Chapter: 21話:暴食の鎌 離宮の見張り塔ほどもある高さだろうか。 私は今、我が離宮の北側にそびえる『賢者の塔』のバルコニーへ向け、ポチの背に乗って上空から降下している最中だった。「あら。本当に走って来ているわね」 城の私室からここまで、庭園の小道を全速力で駆けていく哀れな人影を視界の端に捉えたけれど、特に気にかけることもなくポチをバルコニーへ着陸させる。 吹き抜けの広大なバルコニーは、四方を優美な柱で囲まれているだけで、遮る壁も窓もない。私はそのまま、堂々と塔の内部へと足を踏み入れた。「これはこれは、アイン様。困りますなぁ。このマーリンが施した『反魔結界』を、毎回こうも易々とすり抜けられては。ワシ、その度に自信をなくして泣いてしまいそうなのですぞ」 魔術式を言葉ではなく「感覚」で構築できる私にとって、この程度の結界をすり抜けるのは、飛んでくる風船を避けるくらい容易いことなのだ。「あら、ごめんなさい。結界があることすら忘れていたわ」「忘れて……。ワシ、今日はもう立ち直れそうにありませんじゃ」 どんよりとした精神的な暗雲が老魔術師の周囲に漂っている気がするけれど、面倒なので無視することにする。「マーリンも大変よね。かつては宮廷魔術師の筆頭だったのに、こんな離宮の隅の塔に追いやられて。 ……半分は、私のせいでもあるのだけれど」「何を仰います。住み慣れればここも素晴らしい場所ですぞ。並の侵入者では辿り着くことすら困難な造りゆえ、夜も安心して眠れます。おかげでこの通り、お肌もツヤツヤですぞ!」 両手を頬に添えて年齢不詳な老魔術師のお肌のツヤをアピールされても、誰に対する需要もない。「……へえ、うん、すごいわね」 こんな人でも、私にとっては数少ない恩人だ。 内心で「気持ちが悪い」などと切って捨てるのは流石に心が痛む。……それ以上クネクネされると本当に、少々、大分気持ちが悪いけれど。「アイン様、表情が青ざめておりますが如何なされ――む、今度はワシの反魔結界に何かが引っかかったようですな」 途端に鋭い眼光を宿したマーリンが全身に濃密な魔力を纏わせ、颯爽と塔のバルコニーから階下へと身を躍らせた。「ああ――それは……」 この塔には実質、まともな出入り口が存在しない。 適切な手順を踏んで結界を解除しなければ、あらゆる殺意を孕んだ防衛機構が侵入者を迎撃する、かつての『重
最終更新日: 2026-07-17
Chapter: 20話:承諾「お兄様? 起きてください、お兄様」「んぁ……? ここは……アイン? はっ! 勇者様は!?」 私の、どこまでも柔らかく慈愛に満ちた声に目を覚ましたアルフレッドお兄様は、意識を取り戻すと同時にガバッとその場で飛び起き、 狼狽した様子で周囲に視線を巡らせた。 だが、今の彼の視界には、穏やかな笑みを湛える美しい妹の姿以外、何も映っていないはずだ。「勇者……様、が……?」「何のことですか? お兄様」 お兄様の背後、ベッドの上でのたうち回っている、シルクのシーツを幾重にも巻き付けられた人型の「す巻き」など、決して視界に入ってはいない。「い、いや……なんでもない、な」 底の知れない穏やかな笑みを浮かべたまま佇む私を見て、流石に察してくれたのだろう。 アルフレッドお兄様はそれ以上何も追及することなく、引きつった笑みを浮かべて私だけを見つめていた。それ以外の余計なものには一切視線を向けない、という明確な意思表示を伴って。「ところでお兄様? 先ほどのお話ですけれど」「ん? ああ、いや、やはり兄として、妹に縋るなどというのはあまりに――」「お受けいたしますわ」「へ?」 静かに即答して完璧な笑顔を向けた私に、アルフレッドお兄様はポカンと間の抜けた声を漏らした。「お兄様の危機ですもの。私にできることがあるのなら、喜んでお役に立ちたいですわ。 勿論、私だけでは戦場では力不足ですから、勇者様に同行してもらうという形で……。 お父様には私の方からお話を通しておきますわね。『勇者としての見聞を広める目的』と、今後のために『功績を立てる好機』だと説明すれば、きっと納得してくださるでしょう」 ――だから、後のことは分かるわね? そう無言の圧力を込めて微笑みかける私に、お兄様はゴクリと緊張に喉を鳴らした。「僕としてはこれ以上ない有り難い話だが……ただでさえ戦況は最悪だ。 そんな泥沼の状況に勇者様を送り込んで、もしものことがあれば……。 勇者様を召喚したという威光は、予想以上に我が国の貴族たちにも多大な影響を及ぼしている。 国王や上層部が、そんな貴重な人材をみすみす危険な場所に送り出すだろうか」 ……最初から勇者の武力をアテにして私を頼ってきたのでしょうに。 もしかして本当に、私個人に助けてもらうつもりだったのかしら? だとしたら、この人の中での私
最終更新日: 2026-07-03
Chapter: 19話:ハイスペック勇者 この場にいるはずのない、あまりにも聞き慣れた男の声。 私は全身の毛が逆立つような衝撃に、弾かれたように背後を振り向いた。 同時に、恐怖に顔を白くしたアルフレッドお兄様が、あろうことか私の背中に隠れるようにして後ろから覗き込んでくる。 ——仮にも王族で、しかも一応兄が妹を盾に隠れるのは如何なものかしら。 そんな内心の毒づきさえ、次の瞬間の光栄によって消し飛んだ。 視線の先——ついさっきまで私が微睡んでいた天蓋付きのベッドが、モゴモゴと怪しげに蠢いている。 直後、豪奢なシルクのシーツが勢いよく撥ね除けられ、そこから一人の男が姿を現した。 「ぷはっ! やっとあの骨の地獄から生還できたぞ……! よぅ、アイン様? サプライズは成功したか?」 全身傷だらけで、衣服はボロ布のように裂け、もはや裸同然の格好をしたリヒトが、悪戯っぽく白い歯を見せて笑っていた。 なぜ、ここにリヒトがいるのか。……いや、考えるまでもない。 彼の影に潜む黒い思惑の気配——コクライの仕業だ。 この際、彼の言葉が酷く流暢なこちらの言語になっている驚きすら、今は後回しにするしかなかった。 最悪の状況だ。 「ゆう、勇者……様? 勇者様がなぜ、そのような……破廉恥な格好で、アインのベッドから……。まさか、お前たち、既に——」 アルフレッドお兄様の顔から完全に血の気が引き、哀れなほどに唇を震わせている。 私は即座に、彼の言葉を遮った。 「いたしていません! 断じて、何一つ、指一本たりとも! そのような不埒な事実はありませんわ!!」 声音に冷徹な魔力を乗せ、真っ直ぐに兄の瞳を射すくめる。 「あ、ああ、わかった……。信じる、信じるよ、アイン……」 お兄様は凄まじい勢いで視線を泳がせながら、チラチラとリヒトの無駄に引き締まった半裸の肉体を気にしている。 ——だめだわ、この男、一ミリも信じていない。 婚姻を控えた王族の乙女が、自身の私室のベッドに、半裸の異性を囲っている。 この事実だけでも、この世界の厳格な社交界の常識に照らし合わせれば一発でアウトだ。 最悪の場合、王室の不名誉として幽閉、あるいは永久追放すらあり得る。 「なぁ、あんたがアイン様の兄貴か? 俺は一応勇者だが、それ以上にアイン様とは『召喚』という深い、血よりも濃い絆で心も身体も結ばれて——ゴフゥッ!?
最終更新日: 2026-06-26
Chapter: 18話:第八王子の懇願 真っ白な転移の視界に鮮やかな色彩が戻れば、そこは見慣れた私の離宮の私室だった。「到着、と。 ……はぁ、なんだか疲れたわ。ぽん太、ありがとう。また呼ぶけれど、それまで休んでいてちょうだい」「キィッ」 短く愛らしい鳴き声を返したぽん太が、フッと虚空へ溶けるように消えていく。 空間転移——前世の常識からすれば、あまりにも超常的で便利な魔術だ。 行ったことのない場所へは跳べないという制約こそあるものの、そんなものは常識の範疇であり、ぽん太の持つ能力の驚異的な価値をいささかも損ねるものではない。 実際、魔術という不可思議な概念が満ち溢れているこの異世界だが、馴染んでしまえば案外普通というか、想像していたほどの「万能」というわけでもなかった。「少し、休憩ね……」 贅沢な弾力を持つ天蓋付きのベッドに腰掛ければ、柔らかな反発が私を優しく包み込む。 この肌触りも、前世の記憶にあるものと大差ない。 いや、前世の私の部屋にあった狭いシングルベッドとは雲泥の差だが、あるべき場所にはありそうな、調度品の一つに過ぎないのだ。 食べ物も、文化も、特に致命的な違和感はない。 日常生活を支えていた前世の科学技術が、そのまま魔術というエネルギーにシフトしただけ、という感覚だった。 細かい利便性を言えば、インフラの整っていた前世の方が圧倒的に勝っているが。 だが、生活する分には困らない。 電気もガスもないが、魔術の灯火は夜を照らし、蛇口をひねれば温かな湯が出る。 風の魔術を応用した『魔道具』を使えば一瞬で髪は乾くし、その気になれば空だって飛べる。 ——もっとも、飛行魔術は一部の限定的な才を持つ者か、私のように「手段」を持つ者に限られるけれど。「……退屈だわ」 ただ一つ。この世界には、決定的に娯楽が欠如している。 かつて貪るように消費していたゲーム、漫画、アニメ、ドラマ。 そして、それらすべてを内包していた電子の文明。 掌の上の小さな画面がもたらしていた、あの果てしない娯楽の海。 それらが存在しないということこそが、私にとって何よりの不自由だった。 先ほどの転移にしても、確かに便利ではあるし、一個人が容易に所有できる技術ではない。 私の使役する『転移コウモリ』は世界でも超絶な希少価値を誇る魔獣であり、普通は捕獲して使役するなどという発想にすら至らない
最終更新日: 2026-06-19
Chapter: 17話:戦闘訓練 ギルド本部での騒動から数日。 大々的な勇者のお披露目の儀や、軍事会議への強制参加など。 色々と煩わしく多忙な日々は巡っているが、特に私の状況が劇的に好転した訳ではない。 強いて言うなら、私の台頭を警戒する兄姉たちの対応が、以前にも増して冷淡なものに変わってきた事くらいだ。 リヒトとコクライは、なんだかんだと上手くやっている。 常にリヒトの肩の辺りをパタパタと飛び回っているコクライとは、相変わらず口を開けば子生意気な発言ばかりして、リヒトが反論してと騒がしい感じである。「それじゃあ、今日はあなた達の連携確認を兼ねた戦闘訓練を行うけれど。準備はいいかしら?」 王都から数キロほど離れた荒野。 人の往来が一切ない、荒れ果てた大地に私たちは立っていた。(ハッハァ!! ようやく暴れられるぜぇ!! 複数の町をまとめて焼き払うのか? それとも国ごと更地に変えるかっ——っが、やめろ! リヒト! 冗談っ、アバババババ) 手のひらサイズでツンツン髪のコクライが、私の目の前で威勢よく黒い電撃を散らした瞬間、背後から伸びてきたリヒトの大きな手に、またしても無造作に鷲掴みにされて短い手足をジタバタと暴れさせていた。『ったく、いい加減その物騒な発想をしまえ。俺らはアイン様専属の勇者だぞ?俺らの一挙手一投足全てはアイン様に捧げるべく、俺とアイン様の間には主従を超えた深い深い——』「ただの取引相手よ。この男は召喚の代価として、この世界ならではの強力な武器を携えて元の世界へ帰る。私は、勇者という大義名分を利用して王族としての立場を確立させる。それだけのことよ」 相変わらず何を考えているかわからない。 リヒトの軽薄な態度がどこまで本気なのか測れない。 いや、そもそも全部嘘ね。 今、妙に好意的な態度を見せるのも、すべては従属刻印のバグのせいなのだから。 リヒトは相変わらず日本語で喋っているけれど、コクライとの契約により感覚を共有したため、私の話すこの世界の言語は無条件で完全に理解できるようになっている。 簡単な受け答えができる程度には、裏で必死に言語の勉強もしているみたいだけれど。『相変わらず素直じゃないな、アイン様。ところで、この豪勢な剣がその報酬って訳じゃないよな? 正直使いにくいんだよこれ、無駄に眩しいし、重いし』「素直どころか、そもそもあなたには一欠片だ
最終更新日: 2026-06-15
Chapter: 16話:双刃の魔剣士 ギルド本部でニーナから強引に押し付けられた緊急クエスト。 人助けをする気など毛頭ない。 けれど、護衛対象である『ロドリゲス子爵』の名は、後々私がこの国で自由な王女としての権利を保ち、優雅に暮らすための『駒』として、非常に魅力的な利権を含んでいた。 彼は表舞台では大人しい保守派の老人だが、裏では王都の隠密な物流ルートを牛耳っている。 彼を恩義で縛り、その強力な経済基盤を味方につけておけば、他の兄姉たちの派閥に理不尽に権利を脅かされることなく、私の自由を担保する絶好の政治的カードになるのだ。 すべては、私自身の自己都合のために。 ——けれど、私の気分は少しばかり波立っていた。 先ほど、去り際のリヒトの態度が妙に私の中をざわつかせる。 一人でうろうろするなって? 何様のつもりよ……、実力だって私の方が上、そもそも異世界に来たばかりで右も左もわからないアイツに心配される道理なんて——。(心配、されて、たのよね……なのに、なんで私イライラして? っ、そもそも!アイツが私を心配する必要もないし、烏滸がましいわ!! これも『刻印』のバグね、きっと) 他人と深く関わるつもりも、内面を踏み荒らされるつもりもないのに、あの言葉が妙に胸の奥でざわついて離れない。 私の調子を狂わせてばかりの男に対する、割り切れない不機嫌さが胸の奥で燻っていた。 *** 数時間後。私は見知った貴族相手という事もあり、顔を隠す仮面と外套を纏い、高ランク冒険者『サクラ』として依頼主であるロドリゲス子爵の前に姿を現した。 彼との間で正式な挨拶と任務の確認を事務的に済ませると、私は「姿を隠して周囲を警戒する」というサクラとしての警護方針を告げ、老子爵の承諾を得てから、走り出した馬車の天蓋へと音もなく身を潜めた。 天蓋の上で一人、退屈極まる護衛の時間をやり過ごす。 ロドリゲスは私がどこか近くで見守っていることは知っているはずだが、まさか、防音の甘い馬車の天蓋のすぐ上で自分の呟きを聞かれているとは思ってもみないのだろう。 やがて、小窓から漏れ聞こえてくる老貴族の独白が、静寂な夜の空気に溶けて私の耳に届いた。「まさか、あのアイン王女様が勇者召喚を成功させるとはな……。やはり、あのお方こそが正当なる血脈、王の器なのだ……」 馬車の中で、ロドリゲスは一人、熱を帯びた声で震えていた。
最終更新日: 2026-06-12