LOGIN夫の裏切りによって、老舗旅館「神崎楼」を追い出された女将・安西綾乃。 離婚後、彼女が出会ったのは、廃業寸前の小さな料理旅館「月乃庵」だった。 客足の減少、老朽化した設備、後継者不足。それでも、この宿には守るべき価値がある。 女将として培った経験を武器に、綾乃は旅館再建に挑む。 経営再生の専門家・桐谷慎吾との出会い、新たな恋、そして温泉街の再開発に隠された過去の秘密。 一方、綾乃を追い出した元夫の旅館には、経営危機が迫っていた。 奪われた居場所には戻らない。 今度は経営者として、あの旅館を手に入れる。 これは、一人の女性が自らの力で人生を取り戻す、痛快な逆転と再生の物語。
View More十月の榊ノ湯は、日が落ちると急に冷え込む。
神崎楼の玄関先では、庭の楓が色づき始めていた。夕食を終えた宿泊客が浴場へ向かい、賑わっていた廊下にも少しずつ静けさが戻ってくる。
「女将さん、明日の朝食ですが、七時をご希望のお客様が一組増えました」
フロント係から差し出された連絡票に、綾乃は目を通した。
「三〇二号室の方ですね。昨日は八時と伺っていましたけれど、変更されたんですね」
「はい。明日は早めにお出かけになるそうです」
「わかりました。厨房の準備時間を確認してから、お客様にお返事しましょう。朝食会場の担当者にも伝えてください」
綾乃は連絡票をいったん預かり、予約管理画面と翌朝の配膳予定を照らし合わせた。七時台はすでに希望が集中している。調理場に確認すると、開始を十五分ずらせば無理なく対応できるという返事だった。
「お客様には七時十五分でご案内を。もし早い時間でないと難しいようなら、改めてご相談を受けます」
「承知しました」
係が戻ろうとしたところで、綾乃はもう一枚の用紙に気づいた。
「こちらは、明日の清掃の割り振りですね」
「はい。別館の担当者が一人、午前中に通院することになりまして」
綾乃は表を確かめ、連泊客の部屋とチェックアウト予定の部屋を指で追った。
「では、午前中は退室済みのお部屋から進めましょう。急がなくていい部屋は午後に回せます。休憩時間まで詰めないよう、責任者の方と調整してください」
「ありがとうございます。助かります」
フロント係が去ったあと、綾乃は一日の引き継ぎ事項をまとめた。館内の設備不具合は施設担当へ、食事の変更は厨房と接客担当へ。伝えたつもりで終わらせず、誰が受け取ったかまで確かめる。
宿の仕事は、目立つ場面ばかりではない。客に気持ちよく過ごしてもらうためには、その裏側で小さな調整を積み重ねる必要がある。
女将になってから、綾乃はそのことをいっそう強く意識するようになっていた。
時計は午後十時を回っている。最後の記録を保存して席を立とうとしたとき、事務室の電話が鳴った。
「綾乃、まだ残っているか」
夫の隆哉だった。
「はい。今、引き継ぎを終えたところです」
「少し話がある。社長室に来てくれないか」
「わかりました。すぐ伺います」
用件は告げられなかった。綾乃は机の上を片づけ、社長室へ向かった。
社長室の扉を開けると、隆哉は窓際に立ち、温泉街の明かりを眺めていた。机には何枚かの資料が重ねられている。
「お疲れさまです。何か急ぎの確認でしょうか」
「いや、座ってくれ」
綾乃が向かいの椅子に腰を下ろすと、隆哉も席に戻った。昼間、取引先と話すときと変わらない、穏やかな表情だった。
「綾乃。女将を降りてくれ」
綾乃は、すぐには返事ができなかった。
今聞いた言葉を頭の中で繰り返す。女将を降りる。休みを取るという意味でも、仕事の一部を誰かに任せるという意味でもないのだろう。
「……理由を、聞いてもいいですか」
「これからの神崎楼には、新しい経営方針が必要なんだ」
隆哉は机の資料に目を向けた。
「創業から百三十年近くになる。伝統は大切だよ。でも、それだけを守っていれば客が来る時代じゃない。若い世代にも選ばれる宿に変えていかなければ、先がないと思っている」
綾乃は頷いた。それ自体は、以前から二人で話してきた課題でもある。
「私も、変えていく必要はあると思います。予約の入り方も、お客様が求めるものも、昔とは違いますから」
「だったら、わかるだろう」
「いえ。改革が必要なことと、私が女将を退くことは、別の話だと思います」
隆哉の目が、わずかに細くなった。
「お前は今のやり方に慣れすぎているんだ。日々の運営をきちんと回しているのは認める。けど、これから求められるのは、それだけじゃない」
「新しい取り組みに反対しているわけではありません。何を変えるのか決まれば、現場と相談して進めることもできます」
「その進め方自体を、見直したいんだ」
綾乃は膝の上で手を重ね直した。
隆哉は商談でも、結論を急ぐより相手の考えを聞く人だった。今も声を荒らげてはいない。ただ、綾乃が質問するたび、答えは少しずつ遠ざかっていく。
「私の仕事に、何か問題がありましたか。お客様からご指摘があったのなら、確認したいですし、従業員との連携に不足があるなら改善します」
「そういうことじゃない。誰かが悪かったという話をしたいんじゃないんだ」
「では、どうして私であってはならないのでしょう」
隆哉は答える代わりに、指先で資料の端をそろえた。
「俺は社長として、神崎楼の将来を考えなきゃならない。今の規模の宿を維持するだけでも金がかかる。新しい客を呼び込むためには、思い切った判断が必要になる」
「それはわかります。でも、女将が代わることで、何がよくなるのかを教えてください」
「今ここで、一つひとつ説明しなければいけないのか」
責めるほど強い声ではなかった。それでも、綾乃の胸は小さく縮んだ。
同じ旅館で働き、夫婦として暮らしている相手に、仕事を退く理由を尋ねることさえ難しいのだろうか。
「説明してほしいんです。私にも、引き継ぐ責任があります。今日まで担当してきた業務を、明日から急に誰かに任せることはできません」
「明日すぐに全部変えろと言っているわけじゃない」
「それなら、いつ、どのように変えるおつもりですか」
「細かいことは、これから詰めればいい」
綾乃は黙った。客室の不具合や人員の調整なら、確認すべきことを順に整理できる。けれど今は、肝心の理由がわからないまま、結論だけを受け入れるよう求められている。
隆哉の言う改革には賛成できる。神崎楼を続けていくために、新しい発想が必要なことも理解している。それでも、自分が退くべきだというところにだけ、どうしても考えがつながらなかった。
「隆哉さん。私にも考える時間をいただけませんか」
「もちろん、話し合う時間は取るつもりだ」
その返事に、綾乃はわずかに安堵しかけた。
しかし隆哉は、すぐにこう続けた。
「ただ、後任については、もう考えてある」
綾乃は、前日に渡された新しい宿泊プランの案内資料を机に広げた。季節の料理を一品加え、チェックアウトの時間を延長する。企画の狙いはよくわかるし、広告に使う写真も魅力的だった。ただ、接客担当や清掃担当に確認したはずの項目には、まだ空欄が残っている。「こちらの提供条件は、もう決まっているんでしょうか」予約係に尋ねると、相手は予定表を見せてくれた。「昨日、社長と藤崎さん、それから予約部門の責任者で打ち合わせをしたそうです。今日中に案内の準備を進めるよう言われています」「厨房と接客の担当者も出席したんですか」「いえ、そこまでは聞いていません。決まった内容を各部署へ伝える、ということでした」綾乃は資料の端を押さえた。経営方針の会議から外れることは、隆哉に告げられていた。しかし、料理の提供方法や人員配置まで、現場の意見を聞かずに決めるとは思っていなかった。「ありがとうございます。まず、どこまでが決定事項か確認しますね」予約係を困らせないように、綾乃は声の調子を変えなかった。相手も伝えられた指示に従っているだけだ。厨房の責任者に電話をすると、追加する料理の候補は相談されているものの、提供する組数や時間帯はまだ聞いていないという。「献立が決まれば仕込みの段取りは考えられます。でも、同じ時間に何組も重なるなら話は別ですね」「わかりました。確認できるまで、新しい料理についてお約束する案内は控えてもらうよう伝えます」次に清掃部門へ聞くと、チェックアウト延長の対象客室が決まらなければ、翌日の作業順を組めないとの返事だった。綾乃は資料に書き込みを加えた。今までなら関係者を集め、条件をそろえてから予約係へ伝えていた。今回は、綾乃が知らないところで検討が進んでいる。問い合わせるべき相手を確かめようと社長室に内線を入れると、隆哉は短く答えた。「企画の方向性は俺と藤崎さんで決めた。細かい運用は各部署で調整してくれ」「では、特典の対象となる部屋数や、販売条件については、どなたの判断を仰げばよろしいでしょうか」「変更
窓の外の楓は、昨日より少し赤みを増したように見えた。綾乃は予約一覧を閉じ、机に置かれた業務連絡の束を整えた。神崎楼で働き始めた頃、あれほど頼もしかった隆哉が、いつから自分の意見に耳を貸さなくなったのか。答えを探そうとすると、思い浮かぶのは、神崎家にとって大きな転機となった年だった。二〇二二年、隆哉の父、雅之が病気で亡くなった。雅之は、表に立って宿泊客をもてなすことこそ少なかったが、神崎楼の経営を長く支えていた。資金繰りを見通し、取引先との条件を詰め、設備の更新にどこまで費用をかけられるかを判断する。綾乃が入社した頃も、経営に関わる書類には必ず雅之の確認が入っていた。葬儀を終えたあとも、旅館の営業は続いた。客は予定どおり到着し、仕入先からは納品の連絡が入る。雅之を失った悲しみと、仕事を止められない現実が同時に押し寄せた。「父さんが決めていたことが、思ったより多いんだ」ある晩、隆哉は自宅で書類を広げ、額に手を当てた。「支払いの予定は追える。でも、取引先との話がどこまで進んでいたか、確認しないといけないものがある」「私にできることはありますか」「現場の状況を教えてほしい。数字だけ見ていると、削っていい費用と、そうじゃない費用の区別がつかなくなる」綾乃は頷き、客室で交換を急ぐ備品や、調理場から上がっていた要望を伝えた。すべてが採用されたわけではない。後回しにできるものもあれば、安全やサービスに関わるため、優先しなければならないものもあった。「それは先に手を打とう。ありがとう、綾乃」隆哉は何度もそう言った。慣れない責任を背負い、時には夜遅くまで資料を見ていた夫を、綾乃は支えたいと思った。自分に経営のすべてがわかるわけではない。それでも、現場で見たことを伝えれば、判断の助けにはなれる。やがて隆哉は、取引先との交渉や新しい営業施策を、自分の判断で進めるようになった。費用を見直し、宿泊プランを組み替えた結果、手応えを得られることも増えていった。「今回は俺の判断で進めてよかった」そう笑う隆哉を見て、綾乃もうれしくなった。夫が父
翌朝、綾乃はフロントの事務室で、前日の引き継ぎ記録を確認していた。色づき始めた楓に朝日が差し込んでいる。昨夜ほとんど眠れなかった綾乃には、その光が眩しかった。「女将さん、こちらの変更、厨房にも伝わっています」予約係が差し出した用紙には、夕食の時間を変更した宿泊客の部屋番号と、各担当者の確認印が並んでいた。「ありがとうございます。では、食事会場にも予定どおりご案内してください」用紙を受け取り、綾乃は右端の小さな確認欄を見つめた。誰が連絡を受け、どこまで伝えたのか。小さな欄があるだけで、伝達の行き違いを減らせる。今では当たり前の書式も、最初からあったわけではない。二〇一九年四月、神崎楼に入社したばかりの自分は、そんなことさえ知らなかった。大学で経営学を学び、旅館の仕事に関心を抱いて入社した。当時の綾乃は、経営には数字を読む力が大切だと考えていた。だが、宿泊客を迎える一日がどれほど多くの手で支えられているかは、現場に立って初めて知った。最初は客室の準備一つにも時間がかかった。備品の位置を覚え、清掃の確認を教わり、次はフロントで予約内容の見方を学ぶ。食事の開始時間が変われば、予約係が記録するだけでは済まない。厨房が仕込みを調整し、接客係が会場の準備を変える必要があった。ある日、綾乃は宿泊客から受けた夕食時間の変更を、予約表には記したものの、食事会場への連絡が遅れてしまった。幸い、先輩が気づいて間に合ったが、綾乃は申し訳なさで顔を上げられなかった。「すみません。確認したつもりでした」「予約表に書くのも大事だけど、それを見ない部署もあるからね」責める口調ではなく教えられた言葉が、かえって胸に残った。その日の業務が落ち着いてから、綾乃は引き継ぎ用紙を広げていた。どうすれば伝達漏れを防げるのか、思いつくまま余白に書き込んでいると、後ろから声がした。「安西さん、まだ仕事をしていたのか」振り返ると、神崎家の後継者として働いていた隆哉が立っていた。「はい。今日、私の確認が足りなくて……同じ間違いをしない方法を考えていました」隆哉は用紙に目を落とした。「連絡先を増やすのか?」「いえ、増やすだけでは、かえって煩雑になるかもしれません。変更を受けた人が、関係する部署に伝えたかどうか、確認できる欄があればと思ったんです。でも、実際に使いやすいかはわかり
「夫婦としての関係を終わらせたい」隆哉の言葉が、綾乃の耳に残っていた。さっきまで食事をしていたテーブルには、夫が置いた仕事のファイルがある。綾乃はその表紙を見つめたまま、何度か息を整えた。「……それは、離婚したいということですか」「ああ」隆哉は言い直すことも、言葉を濁すこともしなかった。「俺の気持ちは、もう決まっている」綾乃は目を伏せた。先ほど不倫を認めたときの沈黙とは違う。今の隆哉は、自分が何を望んでいるのか、はっきりわかっているようだった。「藤崎さんと、一緒になりたいんですか」「すぐに何もかも決められるわけじゃない。けど、綾乃との結婚を終えて、莉央と新しい関係を築いていきたいと思っている」聞きたくて尋ねたはずなのに、返ってきた答えは胸の奥に重く沈んだ。「……そうですか」それ以上の言葉が出ない。隆哉は綾乃の沈黙を、話を続けてもよいという意味に受け取ったらしい。「神崎楼も、これから変えていく。莉央が進めている広告は成果が出ているし、新しいプランにも手応えがある。もっと若い客に来てもらえる宿にしたいんだ」「はい」「女将にも、今までとは違う役割を担ってほしい。莉央なら、企画と発信を一つにつなげられる」綾乃は顔を上げた。「だから、私に女将を降りてほしかったんですね」隆哉はすぐには答えず、指先でファイルを引き寄せた。「仕事のことは、仕事のことだ。神崎楼のために必要だと判断した」「では、離婚のお話とは関係がないと?」「まったく関係がないとは言わない。でも、どちらも中途半端にはできないだろう」綾乃には、その言葉がかえって明瞭に聞こえた。自分との結婚を終え、莉央と新しい生活を考える。そして、神崎楼の女将の座にも彼女を据える。隆哉の中では、その二つが同じ未来へ向かう決断になっていたのだ。「私が担当してきた仕事は、どうなるんでしょうか」問いは口をついて出た。「そこは順に引き継げばいい。各部署には責任者がいるし、莉央も覚えていくだろう」「予約の調整や、お客様からのご相談は、広報だけでは対応できません」「わかっている。今すぐ全部できるとは思っていないよ。みんなにも協力してもらう。新しい体制が落ち着くまで、多少の混乱はあるかもしれないけど」隆哉は、解決できる問題だという口ぶりだった。本当にそうだろうか。女将の仕事を覚えるには、厨