夫に捨てられた夜、彼の秘書が訪ねてきた

夫に捨てられた夜、彼の秘書が訪ねてきた

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By:  6jayUpdated just now
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夫の裏切りに耐え続けた紗月の前に現れたのは、冷徹な秘書・蓮司。彼は離婚と復讐の切り札を差し出し、彼女の人生と誇りを奪い返していく。やがて暴かれる夫の不正、崩れ落ちる財閥一族。傷ついた妻と一途な秘書が選ぶ、禁断から始まる痛快逆転ラブストーリー。

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Chapter 1

1話. 愛人の痕跡

午前2時。45階のペントハウス、その主寝室に続くドレッシングルーム。

一ノ瀬紗月(いちのせ・さつき)は、氷のように冷たい洗面台の水に、夫の白いシルクシャツを浸していた。イタリアで仕立てさせた、最高級のオーダーメイドだ。

真っ白な襟の内側には、濃いチェリー色の口紅が、ぬらりと艶を残していた。

知らない女の香水。安っぽく甘い人工のバニラが、鼻の奥を容赦なく刺す。

鏡に映る自分の顔は、血の気が失せて青白かった。

地獄のような政略結婚が、3年も続いている。

東城物産の統括常務である夫、鷹宮直哉(たかみや・なおや)は、毎週のように女を替えた。そのたび、寝室のドレッシングルームは愛人たちの痕跡で汚された。

明け方に酔って帰ってきては、鏡の前で紗月の顎をつかみ、ねじるように持ち上げる。

『お前がベッドで人形みたいに固まってるから、俺が外で遊ぶんだろ。肌に温もり一つない、つまらない女が』

紗月は冷えた手で、シャツの襟をこすった。

爪の下まで凍える指先に赤い水がにじんでも、乾ききった瞳から、もう涙は出なかった。

感覚も誇りも奪われ、家同士の結びつきと商売のためだけに置かれた、ただの飾り。

内側から腐り、何も感じなくなった草花のように、唇は乾いていた。

夫が投げつける言葉は、毎日、心を鋭くえぐり、少しずつ削り取っていった。

カツン。

背後で、静かな靴音がした。控えめで、乱れのない足取りだった。

驚いて振り向くと、入口の暗がりに男が立っていた。黒のスリーピースを、隙なく着こなしている。

直哉の首席随行秘書、黒瀬蓮司(くろせ・れんじ)だった。

187センチの長身。鼻梁にかかった銀の縁なし眼鏡。その奥には、底の見えない漆黒の瞳がある。

昼間の彼は、直哉の汚れた私生活も、その後始末も引き受け、腰を深く折る忠犬だった。

けれど、夜更けに一人で立つ今、その広い肩から漂う冷ややかな威圧感は、この部屋の主すらしのいでいた。

整えられたタイピンの下で、厚い胸がゆっくりと上下する。

「奥様」

低く澄んだ声が、静かな部屋の空気を冷やした。

蓮司は、手にしていた上等なベルベットの箱を、化粧台へ丁寧に置いた。

「常務は先ほど、銀座の会員制クラブを出られ、六本木の高級クラブに勤めていた交際相手と、ホテルのスイートに入られました。本日の正午まではお戻りにならない予定です」

夫の不貞を報告する声は、あまりにも乾いていて、礼儀正しかった。

紗月は濡れた手をリネンのタオルで拭き、苦く笑った。

「知らせてくれてありがとう、黒瀬さん。シャツは明日クリーニングに出すから……もう帰っていいですよ」

そう言い終えても、靴音は遠ざからなかった。

紗月は鏡越しに彼をうかがった。

夫の報告を済ませれば、いつもすぐに背を向ける人だった。

濡れたシャツを取ろうとした手が、洗面台の縁で止まる。

蓮司は引き下がらなかった。

それどころか、長い脚でこちらへ歩み寄ってきた。

近づくたび、直哉の不快な葉巻とはまるで違う、冷ややかなシダーウッドと淡いベルガモットが、部屋を満たしていく。

深みのある男の香りが、肺の奥まで入り込んだ。

理由のわからない不安と緊張で、紗月の胸が激しく鳴り始めた。

「黒瀬さん……?」

彼は、手を伸ばせば触れられる距離で立ち止まった。

広い肩の影が、紗月の細い身体をすっぽりと覆う。

眼鏡越しに注がれる視線は、昼間の秘書のものではなかった。

飢えた獣が獲物を囲い込むように、赤く冷えた指を、かすかに震える鎖骨を、薄いシルクの寝間着に浮かぶ輪郭を、あからさまにたどっていく。

紗月はタオルを握りしめた。

そこをどいてほしい。その一言が、なかなか出てこない。

蓮司が、ゆっくりと手を伸ばした。

大きな手は洗面台の濡れたシャツをつかむと、そのまま、ごみ箱へ投げ捨てた。

ぼとり。

「そのシャツは、お捨てください。奥様が洗い落とすものではありません」

低い声が、耳を熱くかすめる。

「それから、今夜は……奥様にお話があります。このまま帰るわけにはまいりません」

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1話. 愛人の痕跡
午前2時。45階のペントハウス、その主寝室に続くドレッシングルーム。一ノ瀬紗月(いちのせ・さつき)は、氷のように冷たい洗面台の水に、夫の白いシルクシャツを浸していた。イタリアで仕立てさせた、最高級のオーダーメイドだ。真っ白な襟の内側には、濃いチェリー色の口紅が、ぬらりと艶を残していた。知らない女の香水。安っぽく甘い人工のバニラが、鼻の奥を容赦なく刺す。鏡に映る自分の顔は、血の気が失せて青白かった。地獄のような政略結婚が、3年も続いている。東城物産の統括常務である夫、鷹宮直哉(たかみや・なおや)は、毎週のように女を替えた。そのたび、寝室のドレッシングルームは愛人たちの痕跡で汚された。明け方に酔って帰ってきては、鏡の前で紗月の顎をつかみ、ねじるように持ち上げる。『お前がベッドで人形みたいに固まってるから、俺が外で遊ぶんだろ。肌に温もり一つない、つまらない女が』紗月は冷えた手で、シャツの襟をこすった。爪の下まで凍える指先に赤い水がにじんでも、乾ききった瞳から、もう涙は出なかった。感覚も誇りも奪われ、家同士の結びつきと商売のためだけに置かれた、ただの飾り。内側から腐り、何も感じなくなった草花のように、唇は乾いていた。夫が投げつける言葉は、毎日、心を鋭くえぐり、少しずつ削り取っていった。カツン。背後で、静かな靴音がした。控えめで、乱れのない足取りだった。驚いて振り向くと、入口の暗がりに男が立っていた。黒のスリーピースを、隙なく着こなしている。直哉の首席随行秘書、黒瀬蓮司(くろせ・れんじ)だった。187センチの長身。鼻梁にかかった銀の縁なし眼鏡。その奥には、底の見えない漆黒の瞳がある。昼間の彼は、直哉の汚れた私生活も、その後始末も引き受け、腰を深く折る忠犬だった。けれど、夜更けに一人で立つ今、その広い肩から漂う冷ややかな威圧感は、この部屋の主すらしのいでいた。整えられたタイピンの下で、厚い胸がゆっくりと上下する。「奥様」低く澄んだ声が、静かな部屋の空気を冷やした。蓮司は、手にしていた上等なベルベットの箱を、化粧台へ丁寧に置いた。「常務は先ほど、銀座の会員制クラブを出られ、六本木の高級クラブに勤めていた交際相手と、ホテルのスイートに入られました。本日の正午まではお戻りにならない予定です」夫の不貞を報告する声は、あまりにも乾いて
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2話. 出張の夜
「黒瀬さん、正気ですか!? 何をするんです……!」紗月は、はっとして後ずさった。夫の前で頭を下げていた男と、同じ人だとは思えなかった。つい先ほどまで丁寧に帰宅時刻を告げていた声が、急によそよそしく聞こえる。開いたままのドアへ目をやり、もう一度、蓮司を見た。夫の秘書が、こんなふうに目の前に立つなんて。廊下には、人の気配一つない。今すぐ出ていって。まずは、そう言うべきだった。けれど背中には、冷たく硬い大理石の壁があった。それ以上、下がれない。蓮司が、さらに一歩近づく。大きな両手が洗面台につかれ、紗月は左右から囲われた。厚い胸から伝わる熱と、冷ややかなシダーウッドの香りに、身動きが取れなくなる。間近にある瞳は、魂までのみ込みそうな、暗い淵だった。乱れた息が、スリーピースのベストに触れる。呼吸すら絡み合う距離だった。「奥様は、なぜいつも、あんな男の下でご自分をすり減らしておられるのですか」沈んだ声が、鋭く耳に入り込んできた。押し殺した支配欲と、奇妙な怒りがにじんでいる。「常務は奥様のせいにして、外で遊んでいましたね。あれは言い訳です。奥様に非はありません」「立場をわきまえて、黒瀬蓮司さん! あなたは鷹宮常務に雇われて、お給料をもらっているだけでしょう!」震える手で、その胸を押した。蓮司は即座に両手を離し、一歩下がった。「承知しました。ここでやめます」紗月はドアと彼の顔を見比べた。出ていけと言えば、この人は出ていく。けれど、さっきの言葉が胸に残っていた。「私の気持ちまで……夫のせいだと思っているんですか?」蓮司は首を横に振った。紗月が自分から袖をつかんで、初めて、彼は再び近づいてきた。長い指が、震える顎先にそっと触れる。銀の縁なし眼鏡を外し、胸ポケットへ収めた。その素顔には、残酷なほど整った美貌と、野生の鋭さがあった。濃い眉と赤い唇が、視界を埋める。「今のお言葉は、忘れません」親指が、乾いた下唇をゆっくりなぞった。電流に似た震えが背骨を駆け上がり、頭の芯まで突き抜ける。指先は、やけどしそうなほど熱く、ざらついていた。乾いていた唇から、抑えられない吐息が漏れた。「常務が外で誰と過ごしていようと、その責任を奥様に押しつけることはできません」蓮司が、ゆっくりと顔を伏せる。荒く熱い息が、耳を焼いた。「今夜は、
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3話. 最初の決裁
ドレッシングルームの中央。重厚なイタリア製の木製収納台の上で、紗月の薄いシルクのスリップは、太腿までまくれ上がっていた。大理石のひやりとした冷たさと、脚の間に密着する蓮司の確かな熱。その極端な温度差に、肌の感覚が揺さぶられる。ベストに触れた紗月の胸が、激しく上下した。部屋にこもるシダーウッドと、熱を帯びた肌の匂いが混ざり合い、くらくらした。「待って……止まって、黒瀬さん」紗月が息を切らして首を振ると、彼の手はすぐに止まった。夫の暴言と、繰り返し思い込まされてきた自分への否定。3年間、それらに押しつぶされて凍っていた身体が、蓮司に触れられるたび、赤く燃え上がっていた。知らない快楽と、息の詰まるような背徳感。その両方が、紗月を恐怖と震えの際へ追い込んだ。夫の腹心。忠実な犬を演じていた男との密会。足を踏み入れれば戻れない場所だと、わかっていた。だからこそ、自分の答えも曖昧にはできなかった。蓮司は一歩離れ、両手を下ろした。紗月の呼吸が落ち着くまで、何も言わない。「おやめになりますか」静かな低音が、耳を熱くなぞった。彼の荒い息が首筋をかすめるたび、白い肌が粟立つ。紗月はドアを見てから、蓮司へ視線を戻した。「違うの。怖いのは……見つかることです。少しだけ、待って」「お待ちします」蓮司はその場で、紗月の目を見ていた。彼女は収納台の縁を握っていた手を開くと、自分から彼の手を取り、引き寄せた。それを受けて初めて、大きな手が震える背中をなで上げた。優しいのに、逃れられないほど確かな力だった。薄いシルクの内側へ入り込む指の熱が、肌を溶かしていく。肩紐が、するりと滑り落ちた。一面の鏡には、端正な秘書に抱きとめられ、乱れていく自分が、はっきりと映っていた。戸惑いと羞恥に瞳が揺れた瞬間、蓮司が顎を持ち上げ、唇をふさいだ。「ん……っ、ふ……」彼の唇は溶けた岩のように熱く、圧倒的だった。酒臭い夫の、乱暴に奪うだけの欲とは違う。唇を繊細にいたわったかと思えば、舌を深く絡める。紗月の動きに合わせて少し止まり、また近づいた。シダーウッドとほろ苦いベルガモットが頭の中を白くし、耳元の荒い呼吸が、身構えていた心を一つずつほどいていく。熱い唾液が濡れた唇の間から伝い、華奢な鎖骨を湿らせた。快楽の熱が、血管という血管を駆け巡った。カチャン。胸ポケ
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4話. タイピン
「おい、紗月! この人形女! いないのか!? 水を持ってこい!」ペントハウスの廊下を、直哉がふらつきながら歩いてくる。乱暴な怒鳴り声と足音が近づいた。ドレッシングルームの空気が、一瞬で凍りついた。紗月の顔から、血の気が引いた。唇は赤く腫れ、薄いシルクの寝間着は肩からずり落ちかけている。蓮司が残した赤い痕が、鼓動に合わせてうずいた。鏡の中にいるのは、つい今しがたまで、別の男に抱かれていた妻そのものだった。心臓が胸を突き破りそうに暴れる。「ど、どうしよう……黒瀬さん……夫が……!」紗月は細かく震えながら、収納台から下りようともがいた。ここで見つかったら、家のために3年間耐えてきたすべてが壊れる。血を見るような惨事になるかもしれなかった。けれど蓮司は、震える両肩をしっかりとつかんだ。その深い瞳には、焦りも恐れもなかった。獣めいた冷静さが、紗月の恐怖を押しとどめた。「落ち着いてください、奥様」手早く、だが丁寧に、寝間着の肩紐を戻す。熱い親指が、唇の端に残った濡れた跡を、赤みごとそっと拭った。「クローゼットのカシミヤのガウンを、首元まで閉じてお出になってください。氷水を一杯渡し、ソファで休ませればよろしいかと」「黒瀬さんは……? どうやって、ここを出るつもり……!」「奥の隠し金庫室に、設備点検用の非常扉があります。私はこちらから出られます。ですから……ご心配なく」冷えた頬を包み、耳元でひそやかに告げた。彼の息が、耳を焼くほど熱かった。「奥の扉から出ます。ご主人に不審な様子があれば、ご連絡ください」蓮司は床の眼鏡とネクタイを拾い、上着の内側へしまった。紗月がガウンを取り出す間に、上着を羽織った男は、奥の暗がりへ音もなく消えていった。紗月は震える手で長いカシミヤのローブを着込み、首元まで閉じた。おぼつかない足取りでキッチンへ向かい、冷蔵庫から取り出した水に氷を入れ、リビングへ運ぶ。グラスを強く握っても、氷のぶつかる音は止まらなかった。リビングに近づくにつれ、足が遅くなる。夫の声がもう一度響いて、ようやくグラスから目を上げた。直哉はネクタイを緩め、ソファにだらしなく身を投げ出していた。安酒と煙草、そして別の女の品のない香水が、鼻についた。「お水です」紗月はテーブルにグラスを置いた。直哉は水を一気に飲み、半ば閉じた
last updateLast Updated : 2026-10-05
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5話. バックミラーの視線
午前8時。45階のペントハウスのダイニング。「おい、紗月。これを見ろ」明け方からタイピンの持ち主を問い詰めていた直哉は、朝食の席でも同じ物を取り出した。傲慢に脚を組んだまま、プラチナのタイピンをテーブルへ放る。大理石にぶつかった金属が、鋭い音を立てた。充血した目には、妻への疑いと、歪んだ殺気がぎらついていた。「黒瀬のタイピンが、何で俺のドレッシングルームの隅に転がってたんだ? お前、あの秘書とデキてるんじゃないだろうな」息の詰まる、逃げ場のない問いだった。けれど紗月は、カップを持つ指先一つ震わせなかった。タイピンを見れば、先に目をそらしてしまいそうだった。だから、直哉の顔だけを見た。昨夜のことを、そのまま話すわけにはいかない。口を開く前にカップをソーサーへ戻し、呼吸を整えた。昨夜、彼の腕の中でよみがえった誇りが、顔に氷の仮面をかぶせてくれる。紗月は唇に冷たい笑みを浮かべ、夫を見据えた。「昨日、黒瀬さんに寝室まで支えてもらったでしょう。胸ぐらまでつかんでいたのに、覚えていないんですか? 酔って落とさせた物で、私を責めないでください」落ち着き払った返答に、直哉の顔がこわばった。正体をなくすまで飲んでいた男は、記憶が曖昧なのか、頭をかいた。外で愛人と遊んで帰った自分を冷たく見返され、かえって後ろめたくなったらしい。わざとらしく咳払いをした。「ん……そうか? あの野郎、頼みもしないことをしやがって」ぶつぶつ言いながら、タイピンをスーツのポケットへ押し込む。冷たい汗が背中を伝ったが、紗月は何食わぬ顔で紅茶を飲んだ。昨夜、蓮司が耳元に残した落ち着きが、見えない盾のように全身を包んでいた。* * *午後6時。東京・港区の大通りを滑るように進む、メルセデス・マイバッハの後部座席。政財界の重要人物が集まる今夜のチャリティーガラに出席するため、紗月は夫と並んで座っていた。運転席には、皺一つないスリーピースと銀の縁なし眼鏡をまとった黒瀬蓮司がいる。隙のない随行秘書に戻った彼は、車体をほとんど揺らさず、滑らかにカーブを曲がった。「今夜は政財界の大物が勢ぞろいする。一ノ瀬グループの長女らしく、おとなしく笑っていろ」直哉が、紗月の細い太腿へ乱暴に手を置いて言った。無遠慮な手が触れた途端、ぞっとする嫌悪が肌を走る。そのときだった。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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6話. チャリティーパーティー
掌をなぞる熱い指に、紗月の心臓が跳ねた。だが蓮司は、眼鏡越しにきわめて礼儀正しい笑みを浮かべ、深々と腰を折った。「お気をつけください、奥様。本日のドレスも、大変よくお似合いです」忠犬の仮面に、綻びはなかった。その何食わぬ態度に息を詰めながら、紗月はマイバッハを降りた。直哉は何一つ気づかず、顎を上げてホテルのエスカレーターへ向かっていく。掌にはまだ、彼の指紋が残した火のような感触が、うずいていた。* * *都内屈指の五つ星ホテル。そのグランドボールルーム。数え切れないほどのクリスタルが黄金の光を放つチャリティーガラは、日本の上流社会そのものだった。直哉はワイングラスを片手に政財界の重鎮の間を渡り歩き、紗月をトロフィーワイフのように隣へ立たせた。「妻の紗月です。一ノ瀬グループの長女らしく、静かで従順なのが唯一の取り柄でして」人格も誇りも踏みにじる、夫の紹介。そこへ、赤いオフショルダードレスの女が、シャンパングラスを持って近づいてきた。銀座にあるギャラリーのオーナー、水城絵里香(みずき・えりか)。直哉が最近、支援と称して数千万円もの裏金を注ぎ込んでいる愛人だった。「鷹宮常務、お久しぶりです。奥様も、とっても清楚な方なのね」媚びた視線を向けられ、直哉の口元がだらしなく緩む。彼は紗月の耳元で、冷たくささやいた。「俺は取引先の客と、内々の打ち合わせがある。お前はパウダールームで化粧でも直してろ。人の多いところで邪魔するな。隅に引っ込んでいろ」荷物のように紗月を押しのけ、愛人とともに暗い屋外テラスへ消えていった。込み上げる屈辱と裏切りに、爪が掌へ食い込む。紗月は胸の悪くなる会場を抜け出し、廊下の奥のプライベートなVIP用パウダールームへ向かった。いつも夫についていく癖で、一歩目だけ、テラスのほうへ足が向きかけた。紗月は、身体の向きを変えた。彼の隣で何もなかった顔をする。それだけは、もう耐えられなかった。華やかな会場の笑い声が、自分を嘲るように耳を打った。カチリ。内側から鍵をかけ、洗面台の鏡に手をつくと、紗月は荒く息を吐いた。屈辱と怒りで、全身が震える。きい……。そのとき、奥の専用更衣室のドアが、静かに開いた。暗がりから出てきたのは、上着を脱いで腕に掛けた蓮司だった。縁なし眼鏡の奥で、黒い視線が光る。「黒瀬さん……
last updateLast Updated : 2026-10-05
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7話. 変えられた暗証番号
ガタッ、ガタガタッ!「紗月! 開けろって言ってるだろ、今すぐ!」ドアノブが壊れそうなほど揺れる。その金属音に、紗月の心臓は冷たい床へ落ちるようだった。蓮司の熱く大きな掌が、震える唇を隙間なく覆っている。厚い胸板が、紗月の胸を押しつぶしそうなほど密着していた。だが、銀の縁なし眼鏡の奥にある瞳は、ぞっとするほど冷静だった。彼は素早く、音を立てずに背中のファスナーを上げた。乱れた服を、わずかな綻びもないように整えていく。長い指が頬を優しくなで、耳元で低い声がした。「お開けください、奥様。何もなかったように、堂々と」蓮司が更衣室の暗がりへ姿を隠すと同時に、紗月は乱れた息をのみ込み、鍵を回した。カチリ。ドアが開くなり、酔って目を赤くした直哉が、苛立った足取りで入り込んできた。「何でこんなに遅いんだ! 中で一人、何をしてた!?」眉間に深い皺を刻み、室内を隅々まで見回す。紗月は腕を組み、冷たい軽蔑を込めて、その顔をまっすぐ見た。「化粧を直していたんです。バッグは車に置いたって、さっき言ったでしょう。鍵が急ぎなら、先に自分のポケットを見たら? 私は預かっていませんから」直哉は言い返しかけたが、妻の視線に言葉を詰まらせた。さらに奥へ進もうとする前に、紗月が鏡のほうへ移動し、さりげなく行く手をふさぐ。空気に薄く残るシダーウッドと、妙な熱気。直哉はそれを感じ取ったようだったが、少しも乱れのない妻の姿を前に、それ以上は言いがかりをつけられなかった。「ちっ、無駄に待たせやがって……早く出ろ。帰るぞ」舌打ちして、足早に廊下へ出ていった。紗月は大理石の戸口に寄りかかり、力の抜けた脚をどうにか支えた。鏡の向こう、更衣室のドアの隙間から、蓮司の深い視線が全身を包んでいた。* * *翌朝。45階のペントハウス。妻への猜疑心と劣等感に取りつかれた直哉の異常さが、むき出しになった。変わってしまった妻の冷たい目。ドレッシングルームで見つけた秘書のプラチナのタイピン。それが一日中、頭の中をむしばんでいたのだ。ピピッ、ピピピ――。午前10時。警備会社の作業員を呼び入れた直哉は、玄関の暗証番号を、自分しか知らない8桁に変えてしまった。それだけでなく、リビングの天井の隅、廊下、寝室のドレッシングルームの入口にまで、赤く光る高画質の監視カメラを取りつけさせた。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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8話. 雨のテラス
カチャリ。玄関が開くと同時に、濡れた傘を持つ蓮司が、中へ滑り込んできた。彼の硬い手が紗月の手首をとらえ、玄関の鍵をかける。スリーピースの肩も、黒い髪も、冷たい秋の雨で濡れていた。雨を含んだシダーウッドと、冷たい水の匂いが、静かな玄関を満たす。「黒瀬さん、だめ……早く出て! リビングにも廊下にも、夫がカメラをつけたんです……!」紗月は恐怖に顔をこわばらせ、その胸を必死に押し返そうとした。けれど蓮司は、手にした小型の妨害装置のスイッチを、軽く切り替えた。天井や廊下のカメラは、まだ光っていた。彼はレンズではなく、手元の機器を確認した。「無線接続は遮断しました。常務のスマートフォンから、今この場所の映像を見ることはできません」低く落ち着いた声が、紗月の耳へ深く届く。「ただし、接続が切れたことは気づかれる可能性があります」大きな手が、薄いシルクのナイトガウンの紐を、するりとほどいた。そのまま片腕で腰を抱き上げ、リビングの向こう、45階の屋外テラスへ続くガラス戸を開け放つ。ザアアア――ッ!耳がふさがるほどの豪雨と、冷たい風が、夜空から降り注いでいた。港区の高層ビルの光が、激しい雨の向こうで宝石のようににじむ。雨の吹き込まない庇の奥、その深い影へ入り、蓮司は紗月の身体を手すり壁へ押しつけた。冷たい大理石に背中が触れた途端、息が詰まった。「ここ、外です……っ! 誰かに見られたら……!」冷たい風に震え、紗月は濡れたシャツの襟を必死につかんだ。蓮司は細い両脚を、自分の腰の両側へ強く引き上げた。秋雨の冷気と、やけどしそうな体温がぶつかる。紗月は息をすることさえ忘れかけた。肌の触れ合う音が、雨音に溶けていく。しっかりしたベストの生地が柔らかな素肌をこすり、目がくらむような熱を生んだ。「誰にも見えません。それに、この雨音が……奥様のお声を、すべて隠してくれます」引き締まった顎が、首筋へ深く下りてきた。熱い舌と歯が、鎖骨から胸元へ、かみしめるように触れていく。風に運ばれた冷たい雨粒が、ほてった二人の肌を流れ落ちた。冷たさと、煮え立つような悦びがぶつかり合う。かつてないほど背徳的な快感が、全身をのみ込んだ。「は……あっ……蓮司、さん……!」夫の監視網のただ中で。夫のペントハウスのテラスで。紗月は、突き上げてくる本能の声を、もう抑
last updateLast Updated : 2026-10-05
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9話. 夫の狂気
翌朝9時。45階のペントハウスのダイニング。外泊から戻った直哉は、強い酒の匂いと疲れをまとった顔で、食卓へ目を向けた。そこには紗月が座っていた。仕立てのよい黒いシルクのテーラードスーツを着て、エスプレッソを飲んでいる。きれいに流した黒髪。いつも悲しげに沈んでいた瞳には、冷たく、堂々とした力が宿っていた。何より、人形のように乾いていた妻の唇が、熟れたチェリーのように赤い。肌からは淡いシダーウッドの香りとともに、隠せないほどの艶やかな生気があふれていた。昨夜、テラスで別の男に抱かれた女の、濃い色香だった。自己愛に塗れた夫の本能が、不吉な警鐘を鳴らした。自分の手の中から抜け出し、誰かほかの男に支配されているような、生々しい変化。「お前……何だ、その格好は」険しく顔をしかめ、直哉が食卓へ近づいた。紗月は上等なボーンチャイナのカップを、かちりと音を立てて置き、冷たく、誇り高い目で夫を見上げた。荒々しい威圧を受けても、眉一つ動かさなかった。カップの持ち手から、そっと指を離す。昨夜見た帳簿の数字が、頭を離れない。直哉の言葉に身を縮める癖は、まだ残っていた。それでも、今日は先に目を伏せたくなかった。テーブルの下で、両足をしっかり床につけた。「外泊して帰るなり暴れるつもりなら、部屋で酔いをさまして寝てください。あなたの顔を見るだけで、吐き気がするので」「何だと? 吐き気? お前、本気でおかしくなったのか!」妻の冷たい軽蔑に、直哉の自尊心が爆発した。食卓の高級なエスプレッソカップを払い落とし、床にたたき割る。ガシャン!熱いコーヒーと鋭い陶器の破片が、大理石の上へ飛び散った。直哉は血走った目で、紗月の胸ぐらをつかもうと飛びかかった。「最近、どこの男と寝てやがる!? ベッドじゃ死体みたいだった女が、偉そうに夫へ説教か! まさか……あの秘書とヤッたのか!?」疑いと劣等感に目をむき、右手を振り上げた。頬を砕くような勢いで、その手が下りかけた瞬間。ガシッ!空気を切った手首が、鋼の枷に止められたように動かなくなった。つかまれた手首がねじられ、直哉の身体が横へ傾ぐ。「ぐあああっ!」骨を削られるような悲鳴が、口から噴き出した。入口から歩み寄り、その手首をねじ伏せていたのは、黒いスーツに銀の縁なし眼鏡をかけた蓮司だった。眼鏡の奥には、獣
last updateLast Updated : 2026-10-05
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10話. 裏金の帳簿
床の書類を見下ろした直哉の瞳が、激しく揺れた。【東城物産・債権者団交渉代理人委任状】【委任者:グローバル投資ファンド、ノクス・キャピタル・アジア】【受任者:統括専務・黒瀬蓮司/権限:東城物産の債権回収交渉、および経営陣の交代要求に関する全権】「な、何だよ……ノクス・キャピタル・アジア……統括専務、黒瀬蓮司……!?」直哉の唇が、がくがくと震えた。目の前にいるのは、3年間、自分の後始末をし、深々と頭を下げていた、しがない随行秘書ではなかった。世界の金融市場で〈企業ハンター〉と恐れられ、数千億円規模の資金を動かす、巨大資本の捕食者だった。犬のように使ってやっていると思っていた男は、実は、自分の首を折るために爪を隠していた巨人だったのだ。腹の底まで、冷たく凍りついた。「俺の下で汚れ仕事をしてた犬が……ノクスの役員だったってのか!?」直哉は我を失い、耳をつんざく声を上げた。蓮司は冷たい目で見下ろし、眼鏡を外して胸ポケットへ差した。鋭い目元に、それまで押さえ込んでいた獣の殺気が、むき出しになる。「秘書の職には、私の判断で就きました。必要な資料は、すでに確保しています」重みのある低音が、ダイニングに響いた。「常務が過去5年間に、海外のペーパーカンパニーを通じて横領した40億円の帳簿。それに、六本木の店やマカオのカジノで使い込んだ法人カードの決済明細の原本は、金融庁と検察へ提出済みです」「あり得ない……親父だ! 親父がお前を放っておくと思うのか!? 東城グループに、ひねり潰されるぞ!」「会長は資金難と税務調査の衝撃で倒れられ、集中治療室にいらっしゃいます。それから今朝、債権者団は常務の職務停止を要求しました。近日中に開かれる取締役会でも、議題に上がる予定です」食卓に座っていた紗月が、ゆっくりと立ち上がった。手には、裁判所への提出準備を済ませた、離婚訴状と仮差押申立書があった。端正な佇まいから漂う女王のような気迫が、膝をついた夫を圧した。「お父様の後ろに隠れて、くだらないことを言わないで、鷹宮さん。もう、あなたとは暮らしません。会社も、あなたの好きにはさせない」冷たく、はっきりした言葉に、直哉の身体から力が抜けた。ノクス側の専属警護員たちが入ってきた。震えてわめく直哉の襟元を押さえ、玄関の外へ引きずり出す。みじめな怒鳴り声が、廊下の
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