夜の帳が降りる頃、精華ホテルのエントランスホールは建物を照らすライトにきらびやかに浮かび上がっていた。1台のロールスロイスがその車体をライトに輝かせて、スッと玄関前に停まった。「いらっしゃいませ」ドアマンがお客様を迎えようとにこやかに近づいた時、手を掛ける前にその後部座席のドアが開いた。そこから出て来た、一目で只者ではない雰囲気のまだ若い男に視線を向けられ、ドアマンの彼は思わず直角に礼をした。「いらっしゃいませっ。お荷物はございますか?」「……ない」「かしこまりました!では、こちらへどうぞ!」「……」なんでこんな無駄に元気なんだ?ウザいんだけど……。そんな風に思いながら、希純は彼の後に続いて受付カウンターへと歩いて行った。「いらっしゃいませ」カウンターの女性は希純を見て僅かに頬を染めたがきっちりと頭を下げ、穏やかな微笑みをその顔に乗せた。だがーすごいイケメン!お知り合いになりたいわ〜!彼女の胸の内では花火が打ち上がっていた。「佐倉美月の部屋はどこだ?」魅惑の低音ボイス。でもそう問う眼差しは冷ややかで、彼女はビクッと肩を揺らした。「聞こえないのか?」トントンと希純の形の良い指がカウンターを叩く。「いえ…。失礼ですが、お客様とのご関係はー」「あ"?」希純の額に青筋が浮かぶ。「なんだ?このホテルじゃあ、客のプライバシーをそんな根掘り葉掘り訊くのか?」「……」社長…それ、完全に輩です……。後ろに付き従って来た坂本は頭を抱えた。「そ、そうではなく…っ。あの、佐倉様より、どなたも部屋には通さないよう申し使っておりますので……。」「……」「ですので…あの、その……」鬼のように睨みつけられて、最早彼女はパニック寸前だった。誰か助けて…。イケメンが怖いっ……。狼狽える彼女を睨んでいても埒が明かないと思ったのか、希純は徐ろに身分証明書を取り出してバンッとカウンターに叩きつけた。「俺は、彼女の、夫、だ!!」「夫……」「なんだ?まだ何か必要なのか!?」「い、いえ!」受付の彼女はブンブンと首を振った。「じゃあ、早く言えっ。部屋はどこだ?」「さ、最上階〝椿の間〟でございます…」「よしっ」希純はそれだけ聞くと、さっさとエレベーターの方へと向かって行った。「社長!」坂本の呼びかけに、希純は振り向いて微笑った。「
「くそっー!」いきなり背中にドンッと衝撃が来て、運転手は思わずブレーキを踏みそうになった。「社長っ、落ち着いてくださいっ」助手席の第2秘書、坂本和馬(さかもとかずま)が青褪めた顔で振り返り、希純の怒りを宥めようとした。「うるさい!中津はどうした!?連絡は取ってないのか!?」「れ、連絡はしましたが…繋がりません…」チッ!恐る恐る坂本が答えると、希純は凶悪な表情でイライラと爪を噛んだ。今日の夕方、契約更新の手続きを兼ねた接待が入っていることくらい、あいつは知っているはずだ!それなのに勝手に早退したまま連絡も無視だと!?希純はもう一度、目の前の運転席の背中に拳を叩きつけ、湧き上がる怒りをぶつけた。少し早めの食事を酒と共に囲んだ相手の取締役が、不用意に発した「奥さまはお元気ですか?」という言葉に希純は苛立ち、それまでの一見穏やかそうな表情が一気に冷ややかになった。「私の妻に酌でもさせたいのか?」「え……いやいや、そんな事はー」「だったら黙ってろよ」「………」マズイ……これはマジでヤバい……。相手の取締役も、その付き添いの秘書も、その言葉にサッと青褪め、それでも逆らう事が難しいからか額に青筋を立てながら引き攣った笑顔で頭を下げた。「申し訳ありません、佐倉社長ー」「ふんっ」「………」中津さん…なんで今日に限って早退するんですか…。こんな人、どうやってコントロールしてるってんですか……。マジ神、一生尊敬する。だから早く復帰してください…っ。もうどうやってとりなして良いかもわからず天井を仰ぐ坂本に、相手側の秘書から強烈な睨みがビシバシと送られてくる。あ~これ、次回の更新はないなぁ…。そんな風に達観していたが、とりあえずすぐにでも謝罪をしなければならない事は分かっていた。坂本は希純の背後に立っていたので、そこから彼にはバレないように、相手側の秘書にメッセージを送った。『大変申し訳ございません。後日、謝罪に伺わせていただければと思います』『可能かどうか、後ほどご連絡致します』あぁ…詰んだ……。これはお断りの意味だよね…。坂本は深いため息をつき、とりあえずこれ以上の事が起こらないよう場をとり纏め、接待をなんとか終えた。そして今、帰りの車中で社長の怒りが爆発してる…という訳だった。「このまま帰社されますか?」坂本が問うと希純は少
「それって、〝回帰〟てやつじゃない!?」中津は目の前で瞳をキラキラと輝かせて振り向いた恋人に、思わず微笑んだ。あ~、可愛い。癒されるなぁ…。希純に腹を立てて衝動的に仕事を放棄してきたはいいものの、特にやる事もなかったので、しばらく会えてなかった恋人、井藤花果(いとうはなか)の職場に顔を出した。彼女は実家がやっている割と大きなフラワーショップの1つで、住み込みの雇われ店長として働いていた。井藤花果は高校時代のクラスメイトで、半年ほど前、同窓会で再会した。当時読書が趣味の彼女は、休み時間になるといつも文庫本を取り出して自分の席で読み耽っていた。どちらかといえば外遊びが好きだった中津は彼女との接点がなく、正直、この再会がなければ思い出すこともなかった女の子だった。その日も、クラス会が行われた大衆居酒屋の座敷の隅で、彼女は持参した文庫本を開いていた。それを見た時は「空気読まない奴だな…」としか思わなかったが、その少し子供っぽく可愛らしい横顔が意外で、友人たちと話しながらもチラチラと視線をやっていた。それに気がついた周りの奴らが酒の勢いも借りてヒューヒューと囃し立てるので、「空気を読んで」彼女の隣へと席を移動したのだが、意外にも彼女との会話は楽しかった。「ねぇ、聞いてる?」中津はその頃の事を思い出していて、花果に肩を揺すられるまで少しだけ上の空だった。「聞いてるよ。その〝回帰〟て何?」中津はここのところ悩まされている夢の話を彼女にしたのだが、その答えが〝回帰〟だったのだ。苦笑して、かろうじて耳に引っかかっていた聞き慣れない単語を問い返した。「知らない?今、けっこう流行ってるんだけどなぁ…」そう言いながら花果は本棚をゴソゴソと漁り、何冊か取り出して中津に渡した。中津はそれを適当にパラパラとめくって、飛ばし読みした。「フィクションでしょ?」「そうだけど〜。でもさ、絶対に!ないとは言えないでしょう?」「えぇ…?ないよ」笑って言うと、彼女は「夢がない!」とぷりぷりと怒った。いやいや。回帰って、死んでから過去に戻って来てんじゃん。夢なんかないよ…。中津は彼女のこういうところを面白いなと思いながら、愛おしくも思っていた。ふと、花果が今読みかけなのか、栞の挟まった本を目にした。『離婚裁判』 如月尚わ〜、なんか刺さるな〜。そのタイトル
「希純が好きなの?」「……好きよ」静かに問われて答えると、姉の美月は「そう…」と呟いたきり、もうその視線さえ向けてくれなかった。彼女は対面のソファに座って、ただ黙っていた。美月は本当に綺麗だった。今も自分とは違ってほとんどノーメイクで、それなのに透明感のある白い肌と薄赤いふっくらとした唇。睫毛は長くカールして、柔らかい日差しにその影を頬に落としていた。髪の毛はふわりと柔らかそうで、思わず触りたくなる。彼女の細身のスタイルに今日は白いシフォンブラウスと、タイトな臙脂色のスカートを合わせていて、そこから出る引き締まった脚は女の自分ですら目を奪われるほど形が良かった。「なに?」じっと見ていたからか、気怠げに問いかけられた。それに首を振り、だが訊かずにはいられなかった。「気にならないの?」「何が?」「私と希純兄さんのことよっ」「……」彼女はしばらく考えて、緩く首を振った。「もういいわ」その答えに奈月は眉を顰めた。あんなに義兄さんの事愛してたのに…?奈月は彼女が何を考えているのかわからず、言葉が継げなかった。2人の間に沈黙が下りた。そうしてしばらく経つと、不意に「奈月」と呼びかけられた。「なに?」「用がないなら帰ってくれる?眠たいから」ふぁ…と欠伸をした美月に、パチパチと目を瞬いた。「本気で言ってる?」「ええ」「寝てないの?」もしかして自分たちの事で眠れなかったとか…?ほんの少し罪悪感のようなものが湧いて、心配げに問うと、軽く否定された。「お腹いっぱいで眠たいの」「………」心配して損した!奈月は鼻息も荒くサッと立ち上がると、スタスタと部屋を横切り出て行った。残された美月はキョトンと彼女の背中を見送って、それからもう一度ソファにゴロンと寝転んだ。「変な娘ね……」そう呟いて、今度こそ目を閉じた。夢の中で、彼女は妹と一緒にピアノの前に座って微笑っていた。「お姉ちゃん、ピアノ上手ね〜」小さい妹が椅子に座って、足をぶらぶらと揺らしながら可愛い顔で自分を見つめていた。「奈月もすぐ上手になるよ」「ほんと?」目を見開いて訊くのに頷いてやると、「わ〜い!」と益々足を揺らし、危うく椅子から転げ落ちそうになった。「奈月!!」慌てて抱き寄せると、彼女は嬉しそうにぎゅっと抱きついてきて言った。「お姉ちゃん、大好
「バカなの?」部屋へと戻った美月は夫からの返信を見て、そう呟いた。ドライブだけがデートだとでも?フッと鼻で嗤い、彼女はスマホをテーブルの上に置いた。そして満たされたお腹を休ませる為、大きなソファにゴロンと寝転んだ。実はこれ、一度やってみたかった!希純が眉を顰めそうな感じがして、今までやる勇気がなかったのだ。でも、もう彼女は気にしない。やりたい事は我慢しない。やりたくない事はやらない。自分はこれからは好きに生きるのだ!美月は自分がなんだかとても大変な決意をしたかのように感じて、少しドキドキした。だがーピンポ~ンチャイムが彼女の思考を止めた。「はい?」来客の予定はなかったので、用心してドアはほんの少ししか開けなかった。案の定そこには見たくもない人物、妹の奈月が立っていた。「お姉ちゃんー」パタン。彼女を見た瞬間に美月の顔から表情が消え、そのまま無言でドアを閉めた。美月はご丁寧に鍵までかけて、彼女に帰るよう示した。「お姉ちゃん!?ちょっと、開けてよ!なんで閉めるのよ!?」ドンドンとドアを叩きながら喚かれて、美月の眉根はぎゅぅぅ…と思い切り顰められた。「お姉ちゃん!!」「帰って。あなたと話す事なんかないわ」「嫌よ!私とお兄さんは何でもないから!誤解しないで!!」「……」この娘はなんて事を大声で喚くのよっ。美月は頭がズキズキと痛みだし、盛大にため息をついた。そして鍵を開け、静かにドアを開いた。「入って。そこに座って」そうして、さっきまでいい気分で寝転んでいたソファに奈月を座らせ、備え付けの冷蔵庫から水を出して渡した。「お水…?」「文句ある?」そう言うと、奈月はふるふると首を振った。今日のお姉ちゃんはどこか違う。奈月は貰ったお水を一口飲んで、目だけキョロキョロと動かした。「何を考えてるのか知らないけど、私一人よ」「そ、そういうことじゃないのっ。ごめんなさい…」チッ。誰かいるかと思ったのにっ。浮気でもしててくれたらラッキーだったのに、ついてないわ。奈月は心の中で不満を吐き出し、顔には心配げな表情を浮かべた。「なんで家出なんかしたの?お兄さん、心配してたわよ?」「へぇ……」昨日の今日でもう知ってるなんて、ずいぶん仲がよろしいこと。居場所まで教えてるなんてね。美月は皮肉げに嗤った。「で?誤解ってな
その頃の美月は。ホテル内のレストランで昼食を摂り、食後の紅茶を飲みながらスマホを見ていた。画面に映し出されているのは昨日の奈月の投稿ー。『私のお願い。食事の後に素敵な場所へドライブ。お仕事お疲れさま♡』そんな言葉と共に電話中なのか、少し離れた所に男性の背中がテーブル上のシャンパン越しに写っていた。見慣れた後ろ姿。スーツは誕生日に自分がプレゼントした物だった。「気持ち悪い……」冷たく呟いて、美月は画面を消した。トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…ウエイターに部屋のカードキーを示してサインをし、立ち上がったところに電話が鳴った。画面には夫の名前が表示されている。「………はい」彼女は話したくなかったが、離婚協議書のことがあったので仕方なく応答した。『美月、やっと通じた!』余計な話しをするつもりはなかった。「離婚協議書は?できたの?」『美月!冗談言わないでくれっ』プッ……プープープー希純は切られた通話に絶句した。彼女はまだ怒ってるのか?いい加減しつこくないか??トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…もう一度掛けてみた。プッ……プープープープー切られた。「クソッ!なんだってんだ!?」俺が何をしたっていうんだ!!怒りのあまりスマホを乱暴にデスクの上に放り投げ、希純は肩で息をした。ピロンッその時、メッセージを知らせる音が鳴り、見ると美月からだった。それを知って、途端に希純の表情は和らぎ、「なんだよ…」と嬉しそうに呟いた。ほら見ろ、やっぱり美月は俺を気にしてるじゃないか。さっきの電話が強気すぎて、俺が怒ってると心配になったのか?そう思いながら軽くスマホをタップした。そこに表示されたのは『昨夜はずいぶん楽しかったようね。そんな暇があるなら、早く離婚協議書を作ってちょうだい』という言葉と、奈月のSNSのスクリーンショットだった。「……」なんだ、これ?これって、まるで俺らがデートしてるみたいじゃないか…!そういえば中津も言っていた。なぜ奈月を放置するのかと…。「確かに。これはないな…。」『昨夜は奈月を送って行くついでに一緒に食事をしただけだ。ドライブなんかしていない』美月に返信をしてしばらく待ってみたが、何も反応がなかった。誤解だって言ってるのにっ。なんで許してくれないんだ!?『ーはい』秘書