All Chapters of 夫に捨てられた夜、彼の秘書が訪ねてきた: Chapter 11 - Chapter 20

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11話. 剥がれた仮面

午前10時。東京・大手町、東京フィナンシャルタワー50階。ノクス・キャピタル・アジアの東京統括本部。その広大なメイントレーディングルームには、息をするにも気を使うほどの緊張が満ちていた。数十台のブルームバーグ端末に、青や赤のチャートが映っている。ファンドマネジャーと上席アナリストたちが一斉に立ち、揃って深く頭を下げた。「おはようございます、統括専務」窓沿いの通路を、蓮司が歩いてきた。直哉の後ろで頭を垂れ、汚れた後始末を引き受けていた随行秘書は、もういない。鍛えられた身体に吸いつくような、イタリア製のダークネイビーのダブルスーツ。冷たく光る銀の縁なし眼鏡。そして、相手を一瞬で屈服させるような支配者の気迫。一歩ごとに、近寄りがたい権力の重みがあった。蓮司は大きなバーガンディの革張りチェアへ脚を組んで座り、厚い書類を開いた。「東城物産の不良債権と転換社債、計150億円の買い集めは?」「流通している転換社債の85パーセントを、ファンド名義で確保しました。本日の正午をもって、担保株式を含む東城物産の友好持株比率35パーセントの確保手続きが完了します」首席トレーダーの報告に、蓮司の口元が冷たく上がった。直哉と、その母・鷹宮貴恵(たかみや・きえ)が、乱れた私生活や違法な裏金のために食い潰してきた東城物産。その命綱が、とうとう彼の手へ収まったのだ。何年も秘書の仮面をかぶり、息を潜めて待っていた、狩りの瞬間だった。蓮司は眼鏡を軽く押し上げ、冷たく指示を出した。「よし。車を回せ。書類を持って、東城物産の本社へ行く」* * *正午過ぎ。丸の内にある東城物産の本社ビル。回転ドアを抜け、紗月がロビーへ入ってきた。白いシルクのブラウスに、深いネイビーのパンツスーツ。かつての、怯えた悲しげな奥方の面影はなかった。冷ややかで気高い瞳と、揺るがない足取りに、ロビーの社員たちが息を潜めて頭を下げる。凍っていた心と身体に芽吹いた自信が、その場を圧倒していた。ひそひそとした声の中でも、紗月は顎を毅然と上げていた。専用エレベーターで20階の社長室へ入ると、机には白いバラの花束と、上等なベルベットの書類ケースが置かれていた。紗月は指先で、ケースの角を机の端に揃えた。ずっと自分の席だったはずなのに、扉の外の足音をうかがう癖が抜けない。閉じたドアから目を離し、
last updateLast Updated : 2026-10-05
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12話. 閉ざされた社長室

「紗月! 今すぐ開けろ! 黒瀬と中にいるのは、わかってるんだぞ!」20階の廊下を、直哉の狂気じみた声が揺らした。私設の護衛を5、6人連れて押しかけた男は、壊れそうな勢いでドアノブを揺さぶっていた。乱暴な蹴りが、鈍い音を立てて扉を打つ。隙間越しに、荒い息と罵声が聞こえた。紗月の顔に一瞬、緊張が走ったが、蓮司は氷河のように静かだった。リモコンを取り、窓一面のブラインドを最後まで下ろす。外からの視線が遮られた。さらに二重の電子錠をかけると、スマートフォンに廊下の映像を映した。紗月はドアノブと画面を見比べた。今すぐ開けて謝らなくては。そう感じてしまう癖が、まだ身体に残っている。けれど、取っ手へ向けて出しかけた足を戻した。扉を壊そうとする人の非まで、自分が引き受ける理由はない。画面の中では、ノクスの専属警護チームが、直哉の連れてきた男たちの腕をひねり、たちまち床へ押さえつけていた。直哉だけがドアにすがりつき、獣のように拳を打ちつけている。ドン、ドン、ドンッ!閉ざされた扉の向こうから、夫の罵声と暴れる音が、生々しく伝わってきた。手を伸ばせば届きそうな、その近さ。紗月の鼓動が、息苦しい背徳感と危うい興奮で、速くなり始めた。3年間、自分を踏みつけてきた男が、ドアの外で吠えている。その事実が、奇妙な快さをもたらした。呼吸が浅くなり、胸が上下する。蓮司が、ゆっくりと近づいてきた。こわばった肩を包み、部屋の中央にある大きなイタリア製の本革ソファへ導く。直哉が毎日のように脚を組んで座り、秘書や女性社員へ暴言を浴びせていた、あの権力の象徴のようなソファだった。「蓮司さん……外で、直哉があんなふうに……」「お聞きにならなくて結構です、奥様」沈んだ声が、耳を熱くくすぐった。大きな手が上着を丁寧に脱がせ、ソファの背へ掛ける。シルクのブラウス越しに、華奢な胸元が激しく上下した。「廊下は警護チームが押さえています。あのドアは、開けません」熱い指が、ブラウスのボタンを一つずつ外していった。冷たい室内の空気へ、白い鎖骨と、昨夜、テラスで残された赤い痕がさらされる。蓮司の黒い瞳で、愛欲と支配の炎が揺れた。荒い息が、首筋を熱くたどる。「怖ければ、今日はここでやめます」紗月は廊下の画面を消し、蓮司へ向き直った。先に彼の手を引き寄せてから、ようやく
last updateLast Updated : 2026-10-05
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13話. 暴露の逆風

午後3時。丸の内、東城物産本社20階の社長室。重厚なチェリー材の両開き扉が、ノックもなく乱暴に開いた。シャネルのサングラスを頭に載せ、血のように赤い口紅を塗った水城絵里香が、ヒールを響かせて入ってくる。銀座の高級ギャラリーのオーナーであり、直哉が法人カードで数千万円も貢いできた、長年の愛人だった。「あら、紗月さん。ご主人を刑務所に放り込んで、社長の革張り椅子に座る気分はいかが?」絵里香は小馬鹿にしたように口をゆがめ、向かいの椅子へ腰を下ろすと、傲慢に脚を組んだ。身体からは、安っぽく甘い、濃いバニラの香水が漂っていた。クロコダイルのエルメスのバーキンから、白い病院の封筒を取り出し、大理石の机へ放る。滑った封筒が、紗月のノートパソコンの角に当たった。「単刀直入に言うわ。私、直哉さんの子を妊娠したの」こぼれ出たのは、有名大学病院の産婦人科の超音波写真と、妊娠8週の診断書だった。絵里香は顎を上げ、尊大に目を細めた。「3年もベッドで死体みたいに固まって、子ども一人産めなかった女が、いつまでも奥様の席に居座る理由、ないわよね? 直哉さんが出てきたら、私たち3人でやり直すの。素直に離婚に応じて、きれいに出ていって。慰謝料なら、直哉さんが数千万円くらい、ちゃんと用意してくれるわ」夫の愛人が妻の目の前に妊娠診断書を出し、その座を明け渡せと言う。以前の紗月なら、罪悪感と深い恥辱にうつむき、涙をこらえていただろう。けれど今、冷たく深い瞳は、少しも揺れなかった。むしろ赤い唇に、獲物を仕留めるような冷たい笑みが広がった。「水城絵里香さん」紗月は引き出しを開け、厚いベルベットの書類ケースを取り出した。病院の封筒が手の甲に触れた。横へ押しやり、自分の書類をまっすぐ置く。子どもを産めなかったと言われるたび、言い訳ばかり並べていた日々が浮かんだ。だが今回は、相手の答えを待つつもりだった。非を説明すべきなのは、自分ではない。とん。机に置いた書類の表紙には、はっきりと記されていた。【水城絵里香の交友関係、および六本木の歓楽街関連口座の追跡報告書】「そのお腹の子……本当に、鷹宮常務のお子さんですか?」静かで明瞭な一言に、絵里香の顔が紙のように白くなった。濃い口紅の唇が開いたが、すぐには声が出てこない。「な、何を言ってるの。無責任なことを言わないで、
last updateLast Updated : 2026-10-05
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14話. 義母の侮蔑

「卑しい嫁の分際で、よくも私の息子を警察へ突き出して、平然としていられるわね!」扉を乱暴に開けて入ってきたのは、東城グループの女主人、鷹宮貴恵だった。白玉に銀の装飾を施した杖で大理石の床を打ち、年老いた女は、殺気を帯びた目を紗月へ向けた。背後には本邸の秘書室の職員と、私設の護衛が、険しい顔で並んでいた。直哉の傲慢さと残酷さが、どこから受け継がれたのか。嫌というほどわかる態度だった。「一ノ瀬の家から追い出されるように嫁いできて、うちで奥様と呼ばせてもらったんでしょう! 食べさせてもらった恩を知って、犬みたいにはいつくばるべきなのよ! それを、夫を警察へ渡して、社長の座に居座るなんて!」貴恵は怒りに震え、手を高く振り上げた。紗月の頬へ、容赦のない平手が飛ぶ。この3年間、法事や親族の集まりのたびに、紗月の尊厳を踏みにじり、暴言と侮辱を浴びせてきた手だった。『卵も産めない雌鳥』親戚の前で、そう罵った毒々しい顔がよみがえる。だが、今度は違った。パシッ!振り下ろされた痩せた手首を、紗月がしっかりとつかんだ。両足を踏ん張り、離さない。「な、何をするの! 姑の手首をつかむなんて!」貴恵は驚愕し、腕を抜こうともがいた。紗月は少しも乱れない、冷たく気高い目で見据え、その手首を下へねじった。腕を押し下げられ、老婦人の肩が大きく傾ぐ。「お義母様、二度と私に手を上げないでください。今日は、黙って避けたりしません」つかんだ手首を横へ押しやり、紗月は机と義母の間に立った。一歩でも退けば、また頬を差し出してしまいそうだった。掌に残る震えを、机の縁へ押しつけて止める。声だけは低く保ち、最後まで義母の目を見た。明瞭な声が、社長室の空気を冷やした。息子の暴力と浮気を〈男の甲斐性〉で片づけ、子どもができない責任を嫁だけに押しつけてきた女。紗月は机の黒い決裁ファイルを開き、義母の胸元へ投げつけた。「これが何か、おわかりですか」「な、何なの、これは……」「お義母様が10年間、東城の学校法人や実体のない財団を通じて海外へ移した、60億円の脱税原簿です。それと、東城物産の法人カードで買い、スイスから密輸した40カラットのダイヤのネックレス。その領収書の原本も」書類を見た貴恵の顔が、土気色を通り越して青ざめた。本邸の秘密の金庫番しか知らないはずの、一族
last updateLast Updated : 2026-10-05
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15話. 隠されていた持株比率

翌朝10時。丸の内、東城物産本社25階の大会議室。緊急の臨時取締役会が開かれた室内には、薄氷のような静けさと、張り詰めた敵意が交錯していた。直哉の逮捕に興奮した鷹宮家の傍系親族や、古参の社外取締役たちが、円形のオーク材のテーブルを囲んでいた。その視線が、上座に座る紗月へ刃のように突き刺さる。一ノ瀬の家から来た嫁への長年の侮蔑と、一族の優良企業を奪われるかもしれないという、浅ましい欲がぎらついていた。「一ノ瀬社長、今日の議題は承知しているな。取締役会が、君をその席に置き続ける保証はないぞ」直哉の叔父で、東城グループの統括副会長でもある鷹宮征一郎(たかみや・せいいちろう)が、重いテーブルをたたいて立った。老練な額に太い血管が浮き、突きつけた指が、紗月の鼻先へ迫る。「本日の取締役会に、緊急の解職議案を上程する! 一ノ瀬紗月を、経営能力の欠如および一族との不和を理由に、本日付で代表取締役から解職。鷹宮常務の代理人を、統括代表に任命する!」一族に同調する取締役たちが、いっせいに声を上げ、机をたたいた。会議室は、魔女狩りでも始まったかのようだった。それでも紗月は、姿勢を崩さず脚を組み、温かい紅茶のカップへ手を伸ばして、冷ややかに笑った。瞳に恐れはなかった。虫たちの悪あがきを眺める、女王の余裕があった。「どうぞ、採決なさってください、叔父様。本当に皆さんの思いどおりになるのか、興味があります」「くそっ、まだわからんのか! 賛成する取締役が過半数だ。警備員を呼べ!」征一郎が、血管を浮かせて叫んだ、そのときだった。カチャリ。重厚なマホガニーの両開き扉が開き、ダークグレーのスーツを着た蓮司が、堂々と入ってきた。背後には、ノクス・キャピタル・アジアを担当する大手法律事務所の弁護士が十数人、厚い書類鞄を手に並んでいた。冷ややかな威圧感が、部屋全体にのしかかる。「あ、あの秘書め、ここをどこだと思ってる! 警備員、今すぐつまみ出せ!」取締役たちが立ち上がり、騒ぎ立てた。蓮司は一同を冷たい目で見渡すと、重い革のバインダーを、征一郎の顎先に突きつけるように机へ置いた。大理石の床まで響く、鋭い音がした。「鷹宮副会長。警備員より先に、こちらをご覧ください」銀の眼鏡を軽く押し上げる。その手元から、金融庁への電子開示書類と株主名簿が広げられた。【開示
last updateLast Updated : 2026-10-05
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16話. 盗聴ファイル

午前1時。銀座の最高級ブティックホテル、最上階のペントハウススイート。閉ざされた部屋には、濃い葉巻の煙と洋酒の匂いが混ざっていた。テーブルには、コカインの粉が散らばっている。保釈された直哉はシャツをはだけ、クラブの女性を3人、両脇へ侍らせていた。ふらつきながら、洋酒を瓶からあおる。目は、狂気と薬物の酩酊で濁っていた。床では空のシャンパンボトルや下着が、ごみのように転がっている。「あのクソ女……紗月……! 裁判が終わるまで待ってろよ。お前も、黒瀬の野郎も、俺がこの手で刺し殺してやる……!」直哉は狂ったように笑い、テーブルの白い粉を吸い込んだ。幻覚に酔った目が白くむかれ、興奮した身体が細かくけいれんしている。自分の罪の代償など、考えもしなかった。頭の中を占めていたのは、妻への歪んだ復讐心だけだった。今も、何でも思いどおりにできる名家の三代目なのだと、空しい妄想にしがみついていた。* * *同じころ。ホテル地下3階のVIP駐車場に止まる、黒いロールス・ロイスの後部座席。車内の大型モニターには、スイートの天井にひそかに仕掛けられた小型カメラの映像が映っていた。リアルタイムの盗聴音声も流れている。スピーカーから響く、夫の不快な声と殺害予告。紗月は、窓越しに駐車場の出入口を振り返った。画面の中の男が今にも車のドアを開けそうで、肩がこわばる。自分がどこに座っているのか、確かめてから、ようやく視線を戻せた。膝の上の手が震えたので、もう片方を重ねて押さえた。「画面を消します、奥様。必要な映像は確保しました」蓮司は映像を止め、冷えた手を包んだ。指先はやけどしそうなほど熱い。だが紗月の瞳は、北極の氷のように冷たかった。3年間、暴言と虐待を浴びせてきた男が、その果てに楽しんでいるのは、この醜い宴だった。もはや、ひとかけらの憐れみもなかった。背徳の傷は、冷たい復讐の刃へ鍛え上げられていた。紗月の唇から、冷ややかな息が漏れる。「合図を送ってください、黒瀬専務。脅迫まで聞いたんです。これ以上、待つ理由はありません」決断が下ると同時に、蓮司はスマートフォンから捜査班へ合図を送った。ドンッ!最上階のスイートの扉が、警察の特殊装備で打ち破られた。警視庁の薬物捜査班と売春取締班の刑事十数人が、銃を構えて一気に踏み込む。「警察だ! 全員、手
last updateLast Updated : 2026-10-05
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17話. 復讐の設計図

午前3時。東京・晴海、ベイサイド・レジデンス最上階、47階のペントハウス。一面の窓の向こうには、ゆったり流れる隅田川の青黒い水面と、眠らない街の灯が、宝石の海のように広がっていた。少し前、銀座のホテルのスイートを修羅場にし、手錠をかけられて護送車へ乗せられた直哉。そのみじめな顔が、紗月の頭に鮮やかに残っていた。けれど、それは罪悪感でも同情でもなかった。地獄のようだった3年間の枷から、ようやく抜け出せたという、言いようのない震えと解放感だった。手錠の閉じる音を思い出すたび、紗月は鍵のかかった玄関を見た。肌をなでる夜の空気が、生まれて初めて甘く感じられる。コツン。静かな足音とともに、蓮司が近づいてきた。手には、ヴィンテージのドン・ペリニヨンを注いだクリスタルのフルートグラスが二つあった。淡い黄色の細かな泡が、透明なグラスの中を絶えず上っていく。「一杯いかがですか、奥様。今日は、ここまでたどり着きました」蓮司が紗月のグラスに、自分のグラスを軽く合わせた。チン。澄んだ響きがした。冷たいシャンパンが喉を滑り、乾いていた胸の内を温めた。甘くほろ苦い酸味に、全身の緊張がほどけていく。「ありがとう、黒瀬専務……いえ、蓮司さん」長い睫毛の先に、透明な涙が浮かんだ。『ベッドじゃ人形みたいだ』と、夫に頬を打たれ、罵られた日々。毎週、愛人たちの口紅を洗面台で洗い落とした、あの地獄。子どもを産めない女だと、親族の前で頭を下げさせられた年月。あの悪夢が、ようやく終わった。こみ上げる安堵に、細い肩がわずかに震えた。紗月は何か言いかけ、グラスを置いた。手に残るガラスの冷たさをこすり、目を閉じる。ありがとうだけでは伝えきれない思いが、喉に引っかかっていた。誰かの前で泣くときは、いつも先に言い訳をしなければならなかった。けれど蓮司は、急かさなかった。目をそらさなくていい。そのことが、ようやく実感できた。大きな手が、濡れた頬を丁寧に包んだ。熱い親指が、目元の涙を、そっと優しく拭う。「紗月さん。大丈夫です」低く澄んだ声が、耳を温かく包んだ。銀の眼鏡が外され、ソファテーブルへ置かれた。その素顔には、抑えきれない渇望と、強い独占欲が熱く揺れていた。引き締まった顎と赤い唇が、視界を埋める。「私の前では、泣いて構いません。今は、ご説明もいりま
last updateLast Updated : 2026-10-05
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18話. 離婚訴状

数日後。東京・葛飾区小菅、東京拘置所の面会室。厚いアクリルの仕切りと鉄格子の向こうで、鉄の椅子に縮こまる直哉の姿は、無残だった。くすんだ茶色の服を着た男は、ひげも剃っていなかった。血走った目は、今にも血の涙を流しそうなほど赤い。日本有数の企業一族の三代目から、薬物事件で身柄を拘束された男へ。薬物の離脱症状で全身が震え、手錠をかけられた手首には、青黒い痣があった。ガチャリ。面会室のドアが開き、紗月が入ってきた。仕立てのよい黒のペンシルスカートスーツに、純白のシルクブラウス。その姿は、世界を足元に置いた女王のように、冷たく輝いていた。背後には、ノクス・キャピタル・アジアの統括専務、黒瀬蓮司がいた。腕を組み、冷えた目で直哉を見下ろしている。隙のない二人の気品が、直哉の劣等感と自己愛を、限界まであおった。ガタンッ!男は椅子を蹴るように立ち上がり、アクリル板を何度も拳でたたいた。「紗月! 黒瀬! お前らが俺をはめたんだ! 今すぐ示談書を書け! 嘆願書も出せ! ここから出せよ!」受話器から、夫の不快な怒鳴り声が噴き出す。紗月はゆっくり受話器を耳へ当て、冷ややかに笑った。その目に、憐れみも罪悪感もなかった。「あなたがしたことは、私がやらせたわけじゃありません。私に嘆願書を求めないで、鷹宮さん」バッグから二組の書類を取り出し、面会を管理する職員に渡す。離婚および財産関係の合意書と、財産・経営権の放棄に関する誓約書だった。「読んで決めてください。あなたの答えを聞きに来ました」紗月は合意書の最後のページを示した。仕切りの向こうで夫が何を投げるか、うかがっていたはずの視線は、今、署名欄だけに向けられていた。怒鳴り声で手に力が入るたび、受話器を少し握り直す。彼をなだめに来たのではない。何度も、自分に言い聞かせた。「何だと!? 離婚!? 全財産を放棄しろって!?」直哉は書類を引き裂きそうな目でにらみ、唾を飛ばした。「誰が判を押すか! 死んでも離婚はしない! お前は一生、鷹宮直哉の妻っていう汚い札をぶら下げて、面会に来ながら干からびるんだよ! 俺の金は1円だって渡さない!」夫の、最後の悪あがきだった。だが、紗月の隣にいた蓮司が、別の書類を仕切りにぴたりと当てた。【法務チーム・追加容疑検討書:鷹宮直哉による海外への不正送金120億円、お
last updateLast Updated : 2026-10-05
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19話. 崩れゆく本邸

翌朝、日本の経済紙やポータルサイトの主要ニュースは、東城グループの全面的な没落を報じる見出しで埋まった。【特報:東城グループ・鷹宮直哉常務を勾留、離婚訴訟も受理――全財産と経営権を永久放棄】【独自:ノクス・キャピタル・アジアと一ノ瀬グループの連合、東城グループ持株会社の担保権を実行――本邸資産、一斉に強制競売へ】直哉が拘置所の面会室で涙とともに拇印を押した離婚合意書と財産放棄の誓約書。それを手にしたあとも、債権回収の手続きは、別に進められていた。ノクスと紗月の連合ファンドは、東城グループ本家への担保融資200億円について、一斉に期限延長を拒否し、全額の返済を求めた。東証グロース市場では、東城グループの関連株が寄りつきから値幅制限いっぱいまで暴落した。債権者団からの大量の売りが、相次いで浴びせられた。* * *それから数週間後、午後2時。東京・田園調布、東城グループ本家の大邸宅。何十年も日本の政財界へ影響を及ぼしてきた、鉄壁の城のような屋敷。その大きな門の前に、東京地方裁判所の執行官の車が4台止まった。「差押えの執行を開始します」青い制服の執行官と民間の警備員たちが、庭へ入ってきた。100年前のアンティーク家具、数千万円の古い書画、貴恵の最高級ダイヤを収めた金庫。その一つ一つに、赤い差押えの札が容赦なく貼られていく。「あんたたち! 誰の家だと思って、こんな汚い札を貼るの! 今すぐ手を離しなさい!」白玉の杖をついた貴恵が庭へ飛び出し、わめいて地面を転げた。執行官は目もくれず、書類に判を押した。そのとき、漆黒のロールス・ロイスが正門をくぐり、庭の中央へ滑り込むように止まった。運転手が後部座席のドアを丁寧に開く。全身を純白のパンツスーツで包んだ紗月が、優雅に降り立った。隣では、ダークネイビーのスーツに眼鏡をかけた蓮司が、大きな影のように守っていた。二人の堂々とした佇まいが、庭の空気を一瞬で変えた。「さ、紗月……!」貴恵は震えながら足元まではい寄り、土の上に膝をついた。華やかだった高級な服は泥だらけになり、乱れた白髪の下で、涙と鼻水が顔を汚していた。「紗月、私が悪かった……この家だけは、だめなの。お前だって、うちの人間でしょう。知らないふりをする気?」嫁いだ初日、頬を打ち、『育ちの知れない家の娘は、うちでは下女同然に働きなさ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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20話. 完全な解放

45階のペントハウス、主寝室。3年間、直哉の不快な安酒と、愛人たちの安っぽいバニラの香水が染みついていた、傷の残る場所。紗月は入口に立ち止まり、震える胸を押さえて深く息を吸った。けれど部屋を満たしていたのは、夫の痕跡ではなかった。冷たく深いシダーウッドと、淡いベルガモットだった。過去の地獄のような匂いも、傷の残り香も、ひとかけら残っていない。空間が新しい主の香りで、すっかり清められたようだった。足元から、震えが上がってくる。紗月は、見慣れたサイドテーブルとカーテンを順に見た。家具は同じ場所にある。それなのに、扉が閉まる音を待ち構える必要がない。敷居で止まっていた足を、中へ進めた。今日、この部屋に入ると決めたのは自分だ。そのことを、忘れたくなかった。ヘッドボードにもたれていた蓮司が、ゆっくりと立ち上がった。昼間のスリーピースの上着もネクタイも脱いで、白いシルクシャツのボタンを胸まで開けている。引き締まった胸筋と鎖骨が、間接照明の下で魅惑的な陰影をつくっていた。眼鏡の奥の黒い瞳には、隠せない渇望と独占欲が燃えている。冷たいのに熱いその視線が、紗月の身体をとらえた。「まだ、ここがお怖いですか。奥様」蓮司が歩み寄り、冷たくこわばった手を、大きく温かな掌で包んだ。深い瞳が、紗月の目の奥をのぞく。「あの人を思い出されるなら、別の場所へ行きましょう。ここでも、大丈夫ですか」紗月はベッドより先に、ドアを見た。開いたままにして、蓮司の手を握り、うなずく。離れたくなったら、そう言える。そのことを確かめておきたかった。蓮司は細い腰を優しく抱き、ベッドの中央へ導いた。大きな手が、シルクのガウンの紐を、ゆっくりとほどく。白いリネンのシーツの上に、まぶしい肌が花びらのように広がった。熱い手が太腿とくびれた腰をなで上げると、唇から浅い吐息と声が漏れた。「蓮司さん……」紗月は息を切らしながら、広く硬い首筋を、両腕で強く抱きしめた。こみ上げた涙が、頬を伝う。蓮司の唇が、額に、鼻梁に、そして赤く腫れた唇へ、順に触れていった。その手は荒々しくも、どこまでも繊細だった。隠れていた感覚を、一つ一つ呼び覚ます。肌が触れ合う場所から、火のような熱が生まれた。冷たいリネンの上へ、溶岩のような男の体温が降り注ぐ。直哉からは一度も与えられなかった
last updateLast Updated : 2026-10-05
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