夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 12

12 チャプター

11.いつから、すれ違ったのか

窓の外の楓は、昨日より少し赤みを増したように見えた。綾乃は予約一覧を閉じ、机に置かれた業務連絡の束を整えた。神崎楼で働き始めた頃、あれほど頼もしかった隆哉が、いつから自分の意見に耳を貸さなくなったのか。答えを探そうとすると、思い浮かぶのは、神崎家にとって大きな転機となった年だった。二〇二二年、隆哉の父、雅之が病気で亡くなった。雅之は、表に立って宿泊客をもてなすことこそ少なかったが、神崎楼の経営を長く支えていた。資金繰りを見通し、取引先との条件を詰め、設備の更新にどこまで費用をかけられるかを判断する。綾乃が入社した頃も、経営に関わる書類には必ず雅之の確認が入っていた。葬儀を終えたあとも、旅館の営業は続いた。客は予定どおり到着し、仕入先からは納品の連絡が入る。雅之を失った悲しみと、仕事を止められない現実が同時に押し寄せた。「父さんが決めていたことが、思ったより多いんだ」ある晩、隆哉は自宅で書類を広げ、額に手を当てた。「支払いの予定は追える。でも、取引先との話がどこまで進んでいたか、確認しないといけないものがある」「私にできることはありますか」「現場の状況を教えてほしい。数字だけ見ていると、削っていい費用と、そうじゃない費用の区別がつかなくなる」綾乃は頷き、客室で交換を急ぐ備品や、調理場から上がっていた要望を伝えた。すべてが採用されたわけではない。後回しにできるものもあれば、安全やサービスに関わるため、優先しなければならないものもあった。「それは先に手を打とう。ありがとう、綾乃」隆哉は何度もそう言った。慣れない責任を背負い、時には夜遅くまで資料を見ていた夫を、綾乃は支えたいと思った。自分に経営のすべてがわかるわけではない。それでも、現場で見たことを伝えれば、判断の助けにはなれる。やがて隆哉は、取引先との交渉や新しい営業施策を、自分の判断で進めるようになった。費用を見直し、宿泊プランを組み替えた結果、手応えを得られることも増えていった。「今回は俺の判断で進めてよかった」そう笑う隆哉を見て、綾乃もうれしくなった。夫が父
last update最終更新日 : 2026-10-18
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12.居場所のない女将

綾乃は、前日に渡された新しい宿泊プランの案内資料を机に広げた。季節の料理を一品加え、チェックアウトの時間を延長する。企画の狙いはよくわかるし、広告に使う写真も魅力的だった。ただ、接客担当や清掃担当に確認したはずの項目には、まだ空欄が残っている。「こちらの提供条件は、もう決まっているんでしょうか」予約係に尋ねると、相手は予定表を見せてくれた。「昨日、社長と藤崎さん、それから予約部門の責任者で打ち合わせをしたそうです。今日中に案内の準備を進めるよう言われています」「厨房と接客の担当者も出席したんですか」「いえ、そこまでは聞いていません。決まった内容を各部署へ伝える、ということでした」綾乃は資料の端を押さえた。経営方針の会議から外れることは、隆哉に告げられていた。しかし、料理の提供方法や人員配置まで、現場の意見を聞かずに決めるとは思っていなかった。「ありがとうございます。まず、どこまでが決定事項か確認しますね」予約係を困らせないように、綾乃は声の調子を変えなかった。相手も伝えられた指示に従っているだけだ。厨房の責任者に電話をすると、追加する料理の候補は相談されているものの、提供する組数や時間帯はまだ聞いていないという。「献立が決まれば仕込みの段取りは考えられます。でも、同じ時間に何組も重なるなら話は別ですね」「わかりました。確認できるまで、新しい料理についてお約束する案内は控えてもらうよう伝えます」次に清掃部門へ聞くと、チェックアウト延長の対象客室が決まらなければ、翌日の作業順を組めないとの返事だった。綾乃は資料に書き込みを加えた。今までなら関係者を集め、条件をそろえてから予約係へ伝えていた。今回は、綾乃が知らないところで検討が進んでいる。問い合わせるべき相手を確かめようと社長室に内線を入れると、隆哉は短く答えた。「企画の方向性は俺と藤崎さんで決めた。細かい運用は各部署で調整してくれ」「では、特典の対象となる部屋数や、販売条件については、どなたの判断を仰げばよろしいでしょうか」「変更
last update最終更新日 : 2026-10-19
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