LOGIN三百年を孤独に生きる人狼・カミヤ。 彼は旅の先々で、闇に呑まれかけた人間たちと出会う。 家庭に居場所を失った少女。 社会からはみ出した者。 絶望の淵で立ち尽くす魂。 怪物である彼は、光の中では生きられない。 それでも、彼らを「光の下」へ送り届けるために牙を剥く。 これは、救済と別れを繰り返す孤独な人狼の、連作ファンタジー。 出会いは一瞬。だが、彼が遺す影は、確かに誰かの人生を変えていく。
View More夜の街って、こんなに明るかったっけ。
駅前のロータリーを抜けるとき、私はぼんやりそう思った。ネオンがぎらぎらして、カラオケと居酒屋とパチンコ屋の看板が、空に向かって喧嘩みたいに明滅している。
「……うるさい」
思わず口からこぼれた声は、自分でも驚くくらい掠れていた。
トートバッグの紐が、汗ばんだ手からずり落ちそうになる。中身は、昨日の夜に慌てて詰め込んだもの——スマホ、財布、替えのTシャツ一枚、くたびれたタオル。それだけ。
家出、なんて大層なものじゃないのかもしれない。逃げた、が正しい。
だって、あの家にいたら、次は死ぬかもしれないって、本気で思ったから。
***
「テメェ、誰に口答えしてんだよ!」
男の怒鳴り声が、まだ耳の奥に残っている。父親、と戸籍上は呼ばれているその人間が、缶ビールの潰れた空き缶を私に投げつけた瞬間——。
火花が散った。こめかみから、温かいものがつうっと頬を伝った。
「ナギ、逃げなさい!」
かすれた声でそう言ったのは、母だった。彼女はテーブルの下で震えながら、殴られた頬を押さえていた。目は私を見ていない。見ているのは、タンスの裏に隠したへそくりのことか、明日の酒代のことか。たぶんそのどれか。
私は何も言えなかった。言ったって、余計に殴られるだけだって知っているから。
代わりに、ゆっくり立ち上がって、部屋を出て、玄関でスニーカーを履いた。ガチャリ、とドアを閉める瞬間、背中に飛んできた言葉。
「出てくなら、二度と帰ってくんなよ! 飯も学費も、もう出さねーからな!」
私は、振り返らなかった。あの家の匂い——タバコと安い焼酎と、揚げた油が酸化したみたいな臭い——を、二度と吸いたくなかった。
***
そんなふうに飛び出した、その日の夜。私は駅前の繁華街をうろうろしていた。
行くあても、ない。
漫画みたいに、親友の家に転がり込むなんて都合のいい展開は、一ミリも起きなかった。
教室に「親友」なんて呼べる子はいなかったし、母方の祖父母とはとっくの昔に疎遠になっている。スマホの連絡先をスクロールしても、頼れそうな名前はひとつも見つからなかった。
コンビニのイートインで、半額シールのついたパンを食べながら、私はため息をつく。
「……やばいな」
財布の中身を数える。小銭を入れても、五千円ちょっと。バイトもしてない高校一年が、急に「自立」できるはずもなくて。
けれど、あの家に戻るくらいなら——。
「戻るくらいなら、死んだほうがマシだし」
パンの耳をちぎって口に放り込みながら、テーブルに額をつける。涙が出そうになるのを、ぐっと飲み込んだ。
泣いたら、負けだ。
泣いたら、あの男たちに負けたみたいで、それが悔しかった。
「……お嬢ちゃん、こんな時間にひとり?」
顔を上げると、横に、スーツ姿の男が立っていた。四十代くらい。髪はきっちり撫でつけられていて、白い歯を見せて笑っている。
あ、やばい。
直感が、警報を鳴らした。
私は視線を逸らし、スマホをいじるふりをした。
「学生さん? 今、時間ある?」
しつこいナンパか、変な宗教か。そう思って無視を決め込もうとしたとき、男がすっと名刺を差し出してきた。
「私は黒川。芸能関係の仕事をしててね。スカウトも兼ねてるんだ。君、かわいいし、スタイルもいい。興味ないかな?」
名刺の紙は、妙に厚くて艶があった。印刷された会社名は、聞いたこともないプロダクション。だけど背後には、ネットニュースで見たことがあるようなアイドルの写真が、いくつか並んでいる。
「……芸能、ですか」
「そう。モデルとか、CMとか。最近は動画配信もね。うまくいけば、すぐにお金も稼げるようになるし」
お金、という単語に、心がわずかに揺れた。
お金があれば、ホテルに泊まれる。お金があれば、あの家に戻らずに済む。
「親御さんには、説明するから。今日は、ちょっと写真を撮るだけ。顔合わせ程度だよ」
「親は、いいです……」
「反対されるようなご家庭?」男は声を落とす。「だったらなおさら、自分の力で稼がないとね」
言葉は甘い。でも、その眼の奥にある光は、冷たかった。
コンビニの店員は、レジ打ちに夢中で、こちらを見ようともしない。イートインの隅には、ヘッドホンをつけた学生がひとり、スマホゲームに没頭している。
助けて、なんて、誰にも言えない空間。
私は、迷った。
ほんの数秒。だけど、その数秒が、きっと私の人生の分かれ道になった。
「……ちょっとなら」
自分の声が、遠くで響いているみたいだった。
***
コンビニから出ると、夏の夜の湿った空気が、じっとりと肌にまとわりついてきた。
スーツの男——名刺には黒川と書いてあった——は、私を軽自動車のほうへと促す。
「事務所は、すぐそこ。歩いても行ける距離なんだけど、荷物もあるしさ。乗っていきなよ」
「……あ、大丈夫です。歩きます」
「はは、警戒してる? 偉いねえ。でも安心して。ほら、ここら辺、うちの看板」
男が指さしたビルの壁面には、確かにさっきの名刺と同じロゴが貼られている。だけど、看板は色あせていて、ところどころ剥がれていた。
胸のあたりが、ざわざわする。
「歩きましょう。道、教えてください」
「ああ、そう。じゃあ、こっち」
黒川は、少しだけ不機嫌そうに笑いながら、先を歩く。
繁華街のメインストリートから一本外れた道は、一気に人通りが減った。居酒屋の裏口から、酔っ払ったサラリーマンが笑いながら出てくる。その先は、シャッターの下りた店舗が続いていた。
足音が、アスファルトにこつこつ響く。
心臓の鼓動も、それと同じリズムで速くなる。
「ねえ、うちの子たちさ、みんな最初は不安なんだよ。知らない世界に飛び込むんだから。当たり前だよね。でも、だんだん慣れてきて——」
黒川の声を、半分くらいしか聞いていなかった。
何か、おかしい。
直感が、また警告を鳴らしている。
「あ、ここを抜ければすぐだよ。大通りを回るより、ずっと早く着ける近道なんだ。」
黒川は、ビルとビルの隙間にある細い路地に、ひょいっと入っていく。
私は足を止めた。
路地の向こう側は、街灯が一本、申し訳程度に立っているだけだ。途中には、コンビニも、飲食店も、人の気配もない。
「……ここ、通るんですか」
「そう。大通りぐるっと回るより、早いから」
黒川が振り返る。その笑顔は、相変わらず整っているのに、不思議なくらい、怖かった。
「嫌なら、別の子に声かけるけど。君、今、他にも行く場所ある?」
図星を刺すような一言。
喉が、きゅっと締まる。
「……わかりました」
私は、路地に足を踏み入れた。
「いや、いい。急いでるんで」 急いでなんかいない。行く当てもない。 でも、人間と必要以上に関わるのは避ける。それが三百年のルールだ。「そうですか……。でも、お弁当作りすぎちゃって。このままだと余っちゃうんですよね。暑いから傷んじゃうし、勿体ないかなって……」 瑠花が困ったように笑いながら、後部座席から保冷バッグを持ち上げた。中身がずしりと重そうだ。「海に来たはいいけど、張り切りすぎちゃったみたいで——」 その瞬間だった。 ——ぐぅうぅぅぅぅ。 沈黙。 蝉の声だけが、やかましく降り注ぐ。 海音が目を見開いた。結菜が呆れた顔でこっちを見た。瑠花が口元を手で押さえた。 俺の腹が、盛大に、鳴った。 三百年生きてきて、この瞬間が人生で一番恥ずかしかったかもしれない。「——ぷっ」 海音が吹き出した。「お兄ちゃんのお腹、すっごい鳴った! ねえ聞いた? ぐうーって! すっごい音!」「海音、笑っちゃだめ——ふ、ふふっ」 瑠花も堪えきれずに笑っている。目尻に皺が寄って、さっきまでの疲れた顔が嘘みたいに若返った。 結菜だけが真顔だったが、わずかに——本当にわずかに——口の端が持ち上がったのを、俺は見逃さなかった。「……昨日から食ってねぇだけだ」 俺は視線を逸らし、琥珀色の目を海の方に向けた。 耳が、たぶん赤い。「決まりですね。一緒に食べましょう!」 瑠花が保冷バッグを抱え直して、にっこり笑った。有無を言わさない笑顔だった。 断る隙が、なかった。 --- 海沿いの道を少し下ったところに、小さな展望スペースがあった。 コンクリートのベンチ
七月の沖縄は、空ごと燃えていた。 アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇って、その向こうに見える海が蜃気楼みたいに歪んでいる。ヘルメットの中は蒸し風呂で、額から流れた汗が顎を伝い、首筋に落ちた。 ——じりじり、と。 太陽が肌を焼く音が、聞こえる気がした。 原付のエンジンが、喉を枯らしたみたいに掠れた音を立てている。数年前に中古で手に入れた、年季だけは一人前のポンコツだ。 沖縄本島の南端近く、喜屋武岬へ向かう海沿いの細い道を、俺はのろのろと走っていた。 左手にはガードレールの向こうに断崖と海。コバルトブルーなんて生やさしい色じゃない。沖縄の夏の海は、絵の具をぶちまけたみたいに鮮烈な青をしている。空との境目がわからなくなるほど青くて、三百年生きていても、この色だけは見飽きなかった。 右手には、さとうきび畑。風が吹くたびに背の高い茎がざわざわと擦れ合い、葉先が日光を弾いてちかちか光る。その合間を、蝉の声が津波みたいに押し寄せてきた。 ——じーーーーーっ。 沖縄の蝉はクマゼミが多い。本土のミンミンゼミより鳴き声が鋭くて、鼓膜に釘を刺すような圧がある。イヤホンなんてしていなくても、エンジン音が掻き消されるほどだ。 所持金、三千円弱。 ポケットの中で丸まった紙幣と、じゃらじゃら言う小銭の感触を太ももの上から確かめる。ガソリンは半分。宿はない。次の仕事のアテもない。 まあ、いつものことだ。 三百年も生きていると、困ることには慣れる。人間の街に紛れて、日雇いの仕事で食い繋ぎ、金が尽きたらまた次の街を探す。その繰り返し。季節が巡っても、景色が変わっても、俺だけが同じ場所に立っている。 ——孤独か? そりゃ、最初の五十年くらいは堪えた。 でも、百年も経てば慣れる。二百年経てば、それが当たり前になる。三百年目ともなれば、孤独は空気みたいなもんで、いちいち意識しなくなる。 そう自分に言い聞かせるたびに、影の中で玄(クロ)が微かに鼻を鳴らすのが癖になっていた。「嘘つき」とでも言いたげな、静かな気配。「う
カミヤが去った翌日。 いつも通り白衣を着た。いつも通り髪を一本に束ねた。いつも通り紺のカーディガンを羽織って、いつも通り診療所の朝を始めた。「大丈夫かね」 宗方先生が、朝のコーヒーを淹れながら聞いてきた。何気ない声。でも丸眼鏡の奥の目は、四十年分の人生経験が詰まった深さで私を見ている。「何が? いつも通りですけど」「……そうか」 先生はそれ以上何も言わなかった。ただコーヒーカップをもう一つ——いつもは二つしか出さないのに——三つ目を出しかけて、手を止めた。静かにカップを棚に戻す。 その小さな仕草が胸に刺さって、私は慌てて背を向けた。「午前の予約、確認してきます」 足早に廊下を歩く。目が腫れているのは鏡で確認済みだ。昨夜、あれだけ泣いたのだから当たり前だ。冷たいタオルで冷やしたけれど、完全には引いていない。 午前中は三人の患者を診た。風邪の子ども、膝の痛い農家のおばさん、定期検診の辰巳のおっちゃん。 辰巳のおっちゃんが血圧を測りながら、ぽつりと言った。「あの兄ちゃん、行っちまったなぁ。いい男だったのに」「……血圧、上が148。少し高いですね。塩分控えてって何度も言ってるでしょう」「はいはい。——でもなぁ、澪ちゃん。あの兄ちゃん、出てく時の顔、見たかい。ありゃあ——」「次の患者さん、呼びますね」 遮った。これ以上聞いたら、白衣の下で組んだ腕がほどけてしまいそうだった。 --- 夜。 一日の業務を終えて、カルテの整理をしていた。 五十音順にファイリングされたカルテの束。あ行、か行、さ行—— 指が止まった。「狼谷」。 カミヤのカルテ。 そっと抜き出す。表紙を開く。宗方先生の端正な字で記された病歴。入院日、主訴、治療経
出発の朝は、よく晴れていた。 秋の空は高くて青くて、山の木々が赤や黄色に色づき始めている。空気が冷たくて、息を吸うと肺の奥まで澄んだ匂いが染み渡る。 こんな日に出ていくのか、と思った。 こんなに綺麗な日に。 診療所の前の小さな広場に、原付バイクが停まっている。荷台には旅の荷物が括りつけられて、カミヤはその横でヘルメットの顎紐を調整していた。 病衣ではなく、来た時のジャケットとジーンズ。澪が血の染みを洗い落として、ほつれを繕っておいた服。——そのことにカミヤが気づいているかは、わからない。 見送りの人たちが集まっていた。 こんな小さな村で、たった数週間の滞在だったのに。 戸塚が駆け寄ってきた。嶺風会のリーダー、温厚な大学院生。あの日、山中で血まみれのカミヤを見つけて、簡易担架を作って運んでくれた人。「カミヤさん、またこの山に来てくださいよ。秋の紅葉、最高なんですから。来年は一緒にトレッキングしましょう」 カミヤは少し面食らったような顔をして、それから不器用に頷いた。「……ああ。機会があれば」 辰巳のおっちゃんが肩を叩く。郵便局長で、村の情報通。骸の一件の時、見慣れない蝙蝠の群れを最初に気にしていたのもこの人だった。「若ぇの、無茶すんなよ。この辺の山道は冬になると凍結するからな、今のうちに南下しとけ」「気をつける」 千代ばあちゃんが風呂敷包みを押し付けてきた。ずっしりと重い。「おにぎり。鮭と昆布と梅。足りないかもしれないけど、途中で食べなさい」「……こんなに」「若い男の子はすぐお腹が空くんだから。ほら、遠慮しないの」 カミヤは風呂敷包みを両手で受け取って、深く頭を下げた。千代ばあちゃんの皺だらけの手が、カミヤの頭をぽんぽんと叩く。「いい子だねぇ。——元気でね」 宗方先生が最後に歩み寄った。白衣ではなく、いつものカーディガン姿。四十年この村で命を診続けてきた老医師の、穏やかで深い目。「体を大事にしなさい。君の体は頑丈だが、
——潮の匂いが、鼻の奥を刺していた。「ここ」 男——名前は、まだ聞いていない。私は、彼の後ろ姿だけを見つめながら、使い古された鉄の階段を上がった。 ギシギシと、頼りない音がする。ヒールが階段の隙間にはまらないように、慎重に足を運んだ。「一応言っとくけど」 彼が、鍵を開けながら、ぼそりと言う。「ベッドも風呂もねえぞ。文句言うなら、今のうちに帰れ」「帰る場所がないから、困ってるの」 自分でも、ちょっと意地の悪い言い方
本当に、海はあった。 国道から少し脇道にそれて、しばらく下り坂を走ると、視界の先に突然、空の続きみたいな青い平面が広がった。「……」 言葉が、喉の奥に張り付いた。 朝焼けの光を受けて、海はまだ薄青くて、ところどころ銀色に光っている。波が寄せては返すたびに、白い泡が砂浜に線を残しては消えていく。「本当に、海だ……」「偽物の海ってなんだよ」「プールとか、ゲームの中のとか」「それはそれで現実だろ」「うるさい。今はロマンチックなやつ」
夜って、こんなに長かったっけ。 カミヤの背中にしがみつきながら、流れていく街灯をぼんやりと数えていた。 一本、二本、三本。 オレンジ色の光が、一定のリズムで後ろへ飛んでいく。そのたびに、制服のスカートが風に煽られて、膝が少しひんやりした。「眠いか、落ちんなよ」 前から飛んできた声は、夜風よりも低くて、耳に心地よく引っかかる。「落ちない。ちゃんと掴んでるし」「さっきから、ずっと裾つまんでるだけだろ。それは掴んでるって言わねえ」「じゃあ、どこ掴めばいいの」
人に殴られる音も、怒鳴り声も、さっきまでの恐怖も、一瞬だけ遠のいていく。「そんな顔で食うな」 隣で、狼谷がぼそっと言った。「変な顔ってこと?」「うまそうに食いすぎ」 彼は、プラスチックのフォークで焼き鳥パックをつついていた。中身は、もも肉とネギまが数本。ラップをはがして、ひとつをそのまま口に放り込む。「……冷てぇ」「レンジで温めてもらえばよかったのに」「いい。これで」 本当に、どうでもよさそうな顔で言う。