午前10時。東京・大手町、東京フィナンシャルタワー50階。ノクス・キャピタル・アジアの東京統括本部。その広大なメイントレーディングルームには、息をするにも気を使うほどの緊張が満ちていた。数十台のブルームバーグ端末に、青や赤のチャートが映っている。ファンドマネジャーと上席アナリストたちが一斉に立ち、揃って深く頭を下げた。「おはようございます、統括専務」窓沿いの通路を、蓮司が歩いてきた。直哉の後ろで頭を垂れ、汚れた後始末を引き受けていた随行秘書は、もういない。鍛えられた身体に吸いつくような、イタリア製のダークネイビーのダブルスーツ。冷たく光る銀の縁なし眼鏡。そして、相手を一瞬で屈服させるような支配者の気迫。一歩ごとに、近寄りがたい権力の重みがあった。蓮司は大きなバーガンディの革張りチェアへ脚を組んで座り、厚い書類を開いた。「東城物産の不良債権と転換社債、計150億円の買い集めは?」「流通している転換社債の85パーセントを、ファンド名義で確保しました。本日の正午をもって、担保株式を含む東城物産の友好持株比率35パーセントの確保手続きが完了します」首席トレーダーの報告に、蓮司の口元が冷たく上がった。直哉と、その母・鷹宮貴恵(たかみや・きえ)が、乱れた私生活や違法な裏金のために食い潰してきた東城物産。その命綱が、とうとう彼の手へ収まったのだ。何年も秘書の仮面をかぶり、息を潜めて待っていた、狩りの瞬間だった。蓮司は眼鏡を軽く押し上げ、冷たく指示を出した。「よし。車を回せ。書類を持って、東城物産の本社へ行く」* * *正午過ぎ。丸の内にある東城物産の本社ビル。回転ドアを抜け、紗月がロビーへ入ってきた。白いシルクのブラウスに、深いネイビーのパンツスーツ。かつての、怯えた悲しげな奥方の面影はなかった。冷ややかで気高い瞳と、揺るがない足取りに、ロビーの社員たちが息を潜めて頭を下げる。凍っていた心と身体に芽吹いた自信が、その場を圧倒していた。ひそひそとした声の中でも、紗月は顎を毅然と上げていた。専用エレベーターで20階の社長室へ入ると、机には白いバラの花束と、上等なベルベットの書類ケースが置かれていた。紗月は指先で、ケースの角を机の端に揃えた。ずっと自分の席だったはずなのに、扉の外の足音をうかがう癖が抜けない。閉じたドアから目を離し、
Last Updated : 2026-10-05 Read more