鳩子について考えると、映画版と原作で受ける印象の温度差に驚かされることが多い。映像は選択と削ぎ落としの芸術で、私が原作で愛した細かな心理の揺れや長い心的過程は、どうしても短いカットや象徴的な場面に置き換えられてしまう。例えば原作では鳩子の行動の動機が時間をかけて積み上げられていくのに対して、映画では観客にわかりやすい一連の出来事や対立構造で説明されることが多いと感じた。そうした圧縮のために、背景にある小さな出来事や往年の関係性が省かれ、鳩子の「内側」の複雑さがやや平坦に見える瞬間が生まれる。
同時に、映画ならではの強みもはっきりある。演者の表情や声のトーン、カメラワーク、音楽で鳩子の心情を瞬時に伝えられる場面がいくつもあるからだ。私の目には、特定の場面で原作の長い内的独白をワンカットの表情に凝縮して見せる手法が効果的に働いていて、別の種類の共感を呼び起こす。さらに脚本段階で登場人物の配置が整理され、複数の脇役が統合されたり、エピソード順が入れ替わったりしていることが多い。これは物語のテンポを保ち、観客が映画の時間内で感情移入しやすくするための処理だと理解している。
結びとしては、どちらが優れているという単純な話にはならないといつも思う。原作の細密な心理描写を味わうのも素晴らしいし、映画で鳩子が身体を持って動き、声を発することで得られる直感的な理解もまた別種の喜びだ。私は原作を再読して映画を見直すことで、鳩子の異なる面を何度も発見できる。そうした多層的な楽しみ方ができるのが、翻案の醍醐味だと感じている。