十月の榊ノ湯は、日が落ちると急に冷え込む。神崎楼の玄関先では、庭の楓が色づき始めていた。夕食を終えた宿泊客が浴場へ向かい、賑わっていた廊下にも少しずつ静けさが戻ってくる。「女将さん、明日の朝食ですが、七時をご希望のお客様が一組増えました」フロント係から差し出された連絡票に、綾乃は目を通した。「三〇二号室の方ですね。昨日は八時と伺っていましたけれど、変更されたんですね」「はい。明日は早めにお出かけになるそうです」「わかりました。厨房の準備時間を確認してから、お客様にお返事しましょう。朝食会場の担当者にも伝えてください」綾乃は連絡票をいったん預かり、予約管理画面と翌朝の配膳予定を照らし合わせた。七時台はすでに希望が集中している。調理場に確認すると、開始を十五分ずらせば無理なく対応できるという返事だった。「お客様には七時十五分でご案内を。もし早い時間でないと難しいようなら、改めてご相談を受けます」「承知しました」係が戻ろうとしたところで、綾乃はもう一枚の用紙に気づいた。「こちらは、明日の清掃の割り振りですね」「はい。別館の担当者が一人、午前中に通院することになりまして」綾乃は表を確かめ、連泊客の部屋とチェックアウト予定の部屋を指で追った。「では、午前中は退室済みのお部屋から進めましょう。急がなくていい部屋は午後に回せます。休憩時間まで詰めないよう、責任者の方と調整してください」「ありがとうございます。助かります」フロント係が去ったあと、綾乃は一日の引き継ぎ事項をまとめた。館内の設備不具合は施設担当へ、食事の変更は厨房と接客担当へ。伝えたつもりで終わらせず、誰が受け取ったかまで確かめる。宿の仕事は、目立つ場面ばかりではない。客に気持ちよく過ごしてもらうためには、その裏側で小さな調整を積み重ねる必要がある。女将になってから、綾乃はそのことをいっそう強く意識するようになっていた。時計は午後十時を回っている。最後の記録を保存して席を立とうとしたとき、事務室の電話が鳴った。「綾乃、まだ残っているか」夫の隆哉だった。「はい。今、引き継ぎを終えたところです」「少し話がある。社長室に来てくれないか」「わかりました。すぐ伺います」用件は告げられなかった。綾乃は机の上を片づけ、社長室へ向かった。社長室の扉を開けると、隆哉は窓際に立ち、温泉
Last Updated : 2026-10-17 Read more