薄暗い個室の中、児玉茂香(こだま しげか)はずぶ濡れのまま中央に立ち尽くしていた。血の気が引いた頬は凍えるように冷たく、その色は失われていた。寒さで震えが止まらず、ビンタされた頬がヒリヒリと痛んだ。 再び、氷水の入ったバケツが頭から浴びせかけられたその時、無機質なシステムの音声が響いた。 「宿主様、任務完了が近いことを検知しました。もう少しの辛抱です」 茂香は思わず息を呑んだ。胸がキュッと締め付けられ、今にも泣き出しそうだった。 3年間、耐え忍んできた。やっと、愛しい彼と再会できるのだ。 茂香は柏原若彰(かしわら わかあき)など好きではない。彼女が愛しているのは、朝霧陸(あさぎり りく)という男だ。 陸とは幼馴染として育った。生母を亡くし、この世界で恐ろしい継母にいじめられていた時に、彼女を守ってくれたのは陸だけだった。 愛情に飢えていたあの頃、茂香は陸と出会った。それ以来、彼女の心の傷を癒せるのは陸だけだった。 数えきれないほどの昼と夜を、陸はそばにいてくれた。もうすぐ結婚し、やっと安らぎの場所が手に入ると思った矢先、陸は死んだ。 何者かの罠にはまり、出張先で崖から転落。遺体すら見つからなかった。 絶望の淵に立たされ、陸の後を追おうとした茂香の前に、システムが姿を現した。 任務は、柏原若彰と結婚すること。 結婚式さえ無事に終えれば任務完了となり、陸は戻ってくるという......
View More風の音が若彰の耳元で唸り、すべてはここに終わりを告げた。陸と茂香の婚約披露宴は予定通り行われた。陽光が降り注ぐ芝生の上で、陸は茂香の手を取り、その指先にキスを落とした。「かつてのあの闇も苦しみも、すべて過ぎ去った。これからの日々、俺は君の傍にずっといる」「俺をこの世界に連れ戻してくれて、ありがとう」来客の中から歓声が沸き起こり、陸は茂香を腕の中に抱きしめた。どんな困難も障害も、彼と茂香を引き裂くことはできない。人混みの中、二人は特別な出会いを果たし、互いのすべてを捧げ、数え切れないほどの風雨を共に歩んできた。それでも、昔と変わらず、深く愛し合っていた。
その場にいた者たちは皆、どこからともなく現れた若彰に驚き、十数人の殺し屋たちは互いに顔を見合わせ、彼が一体どこから飛び出してきたのか分からずにいた。茂香だけは目を見開いて、若彰の姿を見た瞬間にすべてを悟った。まさか、若彰がここまで狂っていたとは!もう少しで、彼女のせいで、陸がまた命を落とすところだった。「柏原若彰、あなた、どうかしてるんじゃないの!」茂香は若彰に叫んだ。本当に、この男が魔が差したように狂ってしまったのではないかと疑った。陸は、数人が呆然としている隙に、きっぱりと茂香を車に乗せた。彼は前席でアクセルを床まで踏み込み、タイヤが砂地を滑り、耳障りな音を立てた。殺し屋たちはすぐに我に返り、車で追いかけようとしたが、陸はすでにかなりの距離を走り去っており、追いつくのは困難だった。広々とした砂地には、風に乱れる若彰一人だけが残された。彼は、自分が何をしてしまったのか、ようやく理解した。もう少しで、茂香を殺すところだったのだ。何度も彼女を傷つけた後、またしても彼女を殺しかけた。若彰は、陸が生き残るチャンスを掴んだことを知っていた。陸が茂香をしっかりと守るだろうことも分かっていた。悲しむべきか、怒るべきか、彼には分からなかった。彼はまたしても茂香を遠ざけてしまったのだ。「茂香、俺のスマホで一番下の番号に電話して、俺たちの位置を教えてやってくれ」陸は全神経を集中させて車を運転していた。山道は危険で、後ろの数台の黒塗りの車が執拗に追いかけてくる。彼は少しも減速するわけにはいかなかった。茂香は言われた通り、冷静に自分たちの位置を伝え、それから傍らで静かに待った。今、彼女にできる唯一のことは、落ち着くことだ。彼女が無事であればこそ、陸も安心できるのだから。「全部俺のせいだ。君を守ってやれなかった」陸の顔には自責の念が浮かんでいたが、茂香はきっぱりと首を横に振った。「陸、すべては最初から間違っていたのよ......」「今、私たちが一緒にいられれば、それでいいの」茂香は陸に最大の励ましを与えた。陸にとって、彼女は永遠に最高の鎮静剤なのだ。わずか五分後、茂香が電話で呼んだ者たちが到着した。後方から一台のヘリコプターが上空を旋回し、その後ろには茂香が見覚えのある数台の車が続いていた。たった5分の間に
陸は茂香の絵画展のゲストを招くためにF国へ行く準備をしていた。若彰は密かに長い間観察しており、陸が空港へ向かう車に乗ったのを確認すると、殺し屋組織に電話をかけた。若彰はもう待てなかった。半年もの間、茂香が彼の傍にいなかったのだ。陸が死ねば、茂香は戻ってくる、と彼は思った。車がマンションを出て行くのを見て、若彰はすぐに後を追った。彼の瞳の奥には、隠しきれない狂気と偏執が宿っていた。陸の車がある交差点を通過した時、若彰は異変に気づいた。茂香も車に乗っているではないか!若彰の目は大きく見開かれた。彼が手配した者たちはすでに交差点の四方から車を走らせてきていた。この者たちは、足跡を残さないよう、常に通信機器を携帯せず、内部の電話でしか連絡を取らない。つまり、任務は中止できない。そして茂香はまだ陸と一緒にいるのだ!若彰の頭がガンガンと鳴り響いた。車に乗っているあの連中は、命知らずの殺し屋だ。彼らは、一台の車を襲撃するという命令しか受けておらず、一体誰を殺すのかなど、知る由もない。唯一の可能性は、陸と茂香が共に命を落とすことだ!若彰は茂香が死ぬ場面など信じられなかった。彼がためらっているその時、ナンバープレートのない五台の車がすでに陸の車を遮断していた。陸はすでに彼らの存在に気づいており、電話で助けを呼ぼうとしたが、電波が遮断されていることに気づいた。「陸、この人たち、誰なの?!」茂香は強い不安感に包まれた。目の前の連中は、どう見てもカタギではない。陸は眉をきつくひそめた。彼はこの組織を知っていた。全員命知らずの連中だ。彼は彼らが誰のために来たのかを知っていた。陸は茂香の手を強く握り、目の前の者たちがガラスを割ろうとする前に、優しく茂香にキスをした。「車から降りるな。何があっても、絶対に降りるな。後部座席の下に、小型のスタンガンがある。もし窓が割れたら、自分を守るんだ。分かったな?」茂香は顔中に涙を流し、何度も首を横に振った。陸の手を死に物狂いで掴んだ。陸は最後に茂香を一瞥した。その瞳には言い尽くせないほどの愛情が宿っていた。「言うことを聞け、茂香。車から降りるな!」そう言うと、彼はきっぱりと車のドアを開け、車の前に立ちはだかった。陸は車外に飛び出し、近づいてきた黒服の男の一人に重い一撃を食らわ
若彰の検査結果が出た。背中に軽度の火傷があるものの、他には大きな問題はなかった。茂香は胸を撫で下ろした。もし若彰に何かあったら、彼女も困る。茂香がトイレに行った隙に、陸は診察室に入り、冷たい目で若彰を見つめた。やがて、口を開いた。「今日のことは、ありがとう」若彰は特に反応を見せなかった。彼はすでに、以前のような天賦の才を持つ御曹司の面影はなかった。しばらくして、彼は言った。「もしお前が彼女を守れないなら、俺に任せろ」陸は眉間がピクリと動き、冷静になるよう何度も自分に言い聞かせて、若彰を殴りつける衝動を抑え込んだ。「朝霧陸、俺はそう簡単に諦めない。茂香は俺のものだ」若彰は顔を上げ、その瞳には執着の涙が満ちていた。「俺の茂香は、決してものなんかじゃない。彼女は彼女自身だ。柏原、あなたも少しは自覚があるはずだ。茂香に何をしたか。今、俺が冷静にあなたと話しているのは、次はないかもしれない、ということだ」陸はドアにもたれかかり、その口調は穏やかだった。茂香が戻ってきた時、二人が剣呑な雰囲気になっているのを見た。彼女が何か言おうとした途端、若彰が先に口を開いた。「茂香、本当に悪かった。その手のことも、俺が医者を見つけたんだ。彼なら治せる。一緒に来てくれないか?」茂香は陸と視線を交わし、困ったように言った。「若彰、あなたにそんなことをしてもらう必要はないわ。私の手は、陸がもう医者を見つけてくれた。あなたはいらない」茂香の言葉は、まるで呪文のように若彰にまとわりついた。そうだ、もう彼はいらないのだ。以前、茂香が彼を必要としていた時、彼はそれを無視した。今、茂香が「いらない」と言った途端、彼は胸が痛む。「私と陸は、来月婚約するわ。戻って」茂香は彼に道を譲った。もう何も言うことはないようだった。陸は淡々とした口調で付け加えた。「感謝の印として、君のカードに5000万円振り込ませた」若彰は目に悔しさを満たし、茂香をじっと見つめた。何か言ってくれるのではないかと。だが茂香は何も言わず、ただそっと陸をつねった。彼のケチさを非難するように。若彰はついに諦め、打ちひしがれた様子で病院を出て行った。この一件で、彼が陸を殺したいという気持ちはさらに強くなった。陸さえいなくなれば、すべてが元に戻る。茂香も、自分
若彰は突然記者会見を開き、自ら柏原家の一部の財産を放棄し、今後柏原家とは関係ないと発表した。だが実際には、彼が宣言するまでもなく、柏原家はすでに彼によって下り坂を転がり始めていた。陸は雷霆の如き手段で、若彰が管理していたすべてのプロジェクトを停止させ、若彰の会社はすでに風前の灯火だった。彼は隼人と協力したが、柏原家が勝手に発展するのを許すとは一度も言っていなかった。柏原家に生き残る道を残したのが、彼に残された最後の慈悲だった。陸にとって、棲波田市でたかが数十年続く家族を根こそぎ滅ぼすことなど造作もないことだった。隼人は不満を抱きながらも、この結末を受け入れるしかなかった。若彰は棲波田市で世論を巻き起こし、メディアはこぞって「柏原若彰が狂った」と報じた。柏原家の当主は彼に怒りのあまり心臓発作を起こしたが、若彰はそれを顧みず、濱城市へと向かった。彼は病的なまでに茂香を追いかけ、茂香が陸と一緒にいる時に、どれほど甘く笑っているかを見ていた。彼は茂香が自分を愛していないという事実を受け入れたが、今度は別の袋小路へと迷い込んでいた。茂香が彼を愛していないのなら、彼は茂香が自分から離れられないようにすればいい。若彰が行動を起こそうとしたその時、予期せぬ出来事が起こった。茂香の誕生日がやってきた。彼女は親しい友人だけを濱城市に招いて誕生日を祝う予定で、もちろん若彰は招待客には含まれていなかった。パーティが始まってからも、陸はまだM国からの飛行機の中だった。陸は「誕生日が終わるまでには必ず着く」と言っていたが、茂香はやはり少し不機嫌だった。若彰はパーティー会場のウェイターの服を買い取り、やすやすと潜り込んだ。皆が声を揃えて茂香に祝福を送っているその時、茂香の傍にあったキャンドルスタンドがいつの間にかゆっくりと傾き始め、誰も気づかないうちに、ガラガラと倒れた。若彰が最初に反応した。彼は駆け寄って茂香を身の下に庇い、自分はキャンドルスタンドの下敷きになった。火はすぐに彼の背中に燃え移った。茂香はそこでようやく我に返った。キャンドルスタンドが倒れたが、想像していたような痛みはなく、目を開けると、自分の前に庇ってくれている若彰の姿だけが見えた。「どうしてあなたなの?!」若彰は痛みに顔から冷や汗を流していたが、無理に
「だけど、私はあなたを愛したことなんて一度もないわ。花を置いていったのは、陸が好きだったからよ。彼、以前フラワーアレンジメントを習っていたの。朝食を届けたのは、あなたが結婚式前に死んでしまったら、私の任務が完了できなくなるのが怖かったから」「漫画も、陸が好きなものよ。この3年、一度も定期購読を止めたことなんてなかったわ。ただ、あの時たまたまあなたに見られただけ。あなたに接触した最初から、すべては陸のため。私が愛する人は、彼だけよ。気づかなかった?私、一度もあなたに『愛してる』って言ったことないでしょう?」茂香は柏原若彰の目を真っ直ぐ見つめ、一言一言、言葉を紡いだ。その言葉は、まるで鋭い矢のように若彰の心臓を射抜いた。彼は今になってようやく思い出した。茂香は一度も彼に「愛してる」と言ったことがなかったことを。たとえ彼が茂香を暗い部屋に閉じ込めた時も、美波が茂香をいじめるのを黙認した時も、茂香は彼に命乞いをした。その時の茂香は、全身を震わせ、かろうじて命乞いのような言葉を絞り出すのが精一杯だった。だが、その言葉の中に、彼を愛しているという言葉は一つもなかった。若彰は少し朦朧とした。目の前で落ち着き払った茂香を見て、突然、この3年がすべて夢だったかのように感じた。「嘘だろ......」若彰は受け入れたくないと呟いた。「いいえ、柏原若彰、私は一度も、あなたを愛したことはなかったわ」茂香は最後に若彰に決定的な一撃を与えた。その「一度も愛したことなんてない」という言葉が、若彰のこれまでの甘い夢を打ち砕いた。自己防衛による欺瞞のメカニズムなのか、若彰はまだ自分を慰めていた。茂香が彼を愛していなかったなどと、信じられなかったのだ。茂香が立ち上がるのを見て、彼は彼女の手を掴もうとしたが、裾にすら触れることができなかった。「お引き取りください、若彰。もう二度と私を邪魔しないで」若彰の顔色は、暗く沈んでいた。その複雑な感情は、茂香には理解できなかったが、漠然とした不安を感じさせた。「分かった......行くよ」「邪魔はしない」若彰は打ちひしがれた様子で出て行った。ゲートを出てからもう一度振り返ったが、茂香はすでに家の中に入っており、彼のために一瞬たりとも立ち止まることはなかった。若彰の顔色は、恐ろしいほど悪かった。仕事の
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