All Chapters of 夫に捨てられた夜、彼の秘書が訪ねてきた: Chapter 21 - Chapter 30

30 Chapters

21話. 懲役12年

東京・霞が関、東京地方裁判所第32刑事部の大法廷。厳かな静けさと、薄氷を踏むような緊張の中、被告人席に直哉が立っていた。くすんだ茶色の服に包まれた姿は、数か月前まで六本木を我が物顔で歩いていた、あの傲慢な御曹司とは思えなかった。剃っていないひげが顎を覆い、骨ばった指が柵をつかんだまま震えている。充血した瞳は傍聴席へ殺気を投げつけながら、不安定に宙をさまよった。乾いた唇は白くひび割れ、全身から、拘束された男のみじめさがにじんでいた。最前列には、仕立てのよいダークネイビーのスーツを着た紗月と蓮司が、並んで座っていた。紗月の冷ややかで優美な横顔は、法廷の空気まで凍らせそうだった。隣で影のように寄り添う蓮司の、眼鏡越しの目も、刃のように冷たい。自分を破滅させた妻と元秘書が、親しげに手をつないでいる。それを見た直哉は、血がにじむほど唇をかんだ。二人の手から、目を離せなかった。犬のように使っていた秘書に、妻も、会社も、名誉も奪われた。その屈辱が、骨を削るように喉を締めつけていた。紗月は視線に気づいても、手を引かなかった。蓮司も、彼女に代わってにらみ返したりはしない。指に温もりだけを伝えながら、二人は裁判長が入ってくるほうへ顔を向けた。「被告人、鷹宮直哉に対する業務上横領、背任、麻薬取締法違反および詐欺事件について、第一審の判決を言い渡します」裁判長の厳しい声が、大法廷に重く響いた。海外のペーパーカンパニーを通じて流出させた40億円。常習的な薬物使用と買春。会社の金を遊興費として使い込んだ悪質さ。裁判長は、その一つ一つを読み上げた。ホテルのスイートでの薬物使用映像や、横領に関する録音が証拠として挙げられるたび、傍聴席から深いため息が漏れた。弁護人はうつむいたまま、判決文の朗読を聞いていた。やがて裁判長が書面から目を上げ、被告人席を見た。直哉は、握っていた柵から手を離した。「被告人は、優越的な地位を乱用して企業の資産を私的に流用し、違法薬物の使用を繰り返すなど、その社会的影響は重大であり、反省の態度も認められない。よって、被告人を懲役12年に処し、28億円を追徴する」懲役12年。34歳の男が、人生の最も盛んな時期を、まるごと刑務所で過ごすことになりかねない判決だった。直哉の目の前が、真っ暗になった。「うあああっ! ふざけるな
last updateLast Updated : 2026-10-05
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22話. 代表取締役・一ノ瀬紗月

翌朝10時。丸の内、東城物産本社の1階グランドロビーと25階コンベンションホール。ビルの正面には、大きな金色の横断幕が掲げられていた。【株式会社イチノセ・グローバル発足式/一ノ瀬紗月・単独統括代表取締役就任式】ロビーには、日本の十大企業グループのトップや政財界の大物たちから届いた、何百ものユリの祝い花が、華やかな森をつくっていた。3年間、同族経営者たちの不正と放蕩に傷つけられてきた企業が、腐敗の鎖を断ち切り、新たな女王の時代を迎えたのだ。出社する社員たちの顔には、期待と高揚があった。ホールの重いチェリー材の扉が開き、シャンデリアのまばゆい光がこぼれる。純白のオーダーメイドのシルクのケープドレスを着た紗月が、レッドカーペットを踏んで壇上へ進んだ。細く白い首には、シンプルな5カラットのダイヤのネックレス。顎を堂々と上げた姿からは、世界を足元に置く女王の気迫が漂っていた。政略結婚の中で、ベッドでは人形同然だと嘲られていた、傷ついた女の姿はもうない。紗月は壇に上がる前に客席を見渡し、自分の名が記された演台へ向かった。わああっ――!大勢の報道陣と国内外の機関投資家が立ち上がり、雷鳴のような拍手を送った。紗月はマイクの前に立ち、揺るがない声で就任の挨拶を始めた。「イチノセ・グローバルは、過去の不正を調査し、その結果を公開します。まず、経営陣の責任を明らかにします。本日から、その仕事を始めます」力強い言葉に、広いホールが熱い歓声と拍手で満たされた。日本の財界に、新しい女性トップの時代が始まる瞬間だった。客席の最前列では、ダークネイビーのスーツに銀の眼鏡をかけた蓮司が、軽くうなずき、紗月へ魅惑的な笑みを向けていた。力を尽くして守り抜き、その席まで送り届けた女への、献身と深い誇らしさが、黒い瞳に揺れていた。目が合った瞬間、言葉のいらない震えと、甘い結びつきが行き交った。* * *就任を祝う公式の宴が終わった、午後11時。45階のペントハウス、そのルーフトップラウンジ。東京の夜景を足元に望むプライベートテラスで、紗月は冷たい夜風を受け、ワイングラスを傾けていた。街の灯が、隅田川に金色の波を描いている。靴を脱いで爪先を伸ばし、長い一日の緊張がほどけていくのを待った。こつ、こつ。背後で、聞き慣れた重みのある足音がした。グラスを持っ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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23話. 辞表とプロポーズ

月の光が降り注ぐ、45階のペントハウスのプライベートテラス。蓮司が差し出したネイビーのベルベットケースの中で、5カラットのオーバルカットのブルーダイヤが、星の光を集めたように輝いていた。紗月は開いたケースと、その隣の辞表を交互に見た。3年間、自分を見守っていた男が今、秘書という呼び名の外で、返事を待っている。銀色の月光の下で、指輪は紗月の澄んだ瞳のように、神秘的にきらめいた。男の指先は、やけどしそうなほど熱い。その視線には、世界のすべてを差し出しても惜しくないという、崇拝にも似た思いが満ちていた。胸の奥から、言いようのない涙がこみ上げてきた。指輪より先に目に入ったのは、ケースを支える手だった。いつも揺らぐことなく書類を渡していた指先に、今日は、力が入っていた。そのかすかな緊張を見つけて、ようやく実感した。自分の答えを待っている人の前に、今、立っているのだ。「今すぐ、お答えいただかなくても構いません。紗月さんが望まれるだけ、お待ちします」低く涼やかで、どこまでも優しい声が、夜風に乗って耳へ届いた。睫毛の先の透明な涙が、月明かりを受け、ダイヤのように光る。鼓動が抑えられないほど速くなり、熱い震えと涙があふれた。「蓮司さん……まだ、怖くなるときがあるんです。でも今は、あなたの前から逃げたくない」「わかっています。ずっとそばにいながら、もっと早く、お助けできませんでした」蓮司は震える手をそっと引き、自分の頬へ当てた。深い黒い瞳には、冷めることのない愛と、強く求める気持ちが渦巻いていた。重い呼吸が、紗月の指の一本一本を温める。「奥様が受けた仕打ちは、奥様のせいではありません。これからは、私が先に決めたりしません。一緒に、歩んでいただけますか」紗月は、自分の指がまだ震えているのを見た。その手で、彼の手の甲をそっと押さえた。「はい、蓮司さん。これからは、二人で決めましょう」うなずくと、蓮司が左手の薬指へ、ブルーダイヤの指輪を丁寧に通した。ぴたりと指になじむ感触。紗月の赤い唇から、こらえきれない吐息と、感極まったため息がこぼれた。彼の唇にキスをして、涙とともに答えた。指輪の重みがまだ不思議で、紗月は一度、手を開いてみた。蓮司は急かさず、その小さな仕草まで見つめていた。紗月は両腕を伸ばし、広く硬い首筋を、しっかり抱きしめ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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24話. 義実家の没落

丸の内、イチノセ・グローバル本社1階のグランドロビー。かつては数百万円のミンクのコートとダイヤのネックレスに身を包んでいた貴恵が、汚れた古い服で座り込んでいた。その後ろには、東城グループの甘い汁を吸っていた傍系親族が十数人、冷たい大理石へ額をつけていた。行き交う大勢の社員と報道陣が、その無残な姿をスマートフォンで撮り、呆れたように舌を鳴らした。何十年も名家の権力を振りかざした者たちの、自滅だった。享受してきた特権も傲慢さも、塵のように砕け散っていた。大理石の床に、老いた者たちの涙と鼻水が、汚く広がっていた。「紗月……! 社長に会わせておくれ! お願い、一度だけ、嫁に会わなくては!」貴恵は泣きながら、爪でロビーの床をかいた。債権者からの返済要求で財産は動かせず、田園調布の屋敷も失った。彼女たちに残されたのは、切羽詰まった物乞いだけだった。あれほど傲慢に嫁を踏みつけていた義母は、通りの物乞いよりも、みすぼらしく見えた。そのとき、正面玄関に漆黒のロールス・ロイスが、滑らかに止まった。完璧にスリーピースを着こなした蓮司が先に降り、後部座席のドアを丁寧に開ける。深いエメラルド色のシルクのパンツスーツに身を包み、紗月が降り立った。左手の薬指では、昨夜、蓮司がはめた5カラットのブルーダイヤが、秋の朝日を受け、まぶしく輝いていた。一歩ごとに、近寄りがたい財界の女王の威厳が漂う。ロビーへ入る前に、紗月は指輪の手を見下ろした。昨夜のプロポーズの言葉に、ガラス戸の向こうの叫び声が、一瞬重なる。紗月は手を開き、自分の足で扉をくぐった。蓮司は一歩後ろで、歩調を合わせていた。「さ、紗月……! うちの嫁!」貴恵が膝ではい寄り、革靴をつかんで、泥に汚れた顔ですがりつく。「取り返しのつかないことをしたわ……お願い、一族を助けて! 地下の安い部屋でも借りられるよう、1000万円だけ……いいえ、数百万円でも貸しておくれ! 年老いた姑が、このままじゃ道端で飢え死にしてしまう!」親族たちも、いっせいに床へ頭を下げ、涙を流した。かつて紗月を、子も産めない人形、出自の怪しい妾の子にも劣る下女と嘲り、法事の席で唾を吐いた者たちだった。紗月は冷たい目で足元を見て、軽く足を引いた。土のついた痩せた指が空をかき、そのまま床へ落ちた。貴恵の目の周りでは、涙とマスカラ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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25話. ロンドンでの休息

しばらくして、ロンドン・ヒースロー空港を出た専用車が、一軒の邸宅へ着いた。テムズ川の曲がりくねった流れを見渡す、リッチモンド・ヒル。その丘の上にたたずむ、静かなヴィクトリア様式のプライベートヴィラだった。秋の濃い川霧が、庭の赤いカエデや古風な石造りのアーチを、柔らかく包んでいた。リビングの暖炉では、レッドオークの薪がぱちぱちと鳴り、黄金色の温もりを放っている。名家の激しい権力争いも、夫の地獄のような暴言も、世間の騒がしい視線も届かない。二人だけの、守られた場所だった。湿った土の匂いに、暖炉の薪の温かな気配が溶け込んでいた。紗月は厚手の柔らかなクリーム色のカシミヤカーディガンを羽織り、湯気の立つアールグレイを両手で包み、窓の向こうのテムズ川を眺めた。3年間、一日として脚を伸ばし、安心して眠れなかった緊張の日々が、陽炎のように薄れていく。身体を押しつぶしていた疲れが、温かい紅茶とともに、ゆっくりほどけていった。カップを置き、窓に映る自分を少しだけ見た。誰かが入ってくる音に備えて、肩を張っている必要はなかった。扉へ傾きがちだった身体を戻し、今度は、川の流れる先を最後まで目で追った。「お寒くありませんか、奥様」静かな足音とともに、蓮司が背後へ来た。くつろいだ黒いカシミヤのニットとスラックス。それでも、しっかりした肩とすらりとした体格は、息をのむほど魅力的だった。手にしたアンティークのクリスタルグラスの中で、最高級のシングルモルトが金色に揺れている。「いいえ。ここでは、ドアの開く音にも驚かないんですね、私」振り返り、紗月は柔らかく澄んだ笑みを浮かべた。悲しげな氷の仮面の代わりに、愛される女の明るい生気が、目元に咲いていた。彼と向き合う今が、夢のように穏やかだった。「この3年は……朝、目を覚ますだけでも怖かったんです。今日はどの女の口紅や香水をつけて帰ってくるんだろう、お義母様はまた何を言うんだろうって。息をするのも、苦しくて……」蓮司はウイスキーを暖炉の棚に置き、細い肩を後ろから優しく抱いた。広い胸に背中がすっぽり収まった途端、胸の奥から、安堵のため息が漏れる。シダーウッドと淡いベルガモットが肺の奥まで届き、凍えていた心を温かく包んだ。「今日は、誰も来ません。紅茶をもう一杯、お持ちしましょうか」低く涼やかな声が、耳を甘くく
last updateLast Updated : 2026-10-05
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26話. 紗月の選択

ロンドン、リッチモンドのヴィラのドレッシングルーム。大きな全身鏡の前に立つ紗月は、息をのむほど大胆で、美しかった。かつては、夫の強要や義実家の厳しい目のせいで、首も鎖骨も覆う、窮屈な服ばかり着ていた。貞淑で、おとなしくあれ。息さえ詰まるような、その偽善的な縛り。だが今夜、自分で選んだのは、深いエメラルド色のバックレスのシルクドレスだった。背中が大きく開き、滑らかな背筋が、腰のかなり低い位置まで露わになっている。くびれに沿って流れる上質なシルク。歩くたび、深いサイドスリットから、白く引き締まった太腿がのぞく。乳白色の肌と、濃い宝石の色が鮮烈な対比をなし、危険なほど気高い官能を放っていた。鏡の瞳は、もう涙に濡れていない。自分の魅力を知った、女王の視線だった。紗月は胸を開き、鏡の前で一度、身体を回した。裾が足首に引っかからないか確かめ、襟元を引き上げかけた手を下ろす。誰かの顔色を見て、着替える必要はない。今日は、自分で選んだ服で出かけたかった。こつ、こつ。ドアが開き、黒いタキシードを端正に着こなした蓮司が入ってきた。鏡越しに、エメラルドのドレスに包まれた、まぶしく大胆な背中を見た瞬間、その黒い瞳が獣のように深く沈む。眼鏡の奥で目が光り、呼吸が目に見えて荒くなった。完璧に抑えられていたポーカーフェイスが、一瞬で崩れた。「奥様」蓮司は大股で近づき、露わな背中へ、大きく熱い掌を置いた。背骨を一つずつなぞる指に、肌の上を電流が走る。「今夜は、私の集中力が試されそうです。よく、お似合いです」耳元の低いささやきに、紗月は以前のように恥じらうことはなかった。赤い唇を持ち上げ、挑むように微笑む。ゆっくり振り向き、タキシードの襟を両手でつかんだ。整えられた黒い蝶ネクタイを、指先で少し引く。そして自分から、彼の赤い唇へ深く口づけた。「……っ」蓮司の瞳が、驚きと歓びで大きく揺れた。いつも受け身で、触れられるたびに震えていた女が、今は自らの欲望を示し、男を翻弄している。紗月の手が高級なタキシードの上着を脱がせ、床へ落とした。シャツのボタンを、上から一つずつ開いていく。「蓮司さん。今日は、言葉が出てこないんですか?」引き締まった胸を優しくなで、彼を一面の鏡へ押しつけた。熱い体温と激しい鼓動が、掌にはっきり刻まれる。「誰に見
last updateLast Updated : 2026-10-05
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27話. ファッションウィーク

ロンドン・チェルシー、サーチ・ギャラリー前の広場。50か国以上から集まったファッション誌や放送局の、何百ものカメラが、花火のようにフラッシュを放っていた。ロンドン・グローバル・ファッションウィーク、VVIPガラディナーのレッドカーペットだった。ハリウッドの大スター、欧州の王族や貴族、世界の有力企業のトップが彩る華やかな舞台へ、漆黒のロールス・ロイス・ファントムのリムジンが、滑るように止まる。ドアマンが扉を開けると、英国式の黒いタキシードを着た蓮司が、先に降り立った。まっすぐな肩。冷たく光る銀の眼鏡。その奥から漂う、巨大資本を率いる男の気品。報道陣から、感嘆の声が漏れた。蓮司が恭しく手を差し出し、車内の女を丁寧にエスコートした。紗月の姿が現れた途端、シャッターの音すら止まるかと思うほど、広場に息をのむ気配が広がった。深いエメラルド色の、バックレスのシルクドレス。低く開いた背中から、滑らかな背筋が大胆にのぞいていた。歩くたび、深いスリットの間に白い脚がのぞく。細い首元では、シンプルな5カラットのダイヤのネックレスが、まばゆく光っていた。優雅で、危険なほど魅惑的だった。「Who is that stunning lady? Look at her back!」「Ms. Ichinose! Mr. Kurose! Over here! Camera one, please!」海外メディアの声とフラッシュが、滝のように降り注いだ。日本人女性の企業トップが放つ、冷ややかで圧倒的な気品と色香に、人々は目を奪われた。紗月は余裕のある笑みを浮かべ、隣に立つ蓮司の硬い腕へ、そっと自分の腕を絡めた。二人のシルエットが、フラッシュの中で、一枚の名画のように浮かび上がる。腕越しに伝わる熱が、紗月を確かに支えていた。過去の地獄のような傷は、もう彼女の堂々とした歩みを止めなかった。ガラディナーのメインホールへ入ると、欧州最大級のラグジュアリーハウス、LVMの総括会長が、自らシャンパングラスを持って近づいてきた。「一ノ瀬社長、お噂はかねがね。ぜひ当グループと、アジアのラグジュアリー流通網における独占的な提携を、結んでいただきたい」紗月は流暢で品のよい英国式の英語で会話を主導し、数百億円規模の国際流通契約の主導権を、一気につかんだ。提案された流通範囲
last updateLast Updated : 2026-10-05
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28話. 最後の面会

東京都府中市。府中刑務所の特別面会室。厚い防弾ガラスの向こう、冷たい鉄の椅子に、受刑者番号〈7140〉を胸につけた直哉が縮こまっていた。ひげに覆われた青白い頬。深く落ちくぼんだ目。自傷行為のあとで白い包帯を巻かれた手首が、細かく震えている。かつて六本木を我が物顔で歩いていた、傲慢な御曹司の姿はなかった。そこにいるのは、絶望と狂気にむしばまれた、独房の重罪人だった。襟元は皺になり、包帯の端が少しめくれていた。壁をかき続けた爪の下には、乾いた血がこびりついている。二人の刑務官が左右で、その動きを警戒していた。ガチャリ。重い鉄扉が開き、紗月が入ってきた。純白のオーダーメイドのパンツスーツに、シンプルな黒いヒール。その姿は、一筋の聖なる光のように、冷たくまぶしかった。左手の薬指には、東京のテラスで蓮司がはめてくれた、5カラットのブルーダイヤが光っていた。ガラスの向こうの暗さと、彼女の明るい気配が、鮮烈な対比を描く。一歩ごとのヒールの音が、面会室の静けさを支配した。ガタンッ!直哉が狂ったように椅子を蹴って立ち上がり、両手でガラスをたたいた。「紗月……! 紗月、来てくれたんだな! 頼む、ここから出してくれ!」受話器を通じ、切羽詰まった叫びと、みじめな哀願が響く。男は涙と鼻水を流し、冷たいガラスへ額をすりつけた。「俺が全部悪かった! 土下座する! 足の指だってなめる! だから離婚だけは取り消して、減刑の嘆願書を書いてくれ! 毎晩、身体が腐っていくみたいなんだ! ここで12年も過ごしたら、俺、本当におかしくなって、自殺するかもしれない! 助けてくれ、紗月!」醜く、みじめな懇願だった。紗月はゆっくり受話器を耳へ当て、唇に冷たい笑みを浮かべた。夫の必死の叫びを聞く瞳は、少しも揺れなかった。むしろ、自分が受けてきた屈辱を思い返し、冷たい歓びを感じていた。「受刑者番号7140、鷹宮直哉さん」冷たく澄んだ声が、男の耳を凍らせた。「この3年間、あなたが口癖のように言っていたこと、覚えていますか。肌に温もりのない人形みたいな女だと、私の頬を打って、庭に吸い殻を投げ捨てていましたよね」「そ、それは……酔ってたんだ……頼む、許してくれ……!」「私が人形だったんじゃない。あなたの前でだけ、身体を固くしていなければならなかったの」紗月はバッ
last updateLast Updated : 2026-10-05
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29話. 二人だけの誓い

ロンドン、リッチモンド・ヒル。テムズ川が曲がりながら流れる丘の上に、古風な邸宅がたたずんでいた。秋の黄昏が空を深い赤と黄金に染め、水面にまぶしいきらめきを散らしていた。日本での恐ろしい過去と悪縁を断ち切って戻った二人の前には、静かで雄大な自然の祝福だけがあった。騒がしい招待客も、偽善に満ちた上流社会の計算も、まばゆいカメラの光もない。ただ二人のための、清らかな結婚式だった。川風に運ばれる湿った芝生と赤いバラの香りが、テラスを満たしていた。どんな華やかなホテルの式場よりも、二人には神聖な場所だった。紗月はふと口を開き、それから笑って、顔を伏せた。ここには、早く話せと急かす客はいない。誰かが書いた挨拶を暗記した、あの結婚式とは違った。言いたいことが多すぎて、何から話そうか、少し迷っているだけだった。蓮司は先に話さず、彼女の手が伸びてくるのを待っていた。庭に面したテラスの、白い大理石の手すりの前。紗月は、余計な飾りのない、優美なオフホワイトのシルクのスリップドレスを着て立っていた。秋風に黒髪が柔らかく揺れ、夕日に肌が透き通るように光る。この世界で、最も美しい女王の姿だった。向かいには、ネクタイをせず、白いシルクシャツのボタンを少し開けた蓮司が立っていた。かつて冷ややかだった深い瞳は、今、紗月への敬愛と、ひたむきな愛情に濡れていた。紗月の左手の薬指で、5カラットのブルーダイヤが澄んだ光を放つ。手を動かすたび、その表面に赤い夕日がよぎった。「蓮司さん」紗月は自分から手を伸ばし、広い胸へ白い掌を重ねた。シャツ越しの、力強い鼓動が、指先から全身へ伝わってくる。「午前2時、私があのシャツを洗っていたとき、あなたが入ってきたんですよね。あのとき、止まってくれなかったら、今ここには立っていなかったと思う。私の言葉を聞いて、待ってくれて、ありがとう」長い睫毛の先に、透明な涙が浮かんだ。「あなたがそばにいてくれたから、ここまで来られました。これからは、私もあなたのそばにいます。蓮司さん、一緒に暮らしましょう」蓮司は震える手を取り、深く唇を押し当てた。熱い息が、手の甲を焼くように包む。「初めてお会いしてから、ずいぶん遠回りをしました。これからは、何があっても、まず紗月さんへお話しします」低く澄んだ声が、黄昏のテムズ川へ、長く響いた
last updateLast Updated : 2026-10-05
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30話. バラの庭(完)

二人だけの誓いから1年余りが過ぎ、2度目の春が訪れた。よく晴れた日。ロンドン、リッチモンド・ヒルの邸宅。庭いっぱいに咲き誇る白いバラへ、5月の温かな光が降り注いでいた。その間、日本と世界の財界は、目を見張るほど大きく変わっていた。古く腐った過去の残滓は消え、新しい秩序が黄金色に根づいていた。紗月が率いるイチノセ・グローバルは、欧州のラグジュアリーハウスとの独占流通網を掌握し、世界十大ファッション・流通企業の一角へ躍り出た。米誌フォーブスは、紗月を〈世界で最も影響力のある女性経営者〉の1位に選び、その姿を表紙に掲げた。かつて名家の圧力の中で、人形と嘲られていた女が、今は世界経済を動かす大物として君臨していた。彼女の一言で、世界のファッション関連株が揺れる。人々は彼女を、生きた女王と呼び、賛辞を惜しまなかった。一方、破滅へ落ちた者たちの末路は、みじめだった。府中刑務所に服役する元夫の直哉は、心の状態が大きく悪化し、治療を受けていた。判決を覆してやるという勢いも、紗月を呼びつけようとする執念も、長くは続かなかった。男は今も壁をかいていたが、その権力は跡形もなく消えていた。傲慢に嫁を踏みにじっていた貴恵は、ホームレス支援施設を転々とし、毎日、嫁の名を呼び続けた末、認知症と診断され、療養施設で暮らすようになった。愛人の絵里香も、懲役5年の判決を受け、服役していた。彼らから伝えてほしいと託される頼みごとも、もう、紗月の日常を揺らさなかった。* * *緑の芝生に立つ、白いパラソルの下。紗月は、穏やかなティータイムを過ごしていた。腕の中には、天使のように眠る、生後3か月の元気な男の子がいた。二人の深い愛の結晶であり、この帝国のたった一人の後継者だった。白い頬を、柔らかな春風がなでていく。子を見つめる紗月の笑みには、尽きない慈しみと、安らぎがあった。冷めかけた紅茶を飲もうとしたところで、子どもが身じろぎした。紗月はカップをそのままにした。今は、言わなければならない言葉も、急いで下す決断もない。小さな背中を一度なで、もう一度、椅子へゆったり身を預けた。さく、さく。庭の小道を、きれいなリネンのシャツを着た蓮司が歩いてきた。ノクス・キャピタル・アジアの統括会長であり、イチノセ・グローバルの最高経営パートナー。それでも紗月の前に
last updateLast Updated : 2026-10-05
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