All Chapters of 私を殺す方法を検索した夫に、同じ恐怖を返します: Chapter 11 - Chapter 20

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11話. ひび割れの始まり

鼻を刺す病院の消毒薬の匂いが、生臭く感じられた。大学病院の整形外科、VIP病棟の個室で、修司は生ける屍のようにベッドに横たわっていた。右の鎖骨に金属のピンを三本入れる手術を受けていた。縫合部はドレッシング材で覆われ、腕は装具に支えられている。肋骨も三本折れ、深く息をするたびに脇腹が痛んだ。麻酔がまだ抜けきらず、口元から唾液をこぼしながら、どうにか目を開けた。ぼやけた視界に最初に入ったのは、窓際で腕を組む白石玲奈の姿だった。「少しは目が覚めた?」玲奈は、彼の怪我より、自分の身に起きたことを先に問いただしそうな顔をしていた。心配より苛立ちの勝る声だった。「玲奈……体が……うっ、息が……うまく、息ができない……」乾ききった唇を動かし、修司は金属音のようにかすれたうめきを絞り出した。肋骨を傷めているせいで、一言発するたび、胸全体を刃物でえぐられるような激痛が全身を締めつけた。「痛いのはわかってる。でも、先に答えて。昨日のマンションの浴室、あなたが何かしたの?」ヒールを鳴らして大股に近づき、玲奈は金属のベッド柵を、バンと叩いた。「な……何だって……?」「聞いてるでしょう! あの床に何を塗ったの? 香水だって、あなたが選んで、私の首につけた。今度も私が先に入ってたら、そうなってたのよね。私を消そうとしたの? 事故に見せて、誰にも気づかれないように?」玲奈の目には、狂気じみた不信と敵意が燃えていた。「何……何、馬鹿なこと言ってんだ! 俺がお前を殺すわけないだろ! 俺は……ぐああっ!」悔しさと怒りで無理に上体を起こしかけ、手術した肩へ走った痛みに、修司は悲鳴を上げた。額と首筋から雨のように冷や汗を流しながら、息をあえがせる。「あの床……紗月を殺すために、書斎の金庫に隠してたフッ素シリコーンのスプレーと、同じだったんだ! 踏んだ瞬間に滑った! いつもの床とは違ったんだよ!」「だったら、どうしてその薬品が、私たちしか知らない部屋の浴室にまいてあるのよ!」玲奈の甲高い声が、狭い病室の壁を打った。修司の下顎が、目に見えて震えた。麻酔が残っていても、表情だけははっきりと強張っていった。「誰かが……誰かが、あの部屋に入ったんだ」修司は一瞬、病室のドアを振り返った。外で聞かれていないかと声を落とそうとしたが、先に息が乱れた。玲奈はドアなど見もしなかった。返
last updateLast Updated : 2026-10-06
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12話. 背筋の凍る見舞い

ベッドから離れかけていた玲奈が、そのまま固まった。私は彼女と修司を、順に見た。玲奈の血の気のない唇が、わなわなと震えていた。ソファに置いたブランドバッグを慌ててひったくり、修司のベッドから、さらに三歩下がった。修司は腕を装具に預けたまま凍りつき、目だけをぱちぱちと動かしていた。「さ、紗月……どうして、ここが……」「あなた! どういうことなの、これ……っ、ねえ!」抱えていたフリージアのかごを、落とすようにサイドテーブルへ置いた。崩れ落ちるようにベッドへ駆け寄り、無事な左手を両手でぎゅっと握った。大粒の涙が目からこぼれ、乾いた修司の手の甲を熱く濡らした。細かな震えが、指先を通して伝わってくる。修司は手を引き抜くこともできず、固まっていた。「会社の総務から急に連絡が来たの。地方の工場へ出張するって言ってたのに、港区の大学病院の救急に運ばれたって……鎖骨も肋骨も折れたって聞いて、私……。一体どうしたの? ねえ、ちゃんと話してよ!」この世で一番無垢で、悲しみに暮れる妻の泣き声。修司は滝のように冷や汗をかき、出入り口のそばに立つ玲奈を、必死に横目でうかがった。玲奈は慌ててマスクを耳にかけ、わざとらしく咳払いをした。「あの……ご主人は、うちのギャラリーのVIPのお客様なんです。お仕事の打ち合わせでいらしたとき、ロビーで足を滑らせて。それで、私が救急車を呼びました。奥様がいらしたなら安心です。では、私はこれで」こそこそ逃げ出そうとする玲奈の背に、私は涙で濡れた顔を向け、深く頭を下げた。「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。学芸員さんがいてくださらなかったら、夫は誰にも助けてもらえなかったかもしれません。このご恩は……必ず、お返しします」――あなたが流す血と涙で、必ず返してあげる。白石玲奈。目が合った。玲奈は私の言葉の終わりが引っかかったように一瞬止まり、それからマスクを直して病室を出ていった。カチャリ。重いドアが閉まり、二人だけになった部屋へ、沈黙が落ちた。私は椅子を引き、修司の枕元へ寄せて座った。バッグから、朝、自宅できれいにむいてきたリンゴの入った保存容器を取り出す。銀色のフォークで厚めの一切れを刺し、震える乾いた唇の前へ、優しく差し出した。「ほら。朝から何も食べてないでしょう。一口食べてみて」修司はまるで青酸カリのつ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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13話. 地下の影

修司が退院した日の深夜、日付が変わってしばらくたったマンションの地下駐車場は、ひっそりとしていた。地下二階、Bエリア十四番のコンクリート柱の横。毎日の通勤に使う私のシルバーのセダンが、青白い蛍光灯を浴び、冷たい金属の輪郭を浮かべていた。行き交う人は一人もいない。換気扇の重い機械音だけが、低く響いていた。エレベーターのドアが静かに開き、鈍く不規則な音が、床をこすりながら近づいてきた。コツ、コツ。ずっ。右腕を装具に預けた、桐谷修司だった。手術した鎖骨をかばうため、体が片側へ傾いていた。一歩踏み出すたびに額へ冷や汗が浮かんだが、車から目を離さなかった。玲奈から浴びせられる催促に押されて降りてきた修司は、体の痛みより、計画が狂うことを恐れていた。私の車の、運転席側の前輪の横で足を止めた。何度も周囲を見回し、肋骨のあたりを押さえながら、車の下へ体を押し込んだ。「うっ……げほっ、ぐっ……」体を動かすたびに痛みが走り、顎が震えた。それでも戻らなかった。翌朝、私がこの車に乗る。その考えが、彼を車の下へ押し込んでいた。ポケットから、工業用のダイヤモンド錐と、先の鋭い小型ペンチを取り出した。暗い車体の下で、修司の手がしばらく動いた。肩がどこかに当たるたび、歯を食いしばる音がした。修司はブレーキホースに手を加えた。工具の先が動くたび、短い摩擦音がした。朝になれば、私が何も知らずに運転席へ座ると信じている顔だった。何度もエレベーターをうかがっては、また車の下へ頭を潜らせる。今ならやめられるのに、その手を引かなかった。この痕跡も、事故でごまかせると思っていたのだろう。私は彼が車から離れるまで、目をそらさなかった。きっ、ぎりっ。黒ずんだブレーキフルードが一滴、修司の手の甲と、冷たいコンクリートへ落ちて広がった。修司は口の端を不気味につり上げ、油のついた手をズボンへこすりつけた。「紗月……これで終わりだ。明日の朝、通勤途中にガードレールへ突っ込んで、骨も残らないくらい燃えるんだよ」車の下から這い出すと、床へ飛んだ油を布でこすって消した。肩を抱え、エレベーターへよろめきながら去っていく、卑劣で醜い背中。その殺人に着手した一部始終は、私の車のドライブレコーダーと、向かいの柱の隙間に隠しておいた4Kの赤外線ナイトビジョンカメラに、一秒も途切れず記録されていた
last updateLast Updated : 2026-10-06
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14話. 罠の交換

午前二時四十分。民間のフォレンジックチームが持ち込んだ、特殊な低騒音の油圧リフトが、素早く、正確に私の車を持ち上げた。ラテックス手袋をはめた整備士が、修司の細工したブレーキホースを取り外した。損傷箇所が見えると、久世が確認時刻を書き留めた。映像で修司の手が動いていたのと、同じ場所だった。「損傷箇所は鑑定を受ける必要があります。映像と部品は、別々に保管します」久世弁護士は、証拠品番号を貼った袋を確認しながら言った。傷つけられたホースは、その中へ単独で収められた。「今なら通報できます。身柄を拘束できるとお約束はできませんが、捜査を求めるには十分です。これ以上、待つ理由はありません」「先生、まだです。あの二人は、私が事故に遭うと信じて出発するはずなんです。自分たちの車で何が起こるかなんて、考えてもいない」久世は答えず、袋の口を見下ろした。私は彼が記した時刻を目でたどった。助けてほしいと言った言葉が、いつの間にか別の意味に変わっていた。今、自分が何を頼んでいるのか、もう目をそらせなかった。それでも、先ほど駐車場で口にした言葉を、取り消しはしなかった。整備チームはすぐに、新品の純正ブレーキホースを取りつけ、新しいブレーキフルードを補充し、制動圧を元に戻した。整備が終わったあとも、私はしばらく車を見ていた。ホースが新品になっても、指先に残った緊張までは消えなかった。整備が済んでも、私は家へ戻らなかった。夜が深まるほど、駐車場は静かになっていった。久世が去ってからも、携帯を手放せなかった。通報ボタンを押せば、今夜はここで終わる。画面を消し、またつける間も、玲奈の赤いポルシェが停まる麻布のレジデンスの住所が、頭から離れなかった。あの車に手を加えた瞬間、もう被害者だけではいられなくなる。わかっていた。それなのに、しばらくして私は、そのレジデンスの駐車場に立っていた。車から手を離したとき、修司が私の車に残したのと同じ種類の損傷が、玲奈の車にも残っていた。その痕跡を長くは見ていられず、先に目をそらした。修司が私に残した証拠を保管することと、あの二人の車へ同じ恐怖を仕込むこと。それは、まったく別の行為だった。あとで誰かに聞かれても、その違いを知らなかったふりはできない。駐車場を出たときには、午前四時を過ぎていた。東の空に、青みがかった夜明けの光がにじんでいた。
last updateLast Updated : 2026-10-06
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15話. 制御不能の疾走

中央自動車道の下り線。急なカーブを伴う下り坂。警告灯がつく直前まで、車内には二人の笑い声が響いていた。玲奈の真っ赤なポルシェ911カレラは、制限速度を超えたまま、下りカーブへ差しかかっていた。「修司さん、もっと音量上げてよ。あの鈍くてうっとうしい紗月の葬式が済んだら、すぐ南フランスへ行くんだからね」ブランドのサングラスを頭へ押し上げ、玲奈は頬を上気させながら、ためらいなくアクセルを踏み込んだ。重低音の排気音が、心地よく耳を打つ。助手席に斜めに体を預けた修司は、装具の縁が当たる皮膚をかきながら、卑しい笑みを浮かべた。「南フランスのニースに、地中海が一望できる海辺のヴィラを見つけてある。紗月にかけた二億五千万の傷害保険と、実家の遺産を合わせたら四億以上だぞ。二人で一生、金の心配もせず贅沢に暮らしたって、余るくらいだ」妻が死んだあとの住まいと旅先を話す間、どちらも声を落とさなかった。紗月の葬儀は、もう済んだことのように扱われていた。だが、その甘い蜃気楼は、前方のカーブで速度を落とそうとした瞬間、砕け散った。先を走る大きなダンプトラックとの車間を空けようと、玲奈が靴のつま先をブレーキペダルへ置いた。すかっ。しっかりと押し返してくるはずの油圧の抵抗が、まったく感じられなかった。腐ったスポンジを踏むように、何の手応えもなくペダルが沈み、床まで落ちた。「え……あれ? 何、これ」玲奈が眉間を寄せた。首をかしげ、立て続けに三度、ブレーキを踏みつけた。すかっ、すかっ、すかっ。車は、玲奈が思うようには速度を落とさなかった。足を離し、また踏んだ。さっきからおかしい感触が、元へ戻らない。メーターの警告より先に、前の車が近づいてくるのが目に入った。笑っていた顔から、一瞬で表情が消えた。修司もようやく、座席から身を起こした。ピピピピッ!ポルシェのフルデジタルメーターの中央に、真っ赤な警告が、悲鳴のように表示された。【ブレーキシステム重大故障:制動油圧喪失】「修司さん! ブ、ブレーキが利かない! 車が……全然止まらない!」玲奈の甲高い悲鳴が、狭い車内を打った。「何だって? 何で利かないんだよ! もっと、最後まで踏めよ!」修司は怪我した腕をばたつかせ、シートベルトを握って怒鳴った。「踏んでる! 体重をかけて踏んでるのに、ペダルが床にくっついたまま、戻
last updateLast Updated : 2026-10-06
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16話. エアバッグの向こうの争い

潰れたポルシェの車内は、火薬の煙と焼けた合成ゴムの匂いで、息が詰まりそうだった。開いた二つのエアバッグの間に白い粉塵が舞い、狭い空間を吹雪のように覆っていた。「げほっ……う、あああっ! 肩が! 肋骨が……!」助手席に半ば埋もれた修司が、血を吐くような悲鳴を上げた。衝突の衝撃で手術した肩がひねられ、痛みが広がっていた。装具のひももねじれ、右腕がまともに動かせない。裂けた唇の血が顎を伝って落ちた。大きく息をするたび、傷めた脇腹が引きつった。運転席の玲奈も、無残な姿でうめいていた。開いたエアバッグで顔を強く打ち、鼻血を流していた。切れた額から流れる血が、崩れた化粧と混ざっていた。血のついた手をぼんやり見下ろしていた玲奈が、ゆっくりと顔を向けた。血走った目が、修司の顔で止まる。「桐谷修司……」金属をこするようなかすれ声で名前を呼ぶと、血のついた爪を立て、修司の胸ぐらを乱暴につかんだ。「このクズ……あなたなのね? 私の車のブレーキホース、あなたが切ったんでしょう!」「な……っ、何、馬鹿なこと……!」「昨日の夜、紗月の車のブレーキの配管に、錐で穴を開けてやるって、大口たたいてたじゃない! なのに、どうして私の車が、高速の下り坂でブレーキが利かなくなって、こんなことになるのよ! 私を……私を殺して口を封じて、紗月の二億五千万もギャラリーも、全部独り占めするために、私の車に細工したのね!」修司が答える前に、玲奈はまた胸ぐらを引いた。自分の車の故障と、修司が得意げに話していた計画。それを切り離して考えられなかった。修司が反論しようと口を開くと、彼女は襟をさらに強くねじった。理性を失った玲奈が、修司の装具をつかみ、激しく揺すった。「ぎゃああっ! この馬鹿女、手を離せ! 骨が折れてるんだぞ!」修司は叫び、無事な左手で玲奈の手首を乱暴に押し返した。「死ぬためにお前の車を壊して、わざわざ助手席に乗るかよ! お前こそ……二億五千万を独り占めするために、俺を乗せてわざと壁にぶつかったんだろ、この毒蛇みたいな人殺し!」潰れた車の中でも、二人は互いを離さなかった。玲奈は修司の目の際を爪で引っかき、修司はその腕をつかんで押しのけた。狭い座席の間で、罵声が入り乱れた。かつて永遠の愛をささやき合い、二億五千万円の夢を分かち合った共犯者たち。その関係は、血と悲鳴と憎し
last updateLast Updated : 2026-10-06
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17話. 幽霊のいる家

夜が更けるほど、修司は家の中でさえ、休める場所を見つけられなくなっていた。大学病院で治療を受けて帰宅し、右腕の装具を直す。鎖骨と肋骨の痛みのせいで、まず座る場所を選んだのに、いざ寝室へ入ると、横になれなかった。目を閉じた途端、闇の中から見えない刃が首筋へ向けられているような錯覚に襲われた。目は血走り、乾いた唇は白く皮がむけていた。「どうして……どうして、全部同じことが起きるんだ?」リビングの大理石の床にうずくまり、爪を噛みながら、修司は独り言を繰り返した。最初は香水だった。注文した薬品の説明で見た症状、そのままで玲奈が倒れた。次は浴室。自宅の浴室に使うつもりだった滑剤と同じものが、二人のマンションにもまかれていたらしい。足が滑った感触と、ひねられた肩の痛みがよみがえった。そして、ブレーキ。紗月のセダンの下へ潜り、細工した場所を思い出すたびに、玲奈のポルシェの中で聞いた悲鳴と衝突音が耳を打った。一度だけなら、信じられない偶然だと思えただろう。二度でも、不運が続いただけだと自分をだませたかもしれない。だが、三度だ。検索窓に打ち込んだ言葉が、一つずつ現実になって返ってきた。修司は、もう偶然という言葉を口にできなかった。「誰かが……誰かが俺の頭の中を、全部見てる。俺の計画を全部、手のひらに乗せて、もてあそんでるんだ!」背中を、氷のような冷や汗が流れ落ちた。極端な被害妄想と、押し寄せる恐怖が、彼の自信と理性を粉々にしていた。怪我だらけの体をよろめかせ、うなるように叫びながら立ち上がった。スマートフォンにダウンロードした盗聴器・隠しカメラの探知アプリを起動し、画面をあちこちへ向けながら、書斎へ駆け込んだ。「どこに隠した……どこから見てるんだ、出てこい!」本棚の専門書や医療関係の書類を、片腕でなぎ払い、床に落とした。怪我した右腕を大きく上げられず、左手だけでやるため、動きはいっそう乱暴で鈍かった。壁の家族写真を外して裏板を調べ、デスクライトも電源タップも、一つずつひっくり返した。結婚式の写真が床へ落ち、ガラスの内側で斜めになった。写真の紗月は、修司の腕につかまって笑っていた。その顔を見るなり、修司は額を裏返した。壁のコンセントカバーをカッターナイフで乱暴に剥がし、引き出しの底を刃で引っかきながら、わめき続けた。家中が、爆弾を落とされた戦場の
last updateLast Updated : 2026-10-06
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18話. 断頭台の検索窓

冷たい指先が首筋に触れた瞬間、修司は悲鳴すら上げられず、石像のように固まった。強張った首をゆっくりと回し、私を見上げる。恐怖と不信で白くなった目に、いつもと変わらずほほ笑む妻の顔が映っていた。「書斎、どうしてこんなに散らかってるの? 会社の大事な書類を探して、一晩中大変だったんだね。鎖骨を手術したばかりなのに、そんなに無理したら、骨がつかなくなっちゃうよ」床に落ちた分厚い専門書を一冊拾い、机の上へ静かにそろえて置いた。どこまでも献身的な妻の声で、低く言う。「寝室で少し寝てきて。好きな牛肉ときのこの雑炊、作っておくから」修司は生ける屍のようによろめき、書斎から寝室へ逃げていった。ドアが閉まるのを確かめてから、私は机の上の古いThinkPadへ視線を向けた。今度は、私が知っていることを、修司自身の目で見てもらうつもりだった。***午前八時。一晩中、恐怖に苦しんだ修司は、寝室のベッドに横たわっていた。眠る前に薬を飲むのは見たけれど、今どれほど深く眠っているかはわからない。荒い寝息が、ドアの隙間から漏れていた。私は紺のスーツにトレンチコートを羽織り、出勤の支度をすっかり整えてから、書斎へ入った。修司のサブノートパソコンを起動する。毎晩、殺人計画を立てるのに使っていたGoogle Chrome。白い検索欄へカーソルを置き、一文字ずつキーを打った。カタ、カタ、カタ。【夫が殺人犯だった場合の対処法と刑事告訴の手続き】青いEnterキーを押すと、殺人の予備行為における身柄拘束の要件、配偶者に対する刑事告訴の手続き、デジタルフォレンジックによる証拠の効力を説明する法律情報が、画面いっぱいに浮かんだ。画面の明るさを、最大の百パーセントにした。そしてキーボードの真ん中へ、刑事事件を専門とする久世崇文の名刺を一枚と、修司がひそかに加入していた二億五千万円の傷害保険の証券のコピーを、きちんと置いた。名刺と保険の書類を残し、私は出勤した。彼がどちらを先に手に取るか気になったけれど、確かめるために戻りはしなかった。***午前十時十五分。研究室のモニターに、修司のノートパソコンのウェブカメラ映像が、リアルタイムで表示された。目を覚まし、肩をかばいながら書斎へ入ってきた修司が、水を飲もうと机の前の椅子へ、どさりと座った。そして、画面の大きな検索語と、そ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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19話. 幻覚の沼

通話が切れたあとも、書斎を満たす青白いモニターの光が、修司の血走った目を錐のように刺していた。【夫が殺人犯だった場合の対処法と刑事告訴の手続き】修司は画面をまともに見られなかった。視界に残るのは、名刺に重なった保険証券だけ。自分が隠していた書類が机の真ん中に広げられている。それは、画面のどんな文章よりも明白だった。キーボードの手前にきちんと置かれた、刑事事件専門の弁護士、久世崇文の金文字の名刺。そして紗月に無断で、彼女の同意もなく実印を持ち出して契約した、二億五千万円の傷害保険の証券のコピー。「あ……あああっ! うああああっ!」修司は両手で乱れた髪をかきむしり、冷たい書斎の床を転げ回った。息が喉元で詰まり、心臓が折れた肋骨を突き破りそうなほど暴れていた。ほとんど眠れていないせいか、視界が揺れた。薄暗い本棚の隙間という隙間に、誰かが潜んでこちらを見ている気がした。剥がれた壁紙の模様まで、紗月の口元に見えた。『骨が折れただけで、本当によかったね』『頭から床にぶつかってたら……もう二度と会えなくなるところだったでしょう』病室で紗月に言われた言葉が、何度も耳によみがえった。実際に聞こえる声ではないとわかっていても、修司は繰り返し後ろを振り向いた。喉元を押さえ、空えずきを漏らした。夜明け前に首筋へ触れた、紗月の冷たい指の感触が、まだ残っていた。氷水に浸かった毒蛇が首を這い上がるようで、全身が総毛立った。「俺を殺すつもりなんだ……あいつ、最初から全部知ってて、少しずつ俺を切り刻んでるんだ!」修司は震えながら、書斎を飛び出した。地下駐車場へ降り、レンタカーに乗り込むと、狂気に追われる獣のように、東京郊外の廃物流倉庫の空き地へ向かって、車を走らせた。そこでは、事故で顔中を圧迫包帯に覆われ、黒いサングラスをかけた玲奈が、苛立たしげに煙草を吸っていた。彼女がドアを開け、助手席に乗るなり、修司は胸ぐらをつかんだ。涙も鼻水も流れるままに叫ぶ。「自首しよう、玲奈! 頼むから、警察に自首しよう! 紗月は全部知ってる! 弁護士を雇って、俺のパソコンに名刺まで置いてあったんだぞ!」「自首? 今、自首って言ったの? 私まで道連れにするつもり?」包帯だらけの顔を向けた玲奈が、容赦なく修司の頬を張った。パシン!鋭い平手が頬を打ち、裂けた唇から血が飛んだ。「自
last updateLast Updated : 2026-10-06
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20話. 湖畔の罠

金曜日の夕方。山中湖へ向かう空には、鉛色の雲が低く、不穏に垂れ込めていた。湖畔を縫って曲がる、人けのない二車線の国道。私のシルバーのセダンの助手席にうずくまった修司は、走行中ずっと、震える指の爪の下を、血がにじむまで噛んでいた。膝には古い黒のボストンバッグが置かれ、閉まりきらないファスナーの隙間から、用意してきたテープの銀色の断面がのぞいていた。「ねえ、顔色がひどいよ。別荘に着いたら、暖炉に薪をくべて暖かくするから、ゆっくり休んでね」私は少しだけ横を向き、修司の歪んだ顔を見てから、この上なく優しく、低い声で言った。怪我した肩が、びくりと大きく跳ねた。「あ……ああ。ありがとう、紗月。お前も最近、仕事で大変だったんだし……今夜は何も心配せずに、ゆっくり寝ろよ」その言葉を聞く間も、私はハンドルから手を離さなかった。安心させるようなことを言いながら、修司は私の目を見なかった。視線をフロントガラスへ戻す。この旅行を諦めていないことだけは、確かだった。午後五時半。赤いレンガと濃い木材で造られた、山中湖畔の二階建ての別荘に着いた。深いアカマツ林を抜けた先にある家で、道路の音もほとんど聞こえなかった。なじみの別荘なのに、修司と一緒に入ると、造りまで違って感じられた。父が残した家を、夫の殺人計画の中で見直している。そのことが、不快だった。***荷物を下ろすなり、修司はリビングの隅にそびえる、古風な赤レンガの暖炉へ急いだ。折れた鎖骨の痛みをこらえ、煙突内の排気ダンパーの開閉レバーに触れ、外へ続く煙道のねじの溝を、ひそかに確かめていた。スマートウォッチには、別荘近くの廃モーテルに身を潜めた玲奈からのメッセージが、次々と表示されていた。【玲奈:裏庭の排気口の位置、確認した。ワインで薬を飲ませたら合図して。外から煙道を完全に塞ぐから】周到で、悪辣な共謀だった。***この別荘は、父が私に遺してくれた家だった。あの二人が知らないことが、もう一つあった。数日前、私は別荘の換気設備と一酸化炭素検知器を点検しておいた。古い家だから、と業者には説明した。けれど、本当に確認したかったのは、緊急換気がきちんと動くかどうかだった。父の残した家に来て、夫の動きを監視している。それが、ひどくよそよそしいことに思えた。私が荷物を下ろすたび、修司が振り返る。ボストンバッグと彼の手
last updateLast Updated : 2026-10-06
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