コミュニティの会話では、崇拝者側の視点に立って議論する人もいる。そういう人たちはアザトースを
崇めることで得られる“解放”や“忘却”を肯定的に描き、存在の無意味さを受け入れること自体が救済になると主張する。私はその見方に共感する瞬間がある。何かを手放すことで重荷が消えるという感覚は、創作の中でも強力なテーマになる。
逆に、崇拝が危険だと警告する論者もいて、アザトース崇拝は秩序の崩壊や個の喪失を招くという批判が根強い。どちらの立場も
一長一短で、私自身は均衡を保ちながら両方の声を聞くのが好きだ。結論めいた言い方は避けたいが、ファンの議論が多層的であること自体が、この存在を考える醍醐味になっていると思う。