夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました

夫に追い出された女将は、元夫の旅館を買い取りました

last updateLast Updated : 2026-10-19
By:  中岡 始Updated just now
Language: Japanese
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夫の裏切りによって、老舗旅館「神崎楼」を追い出された女将・安西綾乃。 離婚後、彼女が出会ったのは、廃業寸前の小さな料理旅館「月乃庵」だった。 客足の減少、老朽化した設備、後継者不足。それでも、この宿には守るべき価値がある。 女将として培った経験を武器に、綾乃は旅館再建に挑む。 経営再生の専門家・桐谷慎吾との出会い、新たな恋、そして温泉街の再開発に隠された過去の秘密。 一方、綾乃を追い出した元夫の旅館には、経営危機が迫っていた。 奪われた居場所には戻らない。 今度は経営者として、あの旅館を手に入れる。 これは、一人の女性が自らの力で人生を取り戻す、痛快な逆転と再生の物語。

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Chapter 1

1.女将を降りろ

十月の榊ノ湯は、日が落ちると急に冷え込む。

神崎楼の玄関先では、庭の楓が色づき始めていた。夕食を終えた宿泊客が浴場へ向かい、賑わっていた廊下にも少しずつ静けさが戻ってくる。

「女将さん、明日の朝食ですが、七時をご希望のお客様が一組増えました」

フロント係から差し出された連絡票に、綾乃は目を通した。

「三〇二号室の方ですね。昨日は八時と伺っていましたけれど、変更されたんですね」

「はい。明日は早めにお出かけになるそうです」

「わかりました。厨房の準備時間を確認してから、お客様にお返事しましょう。朝食会場の担当者にも伝えてください」

綾乃は連絡票をいったん預かり、予約管理画面と翌朝の配膳予定を照らし合わせた。七時台はすでに希望が集中している。調理場に確認すると、開始を十五分ずらせば無理なく対応できるという返事だった。

「お客様には七時十五分でご案内を。もし早い時間でないと難しいようなら、改めてご相談を受けます」

「承知しました」

係が戻ろうとしたところで、綾乃はもう一枚の用紙に気づいた。

「こちらは、明日の清掃の割り振りですね」

「はい。別館の担当者が一人、午前中に通院することになりまして」

綾乃は表を確かめ、連泊客の部屋とチェックアウト予定の部屋を指で追った。

「では、午前中は退室済みのお部屋から進めましょう。急がなくていい部屋は午後に回せます。休憩時間まで詰めないよう、責任者の方と調整してください」

「ありがとうございます。助かります」

フロント係が去ったあと、綾乃は一日の引き継ぎ事項をまとめた。館内の設備不具合は施設担当へ、食事の変更は厨房と接客担当へ。伝えたつもりで終わらせず、誰が受け取ったかまで確かめる。

宿の仕事は、目立つ場面ばかりではない。客に気持ちよく過ごしてもらうためには、その裏側で小さな調整を積み重ねる必要がある。

女将になってから、綾乃はそのことをいっそう強く意識するようになっていた。

時計は午後十時を回っている。最後の記録を保存して席を立とうとしたとき、事務室の電話が鳴った。

「綾乃、まだ残っているか」

夫の隆哉だった。

「はい。今、引き継ぎを終えたところです」

「少し話がある。社長室に来てくれないか」

「わかりました。すぐ伺います」

用件は告げられなかった。綾乃は机の上を片づけ、社長室へ向かった。

社長室の扉を開けると、隆哉は窓際に立ち、温泉街の明かりを眺めていた。机には何枚かの資料が重ねられている。

「お疲れさまです。何か急ぎの確認でしょうか」

「いや、座ってくれ」

綾乃が向かいの椅子に腰を下ろすと、隆哉も席に戻った。昼間、取引先と話すときと変わらない、穏やかな表情だった。

「綾乃。女将を降りてくれ」

綾乃は、すぐには返事ができなかった。

今聞いた言葉を頭の中で繰り返す。女将を降りる。休みを取るという意味でも、仕事の一部を誰かに任せるという意味でもないのだろう。

「……理由を、聞いてもいいですか」

「これからの神崎楼には、新しい経営方針が必要なんだ」

隆哉は机の資料に目を向けた。

「創業から百三十年近くになる。伝統は大切だよ。でも、それだけを守っていれば客が来る時代じゃない。若い世代にも選ばれる宿に変えていかなければ、先がないと思っている」

綾乃は頷いた。それ自体は、以前から二人で話してきた課題でもある。

「私も、変えていく必要はあると思います。予約の入り方も、お客様が求めるものも、昔とは違いますから」

「だったら、わかるだろう」

「いえ。改革が必要なことと、私が女将を退くことは、別の話だと思います」

隆哉の目が、わずかに細くなった。

「お前は今のやり方に慣れすぎているんだ。日々の運営をきちんと回しているのは認める。けど、これから求められるのは、それだけじゃない」

「新しい取り組みに反対しているわけではありません。何を変えるのか決まれば、現場と相談して進めることもできます」

「その進め方自体を、見直したいんだ」

綾乃は膝の上で手を重ね直した。

隆哉は商談でも、結論を急ぐより相手の考えを聞く人だった。今も声を荒らげてはいない。ただ、綾乃が質問するたび、答えは少しずつ遠ざかっていく。

「私の仕事に、何か問題がありましたか。お客様からご指摘があったのなら、確認したいですし、従業員との連携に不足があるなら改善します」

「そういうことじゃない。誰かが悪かったという話をしたいんじゃないんだ」

「では、どうして私であってはならないのでしょう」

隆哉は答える代わりに、指先で資料の端をそろえた。

「俺は社長として、神崎楼の将来を考えなきゃならない。今の規模の宿を維持するだけでも金がかかる。新しい客を呼び込むためには、思い切った判断が必要になる」

「それはわかります。でも、女将が代わることで、何がよくなるのかを教えてください」

「今ここで、一つひとつ説明しなければいけないのか」

責めるほど強い声ではなかった。それでも、綾乃の胸は小さく縮んだ。

同じ旅館で働き、夫婦として暮らしている相手に、仕事を退く理由を尋ねることさえ難しいのだろうか。

「説明してほしいんです。私にも、引き継ぐ責任があります。今日まで担当してきた業務を、明日から急に誰かに任せることはできません」

「明日すぐに全部変えろと言っているわけじゃない」

「それなら、いつ、どのように変えるおつもりですか」

「細かいことは、これから詰めればいい」

綾乃は黙った。客室の不具合や人員の調整なら、確認すべきことを順に整理できる。けれど今は、肝心の理由がわからないまま、結論だけを受け入れるよう求められている。

隆哉の言う改革には賛成できる。神崎楼を続けていくために、新しい発想が必要なことも理解している。それでも、自分が退くべきだというところにだけ、どうしても考えがつながらなかった。

「隆哉さん。私にも考える時間をいただけませんか」

「もちろん、話し合う時間は取るつもりだ」

その返事に、綾乃はわずかに安堵しかけた。

しかし隆哉は、すぐにこう続けた。

「ただ、後任については、もう考えてある」

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1.女将を降りろ
十月の榊ノ湯は、日が落ちると急に冷え込む。神崎楼の玄関先では、庭の楓が色づき始めていた。夕食を終えた宿泊客が浴場へ向かい、賑わっていた廊下にも少しずつ静けさが戻ってくる。「女将さん、明日の朝食ですが、七時をご希望のお客様が一組増えました」フロント係から差し出された連絡票に、綾乃は目を通した。「三〇二号室の方ですね。昨日は八時と伺っていましたけれど、変更されたんですね」「はい。明日は早めにお出かけになるそうです」「わかりました。厨房の準備時間を確認してから、お客様にお返事しましょう。朝食会場の担当者にも伝えてください」綾乃は連絡票をいったん預かり、予約管理画面と翌朝の配膳予定を照らし合わせた。七時台はすでに希望が集中している。調理場に確認すると、開始を十五分ずらせば無理なく対応できるという返事だった。「お客様には七時十五分でご案内を。もし早い時間でないと難しいようなら、改めてご相談を受けます」「承知しました」係が戻ろうとしたところで、綾乃はもう一枚の用紙に気づいた。「こちらは、明日の清掃の割り振りですね」「はい。別館の担当者が一人、午前中に通院することになりまして」綾乃は表を確かめ、連泊客の部屋とチェックアウト予定の部屋を指で追った。「では、午前中は退室済みのお部屋から進めましょう。急がなくていい部屋は午後に回せます。休憩時間まで詰めないよう、責任者の方と調整してください」「ありがとうございます。助かります」フロント係が去ったあと、綾乃は一日の引き継ぎ事項をまとめた。館内の設備不具合は施設担当へ、食事の変更は厨房と接客担当へ。伝えたつもりで終わらせず、誰が受け取ったかまで確かめる。宿の仕事は、目立つ場面ばかりではない。客に気持ちよく過ごしてもらうためには、その裏側で小さな調整を積み重ねる必要がある。女将になってから、綾乃はそのことをいっそう強く意識するようになっていた。時計は午後十時を回っている。最後の記録を保存して席を立とうとしたとき、事務室の電話が鳴った。「綾乃、まだ残っているか」夫の隆哉だった。「はい。今、引き継ぎを終えたところです」「少し話がある。社長室に来てくれないか」「わかりました。すぐ伺います」用件は告げられなかった。綾乃は机の上を片づけ、社長室へ向かった。社長室の扉を開けると、隆哉は窓際に立ち、温泉
last updateLast Updated : 2026-10-17
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2.次の女将
「後任は、藤崎さんに任せようと思っている」隆哉の口からその名が出たとき、綾乃は思わず聞き返した。「藤崎莉央さん、ですか」「ああ。広報を担当している彼女なら、これからの神崎楼を変えていける」社長室の時計は十時半を回ろうとしていた。廊下の向こうから、ときおり夜勤の従業員が行き交う足音が聞こえる。つい先ほどまで、綾乃は明日の朝食時間を調整していた。その同じ夜に、自分の後任の名を聞くことになるとは思わなかった。「藤崎さんが女将に就くというお話は、ご本人もご存じなんですか」「まだ正式な話にはしていない。ただ、本人には今後もっと大きな役割を担ってもらいたいと伝えてある」「そうですか……」莉央は昨年から神崎楼の広報に関わっている。公式サイトの見直しに始まり、季節の料理や館内の写真を使った発信、宿泊プランの見せ方まで、これまで手の届かなかった仕事を次々と形にしてきた。実際、新しい広告を始めてから、若い宿泊客の問い合わせが増えた。予約の入り方にも変化が見えている。しかも莉央は、思いつきだけで企画を押し通す人ではない。掲載する写真を選び直し、反応を確かめ、結果が悪ければ表現を変える。その地道さを、綾乃も評価していた。「彼女は数字で結果を出しているんだ」隆哉は机の上の資料を一枚取り、綾乃の方へ向けた。予約サイトの閲覧状況や広告の反応がまとめられている。「このところ、新規の客が増えている。今までと同じやり方で待っているだけじゃ、こうはならなかっただろう」「はい。藤崎さんの企画が成果につながっていることは、私も感じています」「それなら、彼女をもっと前に出す意味もわかるだろう。女将が宿の魅力を発信し、企画にも直接関わる。そういう体制にしたいんだ」綾乃は資料に目を落とした。写真の選び方も、言葉の使い方も、以前より洗練されている。彼女が取り組んだことを、綾乃は一度も無意味だと思ったことはない。「新しいお客様に来ていただけるのは、ありがたいことです。広報を強化する方針にも賛成です」「藤崎さんが外から連れてきてくださったお客様を、また来たいと思えるようにお迎えしたいんです。そのためにも、新しい企画と館内の運営は、一緒に考えていきたいと思います」「だったら話は早い」隆哉の表情がわずかに和らいだ。「ただ……女将を任せるとなると、もう少し考える必要があると思います
last updateLast Updated : 2026-10-17
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3.予約は増えている
翌朝、神崎楼の会議室には、紅葉した山並みを写した大きな写真が映し出されていた。「今回、広告の見せ方を三つ変えました」藤崎莉央はノートパソコンを操作し、画面を切り替えた。窓から差し込む秋の日差しの中で、その説明は明快だった。「まず、旅館の建物だけではなく、榊ノ湯で過ごす時間が伝わる写真を増やしました。次に、配信先を週末の旅行を探している首都圏の方へ絞りました。そして予約ページでは、料金より先にプランの魅力を読める構成にしています」画面には、変更前と変更後の広告が並んでいる。以前は神崎楼の玄関と客室写真が中心だったが、新しいものには、窓越しに見える紅葉や湯上がりにくつろぐ姿が使われていた。「問い合わせが増えただけではありません。同じ曜日同士で比較しても、広告を見て予約まで進んだ方の割合が上がっています。特に、これまで利用の少なかった年代からの予約が伸びました」「予想以上だな」隆哉は満足そうに資料をめくった。「このところ予約の入り方が変わったと思っていたが、きちんと結果が出ている」「ありがとうございます。ただ、広告だけの成果ではないんです。予約ページの写真や説明文も合わせて直したので、興味を持ってくださった方が途中で離れにくくなったのだと思います」莉央は数字の良いところだけを並べなかった。閲覧数は増えても予約につながりにくい広告は配信を減らし、反応の良いものに予算を振り向けたという。綾乃は手元の資料に目を落とした。女将を辞めるよう求められた昨夜の言葉が胸に残っていたが、今聞いている報告とは切り離して考えようと努めた。新しい客層に神崎楼を知ってもらうのは、簡単な仕事ではない。莉央はその入口を確かに広げていた。「藤崎さん、広告を見た方が予約まで進みやすくなったのは、大きな成果ですね」声をかけると、莉央はうれしそうに顔を上げた。「ありがとうございます。綾乃さんにもそう言っていただけると心強いです」「実際にお越しくださったお客様の感想も、今後の発信に生かせそうですね」「はい。そこも次に取り組みたいと思っています」隆哉が腕を組んだ。「この流れを止めたくないな。次の企画も進めてくれ」「はい。そこで、ご相談したいプランがあります」莉央が表示したのは、秋の食事を前面に押し出した宿泊プランだった。通常の会席に季節の一皿を加え、到着時には小さな菓子
last updateLast Updated : 2026-10-17
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4.数字に映らない仕事
「新しい宿泊プランのことで、ご相談があるんです」声をかけてきたのは、食事会場を担当する女性従業員だった。綾乃が立ち止まると、彼女は手にした資料を開いた。「夕食に一品追加する案が出ていますよね。実施することになったら、配膳の順番をどうしたらいいのかと思って」「まだ内容を検討している段階です。何か気になることがありますか」「今でも夕食の時間が重なる日は、料理を運ぶのに手いっぱいになるんです。もう一品増えたら、お客様をお待たせするかもしれません」綾乃はすぐに「大丈夫」とは言わなかった。「どの時間帯に、一番負担がかかっていますか」「六時台です。最初のお料理は順調でも、焼き物が出る頃には二つの会場を行き来することがあって……」話を聞きながら、綾乃は資料の余白にメモを取った。心配しているのは仕事が増えることそのものではない。料理を適切な温度で届けられなくなることだった。「教えてくださってありがとうございます。厨房にも確認して、どうすれば無理なく出せるか考えましょう」綾乃は女性とともに調理場へ向かった。昼の片づけが済み、夕食の仕込みに入る前の時間を選んで、調理場の責任者に事情を伝える。「新しいプランの料理について、少しご相談できますか。まだ企画段階なのですが」責任者は献立案に目を通して、眉を寄せた。「品数を増やすなら、出す順番を決めないといけませんね。今の献立の途中に入れるだけだと、焼き物の仕上げと重なります」「提供を遅らせれば済む話でもありませんね」「ええ。温かい料理は温かいうちに出したいですから」配膳担当の女性が頷く。「料理ができてから呼んでいただいても、ほかの卓で手が離せないことがあるんです」二人の話を聞き、綾乃は確認することを一つずつ整理した。追加する料理の調理工程、同時に提供できる組数、配膳する人数。どれか一つだけを変えても、ほかの仕事に影響する。「最初から全室を対象にせず、一日に受ける組数を決める方法はどうでしょうか」責任者は少し考えた。「組数が決まっていれば、仕込みは組めます。ただ、何を一皿にするかによりますね」「では、候補の料理ごとに必要な手間を確認していただけますか。私も予約の入り方を調べます」綾乃は女性にも顔を向けた。「配膳の動線について、実際に働く皆さんの意見を聞かせてください。厨房だけで決めてしまうと、運ぶ
last updateLast Updated : 2026-10-17
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5.夫婦だったはずなのに
「経営方針の会議には、もう出なくていい」隆哉の言葉を聞いても、綾乃はすぐには立ち上がれなかった。「では、現場から改善の提案があるときは、どうすればいいのでしょうか」「各部署の責任者から報告を上げてもらえばいい。必要なものは俺が判断する」「これまでは、部署をまたぐ問題を私が整理してから、お話ししていましたよね」「それが悪いと言っているわけじゃない。ただ、今後はもっと早く決めたいんだ」隆哉はもう一度パソコンに目を向けた。話は終わりだという態度に見えたが、綾乃には確かめておきたいことがあった。「お仕事の話とは別に、今夜、少し時間をいただけますか」隆哉が顔を上げる。「まだ何かあるのか」「夫婦として、お話ししたいんです」その言葉に隆哉は意外そうな表情を浮かべたが、やがて小さく頷いた。「夕食の片づけが終わった頃なら、時間を取れると思う」「ありがとうございます」綾乃は一礼して社長室を出た。閉じた扉の向こうからキーボードを打つ音が聞こえ、廊下へ踏み出したところで足を止める。夫に話す時間を頼むのに、取引先との面談をお願いするような言葉になってしまった。神崎楼では、朝から晩まで多くの人が働いている。互いの仕事を尊重するのは当然のことだ。それでも、同じ屋根の下で働く夫婦が、こんなふうに時間を取り決めなければ話せなくなったのは、いつからだろう。夜、従業員への引き継ぎを済ませた綾乃が社長室を訪れると、隆哉は約束どおり机の資料を片づけていた。「昼間の続きなら、考えは変わらないぞ」「今日は、会議のことをお願いしに来たのではありません」綾乃は向かいの椅子に腰を下ろした。「隆哉さんと私が、これからどうやって一緒にやっていくのか、お話ししたいんです」隆哉は少し困ったように笑った。「大げさだな。仕事の進め方を変えようとしているだけだろう」「私には、そうは思えなくて。女将を降りるよう言われて、経営の話し合いからも外れることになりました。何を期待されているのか、よくわからないんです」「神崎楼のことを考えて、今までどおり現場を支えてくれればいい」「でも、現場で問題が起きても、私の意見はもう聞いていただけないんでしょうか」「またその話か」隆哉はため息をついた。「お前は俺の方針を理解しようとしない。新しいことを始めようとすると、決まって人手や費用の話にな
last updateLast Updated : 2026-10-17
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6.疑いたくなかった
昨夜、応接スペースで見た二人の姿が、綾乃の頭から離れなかった。翌朝、フロントの事務室で予約一覧を開いていても、ふとした拍子に隆哉の笑顔が浮かぶ。莉央の言葉に応じて笑っていた、あの表情だ。綾乃は画面から目を離し、机に置いた連絡票を一枚ずつ確かめた。午後の到着予定時刻に変更がある客、食事について相談のある客。まずは目の前の仕事を終わらせなければならない。「女将さん、来週の打ち合わせの予定、こちらでよろしいでしょうか」フロント係が差し出した館内の予定表には、広報関連の打ち合わせが幾つか書き込まれていた。隆哉と莉央が出席するものもある。「はい。会議室はこの時間で押さえてください。ほかの部署にも関係する企画なら、内容が決まったところで知らせていただけるようお願いします」「承知しました」係が去ったあと、綾乃は予定表を眺めた。隆哉が出席する会議の時間は把握しているつもりだったが、最近は予定表を見て初めて知ることも多い。自分が経営方針の会議から外れると決まった以上、それも当然なのかもしれない。けれど、予定を共有し合わなくなったのは、その決定より前からだった。打ち合わせ自体は珍しくない。広告を出したあとは反応を確認する必要があるし、宿泊プランを変えるなら何度も相談するだろう。莉央の仕事が神崎楼に成果をもたらしていることは、綾乃自身が知っている。それでも、いつからだろう。隆哉の予定を、妻である自分よりも莉央の方がよく知っているように感じることが増えた。以前は、夕食の席で「今日はこんな提案があってね」と隆哉から話しかけてくることもあった。綾乃が客室や従業員の様子を伝えると、彼は自分の考えを話し、二人で翌日の段取りを相談した。最近は、仕事が終わっても隆哉の電話が鳴る。連絡の相手が莉央だとわかることもあった。新しい写真の確認、広告の配信、予約ページの修正。話題はどれも仕事に関係するものだった。綾乃が声をかけても、「あとにしてくれ」と返ってくる。そのうち綾乃も、急ぎの用件でなければ翌日に回すようになった。二人で食事をする機会も減っていた。帰る時間が合わない日は珍しくない。秋の繁忙期なのだから、そういうこともある。一つずつ考えれば、どれにも説明がつく。だからこそ、綾乃は自分の胸に生まれた疑いを扱いかねていた。仕事のために連絡を取り合う二人を、何の根拠もなく責めた
last updateLast Updated : 2026-10-17
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7.仕事上の関係ですか
「藤崎さんとは、仕事以外でも親しい関係なんですか」綾乃が尋ねると、隆哉は食卓のそばで足を止めた。仕事の資料を取りに戻ってきたところだったのだろう、片手には薄いファイルを持っている。「何だよ、急に」「急に思いついたわけではありません。前から、少し気になっていました」隆哉は椅子を引いて腰を下ろしたが、ファイルは手放さなかった。「藤崎さんは神崎楼にとって大事な人材だ。あの人が広告を見直してくれたおかげで、今までうちを知らなかった客にも来てもらえるようになった。知っているだろう?」「はい。予約の数字にも表れていますし、仕事ぶりは私も評価しています」「だったら、俺が頻繁に打ち合わせをするのは当然じゃないか。新しいプランを出すにも、写真を替えるにも、俺が判断しなきゃ進まないことがある」説明は筋が通っていた。莉央が企画を出し、経営者の隆哉が判断する。綾乃もその仕事の流れを知っているし、二人が顔を合わせる機会が多いこと自体に疑問はない。ただ、今聞きたいのは、そこではなかった。「お仕事で会うことを問題にしているのではないんです」「じゃあ何が問題なんだ」「藤崎さんと、仕事を離れても会っているのかを聞いています」隆哉は一度、口を開きかけた。それから手元のファイルに視線を落とす。「仕事と私生活を、そんなにはっきり分けられるわけじゃない。企画の相談が長引いて、外で話すことだってある」「外で、というのは?」「店に入って話すとか、そういうことだよ。事務室にいるだけが仕事じゃないだろう」綾乃は頷いた。打ち合わせの場所が旅館の外になったというだけなら、夫を疑う理由にはならない。それでも隆哉は、誰とどんな時間を過ごしているのかという問いには答えていない。「二人でお会いになったこともあるんですか」「綾乃、俺は今、神崎楼の新しい客層を開拓しようとしているんだ。広告の反応がいい時期を逃したくない。そんな話までいちいち報告しなきゃいけないのか」「報告を求めているのではありません。ただ、知りたいんです」自分の声が平静なのを、綾乃は不思議に思った。胸の内側では、夫が明るく笑って莉央に向き合っていた姿が消えずにいる。けれど、その印象だけを根拠に責めたくはなかった。隆哉が「仕事だけだ」と言ってくれれば、ほっとできるかもしれない。そう思って待ったが、その言葉は返ってこなかっ
last updateLast Updated : 2026-10-17
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8.裏切りの告白
「藤崎さんとは、男女としてのお付き合いをしているんですか」隆哉は答えなかった。食卓の上には、先ほど彼が置いたファイルがある。綾乃はその端がわずかにめくれているのを見つめながら、返事を待った。違うと笑ってほしかった。二人で食事をしただけなのに、何を考えているんだと言われたなら、きっと謝ることができた。けれど隆哉は、視線を合わせようとしない。「隆哉さん」名前を呼ぶと、夫はゆっくり顔を上げた。「……そうだ」短い返事だった。「莉央とは、仕事だけの関係じゃない。……付き合っているんだ」綾乃は夫の顔を見た。言葉の意味を確かめるように、隆哉は続けた。「結婚している俺が、彼女と関係を持った」綾乃は口を開いたまま、何も言えなかった。聞こうと決めていたはずなのに、答えが言葉になった途端、その先をどうすればいいのかわからなくなる。壁の時計が、かすかに音を立てている。さっきまで二人で夕食を取っていた部屋は、いつもと変わらない。夫の湯呑みも、綾乃が置いたままの布巾も、そこにある。それなのに、同じ場所にはもう戻れない気がした。神崎楼では、莉央と何度も顔を合わせてきた。予約ページを改善したとき、綾乃も成果を喜んだ。新しい宿泊プランを提案されたときには、厨房や接客担当との調整が必要だと伝えた。莉央は熱心に説明し、綾乃の意見にも耳を傾けていた。あの会議のときも、その前も、二人はすでに特別な関係だったのだろうか。莉央にとって綾乃は、同じ旅館で働く女将であり、隆哉の妻でもある。そこに曖昧なところなどなかったはずだ。互いの立場を知ったうえで笑顔を交わしていたのだと思うと、記憶の一つひとつが急によそよそしくなった。問いかけが胸の内に浮かんでも、声にはならない。莉央が「綾乃さん」と呼ぶ声まで思い出してしまい、綾乃は膝の上で両手を強く握った。彼女の仕事の能力を認めたことに、嘘はない。神崎楼のためになると思ったから、協力したかった。それでも、何も知らずに向き合っていた自分を、二人はどんな気持ちで見ていたのだろう。「綾乃」隆哉が名前を呼んだ。綾乃は答えず、食卓の木目を見つめた。涙が出ると思っていたのに、目の奥が痛むだけで、一滴もこぼれない。「何か、言ってくれないか」夫の声が遠く感じられた。「……少し、待ってください」やっとそれだけ告げると、隆哉は黙った。綾
last updateLast Updated : 2026-10-17
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9.もう戻れない
「夫婦としての関係を終わらせたい」隆哉の言葉が、綾乃の耳に残っていた。さっきまで食事をしていたテーブルには、夫が置いた仕事のファイルがある。綾乃はその表紙を見つめたまま、何度か息を整えた。「……それは、離婚したいということですか」「ああ」隆哉は言い直すことも、言葉を濁すこともしなかった。「俺の気持ちは、もう決まっている」綾乃は目を伏せた。先ほど不倫を認めたときの沈黙とは違う。今の隆哉は、自分が何を望んでいるのか、はっきりわかっているようだった。「藤崎さんと、一緒になりたいんですか」「すぐに何もかも決められるわけじゃない。けど、綾乃との結婚を終えて、莉央と新しい関係を築いていきたいと思っている」聞きたくて尋ねたはずなのに、返ってきた答えは胸の奥に重く沈んだ。「……そうですか」それ以上の言葉が出ない。隆哉は綾乃の沈黙を、話を続けてもよいという意味に受け取ったらしい。「神崎楼も、これから変えていく。莉央が進めている広告は成果が出ているし、新しいプランにも手応えがある。もっと若い客に来てもらえる宿にしたいんだ」「はい」「女将にも、今までとは違う役割を担ってほしい。莉央なら、企画と発信を一つにつなげられる」綾乃は顔を上げた。「だから、私に女将を降りてほしかったんですね」隆哉はすぐには答えず、指先でファイルを引き寄せた。「仕事のことは、仕事のことだ。神崎楼のために必要だと判断した」「では、離婚のお話とは関係がないと?」「まったく関係がないとは言わない。でも、どちらも中途半端にはできないだろう」綾乃には、その言葉がかえって明瞭に聞こえた。自分との結婚を終え、莉央と新しい生活を考える。そして、神崎楼の女将の座にも彼女を据える。隆哉の中では、その二つが同じ未来へ向かう決断になっていたのだ。「私が担当してきた仕事は、どうなるんでしょうか」問いは口をついて出た。「そこは順に引き継げばいい。各部署には責任者がいるし、莉央も覚えていくだろう」「予約の調整や、お客様からのご相談は、広報だけでは対応できません」「わかっている。今すぐ全部できるとは思っていないよ。みんなにも協力してもらう。新しい体制が落ち着くまで、多少の混乱はあるかもしれないけど」隆哉は、解決できる問題だという口ぶりだった。本当にそうだろうか。女将の仕事を覚えるには、厨
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10.二人で見た夢
翌朝、綾乃はフロントの事務室で、前日の引き継ぎ記録を確認していた。色づき始めた楓に朝日が差し込んでいる。昨夜ほとんど眠れなかった綾乃には、その光が眩しかった。「女将さん、こちらの変更、厨房にも伝わっています」予約係が差し出した用紙には、夕食の時間を変更した宿泊客の部屋番号と、各担当者の確認印が並んでいた。「ありがとうございます。では、食事会場にも予定どおりご案内してください」用紙を受け取り、綾乃は右端の小さな確認欄を見つめた。誰が連絡を受け、どこまで伝えたのか。小さな欄があるだけで、伝達の行き違いを減らせる。今では当たり前の書式も、最初からあったわけではない。二〇一九年四月、神崎楼に入社したばかりの自分は、そんなことさえ知らなかった。大学で経営学を学び、旅館の仕事に関心を抱いて入社した。当時の綾乃は、経営には数字を読む力が大切だと考えていた。だが、宿泊客を迎える一日がどれほど多くの手で支えられているかは、現場に立って初めて知った。最初は客室の準備一つにも時間がかかった。備品の位置を覚え、清掃の確認を教わり、次はフロントで予約内容の見方を学ぶ。食事の開始時間が変われば、予約係が記録するだけでは済まない。厨房が仕込みを調整し、接客係が会場の準備を変える必要があった。ある日、綾乃は宿泊客から受けた夕食時間の変更を、予約表には記したものの、食事会場への連絡が遅れてしまった。幸い、先輩が気づいて間に合ったが、綾乃は申し訳なさで顔を上げられなかった。「すみません。確認したつもりでした」「予約表に書くのも大事だけど、それを見ない部署もあるからね」責める口調ではなく教えられた言葉が、かえって胸に残った。その日の業務が落ち着いてから、綾乃は引き継ぎ用紙を広げていた。どうすれば伝達漏れを防げるのか、思いつくまま余白に書き込んでいると、後ろから声がした。「安西さん、まだ仕事をしていたのか」振り返ると、神崎家の後継者として働いていた隆哉が立っていた。「はい。今日、私の確認が足りなくて……同じ間違いをしない方法を考えていました」隆哉は用紙に目を落とした。「連絡先を増やすのか?」「いえ、増やすだけでは、かえって煩雑になるかもしれません。変更を受けた人が、関係する部署に伝えたかどうか、確認できる欄があればと思ったんです。でも、実際に使いやすいかはわかり
last updateLast Updated : 2026-10-17
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