Chapter: 第5章・第2話:ぐうと鳴った腹が、縁のはじまりだった「いや、いい。急いでるんで」 急いでなんかいない。行く当てもない。 でも、人間と必要以上に関わるのは避ける。それが三百年のルールだ。「そうですか……。でも、お弁当作りすぎちゃって。このままだと余っちゃうんですよね。暑いから傷んじゃうし、勿体ないかなって……」 瑠花が困ったように笑いながら、後部座席から保冷バッグを持ち上げた。中身がずしりと重そうだ。「海に来たはいいけど、張り切りすぎちゃったみたいで——」 その瞬間だった。 ——ぐぅうぅぅぅぅ。 沈黙。 蝉の声だけが、やかましく降り注ぐ。 海音が目を見開いた。結菜が呆れた顔でこっちを見た。瑠花が口元を手で押さえた。 俺の腹が、盛大に、鳴った。 三百年生きてきて、この瞬間が人生で一番恥ずかしかったかもしれない。「——ぷっ」 海音が吹き出した。「お兄ちゃんのお腹、すっごい鳴った! ねえ聞いた? ぐうーって! すっごい音!」「海音、笑っちゃだめ——ふ、ふふっ」 瑠花も堪えきれずに笑っている。目尻に皺が寄って、さっきまでの疲れた顔が嘘みたいに若返った。 結菜だけが真顔だったが、わずかに——本当にわずかに——口の端が持ち上がったのを、俺は見逃さなかった。「……昨日から食ってねぇだけだ」 俺は視線を逸らし、琥珀色の目を海の方に向けた。 耳が、たぶん赤い。「決まりですね。一緒に食べましょう!」 瑠花が保冷バッグを抱え直して、にっこり笑った。有無を言わさない笑顔だった。 断る隙が、なかった。 --- 海沿いの道を少し下ったところに、小さな展望スペースがあった。 コンクリートのベンチ
Last Updated: 2026-07-13
Chapter: 第5章・第1話:ざわめく夏、止まった車とひとつの出会い 七月の沖縄は、空ごと燃えていた。 アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇って、その向こうに見える海が蜃気楼みたいに歪んでいる。ヘルメットの中は蒸し風呂で、額から流れた汗が顎を伝い、首筋に落ちた。 ——じりじり、と。 太陽が肌を焼く音が、聞こえる気がした。 原付のエンジンが、喉を枯らしたみたいに掠れた音を立てている。数年前に中古で手に入れた、年季だけは一人前のポンコツだ。 沖縄本島の南端近く、喜屋武岬へ向かう海沿いの細い道を、俺はのろのろと走っていた。 左手にはガードレールの向こうに断崖と海。コバルトブルーなんて生やさしい色じゃない。沖縄の夏の海は、絵の具をぶちまけたみたいに鮮烈な青をしている。空との境目がわからなくなるほど青くて、三百年生きていても、この色だけは見飽きなかった。 右手には、さとうきび畑。風が吹くたびに背の高い茎がざわざわと擦れ合い、葉先が日光を弾いてちかちか光る。その合間を、蝉の声が津波みたいに押し寄せてきた。 ——じーーーーーっ。 沖縄の蝉はクマゼミが多い。本土のミンミンゼミより鳴き声が鋭くて、鼓膜に釘を刺すような圧がある。イヤホンなんてしていなくても、エンジン音が掻き消されるほどだ。 所持金、三千円弱。 ポケットの中で丸まった紙幣と、じゃらじゃら言う小銭の感触を太ももの上から確かめる。ガソリンは半分。宿はない。次の仕事のアテもない。 まあ、いつものことだ。 三百年も生きていると、困ることには慣れる。人間の街に紛れて、日雇いの仕事で食い繋ぎ、金が尽きたらまた次の街を探す。その繰り返し。季節が巡っても、景色が変わっても、俺だけが同じ場所に立っている。 ——孤独か? そりゃ、最初の五十年くらいは堪えた。 でも、百年も経てば慣れる。二百年経てば、それが当たり前になる。三百年目ともなれば、孤独は空気みたいなもんで、いちいち意識しなくなる。 そう自分に言い聞かせるたびに、影の中で玄(クロ)が微かに鼻を鳴らすのが癖になっていた。「嘘つき」とでも言いたげな、静かな気配。「う
Last Updated: 2026-07-12
Chapter: 第4章・第14話:「元気でね」 欠け始めた月に呟いた一言 カミヤが去った翌日。 いつも通り白衣を着た。いつも通り髪を一本に束ねた。いつも通り紺のカーディガンを羽織って、いつも通り診療所の朝を始めた。「大丈夫かね」 宗方先生が、朝のコーヒーを淹れながら聞いてきた。何気ない声。でも丸眼鏡の奥の目は、四十年分の人生経験が詰まった深さで私を見ている。「何が? いつも通りですけど」「……そうか」 先生はそれ以上何も言わなかった。ただコーヒーカップをもう一つ——いつもは二つしか出さないのに——三つ目を出しかけて、手を止めた。静かにカップを棚に戻す。 その小さな仕草が胸に刺さって、私は慌てて背を向けた。「午前の予約、確認してきます」 足早に廊下を歩く。目が腫れているのは鏡で確認済みだ。昨夜、あれだけ泣いたのだから当たり前だ。冷たいタオルで冷やしたけれど、完全には引いていない。 午前中は三人の患者を診た。風邪の子ども、膝の痛い農家のおばさん、定期検診の辰巳のおっちゃん。 辰巳のおっちゃんが血圧を測りながら、ぽつりと言った。「あの兄ちゃん、行っちまったなぁ。いい男だったのに」「……血圧、上が148。少し高いですね。塩分控えてって何度も言ってるでしょう」「はいはい。——でもなぁ、澪ちゃん。あの兄ちゃん、出てく時の顔、見たかい。ありゃあ——」「次の患者さん、呼びますね」 遮った。これ以上聞いたら、白衣の下で組んだ腕がほどけてしまいそうだった。 --- 夜。 一日の業務を終えて、カルテの整理をしていた。 五十音順にファイリングされたカルテの束。あ行、か行、さ行—— 指が止まった。「狼谷」。 カミヤのカルテ。 そっと抜き出す。表紙を開く。宗方先生の端正な字で記された病歴。入院日、主訴、治療経
Last Updated: 2026-07-11
Chapter: 第4章・第13話: 「好きよ、ばか」――エンジン音に消えた、最後の言葉 出発の朝は、よく晴れていた。 秋の空は高くて青くて、山の木々が赤や黄色に色づき始めている。空気が冷たくて、息を吸うと肺の奥まで澄んだ匂いが染み渡る。 こんな日に出ていくのか、と思った。 こんなに綺麗な日に。 診療所の前の小さな広場に、原付バイクが停まっている。荷台には旅の荷物が括りつけられて、カミヤはその横でヘルメットの顎紐を調整していた。 病衣ではなく、来た時のジャケットとジーンズ。澪が血の染みを洗い落として、ほつれを繕っておいた服。——そのことにカミヤが気づいているかは、わからない。 見送りの人たちが集まっていた。 こんな小さな村で、たった数週間の滞在だったのに。 戸塚が駆け寄ってきた。嶺風会のリーダー、温厚な大学院生。あの日、山中で血まみれのカミヤを見つけて、簡易担架を作って運んでくれた人。「カミヤさん、またこの山に来てくださいよ。秋の紅葉、最高なんですから。来年は一緒にトレッキングしましょう」 カミヤは少し面食らったような顔をして、それから不器用に頷いた。「……ああ。機会があれば」 辰巳のおっちゃんが肩を叩く。郵便局長で、村の情報通。骸の一件の時、見慣れない蝙蝠の群れを最初に気にしていたのもこの人だった。「若ぇの、無茶すんなよ。この辺の山道は冬になると凍結するからな、今のうちに南下しとけ」「気をつける」 千代ばあちゃんが風呂敷包みを押し付けてきた。ずっしりと重い。「おにぎり。鮭と昆布と梅。足りないかもしれないけど、途中で食べなさい」「……こんなに」「若い男の子はすぐお腹が空くんだから。ほら、遠慮しないの」 カミヤは風呂敷包みを両手で受け取って、深く頭を下げた。千代ばあちゃんの皺だらけの手が、カミヤの頭をぽんぽんと叩く。「いい子だねぇ。——元気でね」 宗方先生が最後に歩み寄った。白衣ではなく、いつものカーディガン姿。四十年この村で命を診続けてきた老医師の、穏やかで深い目。「体を大事にしなさい。君の体は頑丈だが、
Last Updated: 2026-07-10
Chapter: 第4章・第12話:明後日には、彼は去る――手作りマスコットに込めた「ありがとう」 骸との決戦から三日が経った。 私はいつも通り朝の検温に向かう。廊下を歩く足取りが重いのは、昨夜あまり眠れなかったせいだ。それ以外の理由は、考えないことにした。 カミヤの病室のドアを開ける。「検温——」 言葉が途切れた。 カミヤがベッドの上で上体を起こしていた。病衣の前をはだけて、自分の胸を確認している。 三日前、骸の腕に貫かれた傷。昨日まで生々しい赤紫色の瘢痕が残っていたそれが——消えていた。跡形もなく。肩の裂傷も、無数の擦過傷も。肌はまるで最初から何もなかったかのように滑らかで、ただ銀色の粒子の名残が微かにきらめいている。「……毒、抜けたみたいだな」 カミヤが呟いた。その声には安堵よりも、どこか諦めに似た響きがあった。 私は体温計を差し出す。手は震えていない。震えさせない。「三十六度四分。正常値」 カルテに数字を記入する。ペンの先が紙を走る音だけが、小さな病室に響く。「血圧も脈拍も問題なし。傷も完治。——宗方先生に報告するわ」 事務的に。完璧に事務的に。 病室を出る時、振り返らなかった。振り返ったら何かが崩れる気がした。 --- 午後。宗方先生がカミヤを診察室に呼んだ。 私もいつも通り補助につく。聴診器、触診、血液検査の簡易キット。先生の手つきは丁寧で、四十年の年輪が染み込んだ穏やかな所作で一つひとつ確認していく。「——うん。銀の残留微粒子も検出限界以下だ。自己再生も正常に戻っている」 先生はカルテにペンを走らせ、それから——静かにカルテを閉じた。 パタン、と。 その小さな音が、やけに大きく聞こえた。「退院だな」 先生の声は穏やかだった。丸眼鏡の奥の目が、カミヤを見て、それからちらりと私を見た。「……寂しく
Last Updated: 2026-07-09
Chapter: 第4章・第11話:銀の十字架が弧を描き、吸血鬼の顔が焼け溶けた――そして、彼が動いた その瞬間。「——その人から、手を離しなさいッ!!」 私の声だった。 気づいた時には宿直室を飛び出していた。部屋にいろと言われた。わかっていた。出たら足手まといになる。わかっていた。それでも——あの窓から見えた光景が、私の足を動かした。 カミヤが持ち上げられている。血まみれで、胸に穴が開いていて、それでも骸の腕を掴んで抵抗している——あの姿を見て、部屋にいられるわけがなかった。 私は走った。 裸足のまま。寝巻きの上に羽織ったカーディガンのポケットに、銀の十字架を握りしめて。 宗方先生が裏口から出てくるのが視界の端に映った。その手には——木の杭。いつの間に用意していたのか。先生の手が、月明かりの中で白く光る樫の木の杭を握っている。 迷わなかった。 銀の十字架を——投げた。 ソフトボールの遠投みたいなフォームだったと思う。体育は苦手だった。球技はもっと苦手だった。でも、あの時の私は、たぶん人生で一番いい球を投げた。 十字架は弧を描いて飛び、骸の顔面に直撃した。 銀が吸血鬼の肌に触れた瞬間——蒸気が上がった。 じゅう、と。焼けた鉄に水をかけた時のような音。骸の蒼白な肌が爛れ、焦げ、溶ける。顔の左半分が焼け崩れ、白い煙が月夜に立ち昇る。 骸が悲鳴を上げた。八百年の存在が上げる、この世のものとは思えない絶叫。カミヤの髪を掴んでいた手が離れ、カミヤの体が地面に落ちる。 骸が十字架を振り払おうとのたうつ。その動きが完全に止まる。一瞬——だが、それで十分だった。 カミヤが動いた。 膝をつき、血を吐き、胸に穴が開いたまま——それでもこの人は動いた。 地面に転がっていた木の杭を掴む。宗方先生が「念のため」と裏庭の樫の木を削って用意していた、あの杭を。先生がいつの間にか戦場の近くに置いていたのだ。 カミヤが最後の力を振り絞って立ち上がる。琥珀色——いや、金色の瞳が、月光を受けて燃えている。 渾身の力で、杭を骸の胸に突き立てた。 鈍い音がした。
Last Updated: 2026-07-08