまだ畳まれずに置いてある。 豪華ではない。 けれど紗良にとっては、何より大切な場所だった。 五年前に神崎家を出たとき、自分には帰る家がなくなったと思っていた。 今は違う。 ここがある。 陽向がいる。 だから大丈夫。 今日、玲央に会ったからといって、何も変わらない。「お母さん」「なに?」「さっきのおじさん、明日も会う?」 箸を持つ手が止まりかけた。「どうして?」「だって、お母さんの仕事の人なんでしょ?」「今日のプレゼンが終わったから、しばらくは会わないと思う」「そっか」 陽向は少しだけ残念そうだった。 その表情に、紗良の胸がざわつく。「気に入ったの?」「誰?」「神崎社長」「おじさん?」「そう」「うーん……変だけど、悪くない」「五歳児の人物評価ってずいぶん上からなのね」「だって恐竜知らないし」「恐竜の知識で人間性を決めないで」「でもトリケラトプス選んだ」「それなら少し加点されるんだ」「う
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第5話 逃げないでくれ

第5話 逃げないでくれ 翌朝、紗良は出社して最初の一時間を、一本のメールを書くためだけに費やした。 書いては消し、言葉を入れ替えては読み直す。 内容そのものは簡単だった。 昨日行われた最終プレゼンについて、株式会社SARAH DESIGNは選考を辞退したい――ただ、それだけである。 理由をどこまで書くべきか迷った末、「弊社代表と貴社関係者との間に私的な関係があり、公平な選考へ疑念を生じさせる可能性を避けるため」とだけ記した。 嘘ではない。 むしろ正直すぎるくらいだった。 玲央が選考へ口を出したとは思っていない。昨日のプレゼンでも、彼はむしろ他の審査員より冷静だった。質問も妥当で、紗良を甘やかすどころか、企画の弱点をきちんと突いてきた。 問題はそこではない。 この案件を受ければ、今後数か月、場合によっては一年以上、神崎グループと関わり続けることになる。 定例会議。 現地視察。 予算交渉。 経営層への報告。 そして、そのどこかに神崎玲央がいる。 昨日一日で分かった。 自分はまだ、あの男と仕事だけの関係を保てるほど器用ではない。 陽向のことまで疑われた今となっては、なおさらだった。「……よし」 紗良は送信ボタンへ指を乗せた。「何が、よし、なんですか?」 突然背後から声がして、紗良は反射的にノートパソコンの画面を伏せた。「奈々。人の後ろから画面を覗かないで」「覗いてませんよ。社長が朝から十五回くらいため息ついてるから、こっちが気になっただけです」「十五回もしてない」「じゃあ十二回」「数えてないでしょう」「数えるほど暇じゃないです」 紙の束を抱えた奈々は、そう言いながら紗良の机の前へ立った。彼女の視線が、半分閉じたノートパソコンへ向かう。「昨日の神崎グローバルの件ですか?」「まあね」「結果、来たんです?」「まだ」「じゃあ何をそんなに悩むことがあるんですか」 紗良は少し迷った。 社員にどこまで話すか。 本来なら私生活を仕事へ持ち込みたくない。しかし今回ばかりは、自分一人の判断で済ませていい問題でもなかった。 この案件を辞退するということは、会社にとって大きな機会を手放すということだ。 自分の会社だからといって、社員たちの生活まで好き勝手に扱っていいわけではない。「奈々、ちょっと時間ある?」「あり
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第6話 あなたと話すことはありません

第6話 あなたと話すことはありません 選考辞退を保留すると連絡してから三日後、株式会社SARAH DESIGNに一本の電話が入った。「……はい。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」 受話器を置いた紗良は、しばらく椅子に座ったまま動けなかった。 周囲では、社員たちが仕事をしている。 正確には、仕事をしているふりをしていた。 奈々はパソコンの画面を見ながら、さっきから同じ場所でマウスを動かしているし、瀬戸に至っては手に持った資料が上下逆さまだった。「みんな、聞いてたでしょう」 紗良が言うと、奈々が勢いよく椅子を回した。「聞こえてません。全然聞こえてませんけど、なんとなく社長の顔から良い知らせっぽいものが滲み出ています」「電話中、ずっとこっち見てたじゃない」「偶然です」「資料逆さまだけど」 瀬戸が慌てて持ち直した。「これはデザインの確認で」「文字まで逆さまに確認するの?」「新しい視点が大切なんです」「苦しいなあ」 紗良は笑った。 その笑いが途中から震えた。「取れたよ」 一瞬だけ、誰も反応しない。「……え?」「リゾートの案件。うちに決まったって」 次の瞬間、事務所に歓声が上がった。「うそ!」「マジですか!」「やった!」「社長、ほんとに!?」「本当。本契約はこれからだけど、最終選考通過。正式にうちへお願いしたいって」 奈々が立ち上がり、その勢いのまま紗良のところまで来た。「ちょっと、泣かないでよ」「泣いてません」「目、赤いですけど」「コンタクトが乾いただけ」「社長、裸眼ですよね」「こういうときくらい見逃して」 奈々は笑いながら、それ以上何も言わなかった。 代わりに紗良の肩を軽く叩いた。 三か月近くかけて準備した。 現地へ何度も通い、住民や店舗へ話を聞き、夜遅くまで資料を直した。 途中で辞退しかけた。 自分の過去から逃げるために、社員たちまで巻き込んで積み上げたものを手放そうとした。 それでも、最後には残った。 選んでもらえた。「社長、今日は飲みに行きましょう」「陽向のお迎えあるから無理」「じゃあ陽向君も連れて」「五歳児を打ち上げに巻き込まないの」「ファミレスならどうです?」「打ち上げが急に庶民的になったな」「うちら六人の会社なんで」「その情報、もう禁止にし
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第7話 僕にはパパがいないから

第7話 僕にはパパがいないから 久世悠真の診察室で、陽向は診察台に腰掛けながら、右膝の大きな絆創膏を自慢げに見せていた。「それでね、転んだとき血がいっぱい出たんだよ」「いっぱいって、どのくらい?」「すっごいいっぱい。たぶん百くらい」「血を数えたの?」「数えてないけど、それくらい」 白衣姿の悠真は笑いながら、絆創膏の端をそっと剥がした。「はい、ちょっと見るよ。痛かったら言って」「僕、痛いの平気」「昨日、お風呂でしみたとき泣きそうになってなかった?」 診察室の隅に座っていた紗良が口を挟むと、陽向は不満そうに振り向いた。「泣いてないよ」「『うわああ』って言ってたでしょう」「あれはびっくりした声」「ずいぶん長いびっくりだったけど」「紗良さん、患者さんの名誉を傷つけないでください」 悠真が真面目な顔で言う。「先生まで味方するの?」「僕は常に患者さんの味方です。ただし、廊下や危ない場所で走らないという約束は守りましょう」「はい……」 途端に陽向の声が小さくなる。 紗良はそのやり取りを眺めながら、自然と頬が緩んだ。 こういう時間が好きだった。 特別なことは何もない。診療時間が終わったクリニックで、昔から世話になっている医師に擦り傷を見てもらっているだけだ。それでも、紗良にとっては何より安心できる日常だった。 悠真は陽向が赤ん坊だった頃から知っている。 夜中に高熱を出したときも、離乳食をほとんど食べなくなって紗良が本気で悩んだときも、三歳の頃に転んで額を切ったときも診てくれた。 仕事だから、と言えばそれまでだ。 けれど診察時間外にメッセージをくれたり、紗良が一人で抱え込みそうになるとさりげなく手を貸したりするところまで、医師の義務とは言えない。「問題ないよ」 悠真が新しい絆創膏を貼りながら言った。「傷もきれいだし、腫れも引いてる。明日から普通に遊んで大丈夫。ただし無茶してまた同じところを擦らないこと」「鬼ごっこは?」「園庭ならね。先生の話を聞いて、安全なところで」「分かった」「本当に?」「たぶん」「そこは『はい』って言っておこうか」 悠真が苦笑する。「ありがとうございました、久世先生」 紗良がわざと患者の母親らしく頭を下げると、悠真も芝居がかった口調で返した。「どういたしまして。ただし診察料として、
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第8話 忘れたことなんて一日もない

第8話 忘れたことなんて一日もない 神崎グループとの契約が正式に締結されてから、紗良の生活は目に見えて忙しくなった。 現地の追加調査、ブランドガイドラインの作成、施設内で使うサインや備品のデザイン、それに地元事業者との打ち合わせ。大型案件を受注した喜びに浸っていられたのは最初の二日ほどで、三日目には事務所のホワイトボードが締切と担当者名で埋まり、奈々が「これ、成功したご褒美じゃなくて罰ゲームじゃないですよね」と真顔で尋ねる状態になっていた。「仕事を取るって、仕事が増えるってことだから」「社長、そんな当たり前のことを悟った人みたいな顔で言わないでください。今日のお昼、まだ食べてませんよね?」「食べたよ」「何を?」「コーヒー」「それは飲み物です」 奈々は呆れながら、買ってきたサンドイッチを紗良の机へ置いた。「陽向君に言いますよ。お母さんがちゃんとご飯食べてませんでしたって」「子どもを盾にするの、最近うまくなったね」「社長には一番効くので」 反論できなかった。 紗良は観念してサンドイッチの袋を開けた。 忙しいのは嫌いではない。 仕事をしているあいだは、余計なことを考えずに済む。 玲央のことも。 陽向のことも。 二人を同時に目の前へ置いたとき、自分の中に生まれる言葉にならない不安についても。 あの夜以来、玲央は約束を守っていた。 プロジェクトの実務会議には出てこない。仕事に必要な連絡はすべて担当部署を通し、陽向について問い合わせてくることもなかった。 紗良の生活へ勝手に踏み込まない。 言葉どおり、本当にそうしている。 だからこそ、ときどき腹が立つ。 何もしてこなければ、今度は「本当に何もしてこないんだ」と気になるのだから、自分でも面倒な女だと思う。「社長、今度はサンドイッチ持ったまま止まってます」「考え事」「神崎社長?」「どうしてそうなるの」「最近、考え事してるときの顔が大体同じなので」「人の顔を分類しないで」「じゃあ違うんですね」「……仕事します」「図星なんだ」「奈々」「はいはい。退散します」 笑いながら離れていく奈々の背中を見送り、紗良は一口だけサンドイッチを食べた。 図星だった。 それがまた腹立たしい。     ◇ その日の夕方、紗良は予定より少し早く仕事を切り上げ、陽向を迎えに保育園
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第9話 再婚を考えている人がいます

第9話 再婚を考えている人がいます その夜、陽向を寝かせたあとも、紗良はなかなか眠る気になれなかった。 リビングの照明を少し落とし、ダイニングテーブルにノートパソコンを開いているものの、画面に並んでいるデザイン案は三十分前からほとんど変わっていない。 仕事に集中したいのに、昼間の玲央の言葉が何度も戻ってくる。 忘れたことなんて一日もない。 たったそれだけの言葉に、どうしてこれほど心を乱されなければならないのだろう。 五年前に聞いていれば、泣いて喜んだかもしれない。 けれど今は違う。 自分には陽向がいる。 会社がある。 守らなければならない生活がある。 そして、玲央とは別の未来を考えてくれている人もいる。 スマートフォンが震えた。 画面には、ちょうど考えていた相手の名前が表示されている。 久世悠真。 紗良は少し迷ったあと、通話ボタンを押した。「もしもし」『まだ仕事してる?』「してるつもりだったんだけど、全然進んでない」『珍しいね。納期が近いときの紗良さんって、電話しても返事が三文字くらいになるのに』「そんなに感じ悪い?」『感じ悪いというか、こっちの話を聞いてない。前に僕が十分くらい話したあとで、「ごめん、最初からもう一回」って言われたことある』「……あったかも」『あったよ。結構傷ついた』「今さら言わないでよ」 電話の向こうで悠真が笑う。 その声を聞くと、不思議と肩の力が抜けた。『陽向くんは?』「寝た。今日は保育園でどんぐりを十五個も拾ってきて、その家を作るって大騒ぎしてた」『十五個ならまだかわいいじゃない。結衣が五歳の頃なんて、石を三十個くらい持って帰ってきたよ』「何に使ったの?」『本人は宝物って言ってたけど、半年後には存在を忘れてた』「子どもの宝物って寿命短いね」『でも捨てようとすると急に思い出すから気をつけたほうがいい』「経験者の助言、重いなあ」 他愛のない会話だった。 こういう時間こそ、自分が求めていたものなのかもしれないと紗良は思う。 何か特別な話題がなくても話せる。 黙っても気まずくない。 相手が何を怒っているのか、何を期待しているのかを読み続けなくていい。 玲央と結婚していた頃、欲しかったのはこんな普通だった。『紗良さん』「ん?」『今日、何かあった?』 また見抜かれた
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第10話 俺以外と結婚するのか

第10話 俺以外と結婚するのか 翌朝、紗良が保育園へ向かう準備をしていると、陽向が玄関で靴を履きながら突然言った。「お母さん、悠真先生と結婚するの?」 手にしていた保育園バッグを落としかけた。「……どうして急にそんな話になるの?」「昨日、結衣ちゃんが言ってた」「何を?」「『パパが紗良さんと結婚したら、陽向ときょうだいになるのかな』って」 子ども同士の会話には、ときどき大人が隠しているものを平然と外へ引っ張り出す力がある。「結衣ちゃん、そんなこと言ってたの?」「うん。僕は分かんないって言った」「そう」「結婚するの?」 逃げられない。 紗良は玄関脇にしゃがみ、陽向と目の高さを合わせた。「まだ決まってないよ。悠真先生とは、お母さんも大切に思ってるし、これから先も一緒にいたいかどうか、ちゃんと考えてるところ」「じゃあ、結婚するかもしれない?」「そうかもしれない。でもね、陽向の気持ちも大事だから、お母さんだけで決めたりしないよ」 陽向は少し考え込んだ。 考えるときに左手の親指の付け根を右手で触る。その癖を見て、紗良は一瞬だけ玲央の顔を思い出した。「僕、悠真先生好きだよ」「うん」「結衣ちゃんも好き」「うん」「でも、お母さんと二人だけじゃなくなるの?」 その言葉に、胸が詰まった。 陽向にとって、今までの家族は紗良と二人だった。 父親がいないことを寂しがるより先に、その形を当たり前として受け入れてきた子だ。「そうなるかもしれない。でも、だからってお母さんと陽向が家族じゃなくなるわけじゃないよ」「僕のお母さんはずっとお母さん?」「当たり前でしょう」「じゃあいい」 あまりにも簡単に言うので、紗良は笑ってしまった。「そんなに簡単でいいの?」「だって、お母さんが僕のお母さんならいいよ」 五歳児の世界は単純で、その単純さが時々大人よりずっと本質に近い。「じゃあ、行こうか」「うん」 玄関を出て、陽向の手を握る。 けれど歩き始めてすぐ、別の問いが飛んできた。「じゃあ、あのおじさんは?」「誰?」「トリケラトプスのおじさん」 危うく足をもつれさせるところだった。「神崎社長のこと?」「うん。あのおじさんもお母さんのこと好きなの?」「どうしてそう思うの?」「見るから」「何を?」「お母さんを」 子どもは本
last updateLast Updated : 2026-10-02
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