窓の外の楓は、昨日より少し赤みを増したように見えた。綾乃は予約一覧を閉じ、机に置かれた業務連絡の束を整えた。神崎楼で働き始めた頃、あれほど頼もしかった隆哉が、いつから自分の意見に耳を貸さなくなったのか。答えを探そうとすると、思い浮かぶのは、神崎家にとって大きな転機となった年だった。二〇二二年、隆哉の父、雅之が病気で亡くなった。雅之は、表に立って宿泊客をもてなすことこそ少なかったが、神崎楼の経営を長く支えていた。資金繰りを見通し、取引先との条件を詰め、設備の更新にどこまで費用をかけられるかを判断する。綾乃が入社した頃も、経営に関わる書類には必ず雅之の確認が入っていた。葬儀を終えたあとも、旅館の営業は続いた。客は予定どおり到着し、仕入先からは納品の連絡が入る。雅之を失った悲しみと、仕事を止められない現実が同時に押し寄せた。「父さんが決めていたことが、思ったより多いんだ」ある晩、隆哉は自宅で書類を広げ、額に手を当てた。「支払いの予定は追える。でも、取引先との話がどこまで進んでいたか、確認しないといけないものがある」「私にできることはありますか」「現場の状況を教えてほしい。数字だけ見ていると、削っていい費用と、そうじゃない費用の区別がつかなくなる」綾乃は頷き、客室で交換を急ぐ備品や、調理場から上がっていた要望を伝えた。すべてが採用されたわけではない。後回しにできるものもあれば、安全やサービスに関わるため、優先しなければならないものもあった。「それは先に手を打とう。ありがとう、綾乃」隆哉は何度もそう言った。慣れない責任を背負い、時には夜遅くまで資料を見ていた夫を、綾乃は支えたいと思った。自分に経営のすべてがわかるわけではない。それでも、現場で見たことを伝えれば、判断の助けにはなれる。やがて隆哉は、取引先との交渉や新しい営業施策を、自分の判断で進めるようになった。費用を見直し、宿泊プランを組み替えた結果、手応えを得られることも増えていった。「今回は俺の判断で進めてよかった」そう笑う隆哉を見て、綾乃もうれしくなった。夫が父
最終更新日 : 2026-10-18 続きを読む