บททั้งหมดของ 私を殺す方法を検索した夫に、同じ恐怖を返します: บทที่ 1 - บทที่ 10

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1話. 夫の検索窓

部屋の空気は、妙に冷えきっていた。リビングの壁掛け時計は夜九時を指している。秒針が重たい音を刻んでいた。浴室からは規則正しく水音が漏れていた。シャワーの水がタイルに当たり、弾ける音。結婚三周年の記念日まで、あと三時間という夜だった。ダイニングテーブルには、修司が仕事帰りに買ってきた赤い芍薬の花束と、高級ワインが置かれていた。花びらに残る水滴がみずみずしい。花束には、彼がいつも身につけている香りがほのかに移っていた。三年一緒に暮らすうちに、すっかりなじんだ夫、桐谷修司の匂い。記念日を一度だって忘れたことのない人だった。水を一杯飲もうと、キッチンのアイランドカウンターへ向かった。そのとき、暗い書斎の奥で、机の端がかすかに青く光った。修司が普段はロックしている、私用のサブノートパソコンだった。会社支給のMacBookとは別に、製薬会社の営業データを整理するためだと言って持ち歩いている、古いThinkPad。スリープが解除され、スクリーンセーバーの代わりに、開いたままのウィンドウが闇の中に青白い四角を浮かび上がらせていた。気づけば、書斎の敷居をまたいでいた。足音を殺して近づく。浴室からはまだ、勢いの強いシャワーの音が聞こえていた。画面の中央にはGoogle Chromeが開かれていた。灰色の背景に黒を重ねたダークテーマ。シークレットウィンドウかと思ったけれど、表示されていたのは閲覧履歴だった。IT企業でシニアデータアナリストをしている私は、検索履歴を毎日のように扱っている。だから、刺激的な検索語より先に目に入ったのは、繰り返される時刻と順番だった。同じ人間が何日にもわたり、似た質問を何度も検索した痕跡。指先をタッチパッドに置いた。冷たい金属の感触が、指の腹からじわりと染み込んでくる。閲覧履歴は日付ごとに並んでいた。最近開いたページのタイトルと検索語が、画面を埋めている。一行読んだまま、指が動かなくなった。見間違いだと思い、同じ行をもう一度読んだ。【喘息患者に致命的な無色無臭のオイル成分】【浴室のタイルを滑りやすくする高粘度オイルの噴霧方法】【車のブレーキオイル系統 微細な穴による細工】【浴槽内での感電 単なる転倒による心停止と判定される確率】息が止まった。肺の奥底から、氷のような冷たさがせり上がってくる。全部、私のことだった。私は幼いころ
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2話. 2億5000万円の取引

足音がすぐそばまで来ても、私はノートパソコンを閉じなかった。代わりに画面の明るさを最低まで下げ、机の上にあった仕事の書類を、何げない顔で広げた。「紗月、そこで何してるの?」タオルで濡れた髪を拭きながら、修司が書斎の入り口に立った。肌から漂う石けんの香りの奥に、かすかな消毒薬の匂いがした。製薬会社の営業課長である彼の襟元や、爪の隙間にいつも染みついている独特の匂い。それが今は、毒物の悪臭にしか思えなかった。「明日発表する数字を確認してたの。見落としがないか、もう一度見ておこうと思って。もうお風呂出たんだ?」書類から目を上げ、柔らかく笑ってみせた。修司の視線が、私の手と暗くなった画面の間を一瞬行き来する。広げた書類を確かめてから、ようやく彼の目元が優しく緩んだ。「記念日の前の晩まで、そんなに頑張らなくてもいいだろ。ワイン開けておくから、早くおいで」修司が親しげに私の肩を抱いた。厚い手のひらの熱が、薄い部屋着のシャツ越しに伝わってくる。触れられたところから鳥肌が立った。それでも必死に口角を上げたまま、彼の頬へ軽く唇を寄せた。「ありがとう。すぐ行くね」リビングでコルクがポンと軽やかな音を立てる間に、スマートフォンを取り出してパソコンの画面を撮った。検索語と閲覧時刻が一緒に入るように。彼が戻ってくる前に、表示を最初に見た位置へ戻した。午前一時を過ぎて、ようやく修司は眠り込んだ。規則正しい寝息が寝室を満たしても、私は眠れなかった。暗闇の中、もう一度時刻を確かめると午前三時十五分。修司が寝返りを打ち、するりとベッドを抜け出した。パジャマのズボンのポケットから私用のスマートフォンを取り出し、足音を忍ばせて寝室のバルコニーへ向かう。ガラス戸がそっと閉まり、かすかな声が漏れ聞こえた。私はベッドの下に隠していた小型の指向性レコーダーを起動し、カーテンの裏へ身を寄せた。「……うん、玲奈。紗月はぐっすり眠ってる」受話口の向こうから、聞き覚えがあるようでいて、どこかよそよそしい女の笑い声がした。白石玲奈。修司が大学時代から忘れられなかったという初恋の相手で、彼の法人カードの明細によく名前が出てくる、南青山のプライベートギャラリーで働く女。ギャラリーの名前と玲奈を、これまで別々のものとして考えていたことに、今さら気づいた。「来週の金曜、別荘に行くときに全部片づける。お
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3話. 逆設計の始まり

朝の日差しは、残酷なほどまぶしかった。テーブルの向かいで修司が、きれいに焼けたトーストへ薄くイチジクのジャムを塗っていた。「紗月、今日はやけに顔色が悪いな。昨日、遅くまで頑張りすぎたんじゃないか?」声はどこまでも優しく、目には妻の体を気遣う色が浮かんでいた。けれど、その優しい指が検索窓に打ち込んだ言葉は、焼き印のように私の目にこびりついていた。【喘息患者に致命的な無色無臭のオイル成分】【配偶者の死亡保険金 2億5000万円 一括受取の手続き】「ちょっと疲れてるだけ。今日、会社のデータを新しいシステムに移すの。抜けがないか確認しなくちゃいけなくて」カップを持ち上げ、温かなアールグレイをゆっくりと口に含んだ。舌を流れるほろ苦い紅茶の香りで、修司の襟に染みついた、あの消毒薬の匂いを打ち消そうとした。「無理するなよ。来週の金曜には、二人で別荘に行くんだから。そのときはゆっくり休めばいい」来週の金曜日。私の命が終わる予定の日を口にしながら、修司は目尻を下げて柔らかく笑った。私はその笑顔を、初めて会う人を見るように、長いこと見つめた。会社へ着くなり、研究室のドアに鍵をかけた。ブラインドを下ろし、二枚のモニターへ昨夜撮った画面を映す。ぼやけた写真は拡大し、読めない文字は空欄のままにした。修司の検索語とアクセスした時間帯、それから以前確認した法人カードの取引先を、Excelのシートへ移した。確認できた事実と疑わしいだけのことは、別の欄に分ける。画面に残った空白を見つめていると、自分が知っていることがすべてではないと、はっきり思い知らされた。空欄を勝手に埋めることはしなかった。夫の表情を思い浮かべるだけでは、確かめられないことばかりだ。日付の重なる取引から、もう一度見直していった。修司の殺人計画は、いくつもの異なる事故死の筋書きに分かれていた。喘息発作。浴室での転倒。ブレーキの故障。浴槽での感電。今、確認できているのはこの四つ。検索がどんな順番で実行に移されるのかは、まだわからない。修司は、これらを事故に見せかけられると信じているらしい。薬品を手に入れる取引先を知っていることと、捜査を逃れられることは別問題だった。私はまず、検索語の横に、実際に用意した品があるかどうかを記した。***午前十一時。私はサイバー犯罪と複雑な刑事事件を専門に扱う弁護士、久世
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4話. 最初のブーメラン

配達完了の通知を確認し、修司より二時間早く帰宅した。玄関前に置かれた小さな茶色い箱を、そっと持ち上げる。テープの筋一本さえ傷めないよう、包装を細かく確かめた。書斎へ入り、カッターナイフで箱の端を開いた。緩衝材の間から、厳重に密封された小さな褐色のガラスアンプルが現れた。ラベルには複雑な化学記号とともに、赤い警告文がはっきりと印刷されていた。【研究用。吸入および皮膚への接触に注意】警告の下には、販売者による説明が続いていた。喘息患者には危険を及ぼすおそれがあるという言葉。そして、痕跡は残らないという断言。私はその最後の一文を、長いこと見つめた。修司が信じて買ったのは薬品だけじゃない。自分はばれない、という言葉だった。彼はこれを読んだうえで、注文ボタンを押したのだ。指先が冷えていく。修司はこの薬品を、私の寝室の加湿器か、化粧台のディフューザーに混ぜるつもりだったのだろう。けれど私は、薬局と化学薬品の販売店を回り、すでに用意しておいた同じ規格の褐色アンプルを取り出した。中には、本物と見た目だけを似せた代わりの液体が入っていた。偽物を元の緩衝材の中へ押し込み、箱を包み直した。テープの端を押さえて貼り、修司の書斎の机へ置く。ドアの外で音がするたびに、何度も手が止まった。本物の毒物が入ったアンプルは、ラテックス手袋をはめた手でコートの内ポケットの奥へしまい込んだ。そして、修司のウォークインクローゼットへ静かに向かった。一番上の棚、革の書類鞄の隣に、上質なベルベットのリボンがかかったブランドのショッピングバッグが隠されていた。フランスのニッチフレグランスブランドが出している、限定品の豪華なパッケージだった。添えられたカードには、見慣れた修司の筆跡で、流れるような文字が並んでいた。『玲奈へ。世界でたった一つ、君だけの香り。プライベートギャラリーのオープン、おめでとう』笑いは出なかった。妻を殺して手にする二億五千万円で、初恋の女にギャラリーを買ってやると言った男が、殺人の準備をしながら、贈り物のカードには愛を綴っていた。カードの角を親指で押し、離した。記念日の食卓に置かれた芍薬も、このショッピングバッグも、同じ手で選んだのだろう。花を受け取る私の顔を、彼がどんな目で見ていたのか。今ならわかる気がした。香水瓶を前に、私は一瞬、手を止めた。ホワイトムスクと
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5話. 救急外来の悲鳴

ギャラリーのVIPルームの静けさは、長くは続かなかった。「修司さん……喉が……息、が……っ、かはっ!」玲奈は両手で喉元をかきむしり、そのまま大理石の床へ崩れ落ちた。なめらかだった顔が、みるみる青紫色に変わっていく。艶やかな赤い口紅を引いた唇は青ざめ、細かく痙攣していた。濃い化粧で彩られた目元が歪み、視線が宙をさまよう。吸い込もうとする空気は、狭まった喉を通っていかなかった。金属をこすり合わせるような、異様にひきつった音が漏れる。修司の顔から、一気に血の気が引いた。「玲奈、俺を見ろ! さっきまで何ともなかっただろ。急にどうしたんだよ、おい!」真っ青になった修司が玲奈の上半身を抱きかかえる。しかし、もがく玲奈の爪が、その首筋へ容赦なく食い込んだ。空気を求める人間の、原始的で凄まじいあがきだった。上質なシャツの襟があっけなく裂け、あらわになった首筋に爪痕がくっきりと走った。傷から赤い血がにじみ出た。「きゅ……救急、車……げほっ!」修司は震える指でポケットからスマートフォンを取り出し、119を押した。呼び出し音が鳴る、たった数秒。それが永遠にも思えたことだろう。「こ、ここは南青山のアルテ・ギャラリー、VIPルームです! 人が、急に息ができなくなって倒れたんです! 喉が詰まってる! 早く、お願いです、早く来てください!」修司の声は震えるだけでは収まらず、甲高く裏返っていた。***その修羅場から届く音を、私は研究室で、スマートフォンの盗聴波形を見ながら聞いていた。顔も手の動きも見えない。すすり泣くような音が途切れるたび、受信が止まったのか、それとも呼吸が止まったのか、区別できなかった。スピーカーから流れてくるのは、喉を鳴らしてあえぐ玲奈の声と、パニックになった修司の荒い息遣い。修司は、あの声を私に出させるつもりだった。そう思うと、イヤホンを外したくなっても、手が止まった。革張りの椅子に背を預け、冷めたコーヒーを一口飲んだ。カップを置くとき、受け皿がかすかに鳴った。平静を装っていたけれど、手には力が入りすぎていた。私はこれを、返しているだけだと呼んだ。そう名前をつけなければ、自分がたった今したことを、まともに見られなくなりそうだった。***二十分後、サイレンを鳴らして到着した救急隊員によって、玲奈はストレッチャーに乗せられ、大学病院の救急外
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6話. 毒物の行方

午前一時をとうに回ったころ、玄関の電子錠が苛立ったような警告音を鳴らし、解除された。修司が魂の抜けた幽霊のように、暗いリビングへよろめきながら入ってきた。高級なコートはしわだらけで、シルクのネクタイも曲がったまま乱暴に緩められていた。何より、首筋に深く刻まれた三本の血の筋が、間接照明の下で不気味に浮かび上がっていた。「おかえり。何かあったの?」ソファにきちんと座り、タブレットで経済記事を読んでいた私は、そのまま顔を上げ、柔らかな声で尋ねた。焦点の定まらない修司の目が私と合った瞬間、そのまぶたが小さく震えた。「あ……ああ。ギャラリーで急に具合が悪くなった人がいて、病院の手続きを手伝ってたんだ。ばたばたしてさ」修司はびくりとして、慌ててコートの襟を立て、傷を隠した。けれど、服からむせ返るほど漂う病院の消毒薬と、その下にねっとりと絡みついたホワイトムスクの香りまでは消せなかった。玲奈が救急外来のベッドで上げた悲鳴の、残骸だった。「疲れたでしょう。先にお風呂入ってきたら? 好きなカモミールティーでも入れようか」「いや、お茶はいい。書斎に、急いで片づけなきゃいけない書類が残ってるんだ」靴を脱ぎ捨てるようにして、修司は書斎へ直行した。ドアが閉まり、内側で鍵が回る鈍い金属音が、廊下に響いた。膝の上のタブレットを操作し、書斎の本棚に紛れ込ませておいた超小型ピンホールカメラのライブ映像を開いた。画面の中の修司は部屋の明かりもつけず、デスクライトだけを点灯させた。そして、机の下段の引き出しを、引きちぎるように開けた。昼間届いた茶色い箱をひったくるように取り出し、包装を引き裂く。中には、私がきれいに封をしておいた偽物のアンプルが、そのまま収まっていた。修司は震える手でキャップをひねり、手の甲へ数滴落とした。それから鼻を近づけ、息を吸い込んだ。無色、無臭。見た目だけなら、取引先を通して注文した高濃度アンプルと、少しも違わなかった。***だが修司の顔は、言いようのない混乱と恐怖に歪んでいった。――どうして玲奈が倒れた? 注文した殺しの薬は、書斎の引き出しに残ってるのに……。両手で髪をかきむしり、空気をあえぐように吸い込んだ。妻に使うため隠しておいた薬品は、今開けた、このアンプルの中にあるはずだ。修司はキャップと箱の内側を、交互に見比べた。それなのに玲
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7話. シャツに残った香り

日差しがリビングの窓枠を伝い、長く伸びていた。一晩中、不安で眠れなかった修司は、朝早くから出勤の支度を急いでいた。いつもより念入りにひげを剃り、首筋の赤い爪痕にBBクリームを重ねていたけれど、血の気のない唇や、落ちくぼんだ目元までは隠せなかった。「ねえ、シャツにアイロンかけておいたよ。今日、これ着るでしょう?」ぱりっと仕上がった白いドレスシャツを差し出した。修司は私の目をまともに見られず、ぎこちなく受け取って袖を通した。「ありがとう、紗月。会社がリストラの件でごたついててさ。家に帰ってまで、気を遣わせちゃったな」「最近、無理してるみたいで心配。週末は二人でゆっくりしようね」柔らかく笑いながら、彼のシャツのボタンを一番上まで留めた。指先が首筋に触れるたび、修司の肩が目に見えて強張る。息を止めたのが、手に伝わってきた。最後のボタンを留め、私は手を離した。修司がネクタイを選んでいる間に、玄関の椅子に置かれたコートの内ポケットへ、前日から使っている小型レコーダーをまた忍ばせた。帰ってきたら、そのまま回収するつもりだった。彼が玄関を出ると、私は洗濯室へ向かった。昨夜脱ぎ捨てられたグレーのドレスシャツが、洗濯かごの奥で丸まっていた。ラテックス手袋をはめ、シャツを持ち上げた。襟を鼻先に近づけると、濃い香りが立ちのぼった。修司が注文した薬品が混ざっていることを、私は知っていた。匂いで確かめられることではない。襟から感じられるのは、白石玲奈のホワイトムスクの残り香だった。閉めきったVIPルームで、二人がどれほど近くにいたか。倒れた玲奈が、どれほど必死に修司へしがみついたか。それがシャツの繊維一本一本に、むき出しのまま染み込んでいた。襟の内側には、玲奈の赤い口紅とファンデーションの跡まで、くっきり残っていた。「これを、私に洗わせるつもりだったんだ」低い独り言が、口をついて出た。シャツを持つ腕に力がこもった。これほど近くにいたくせに、私の前では取引先の話しかしなかった。襟を裏返し、折り込まれた内側まで確かめた。香水で倒れた玲奈の声が、まだ耳に残っていた。汚れのついた箇所を、高解像度のカメラでいくつもの角度から撮影した。撮影時刻とともに、久世弁護士の暗号化された保管用クラウドへ、その場で送った。服の状態を記録するための資料だ。これだけで二人の共謀まで証明で
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8話. 向きを変えたブーメラン

夕食の間、修司は落ち着かず、テーブルの下でずっと脚を揺すっていた。スプーンを握る指に力が入らないのか、汁椀に当たるかちゃかちゃという音が、静けさを破った。私を正面から見ようとせず、しきりにスマートフォンの画面を触っていた。「紗月、今日はずいぶん疲れてるみたいだな。食べ終わったら、湯船にお湯を張って、半身浴でもしたらどうだ?」修司が煮込みの器をそっと私へ寄せながら、低い声で勧めた。優しさを装った、悪意のある誘導だった。私が浴室へ入る直前に、床へ透明なシリコーン滑剤をまく時間を作るつもりなのだ。「ちょうど、そうしようと思ってたの。最近、肩も腰もこってて、ゆっくり温まりたくて。食洗機だけ回して、すぐ入るね」私は何も知らない妻の顔で、素直にうなずいた。修司の口元に、ほんの一瞬、安堵とともに、ぞっとするような笑みが浮かんだ。私が水を飲んでいる間も、彼は浴室を見ていた。グラスを置き、スプーンを持つ。一口も飲み込める気がしなかったけれど、先に食事を終えれば、修司もついて立ち上がりそうだった。テーブルの下で足の指を曲げたり伸ばしたりしながら、携帯を取り出せる瞬間を待った。「うん。俺は書斎で決裁書類を一件、メールしてくるから。ゆっくり準備してて」修司が椅子を引いて書斎へ向かうと、私はズボンのポケットから二台目の携帯を取り出し、あらかじめ用意したメッセージ送信のマクロを実行した。玲奈になりすまして送る文面を、作っておいたのだ。事実を確かめる前に彼が動く保証はなかった。書斎へ向かう足音に、耳を澄ませた。メッセージは、玲奈がいつも修司を呼ぶときの言い方で始めた。【修司さん、入院費の支払い、カードの限度額を超えたって。ギャラリーの理事長が今から病室に来るらしいの。すぐ来て!】書斎のドアノブを回そうとしていた修司が、ぴたりと動きを止めた。鋭い振動音とともに画面を確認すると、その顔が紙のように白くなった。「紗月! 取引先の病院に、急ぎの決裁書類を直接届けなきゃいけなくなった。今すぐ行ってくる!」慌てて上着に腕を通し、靴もろくに履かないまま、修司は玄関の外へ飛び出していった。玄関のセンサーライトが消えるまで、私は椅子から動かなかった。廊下に彼の足音が残っていないか、聞いていたかった。さっきまで向かいに座っていた人が戻ってくる気がして、玄関のハンドルをもう一度見た。
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9話. 密やかな侵入

翌日の夕方、雨が灰色のビル群を冷たく、重く濡らしていた。黒い長傘をたたみ、私は赤坂のルーチェレジデンス、十二階の廊下の隅に静かに立っていた。帽子とマスクで顔を隠し、1204号室の前へ立つ。廊下に、エレベーターが動く音がした。確認しておいた暗証番号を押し、ドアが開く間も振り返らなかった。ピピッ、カチャリ。軽い電子音とともに、重い鉄のドアが滑らかに内側へ開いた。足を踏み入れた瞬間、濃密なディフューザーの香りが鼻を突いた。玲奈が愛用する官能的なイランイランと、修司に染みついた消毒薬の匂い。それらが混ざり合い、どこか卑しく、薄ら寒い空気を漂わせていた。リビングの革張りのソファには、おそろいの濃紺のシルクガウンが並べてかけられていた。アイランドカウンターには、飲みかけの高価なヴィンテージシャンパンと、クリスタルのワイングラスが二つ、無造作に置かれている。正妻である私の目の前に広がる、夫と愛人の、贅沢で恥知らずな密室。胸の奥へ鋭い痛みが走った。それでも奥歯を噛みしめ、わずかな感情の揺らぎさえ押し殺した。二着のガウンから視線を外し、浴室を見た。自宅にある修司のガウンと同じ色だった。その短い思考に足を取られそうで、歩みを速めた。靴に使い捨てのカバーをかぶせ、ラテックス手袋を直して、寝室の奥にある専用の浴室へまっすぐ向かった。ドアを開けると、最高級の輸入大理石、ビアンコ・カララのタイルが、冷たい白い光を返していた。埃一つなく、なめらかに磨き上げられた床だった。ここが、修司と玲奈が激しい逢瀬のあとに汗を流す、一番ひそやかで、油断しやすい場所。バッグのファスナーを開け、昨夜、修司の書類鞄から持ち出した透明なエアゾールスプレーを取り出した。【高濃度フッ素シリコーン被膜形成剤:極めて低摩擦な表面を形成】修司が自宅の寝室脇の浴室にまき、私を転倒死させて、二億五千万円を手にするために用意した凶器だった。私はノズルを、浴室のタイルへ向けた。シューッ。細かな冷たい粒子が霧のように広がり、大理石の表面へ音もなく降りていった。床に薬品をまき終え、缶を下ろした。手の甲に筋が浮き出ていた。照明の下の床は、入ってきたときと、見た目にはほとんど変わらなかった。敷居に立ち、もう一度、中を見た。転んだ修司がどこを傷めるか、私にはわからない。こちらが決めた程度の怪我で立ち上がれ
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10話. 裸の転落

1204号室に明かりがつき、室内がゆっくりと暖まりはじめた。カフェの窓際でイヤホンをつけている私の耳に、ワインのコルクが抜ける軽い音と、玲奈の鼻にかかった声が届いた。「病院にいた二日間、気が狂いそうだった。あの忌々しい香水のせいで、肺が焼けるみたいだったんだから」「もう大丈夫だ。退院祝いに、フランスの最高級のピノ・ノワールを開けたんだぞ。一杯飲んで、ゆっくり寝ろよ」修司の声は、慣れた様子で相手をなだめる声だった。グラスが澄んだ音を立てて触れ合い、そのあとに、修司の弾んだ息遣いが混じった。「玲奈、約束してた金曜の別荘旅行だけど……そこで紗月を片づける。浴室のほうも、睡眠薬をどうするかも考えてある。何の準備もせずに連れていくと思うか?」「本当に大丈夫なの? 中途半端に生き残らせて、警察に調べられたら、あなたも私も終わりだからね。保険金の二億五千万、すぐ一括で受け取れるんでしょう?」「心配するなって。ちゃんと調べて動いてる。事故に見せるから、お前は余計なことをしないで、ギャラリーの買収契約書でも用意してろよ」二人の醜い殺人の相談が、デジタルレコーダーに、一秒ごと正確に刻まれていった。同じ名前と金額が、繰り返し聞こえた。私は録音時刻を確かめた。夫がその金を何に使うのか聞いている間も、画面の録音時間は伸び続けていた。「体がちょっとだるいな。先にシャワー浴びてくる。一緒に入るか?」修司が、粘りつくような声でささやいた。「まだ喉がいがらっぽいから、私はあとで。先に入ってきて」「すぐ戻る。ベッドで横になってろよ」衣服を脱ぐかさかさという音とともに、修司が裸足で浴室へ向かう足音が送られてきた。カチャリ、と浴室のドアが開く。シャワーのバルブが回り、熱い湯が勢いよく流れる音が響いた。湯気が浴室を満たし、私が大理石のタイルに密着させたフッ素シリコーンの被膜へ、細かな水滴がつきはじめたのだろう。イヤホンからは水音だけが続いた。私は敷居に立って最後に見た、あの床を思い出した。修司は機嫌よく鼻歌を歌っていた。自分が掘った罠だとも知らず、妻を殺して手に入れる二億五千万円の夢に酔っていた。***修司がシャワーへ向かって足を踏み出した、その瞬間だった。「あ……あっ?!」キュッ――!濡れたタイルをこする音とともに、修司の悲鳴が上がった。ガタン、ドガッ
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