五年前妊娠を隠して夫から逃げました ~再会した冷酷CEOが息子に一目で気づき「今度こそ君と結婚し直す」と離してくれません

五年前妊娠を隠して夫から逃げました ~再会した冷酷CEOが息子に一目で気づき「今度こそ君と結婚し直す」と離してくれません

last updateLast Updated : 2026-10-25
By:  常陸之介寛浩Updated just now
Language: Japanese
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五年前、紗良は夫・神崎玲央に妊娠を告げないまま、離婚届と結婚指輪を残して姿を消した。愛されない妻でいることに耐えられなかったからだ。旧姓に戻った彼女は、息子・陽向を一人で育てながら小さな会社を立ち上げ、ようやく穏やかな人生を手に入れた。再婚を考える男性も現れ、過去を忘れようとしていたある日、仕事先で冷酷CEOとなった元夫と再会する。しかも玲央は、陽向の年齢と仕草から自分の息子ではないかと疑い始める。「もうあなたの妻には戻らない」そう拒む紗良に、五年間彼女を忘れられなかった玲央は、失った妻と知らなかった息子のため、もう一度家族になる資格を求め始める。

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Chapter 1

第1話 ママ、このおじさん知ってるの?

第1話 ママ、このおじさん知ってるの?

「陽向、本当にここで待てる? お母さん、長くても四十分くらいで戻ってくるけど、途中で寂しくなったら我慢しないで受付のお姉さんに言うのよ」

「大丈夫だってば。僕、もう五歳だよ。それに恐竜もいるから」

 高瀬陽向は、膝の上に載せた緑色のティラノサウルスを誇らしげに掲げた。つい先週まで「五歳になったら一人で寝る」と豪語していたくせに、結局その日の夜も紗良の布団へ潜り込んできた息子である。彼の言う「もう五歳」は、母親である紗良にとって、あまり信用できる宣言ではなかった。

 それでも今日ばかりは陽向を連れてこないという選択肢がなかった。

 本来なら保育園へ預けている時間だが、昨夜になって園から急な休園連絡が入り、いつも困ったときに頼っている近所の女性も今日は都合がつかない。久世悠真にも連絡しようか一瞬迷ったものの、彼は午前から外来診療があると知っていたため、さすがに仕事中の小児科医へ「プレゼンのあいだ子守をしてほしい」とは頼めなかった。

 そして今日の最終プレゼンだけは、どうしても欠席できない。

 紗良が五年前、ほとんど何も持たずに東京を離れ、陽向を育てながら少しずつ育ててきたデザイン会社にとって、今回の大型リゾート施設のリブランディング案件は今後を左右するほど大きな仕事だった。

 ホテル、レストラン、物販施設、地域産品のパッケージまで含め、施設全体のブランドイメージを一から作り直す。これを受注できれば、従業員たちへ今年こそ少しまともな賞与を出せる。それだけではない。地方の小さな会社だからという理由で門前払いされることも、これから少しは減るかもしれなかった。

 陽向がいるから仕事を諦める。

 仕事があるから陽向に我慢をさせる。

 その二つの間を行ったり来たりしながら、紗良は五年間を生きてきた。

 どちらも完璧にはできない。最近ようやく、それを認められるようになったところだった。

「じゃあ、お約束をもう一回だけ確認するね。知らない人についていかない。エレベーターには一人で乗らない。ここから勝手に外へ出ない。それから――」

「ジュースは一本だけ」

「そこ、一番大事みたいに言わないで」

 思わず笑うと、陽向も得意そうに歯を見せた。

 会場となる複合ビルのラウンジは広く、プレゼン参加者用に設けられた待機スペースのすぐ隣には受付がある。事前に事情を説明したところ、担当者は快く陽向がここで待つことを許してくれた。紗良の会社から同行したスタッフも、交代で様子を見てくれると言っている。

 それでも母親として心配が消えるわけではない。

「お母さんさ、さっきから同じこと三回言ってる」

「心配なんだから仕方ないでしょう」

「僕よりお母さんのほうが緊張してるんじゃない?」

 図星を刺され、紗良は言葉に詰まった。

 五歳児は、ときどき腹が立つほど核心を突いてくる。

「……そうかもしれない。今日はすごく大事なお仕事だからね」

「失敗したらどうなるの?」

「そうね。しばらく、お母さんが家で『ああすればよかった』ってぶつぶつ言う」

「じゃあ成功したら?」

「陽向の大好きなハンバーグを作る」

「じゃあ絶対成功して」

「私じゃなくてハンバーグのため?」

「両方だよ。お母さんも好きだから」

 そんなことを、まだ丸みの残る顔で当たり前のように言う。

 紗良は息子の髪を撫でてから立ち上がった。

「行ってくるね」

「行ってらっしゃい。社長さん」

「家では社長さんって呼ばないでよ」

「だって社長でしょ?」

「六人しかいない会社でもね」

 陽向は笑い、恐竜の前足を動かして見送った。

 その姿を何度も振り返りながら、紗良はスタッフとともにプレゼンルームへ向かった。

 五年前の自分が見たら、今の生活をどう思うだろう。

 少なくとも、こんな未来を想像してはいなかった。

 大きな家も、運転手付きの車も、高価な服もない。朝は陽向が靴下を片方なくしたと騒ぎ、夜には請求書を確認しながら寝落ちすることもある。スーパーの特売日を気にし、保育園の行事予定に合わせて仕事を組み替え、熱が出れば全部の予定が崩れる。

 それでも紗良は、今の暮らしが好きだった。

 自分で選んだ仕事があり、自分で借りた家があり、自分の腕の中で眠る息子がいる。

 誰かから与えられた人生ではない。

 だからこそ、この仕事を取りたかった。

「高瀬さん、そろそろです」

 スタッフに声をかけられ、紗良は胸元の社員証を整えた。

「うん。行こう」

 扉が開く。

 紗良は背筋を伸ばした。

 このときの彼女はまだ知らなかった。

 五年間かけて必死に作り上げた平穏が、ほんの数十分後、たった一人の男によって大きく揺さぶられることを。

     ◇

「ねえ、ティラノ。お母さん、ちゃんとできるかな」

 待機スペースに残された陽向は、恐竜の口をぱくぱく動かしながら小声で話しかけていた。

 もちろん恐竜は答えない。

 答えないからこそ、いろいろ相談できる。

「昨日も夜遅くまで起きてたんだよ。悠真先生に、寝ないと肌がどうのこうのって言われてたのに」

 正確には悠真が言ったのは「睡眠不足が続くと体調を崩すよ」であって、肌の話ではなかった。ただ、母親が友人との電話で「最近肌がひどい」とぼやいていたため、陽向の中では二つが一緒になっている。

 テーブルに置かれたオレンジジュースへ手を伸ばし、その拍子に恐竜の尻尾が鞄へ引っかかった。

「あっ」

 緑色のティラノサウルスが床へ落ち、そのままつるりと滑った。

 陽向が椅子から降りるより早く、革靴がそのすぐ手前で止まった。

 黒い革靴だった。

 陽向が見上げる。

 ずいぶん背の高い男が立っていた。

 黒いスーツに白いシャツ。周囲にも何人か大人がいたが、その男だけは子どもの目から見ても何となく違って見えた。近寄りがたいという言葉を陽向は知らなかったものの、「園長先生より偉そう」という感想はすぐに浮かんだ。

 男は足元の恐竜を見たあと、腰を折って拾った。

「これ、君の?」

「うん。ありがとう、おじさん」

 すぐ近くで資料を整理していた女性社員の手が止まった。

 その隣にいた若い男性は、あからさまに咳払いをして顔を背けた。

 男本人も一瞬だけ黙った。

「……おじさん」

「違うの?」

「いや。五歳から見れば、たぶんそうなんだろう」

 怒ってはいないらしい。

 陽向は少し安心して恐竜を受け取った。

「この子、ティラノサウルスなんだ」

「見れば分かる」

「分かるの?」

「恐竜くらいは知っている」

「でも、大人はみんなティラノサウルスって言うよ。これはティラノサウルス・レックスなんだよ。ティラノサウルスっていうのは――」

「陽向君」

 受付の女性が慌てたように声をかけた。

「その方、お忙しいから」

「僕、邪魔してた?」

 陽向が男を見上げる。

 男は腕時計へ目を落としたものの、急ぐ様子は見せなかった。

「いや。あと五分なら問題ない」

「神崎社長、このあと最終プレゼンが――」

「分かっている」

 後ろの男性が口を挟み、陽向は首を傾げた。

「社長さんなの?」

「ああ」

「僕のお母さんも社長さんだよ」

 男の眉がわずかに動いた。

「そうか」

「六人しかいないけど」

 後ろでまた誰かが咳をした。

 今度は確実に笑いを堪えているようだった。

 陽向は気づかず、恐竜を両手で持ちながら続けた。

「今日ね、大事なお仕事なんだって。成功したらハンバーグなの」

「ずいぶん重要な契約だな」

「うん。だから僕、ここで静かにしてる」

「一人なのか?」

「受付のお姉さんがいるし、会社の人もいるよ。それに、お母さんすぐ戻ってくるから」

「父親は?」

 男がそう尋ねた瞬間、受付の女性が気まずそうに顔を伏せた。

 陽向は特に傷ついた様子もなく、少しだけ考えてから答えた。

「いないよ」

「……そうか」

 なぜか男の声が先ほどより低くなった。

「でも悠真先生がいるから大丈夫」

「悠真先生?」

「お医者さん。すっごく優しいよ。注射は痛いけど」

「注射が痛いのは先生の性格とは関係ないと思うが」

「そうかなあ」

 陽向は真剣に悩み始めた。

 その様子を見ていた男の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 その顔を見て、陽向は妙な感じがした。

 どこかで見たことがあるような気がしたのだ。

「おじさん」

「今度は何だ」

「笑ったほうがいいよ」

 周囲が再び静まり返る。

「なぜ?」

「怖いから」

「……そうか」

「お母さんもね、仕事してるとき怖い顔するけど、僕が言うと笑うよ」

「君は母親にも同じことを言うのか?」

「うん。だって家族だから言っていいんでしょ?」

 家族。

 その言葉を聞いた男の目が、一瞬だけ遠くを見るように細められた。

 陽向には、その理由までは分からない。

「君のお母さんは、どんな人なんだ」

「お母さん?」

「社長をしているんだろう」

「うん。すごいよ。でも朝は弱いし、納豆についてるからしを冷蔵庫にいっぱい溜めるし、洗濯したティッシュをポケットから出し忘れて泣く」

「……それは会社では聞けない情報だな」

「内緒だよ」

「もう聞いてしまった」

「じゃあ誰にも言わないでね」

「分かった」

 妙なところで律儀に答える男だった。

 陽向はなんとなく気に入り始めていた。

 一方で、男のほうも陽向から目を離さなかった。

 顔立ちそのものに、特別な引っかかりがあったわけではない。

 柔らかな目元も、丸みのある頬も、誰かに似ていると断言できるものではない。

 それなのに、妙に気になる。

 陽向が考え込むとき、左手の親指の付け根を右手で触る。

 今もそうしていた。

 男の視線が、その小さな手へ落ちる。

「君、名前は?」

「陽向。高瀬陽向」

 男の表情が止まった。

「高瀬……?」

 そのときだった。

「陽向!」

 少し離れた通路から、女の声が響いた。

 プレゼンが予定より早く一区切りつき、資料を取りに戻ってきた紗良は、息子の姿を探しながら足早にラウンジへ入った。

「ごめんね、思ったより時間が――」

 言葉が途中で消えた。

 陽向の前に立つ男が、ゆっくりと振り返ったからだ。

 周囲のざわめきも、空調の音も、遠くで鳴っていたエレベーターの到着音も、紗良の耳から一瞬にして遠ざかった。

 五年。

 会わなかったのではない。

 会わないように生きてきた。

 ニュース記事で名前を見かけても開かなかった。テレビで神崎グループの話題が流れればチャンネルを変えた。東京で仕事をするようになってからも、彼の会社が関係する案件には近づかないよう注意していた。

 もう二度と、この男の前で息ができなくなるほど傷つきたくなかったからだ。

 それなのに。

 神崎玲央が、そこにいた。

 五年前より少しだけ精悍になった顔。以前より短く整えられた黒髪。隙のないスーツ姿も、感情が読み取りにくい目も記憶のままだった。

 ただ、その目だけが今は明らかに揺れている。

「……紗良?」

 名前を呼ばれた。

 たったそれだけで、胸の奥に押し込めていた年月が音を立てて崩れそうになった。

 逃げたい。

 反射的にそう思った。

 しかし、そのすぐ前には陽向がいる。

 紗良は無意識に一歩踏み出し、息子と玲央の間へ自分の身体を滑り込ませた。

「お母さん?」

 陽向は母親の異変に気づいたらしい。

 玲央の手には、先ほど彼が拾った恐竜がまだ触れていた。

 紗良はそれを見て、背筋が冷えた。

 よりによって。

 どうして、この二人が。

「紗良」

 玲央がもう一度名前を呼ぶ。

 今度は先ほどより低く、確かめるような声だった。

「本当に、君なのか」

 答えたくなかった。

 だが、仕事先である。しかも玲央の周囲には社員らしい人間が何人もいて、こちらを見ている。

 ここで取り乱せば、守れるものまで守れなくなる。

 紗良は唇の裏側を軽く噛み、仕事で何度も使ってきた笑顔を顔に貼りつけた。

「……お久しぶりです」

 玲央の眉がわずかに動く。

「神崎社長」

 その呼び方を選んだ瞬間、玲央の顔からわずかに残っていた色が消えた。

「社長?」

 陽向が母親と男を交互に見る。

「お母さん、このおじさんも社長さんなんだよ。僕の恐竜、拾ってくれた」

「そう……よかったわね。ちゃんとお礼は言った?」

「言ったよ」

 紗良は陽向の肩に手を置いた。

 その手に力を入れすぎないよう、意識しなければならなかった。

 玲央の視線が、紗良から陽向へ移る。

 ゆっくりと。

 まるで今になって初めて、その子どもの存在を正面から認識したように。

 紗良は息を止めた。

 お願いだから、何も聞かないで。

 そう願ったときに限って、子どもというものは大人が隠したい扉を無邪気に開けてしまう。

 陽向は恐竜を抱え直し、玲央を指さすこともなく、ただ純粋な疑問を口にした。

「ママ、このおじさん知ってるの?」

 紗良は答えられなかった。

 そして神崎玲央は、そんな紗良ではなく、五歳の陽向をじっと見つめていた。

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第1話 ママ、このおじさん知ってるの?
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第7話 僕にはパパがいないから
第7話 僕にはパパがいないから 久世悠真の診察室で、陽向は診察台に腰掛けながら、右膝の大きな絆創膏を自慢げに見せていた。「それでね、転んだとき血がいっぱい出たんだよ」「いっぱいって、どのくらい?」「すっごいいっぱい。たぶん百くらい」「血を数えたの?」「数えてないけど、それくらい」 白衣姿の悠真は笑いながら、絆創膏の端をそっと剥がした。「はい、ちょっと見るよ。痛かったら言って」「僕、痛いの平気」「昨日、お風呂でしみたとき泣きそうになってなかった?」 診察室の隅に座っていた紗良が口を挟むと、陽向は不満そうに振り向いた。「泣いてないよ」「『うわああ』って言ってたでしょう」「あれはびっくりした声」「ずいぶん長いびっくりだったけど」「紗良さん、患者さんの名誉を傷つけないでください」 悠真が真面目な顔で言う。「先生まで味方するの?」「僕は常に患者さんの味方です。ただし、廊下や危ない場所で走らないという約束は守りましょう」「はい……」 途端に陽向の声が小さくなる。 紗良はそのやり取りを眺めながら、自然と頬が緩んだ。 こういう時間が好きだった。 特別なことは何もない。診療時間が終わったクリニックで、昔から世話になっている医師に擦り傷を見てもらっているだけだ。それでも、紗良にとっては何より安心できる日常だった。 悠真は陽向が赤ん坊だった頃から知っている。 夜中に高熱を出したときも、離乳食をほとんど食べなくなって紗良が本気で悩んだときも、三歳の頃に転んで額を切ったときも診てくれた。 仕事だから、と言えばそれまでだ。 けれど診察時間外にメッセージをくれたり、紗良が一人で抱え込みそうになるとさりげなく手を貸したりするところまで、医師の義務とは言えない。「問題ないよ」 悠真が新しい絆創膏を貼りながら言った。「傷もきれいだし、腫れも引いてる。明日から普通に遊んで大丈夫。ただし無茶してまた同じところを擦らないこと」「鬼ごっこは?」「園庭ならね。先生の話を聞いて、安全なところで」「分かった」「本当に?」「たぶん」「そこは『はい』って言っておこうか」 悠真が苦笑する。「ありがとうございました、久世先生」 紗良がわざと患者の母親らしく頭を下げると、悠真も芝居がかった口調で返した。「どういたしまして。ただし診察料として、
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第8話 忘れたことなんて一日もない
第8話 忘れたことなんて一日もない 神崎グループとの契約が正式に締結されてから、紗良の生活は目に見えて忙しくなった。 現地の追加調査、ブランドガイドラインの作成、施設内で使うサインや備品のデザイン、それに地元事業者との打ち合わせ。大型案件を受注した喜びに浸っていられたのは最初の二日ほどで、三日目には事務所のホワイトボードが締切と担当者名で埋まり、奈々が「これ、成功したご褒美じゃなくて罰ゲームじゃないですよね」と真顔で尋ねる状態になっていた。「仕事を取るって、仕事が増えるってことだから」「社長、そんな当たり前のことを悟った人みたいな顔で言わないでください。今日のお昼、まだ食べてませんよね?」「食べたよ」「何を?」「コーヒー」「それは飲み物です」 奈々は呆れながら、買ってきたサンドイッチを紗良の机へ置いた。「陽向君に言いますよ。お母さんがちゃんとご飯食べてませんでしたって」「子どもを盾にするの、最近うまくなったね」「社長には一番効くので」 反論できなかった。 紗良は観念してサンドイッチの袋を開けた。 忙しいのは嫌いではない。 仕事をしているあいだは、余計なことを考えずに済む。 玲央のことも。 陽向のことも。 二人を同時に目の前へ置いたとき、自分の中に生まれる言葉にならない不安についても。 あの夜以来、玲央は約束を守っていた。 プロジェクトの実務会議には出てこない。仕事に必要な連絡はすべて担当部署を通し、陽向について問い合わせてくることもなかった。 紗良の生活へ勝手に踏み込まない。 言葉どおり、本当にそうしている。 だからこそ、ときどき腹が立つ。 何もしてこなければ、今度は「本当に何もしてこないんだ」と気になるのだから、自分でも面倒な女だと思う。「社長、今度はサンドイッチ持ったまま止まってます」「考え事」「神崎社長?」「どうしてそうなるの」「最近、考え事してるときの顔が大体同じなので」「人の顔を分類しないで」「じゃあ違うんですね」「……仕事します」「図星なんだ」「奈々」「はいはい。退散します」 笑いながら離れていく奈々の背中を見送り、紗良は一口だけサンドイッチを食べた。 図星だった。 それがまた腹立たしい。     ◇ その日の夕方、紗良は予定より少し早く仕事を切り上げ、陽向を迎えに保育園
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第9話 再婚を考えている人がいます
第9話 再婚を考えている人がいます その夜、陽向を寝かせたあとも、紗良はなかなか眠る気になれなかった。 リビングの照明を少し落とし、ダイニングテーブルにノートパソコンを開いているものの、画面に並んでいるデザイン案は三十分前からほとんど変わっていない。 仕事に集中したいのに、昼間の玲央の言葉が何度も戻ってくる。 忘れたことなんて一日もない。 たったそれだけの言葉に、どうしてこれほど心を乱されなければならないのだろう。 五年前に聞いていれば、泣いて喜んだかもしれない。 けれど今は違う。 自分には陽向がいる。 会社がある。 守らなければならない生活がある。 そして、玲央とは別の未来を考えてくれている人もいる。 スマートフォンが震えた。 画面には、ちょうど考えていた相手の名前が表示されている。 久世悠真。 紗良は少し迷ったあと、通話ボタンを押した。「もしもし」『まだ仕事してる?』「してるつもりだったんだけど、全然進んでない」『珍しいね。納期が近いときの紗良さんって、電話しても返事が三文字くらいになるのに』「そんなに感じ悪い?」『感じ悪いというか、こっちの話を聞いてない。前に僕が十分くらい話したあとで、「ごめん、最初からもう一回」って言われたことある』「……あったかも」『あったよ。結構傷ついた』「今さら言わないでよ」 電話の向こうで悠真が笑う。 その声を聞くと、不思議と肩の力が抜けた。『陽向くんは?』「寝た。今日は保育園でどんぐりを十五個も拾ってきて、その家を作るって大騒ぎしてた」『十五個ならまだかわいいじゃない。結衣が五歳の頃なんて、石を三十個くらい持って帰ってきたよ』「何に使ったの?」『本人は宝物って言ってたけど、半年後には存在を忘れてた』「子どもの宝物って寿命短いね」『でも捨てようとすると急に思い出すから気をつけたほうがいい』「経験者の助言、重いなあ」 他愛のない会話だった。 こういう時間こそ、自分が求めていたものなのかもしれないと紗良は思う。 何か特別な話題がなくても話せる。 黙っても気まずくない。 相手が何を怒っているのか、何を期待しているのかを読み続けなくていい。 玲央と結婚していた頃、欲しかったのはこんな普通だった。『紗良さん』「ん?」『今日、何かあった?』 また見抜かれた
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第10話 俺以外と結婚するのか
第10話 俺以外と結婚するのか 翌朝、紗良が保育園へ向かう準備をしていると、陽向が玄関で靴を履きながら突然言った。「お母さん、悠真先生と結婚するの?」 手にしていた保育園バッグを落としかけた。「……どうして急にそんな話になるの?」「昨日、結衣ちゃんが言ってた」「何を?」「『パパが紗良さんと結婚したら、陽向ときょうだいになるのかな』って」 子ども同士の会話には、ときどき大人が隠しているものを平然と外へ引っ張り出す力がある。「結衣ちゃん、そんなこと言ってたの?」「うん。僕は分かんないって言った」「そう」「結婚するの?」 逃げられない。 紗良は玄関脇にしゃがみ、陽向と目の高さを合わせた。「まだ決まってないよ。悠真先生とは、お母さんも大切に思ってるし、これから先も一緒にいたいかどうか、ちゃんと考えてるところ」「じゃあ、結婚するかもしれない?」「そうかもしれない。でもね、陽向の気持ちも大事だから、お母さんだけで決めたりしないよ」 陽向は少し考え込んだ。 考えるときに左手の親指の付け根を右手で触る。その癖を見て、紗良は一瞬だけ玲央の顔を思い出した。「僕、悠真先生好きだよ」「うん」「結衣ちゃんも好き」「うん」「でも、お母さんと二人だけじゃなくなるの?」 その言葉に、胸が詰まった。 陽向にとって、今までの家族は紗良と二人だった。 父親がいないことを寂しがるより先に、その形を当たり前として受け入れてきた子だ。「そうなるかもしれない。でも、だからってお母さんと陽向が家族じゃなくなるわけじゃないよ」「僕のお母さんはずっとお母さん?」「当たり前でしょう」「じゃあいい」 あまりにも簡単に言うので、紗良は笑ってしまった。「そんなに簡単でいいの?」「だって、お母さんが僕のお母さんならいいよ」 五歳児の世界は単純で、その単純さが時々大人よりずっと本質に近い。「じゃあ、行こうか」「うん」 玄関を出て、陽向の手を握る。 けれど歩き始めてすぐ、別の問いが飛んできた。「じゃあ、あのおじさんは?」「誰?」「トリケラトプスのおじさん」 危うく足をもつれさせるところだった。「神崎社長のこと?」「うん。あのおじさんもお母さんのこと好きなの?」「どうしてそう思うの?」「見るから」「何を?」「お母さんを」 子どもは本
last updateLast Updated : 2026-10-02
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