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あの人は、遠い時の中に

あの人は、遠い時の中に

Oleh:  いわいよTamat
Bahasa: Japanese
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結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。 【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】 【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。 君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】 …… どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。 しかも、その送り相手は他でもない。 彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。 たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。 詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。 自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。 画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。

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Bab 1

第1話

結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。

【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】

【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。

君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】

……

どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。

しかも、その送り相手は他でもない。

彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。

たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。

詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。

自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。

画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。

詩織はそっとチャット画面を閉じ、今度は自分を傷つけるように、二人の過去の痕跡を探し始める。

クラウドの隠しアルバム。中には2376枚もの写真が入っていた――全部、湊と綾香だけの思い出。

そこには、彼女が知らない時間が詰まっていた。

たとえば、高校時代。グラウンドでふざける綾香を、湊がカメラ越しに優しく見つめているスナップ。

大学の雪の夜。二人で同じ黒いダウンコートにくるまり、綾香は湊のマフラーに顔をうずめて、目だけがくしゃっと笑っている。

……

最後の一枚は、去年の大晦日だった。綾香が花火の下で立っている後ろ姿。写真の片隅には、湊の手がそっと、けれど距離を隔てて、彼女の頭の上にかざされている。

写真のタイトルには、ただ一言。【さよなら】とだけ。

その日、詩織は湊と一緒に婚約パーティーを終えたばかりだった。

湊は「これで本当に過去に区切りをつける」と言っていたけれど、結局その写真も全部、秘密のアルバムにロックをかけて隠していた。まるで、誰にも見つからないように。でも肝心な痕跡は、片付けきれずに残したままだった。

付き合い始めの頃、詩織は何度も「一緒に写真を撮ろう」と頼んでいた。でも湊はいつも「写真は苦手だから」と断っていた。

だから彼女たちのちゃんとしたツーショットは、一枚もなかった。

結婚写真だけは絶対に、と何度もスタジオを回ったけれど、「最近プロジェクトが忙しいから」と、どんどん先送りにされていった。

詩織の胸は、痛みと苦さでいっぱいだった。それでも自分に言い聞かせてしまう。「湊は写真が苦手なだけ、私が嫌いなわけじゃない」――そうやって何度も心の中でごまかしてきた。

でも、いまアルバムを見てしまった。

雪の夜、綾香と並んで笑う湊。写真一枚のために鼻先を真っ赤にしながらも、嬉しそうに彼女に寄り添っている。

その瞬間、詩織ははっきり分かった――

湊は、写真が嫌いなんじゃない。私と一緒に写真を撮りたくなかっただけなんだ。忙しいんじゃない。私との未来なんて、最初から考えてもいなかった、と。

綾香とは七年間、燃えるように愛し合ってきた。

一番熱いあの時期には、「恋人の100のやりたいことリスト」も全部一緒に叶えた。満天の星空の下でキスしたり、彼女のために高所恐怖症を乗り越えてバンジージャンプに挑戦したり――本当に、誰よりも激しくて純粋な恋だったんだ。

詩織はそっとパソコンを閉じる。指先が目元に触れて、気付けばもう、涙が流れている。目頭をぬぐうと、知らないうちに涙が流れていた。

カーペットに座り込んで、頭の中はぐちゃぐちゃだ。

そのとき、玄関の鍵が開く音がした。

詩織は慌てて涙を拭い、無理やり平静を装った。でも、すぐに湊の冷たい目と視線がぶつかる。

湊は酒と夜風の匂いを纏いながら、彼女をリビングのテーブルの上にそっと抱き上げる。指先で彼女の目尻に触れて、「どうして泣いてる?」と囁く。

問われた途端、胸の奥で我慢していたものが決壊する。

涙が止まらなくなる。ぽろぽろと湊の手の甲に落ちていく。

湊は詩織の腰をそっと抱きながら、黙って見つめてくる。

喉を鳴らして、かすかに笑い声を漏らした。その声は酒の匂いと一緒に彼女の耳元にかかる。

詩織は思わず顔を上げて、しゃがれた声で責める。「何が可笑しいの?」

彼を突き放そうとしたけど、手首を掴まれる。

熱い掌で彼女の手を自分の腰に回し、指先が手の甲を優しく撫でる。まるで「大丈夫」と言うみたいに。

「君のことを笑ったわけじゃない」湊は詩織の額をそっと額に寄せ、温かな息が唇にかかる。「ただ……可愛いなって思っただけ」

そう言って、湊はそっと詩織の唇に触れた。まるで探るように、ためらいがちに。

詩織は全身がこわばる。熱い唇がもうすぐ自分の口元に落ちそうになった瞬間、思わず顔をそらす。「やめて……」

それでも湊は動きを止めない。鼻先が彼女の頬をなぞる。呼吸はどんどん熱を帯びていく。「こうしたいんだ」

その時、詩織のスマホが鳴る。

スマホの画面に【母さん】と表示される。彼女は反射的に通話ボタンを押した。

「詩織、あと五日で結婚式でしょ。明日は二人で実家に帰ってきなさい。親戚や友達にもちゃんと挨拶して、ご飯でも食べましょう」

詩織は思わずスマホを強く握りしめる。断ろうとした瞬間、湊が彼女のスマホを横取りする。

「お義母さん、明日は詩織と一緒に伺います」

詩織はその横顔を見つめながら、この人が自分と一緒にいる理由が、全然わからなくなる。

私と一緒にいるのは、本当に私のことが好きだから?それとも、綾香さんがいるから?

今まで言われてきた優しい言葉も、愛されてきた記憶も、どれだけ本当だったんだろう。

思い切って訊ねようと唇を開きかけた瞬間、今度は湊のスマホが鳴る。

彼は電話に出て、険しい顔で何も言わず、そのまま玄関に向かって出て行く。

昔は、こんな態度を取る人じゃなかった。

あの頃の湊は、どんなに忙しくても、どんなに急な用事でも、必ず詩織のことを気遣ってから出かけていった。

それがいつからか、心ここにあらずな態度が増えた。彼女の前ではどこか上の空で、遠い人になっていく。

どうして湊が、自分の義姉とこんなにも関わりを持つようになったのか――詩織にはまったくわからなかった。この数年、湊が綾香に特別冷たかったわけじゃない。でも、妙に他人行儀だった。

その空気が変わったのは、たぶん半年前。兄が事故で突然亡くなった、あの日。

葬儀の最中、綾香が泣き崩れて倒れたとき、今までずっと距離を置いていた湊が、一番に駆け寄って彼女を抱き上げた。

そのときの湊の目には、今まで見たことのないほどの優しさと心配が滲んでいた。あとで「母親がひとりで子どもを育てるのは大変だと思っただけ」と説明してくれたけど、湊が母子家庭で育ったことも知っていたから、詩織は特に疑わなかった。

二人に過去があるのは気にしていなかった。

でも、その過去がまだ終わっていないのが、どうしても受け入れられなかった。

詩織はスマホを握りしめた。このまま誤魔化して結婚なんてできない。ちゃんと話さなきゃ、逃げずに向き合わなきゃ。

コール音が四回鳴ったあと、電話に出たのは幼い女の子。「もしもし?しおりちゃん、みなとくんならね、今ママの看病してるよ」画面には、ウサギのパジャマを着た詩織の姪の林杏奈(はやし あんな)が映っている。

カメラがぐらりと揺れ、次の瞬間、寝室の映像に切り替わった。湊がいた。

カーペットに片膝をつき、片手で綾香の首筋を優しく支え、もう片方の手で体温計を握っている。熱で真っ赤になった綾香の顔を、食い入るように見つめていた。

「まだ熱が下がらない……」聞いたことのないほどかすれた声だった。焦りが滲んでいる。「病院、行こう」

綾香は弱々しく手を振って拒み、そのまま意識を落とした。

湊は氷枕を替え、汗を拭き、濡れた髪を耳の後ろへそっとかき上げる。触れる指先は、まるで壊れ物を扱うみたいにやさしい。指が耳たぶをなぞった瞬間、綾香は無意識に湊の胸元へ寄り添った。

湊の意識は、完全に綾香だけに向いていた。迷いと葛藤と、それでも消えない気持ちが全部あらわになっている。

そして――彼はそっと身をかがめ、綾香の唇の端に触れるようなキスを落とした。

その瞬間、通話はぷつんと切れた。

詩織は、タップする指先が震えているのに気づいた。

四年も付き合ってきたのに、どうして気づかなかったのだろう。婚約者が本当に愛していたのは――自分ではなく、義姉だったなんて。

可笑しくなって、思わず笑みが漏れた。でも、その笑いはすぐに涙に変わった。

泣いて、泣いて、もう何も出なくなった頃、詩織は結婚式場の番号を押した。

「……結婚式、キャンセルでお願いします」
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結婚式まであと五日。林詩織(はやし しおり)はパソコンで「結婚式のサプライズゲーム」を調べていた。そのとき、画面の右下に、LINEの新着通知が表示される。【私、もうすぐ結婚するんだ。後悔してる?】【綾香、今の俺はお金も地位も手に入れた。もう一度俺を見てくれ。君さえ望めば、新婦なんて今からでも替えられる】……どのメッセージも、全部彼女の婚約者――瀬川湊(せがわ みなと)が送ったものだ。しかも、その送り相手は他でもない。彼女の義姉――林綾香(はやし あやか)。たぶん湊は、まだ自分のLINEがノートパソコンでログインしっぱなしになっているのを知らなかったのだろう。詩織は、そのやり取りを呆然と見つめている。自分より七つ年上で、いつも自信に満ちて落ち着いた湊が、別の女性の前では、まるで子どもみたいに執着と未練をぶつけている。画面いっぱいに並ぶ長文のメッセージは、婚約者が義姉に抱いてきた、報われない愛と苦しみのすべてを語っていた。詩織はそっとチャット画面を閉じ、今度は自分を傷つけるように、二人の過去の痕跡を探し始める。クラウドの隠しアルバム。中には2376枚もの写真が入っていた――全部、湊と綾香だけの思い出。そこには、彼女が知らない時間が詰まっていた。たとえば、高校時代。グラウンドでふざける綾香を、湊がカメラ越しに優しく見つめているスナップ。大学の雪の夜。二人で同じ黒いダウンコートにくるまり、綾香は湊のマフラーに顔をうずめて、目だけがくしゃっと笑っている。……最後の一枚は、去年の大晦日だった。綾香が花火の下で立っている後ろ姿。写真の片隅には、湊の手がそっと、けれど距離を隔てて、彼女の頭の上にかざされている。写真のタイトルには、ただ一言。【さよなら】とだけ。その日、詩織は湊と一緒に婚約パーティーを終えたばかりだった。湊は「これで本当に過去に区切りをつける」と言っていたけれど、結局その写真も全部、秘密のアルバムにロックをかけて隠していた。まるで、誰にも見つからないように。でも肝心な痕跡は、片付けきれずに残したままだった。付き合い始めの頃、詩織は何度も「一緒に写真を撮ろう」と頼んでいた。でも湊はいつも「写真は苦手だから」と断っていた。だから彼女たちのちゃんとしたツーショットは、一枚もなかった。
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第2話
彼女は向こうの声を待つことなく、電話を切った。すぐに湊から着信が入る。詩織はスマホに手を伸ばさず、呼び出し音だけが部屋に響く。やがて自動で切れ、もう一度鳴ることはなかった。ベッドに横になると、スマホが震えているような気がして、何度も画面を確認する。けれど、そこには何も表示されていない。苦笑いしながら、スマホの電源を落とした。寝返りばかり打ち、夜が明けるまでほとんど眠れなかった。ようやく浅い眠りに落ちたとき、詩織はとても長い夢を見る。――湊と初めて会った日の夢。あの日、詩織は大学一年生で、湊は「業界で注目されている若手」として母校に講演に来ていた。白いシャツに気取らない雰囲気。けれど、目だけはまっすぐで、どこか冷たい鋭さがある。教室の最前列で湊と目が合った瞬間、心臓が跳ねた。講演が終わると、女子学生たちが一斉にサインをもらいに押し寄せる。詩織も人混みに紛れて、汗ばんだ手でノートを差し出した。自分の番になり、湊がノートに書かれた名前を見たとき、不意に動きが止まる。顔を上げた湊の目から、さっきまでの笑顔がわずかに消えていた。眉がほんの少し動き、何かを確かめるような仕草。だが、それもほんの一瞬だけ。ノートを返すとき、指先がかすかに触れ合う。湊は微笑み、「いい名前だね」と呟いた。その後、湊のアプローチは本当に勢いがあった。少女漫画みたいな展開に、詩織は夢を見ている気持ちになっていた。けれど夢の最後には、執着と未練のまなざしで、湊が綾香にキスしようとする場面が浮かぶ。目が覚めると、枕はびっしょりと濡れていた。ぼんやりした頭で、湊が部屋に入ってきたことにも気づかなかった。「どんな夢を見てたの?そんなに泣いて……」ベッドの脇で湊が詩織を覗き込む。詩織は無言でその視線を受け止める。まだ現実に意識が戻りきらない彼女の様子を見て、湊は静かに笑い、そっと顔を近づけてキスしようとする。詩織は反射的に顔を背けた。湊は気にした様子もなく、軽く笑う。「結婚式キャンセルしたって、担当者から聞いたよ。そんなにやきもち焼く?」「昨夜、杏奈ちゃんから電話があったんだ。『ママが熱を出して寝込んでる』って聞いて、手伝いに行っただけさ。シングルマザーで大変そうだったから、君の顔を立てて動いただけだよ。そんなことで
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第3話
分かっていたはずのことでも、実際に耳にすると心が痛む。詩織は、いつの間にかこぼれていた涙をぬぐい、自分のふがいなさにそっと舌打ちした。彼女と会いたいなら、そのためには誰かを踏み台にすることも、愛していない人と結婚することさえ厭わない。本当に立派な男だ――と皮肉が心に浮かぶ。でも、なぜ彼は、自分が言い出せば私が大人しく従うと思っているんだろう?林家の名を使って、私を縛ろうとするつもり?だったら、その思い通りにはさせない。詩織はスマホを開き、連絡先のブラックリストから名前を解除した。長いこと悩んで何度も文章を消しては書き直し、結局送ったのは一行だけだった。【私と結婚しない?】すぐに返信が届く。【は?】【詩織、好きなときだけ呼び出して、いらなくなったらポイって、そんな扱いされる気はない】【ちゃんと理由を言え!】【分かったよ、目的はどうでもいい。でも遊び半分なら許さない。俺をバカにしたら、結婚式場をぶっ壊すからな】詩織は滲んだ視界のまま、画面に指を走らせた。【明日、九時に役所前で待ってる】もう結婚式がキャンセルできないなら、相手を変えればいい。新郎が湊じゃなきゃいけない決まりなんて、どこにもない。スマホの画面を消すと、下の階にはもう誰もいなかった。体の力がすっかり抜けて、手足まで冷たく痺れる。詩織は力の入らない足取りでベッドに倒れ込んだまま、深夜まで眠れなかった。その夜、湊は一度も帰ってこなかった。夜が明けて、詩織はゆっくりと体を起こした。階段を下りると、ダイニングテーブルにはすでに湊と綾香が座っていた。綾香はにこやかに声をかける。「おはよう、詩織ちゃん。朝ごはんが終わったら、一緒にドレスショップへ行こうか?」湊は新聞を置き、階段を降りてきた詩織を見上げる。「おはよう。ご飯を食べて、あとで車で送るから」「大丈夫、今朝は友達と約束があるから。ドレスは自分で見に行くよ」そう言って、詩織はそのまま家を出る。玄関に出てから、父親を送って行ったばかりで運転手がいないことに気づいた。タクシーアプリを開くが、どの車も捕まらない。困って立ち尽くしていると、一台の黒いベンツが目の前に止まった。窓が開き、湊が無表情で声をかけてくる。「乗れ。友達とどこで会うんだ?送るよ」詩織はスマホを
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第4話
篠崎悠生(しのざき ゆうき)の車はずっと後ろからついてきていた。詩織が車の中で耐えているのを、悠生は全て見ていた。その姿に、なぜか胸の奥がざわつく。「お前、俺の前だとあんなに強気なのに、なんで湊の前だと急におとなしくなるんだ?何、昔なんかやらかしたのか?」詩織はその話題を避けたくて、声を落とす。「もし後悔したなら……」「乗れ」悠生が遮るように言い、目を赤くした詩織をじっと見つめた。声はどこか冷たさを帯びている。「俺に後悔なんて言葉はない。そっちこそ、今さら後悔したって遅い。最初に誘ったのはお前だろ」スポーツカーは役所へと一直線に走り出す。まるで、少しでも遅れれば、彼女が逃げ出してしまうのを恐れているかのように。役所の前で婚姻届受理証明書を受け取った詩織は、一瞬現実感を失いそうになる。婚約してからというもの、詩織は99回も入籍の予約を入れたのに、湊には99回も理由をつけて断られた。だから、もうすぐ結婚式なのに、まだ籍が入っていなかった。今日になって、やっと分かった。本当は、入籍なんてこんなに簡単なことだったのだと。婚姻届受理証明書をバッグにしまいかけたそのとき、詩織の視線が向かいのウェディングドレス店に引き寄せられる。大きなショーウィンドウの前に、綾香がマーメイドラインの真っ白なドレスを身にまとって立っていた。ドレスのウエストやヒップラインは、綾香の美しさを最大限に引き立てていた。まるで、彼女のために作られたみたいだった。杏奈が駆け寄り、綾香の脚にしがみついてはしゃぐ。「ママ、すごくきれい!」湊がソファから立ち上がり、そっと綾香の肩に手を伸ばしてベールを整える。口元にはやわらかな微笑みが浮かび、そのまなざしは思わず見とれてしまうほどだった。横でドレスショップのスタッフが、夢中で携帯のシャッターを切りながら声を上げた。「綾香さん、湊さんって本当にあなたのこと、よく分かってるんですね!このウェディングドレス、湊さんがデザインから関わって、仕上がるまで半年もかかったんですよ。本当にぴったりで、女神みたいです!」詩織はうつむいて、小さく笑った。このドレスのデザイン画を、昔、湊の書斎で見かけたことがある。そのときは自分へのサプライズだと信じて疑わなかった。でも、今ははっきり分かる。最初からこのドレスは、自分のも
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第5話
「彼、ただ新婚祝いとしてプレゼントを渡したかっただけなのに……」詩織が言いかけたところで、湊が遮る。「そんなのいらない。これからは彼とは距離を置いてくれ。ああいう、何かあったらすぐ手を出すような男に近づくのは危ないから」詩織は今でも、なぜ悠生が兄の葬儀で突然湊に殴りかかったのか分からなかった。その後、湊は悠生を訴え、悠生の家族は示談を望んだが、湊は一歩も引かなかった。結局、間に入った詩織の説得で湊は訴えを取り下げたが、条件は「これからは悠生ときっぱり縁を切ること」だった。しばらく沈黙が続き、湊が横顔を向けて詩織を見る。詩織はその視線に小さくうなずいた。車が一軒家の前に止まると、湊は詩織の手を引いて中へ入る。玄関を入った途端、小さな影が駆け寄ってきて、湊の足にしっかりとしがみついた。「しおりちゃん、みなとくん、私の誕生日プレゼントは?」湊は笑いながら杏奈を抱き上げる。詩織はあらかじめ用意しておいたバービーの人形を手渡す。杏奈は嬉しそうに声を弾ませて「ありがとう!」と言い、ぎゅっとプレゼントを抱きしめた。キッチンからは焼き上がりのステーキのいい香りが漂い、親戚や友人たちが台所のまわりで賑やかに手伝っている。家中に、暮らしのぬくもりと笑い声があふれていた。綾香がちょうど出来たてのミネストローネをテーブルに運んでくる。器の縁にはうっすらと湯気がのぼっている。詩織は思わず手を伸ばした。そのとき、綾香の足元が何かにつまずき、手元がぶれる。二人の手がすれ違った瞬間、熱いスープが詩織の手の甲に思いきりかかる。火傷の痛みで思わず手を引っ込めると、指先から手の甲まで真っ赤に腫れて、一気に水ぶくれが広がる。痛みで全身が小さく震えた。器がガシャンと音を立てて床に落ち、割れた破片が周りに飛び散る。熱いスープが少しだけ綾香の足にもかかった。詩織が痛みで動けないでいると、湊は抱えていた杏奈をそっと下ろし、いきなり綾香の元へ駆け寄った。そのまま綾香を抱き上げ、今まで見たことがないほど切迫した声をあげる。「またドジして……大丈夫?火傷してない?」綾香は湊の腕の中でもがきながら、小さく言った。「平気、ちょっとかかっただけ。早く下ろして、詩織ちゃんに見られたらどうするの?」けれど湊は歩みを止めず、綾香を抱えたまま浴室へと向かう。詩織
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第6話
「まだ痛む?」湊の優しい声が、詩織の思考を現実に引き戻した。綾香は首を振り、ふと詩織の水ぶくれだらけの手の甲を見て、複雑な表情を浮かべる。何か言いかけたが、湊がすでに彼女を抱き上げてテーブルへ連れ戻していた。みんなも席に戻る。詩織は場の空気を壊さないように痛みをこらえ、杏奈の誕生日が終わるまでは帰るまいと決めた。これが彼女に贈る最後の誕生日になるかもしれない。食卓では、湊はほとんど食事をとらず、酒を飲むか綾香の世話ばかりしていた。綾香がふと顔を上げるだけで、湊はすぐに彼女の欲しいものや、食べたい料理、好きなお菓子、必要な紙ナプキンまで察して用意してくれる。綾香が何かを少しでも長く見つめていると、次の瞬間にはその品がすぐ手元に差し出される。二人の仲の良さに、食卓のみんなが思わず和やかに笑ってしまう。一方で、詩織を気遣うような視線を送る人もいた。詩織は気付かぬふりをして、無言で茶碗のご飯をかきこんでいた。やがて、杏奈の誕生日を祝う時間になる。みんなに囲まれて、杏奈は目を閉じて願いごとをする。誰かが冗談めかして声をかける。「うちのお姫さまは、どんなお願いごとをしたの?ここにいるお兄さんもお姉さんも叔父さんも叔母さんも、みんな魔法使いだから、きっと願いを叶えてくれるよ」杏奈はぱっと大きな目を開き、驚きながら言った。「本当?じゃあ、みなとくんにパパになってほしい!」杏奈は詩織のほうを見て、無邪気に尋ねる。「しおりちゃん、みなとくんをママに譲ってくれない?みなとくん、ママと私のことが大好きだもん」その言葉にみんなが一斉に笑い出した。湊は困ったように杏奈の鼻先をつつき、照れくさそうに微笑んでいる。大人たちは「子どもって素直だな」と微笑ましく見守っていた。けれど、本当に子どもは大人よりずっと本心を見抜いている。詩織は微笑んで、「みなとくんも杏奈とママのことが大好きなら、二人に譲ってあげる」と返した。子どもの言葉でも、大人が口にすれば重く響く。その一言で、場の空気が一瞬で凍りつく。まるで今まで隠していた秘密のベールが剥がれたような、重苦しい沈黙が流れた。綾香の顔色がさっと変わる。湊は眉をひそめて「詩織、子どもの冗談を真に受けるな」と口を挟んだ。詩織は軽く笑って返す。「どうしたの
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第7話
詩織は微笑みながら、「綾香さん、もうかえるね」と声をかけた。綾香はほっとしたように「外はまだ雨だし、今夜はみんなお酒も飲んでるし、明日の朝までゆっくりしていけば?」と勧める。その時、湊がベランダの角から現れ、綾香に向かってわざと距離をとった声で言った。「それじゃ、お邪魔しますね、お義姉さん」その呼び方に、綾香の顔色が一瞬で変わった。湊が詩織と同じように「お義姉さん」と呼ぶことなんて、今まで一度もなかったからだ。きっと、さっきの話を聞いていたのだろう。綾香が何か言いかけたが、湊はもう詩織のそばまで歩いてきて、肩に頭をもたれかける。「詩織、なんだか頭がくらくらする。もう部屋に戻ろう」湊が近づいた瞬間、詩織は強いお酒の匂いを感じ取った。けれど、普段の湊なら、この程度で酔うはずがないとすぐに気づく。詩織が押し返そうとしたその手を、湊は当たり前のように握り返した。綾香の表情が一瞬曇り、無意識に湊の名前を呼びかける。湊は詩織の腰に手をまわして、迷いもなく寝室へ向かった。しばらくしてみんなが帰り支度を始めると、部屋の中も一気に静かになった。詩織はベッドの上で悠生からのメッセージに返信していたが、隣で眠っていたはずの湊が突然、腰に手を回してくる。「こんな時間まで、誰とやりとりしてるの?」湊の熱い息が耳元にかかり、詩織は戸惑って聞き返した。「え……何のこと?」湊は返事もせず、そのまま詩織の上に覆いかぶさり、腕で彼女をベッドの隅に閉じ込める。部屋は薄暗いが、湊の瞳には明らかな独占欲と、どこか危うい情熱が宿っていた。詩織の体がこわばる。抵抗する間もなく、湊は強引に唇を塞いでくる。彼の体からは冷たいお酒の香りが立ちのぼり、詩織の頭がぼんやりしていく。必死に胸元を押し返そうとするが、湊はその手をしっかり押さえつけて、ベッドの頭側に固定した。目を伏せたまま、湊は低く呟く。「何をそんなに避けるんだ?」「やめて、ここはお兄ちゃんと綾香さんの部屋だよ!」詩織が顔をそむけたその瞬間、湊は彼女の首筋をぐっと押さえ、熱い息が耳元をかすめた。「それなら、よけいに燃えるだろ?」湊の動きは荒々しく、まるで自分の中の何かをぶつけるようだった。詩織は必死に逃げようと手を振りほどく。そのとき、火傷の水ぶくれがつぶれ、血
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第8話
湊は一晩中帰ってこなかった。朝早く、詩織は静かに目を覚ます。ゲストルームの前を通ると、中から女の人の興奮した声が聞こえてきた。「ねえ、正直に言って、昨日の夜どこ行ってたの?……ねえ?」綾香は顔を赤らめて、「もう、聞かないで」と控えめに答える。「ちょっと、気になるってば!私はずっと二人のカップル推しなんだから、教えてよ〜お金払ってでも聞きたい!」しばらくして、綾香が小さくぽつりと答える。「……車の中」「うそ!やば!刺激的すぎ!」友達はキャーキャーとはしゃぎ、いたずらっぽく笑う。「じゃあ、これで復縁ってこと?湊のあの婚約者のこと、どうするつもりなんだろう?」綾香は首を振る。「ちゃんと話し合ったよ。昨日の夜は過去へのけじめだったの。でも、私の実家と林家って長年ずっと縁が深いし、大輝が亡くなってからまだ半年だし、今このタイミングで林家を離れるなんてできない。湊の会社も最近は勢いがあるけど、まだ新しいし、やっぱり大きな後ろ盾がないと安定しないの……だから、私たち二年だけ待つことにしたの。二年経ってもまだお互いに想い合っていたら、その時は一緒になろうって」その友達は深くため息をつく。「やっぱり大人の世界は、若い頃の恋に勝てないのか。私の推しカップル、またバッドエンドかあ……」綾香は窓の外を見つめて、黙ったままだった。廊下の詩織は、それを聞いて冷たい笑みを浮かべる。本当に、計算高い人たち。でも、人の心をもてあそぶ人は、いつか自分も誰かに振り回される――そう思った。詩織は気を取り直し、主寝室のドアをノックした。「綾香さん、起きてる?」綾香はゲストルームから出てきて、詩織と目が合った瞬間、どこか申し訳なさそうな表情を浮かべる。その空気を察して、詩織が先に口を開いた。「綾香さん、湊は?」「昨日、会社で急な仕事が入ったって言うから、先に帰らせたの。詩織ちゃんに伝えてって頼まれたけど、夜遅かったから起こしたくなくて……」詩織はうなずく。「……じゃあ、運転手さんに家まで送ってもらえる?明日はいよいよ結婚式だから、ちょっと家で休んでおきたくて」「もちろん」綾香はそっと詩織の耳元の髪を撫でながら、やさしく言った。「詩織ちゃん、絶対に幸せになってね。お兄ちゃんも、生きていたらきっと一番喜んでくれたと思う。うちの
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第9話
ライブ配信の責任者が説明する。「瀬川さん、新婦の詩織さんから配信の依頼を受けてます。『もっと多くの人、とくに湊のファンにも二人の愛を見届けてほしい』とおっしゃっていました」湊は最近、故郷への災害支援で巨額の寄付をし、自ら現地で泥だらけになりながらボランティア活動をした姿がSNSで大きな話題となった。普通の家に生まれながらも、義理堅くて太っ腹な性格に加え、誰もが目を奪われるようなルックスもあって、湊は一気に大勢のファンを獲得した。今やSNSでも話題の人となり、会社の株価まで何倍にも跳ね上がっていた。湊はその話を聞いて、心の中では詩織が勝手に決めたことに少し不満を覚えたものの、表情には出さず、スタッフにライブ配信チームを会場へ案内させた。ライブ配信の予告が始まると、すぐに多くのネットユーザーが視聴に集まる。予定の時刻になると、会場のシャンデリアが一斉に消え、スポットライトが正面の扉を照らした。全員が新婦の登場を待って静まり返る。湊は舞台の中央に立ちながらも、どうしても綾香の姿を探してしまう。今夜限りで、彼女は「義姉」と「妹の夫」という関係になる。少なくともこの二年間は、想いを胸に秘めて詩織の夫として生きる――そう誓ったばかりだった。そんな想いを胸に、遅れている新婦入場の扉を見つめる。やがて予定の時刻を過ぎても扉は開かず、ざわめきが広がっていく。「新婦さん、逃げたんじゃないの?」誰かがささやくと、湊の心にもざわめきが走った。詩織の父親・誠一は怒りに顔を真っ赤にして、「なんてことだ、今すぐ探しに行け!」と怒鳴る。綾香も「お義父さん、落ち着いてください。もう探してもらってますから」となだめる。湊は舞台から降り、慌てて詩織に電話をかけるが、無機質な案内音が返ってくるだけ。チャットを開き、【詩織、こんな場で駆け引きはやめてくれ。何かあるなら家でちゃんと話そう】とメッセージを打つが、既読にはならない。湊の顔つきが変わり、「絶対に見つけて来い。力づくでも連れ戻してくれ」と秘書に命じる。ちょうどその時、舞台中央の大きなスクリーンに突然一本の動画が流れ始める。雨の中で男女が熱く抱き合い、激しくキスを交わす――次のシーンでは車の中でさらに激しく抱き合うふたり。女性の顔はぼかしが入っているが、男性の「綾香……
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第10話
「詩織さんは昨日、朝一番の便でノーザリアに向かいました」その報告に、誠一はテーブルを激しく叩いた。「お前たちは本当に勝手なことばかりして……本来なら内々で済ませられたことだぞ。こんな騒ぎになって、林家の面目は丸つぶれだ!すぐに詩織を連れ戻して来い!」誠一がそう言い終える前に、会場中央の大画面が突然真っ白になる。画面が明るさを取り戻すと、見渡すかぎりのラベンダー畑が映し出され、風に乗って花の香りまで伝わってきそうだった。その中で、詩織はシンプルな白いドレスを着て立っている。スカートの裾が花畑の中で揺れる。「お父さん」詩織はカメラを見つめ、ゆっくりと言った。「私を探そうとしなくていいよ。きっとこの映像を見ているころには、私はもう次の街に行ってる。たとえ連れ戻されても、もう意味はないよ――私、結婚したから」そう言って、左手の薬指の指輪をカメラに向かって見せ、さらに婚姻届受理証明書を取り出す。「ほら、私、本当に結婚したよ。これでも信じないなら、もうどうしようもないけど……」すると、もう一つの声が響く。「信じさせる方法がひとつだけある」「えっ?」次の瞬間、カメラを持つ人が詩織のあごをつかんでキスをした。「悠生!」詩織は驚いて、とっさにその手を払いのける。悠生は楽しそうに笑いながら後ろに下がる。詩織はスカートの裾をつまんで彼を追いかける。夕焼けの光の中、詩織はラベンダー畑の小道を駆けていく。その瞳は驚くほど輝いていて、何ものにも縛られない、自由で生き生きとしたその姿は、まるで人間の世界に迷い込んだ妖精みたいだ。詩織が足をもつれさせて前のめりになった瞬間、カメラがぶれ、そのまま悠生の腕の中へ。燃えるような夕焼けの中、二人のシルエットが重なり合う。映像はそこで止まり、ゆっくりとフェードアウトしていった。宴会場は、まるで時が止まったような静寂に包まれる。さっきまでの騒がしさが、嘘のようだった。誰もが言葉を失い、ただスクリーンを見つめていた。「なんだこれ……新郎は義姉と浮気して、新婦は式を抜けて別の男と結婚したってこと?」「今の相手、悠生くんだよね?林家と篠崎家が結婚したら、まさに最強タッグじゃない?」「もともと二人をくっつけるって話もあったらしいけど、詩織ちゃんはどうしても瀬川さんが好きだったんだ
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