Chapter: 第50話彼女は顔色の悪さを化粧でごまかし、クリーム色のスーツを着て髪の毛を一つにまとめた、清楚な出で立ちをしていた。その雰囲気は儚げではあったが、煌めく瞳は強い意志を宿していた。渉はホッと息をつき、香織と目を合わせると優しく微笑んだ。だがー。彼女は目を逸らした。「…?」渉は一瞬理由が分からなかったが、仕事中だからだろう…と納得して苦笑した。彼は昨夜見た、自分を気遣って涙を流す香織の姿が忘れられなかった。彼女の弱りきってふらつく身体を、できれば自分の手で抱き上げて運んでやりたかった。状況が許すなら、そのままずっと側についていてやりたかった。だが今はー。香織は渉のよく知る、仕事に妥協なく私情を挟まない、隙を見せることのない態度を貫いていた。そんな彼女を、渉はただ見つめていた。一方。いきなり現れた香織に、その場にいた誰もが、治彦でさえポカンとした。そんな彼らに一切構わず、香織は真っすぐに治彦のもとへと歩いていった。そして、「こちらが私の作成した資料になります。ちなみにー」彼女はにこっと笑って、治彦の手にある資料を回収した。「これは、私の作ったものではありません。どなたが用意したものか知りませんが、片付けさせていただきますね?」そう言って、手にした偽物の資料をそのままバサリとゴミ箱に捨てた。「なーー!」声を上げた治彦に背を向けて続きを言わせず、香織は自分の用意してきたものを外部の参加者一人一人に配って歩いた。そして兼悟と渉に1部ずつ手渡すと、それぞれの秘書に残りの束を渡し、内部のメンバーに配ってもらった。そうして一つ息をつくと彼女は前に出て、メンバー全員と向き合ったのだった。「このまま説明に入らせていただいてもよろしいでしょうか?」彼女の口調には淀みがなく、自信に溢れていた。それを見た渉が「ああ、頼む」
Last Updated: 2026-10-01
Chapter: 第49話今日の午後、予定していた会議はとても重要なもので、まず観光地域経営の中核法人となるDMOの代表者を筆頭に、自治体や各所の文化施設の代表者が一堂に会して、今後の各役割などを明確にしていく話し合いをする為のものだった。この場において代表的な立場にある、DMOから参加した上田治彦(うえだはるひこ)は、なぜか会議の始まる一時間も前から兼悟の会社に来ており、一人応接室でふんぞり返っていたのだが、彼の来社に合わせて香織を除く全員が開始時間前にも拘らず、急いで集まってきていた。気まずい時間を過ごしていた彼らは、だが会議開始時間十分前になって突如として苛立ちを爆発させたかのような治彦に、驚きと共に半ば呆れ、半ば不満げな顔をしていた。「いったいどれだけ待たせたら気が済むんだ!」顔を赤くして怒鳴る彼は、椅子を倒す勢いで立ち上がり、兼悟や渉を指差して口汚く罵った。それを聞いて顔を青ざめさせている社員もいたが、兼悟はため息をつくだけだった。一方で渉は、心理的に優位に立とうと企むこの男の底の浅さを心中嗤っていた。「上田さん。ずいぶんと早い時間からお越しいただいたのは結構ですが、だからといってこちらにも都合というものがあります。何もかも、あなたに合わせることはできませんよ」「なんだとー!?」渉の皮肉げな言葉に、治彦は唾を飛ばして怒鳴り返した。「なんだ、貴様は!それが協力を求める態度か!?」「いいえ。ただ、私は当初の予定時間にはまだ早い、と言いたいだけです」「っ…」ムキになる治彦と、あくまでも冷静に指摘する渉の言い争いに、周りの人々は首を竦め、兼悟は眉をひそめていた。今日の会議には兼悟も渉も、香織の出席は無理だろうと思い、その対策を朝から立てていた。だが少し前に彼女から兼悟にメッセージがきて、出席する意向を伝えてきたのだ。だから彼らは待っていた。出席者のメンバーにも、「体調を崩していた担当者も参加する為に今こちらに向かっている。開始時間まで待ってほしい」と伝えていた。だから、治彦がどんなに「会議を早めろ」とゴネても、彼らは待っていたのだ。そしてー。ただケチをつけたいだけの治彦は案の定大声で喚き散らし、責め立ててきた。「その女たった一人の為に、ここにいる全員が待たないといけないのか!?どれだけご立派な立場なんだ!」その言葉に、兼悟の秘書がそっと、本
Last Updated: 2026-09-30
Chapter: 第48話翌日ー。香織は病院から出された朝食を食べ終えて、退院の準備をしていた。コンコン…ノックの音がして、頭を上げるとそこに、昨日救急車に乗り込む前に会った女性が立っていた。「あ…」香織は目を僅かに見開いて、片付けに動かしていた手を止めた。「身体の調子はどう?」彼女は親しげにそう言うと、病室の中に入って勝手に椅子をベッド脇に置いた。「おかげさまで…」何も考えずに答えると、彼女はふふっと笑った。綺麗な人……。香織はぼうっと女性を見つめ、そしてハッと気がついた。「あのっ…あなたは誰、ですか…?」「……」その言葉に、女性は虚を突かれたように一瞬口籠った。そしてー。はぁ…と一つため息をついて、「やっぱり、覚えてないのね…」と俯いた。「?」それは、小さな声だった為に香織には聞き取れなかったが、女性が困惑していることはわかった。やがて、彼女は気を取り直したように顔を上げると、にっこりと微笑んだ。「高橋美華よ。よろしく」差し出された手を見て、香織も自己紹介をした。「篠原香織…です」おずおずとその手を握ると、彼女…美華は「篠原…ね」とボソリと呟いた。香織がそれに首を傾げると、美華は「ううん」と苦笑した。そして続けた。「都月渉の婚約者よ。昨日、彼から助けを求められたの」「っ…」それに、香織の顔がピシッと強張った。婚約者……。香織の胸の中に、ズン…と重い何かが投げ込まれた気がした。そして、自嘲するように彼女はフッ&hell
Last Updated: 2026-09-13
Chapter: 第47話しばらく、躊躇うように名乗ることを渋っていた男はやがて、「隼斗(はやと)」とボソリと答えた。渉はそれに頷くと、自分のことは好きに呼べと言い、スマホを取り出した。「何を…?」隼斗が不安げに問うのに、渉はメッセージを打ちながら「まぁ、待ってろよ」そう言って、意味ありげに口角を上げた。*香織は、龍牙と一緒に正面ロビーに出ていき、そこで連絡を受けて待っていた警備の男と共に、待ち構えていた警官のところへ行った。そこへー「香織っ」人混みをかき分けて、兼悟が現れた。彼は痛ましい顔をして、ふらつく香織を龍牙の代わりに支え、待機していた救急車へと連れていった。龍牙はそのまま香織の服の裾を掴み、置いて行かれないようにと足早について行った。その時ー。「香織さん」自分を呼ぶ声に香織が振り向くと、そこには凛とした立ち姿の一人の女性がいた。龍牙はその女性の顔を見た瞬間、ピタッと足を止めた。高橋美華ーー。それは、ネットで見た、渉の婚約者の顔だった。「お久しぶりね」「?」香織が美華の言葉に眉を寄せると、彼女は苦笑した。そして小さな声で、「噂は本当のようね…」と呟いた。龍牙には、その全てが聞こえていた。アイツ……。龍牙の胸は、渉への嫌悪に黒く染まった。ここにまでこの人を連れてきてるのか…?じゃあなんで、ママにちょっかいをかけるんだ?彼は唇をきゅっと噛みしめた。ほんの少し前、渉が香織を助けたことが、まるでただの茶番のようだった。香織は、「あの…?」と美華に物言いたげな視線を向けた。彼女が言った「お久しぶり」という言葉の意味が、分からなかったのだ。
Last Updated: 2026-09-12
Chapter: 第46話あれは、香織が自分に借金を頼んできたのを素っ気なく断わった、数日後のことだった。その日、渉はとある会合の帰りで、運転手が車を回してくるのを待っていた。突然ー。キャーッ!と女性の叫び声が響き渡り、振り向くと、初老にさしかかった頃の一人の男が、包丁を片手に息を切らして立っていた。彼の頭髪は見苦しく乱れ、ネクタイは首にぶら下がっているだけ。シャツはよれよれで、無精髭すら生えていた。渉はその姿に嫌悪感を募らせ、自然と距離を取った。男はそれを見て激昂した。「お前も親父と同じだ!」「…なんだと…?」渉の低い声は、男の耳には届かなかった。「お前も親父と同じで、俺みたいな生まれの悪い人間をそうやって見下してるんだろう!」「……」その言葉に、渉は身体ごと向きを変えて男を正面から見据えた。そして、気がついた。「ああ…。あなたは確か…小林さん?でしたか」「そうだ!お前の親父が、理由のわからん言いがかりをつけて潰した、小林建材だ!」「……」渉は思った。要するに、この男は父親に恨みを持っている、ということだ。だから言った。「それと俺が、何の関係がある?」「なー!」その言い草に、小林は言葉を失った。手に持つ包丁をグッと力を込めて握りしめ、その目は、渉を射殺したいというように赤く血走っていた。その時ー。「お待たせしました……キャッ!」渉の忘れ物を取りに行っていた香織が、戻ってきた。それに素早く視線を向けた小林が、標的を変えて彼女を捕まえた。そして皮肉げに、「こんな美人を秘書にしてるとは…。やっぱりお前も、親父と同じ穴の狢だよ」と言った。渉は不快げに、そ
Last Updated: 2026-09-11
Chapter: 第45話兼悟が車を飛ばして会社に辿り着くと、深夜にも拘らず、そこには大勢の警官によって物々しく包囲されていた。「なんだ、これは…」規制線の外で呆然としていると、人混みの中から一人の女性が歩いてきた。「失礼ですが、中村社長でいらっしゃいますか?」彼女はこんな時間なのに、完璧なメイクをして隙なく身だしなみを整えていた。「君は…?」問いかけると、彼女は淡く微笑んでスッと手を差し出した。「高橋美華と申します。都月社長に言われて、ここに彼らを引っ張ってきました」彼女の言う〝彼ら〟とは、この大勢の警官のことらしい。「……」兼悟は差し出された手を見て、そして次に彼女の顔を見て、眉を顰めた。「どういうことか、説明してもらえますか?」「もちろんです」美華は無視された手を下ろして、兼悟を規制線の中へと案内した。そしてこれまでの経緯ーー香織がここの資料室に監禁されているらしいこと。彼女の息子が渉に助けを求めたこと。そして今、2人が彼女を助ける為に犯人と対峙していること。…などを語って聞かせた。兼悟は、彼女の話に驚きつつも、龍牙がよりにもよって「渉に助けを求めた」ということに、苛立ちを覚えた。なぜあの男なんだ…。兼悟は、思わず拳を握りしめていた。*「どうする?もう時間がないぞ?」渉の言葉に男は焦った。本当に、自分は騙されていたのか?本当に、警察が動くのか?もし、嘘だったら…?迷った末に、改めて香織にナイフを突きつけ「警察をここに来させるな」と警告した。だが、「もう遅い」という渉にハッとして、窓の外に視線を向けると、そこにはどんな凶悪犯を追い詰めているんだ、と言いたくなるほどの警官がいた。「は…?」
Last Updated: 2026-09-10
Chapter: 108.「何するのよ!!」次の日の夕方。ボディーガードに連れられた春奈が、悠一の前に乱暴に投げ出された。「痛っ!」ドサッと床に倒れ込み、春奈は目の前に綺麗に磨かれた革靴を目にした。顔を上げると、そこには底冷えのするような冷たい眼差しの悠一がいて、咄嗟に身を引いた。だがー「きゃあー!」髪の毛をガッ!と鷲掴みにされ、無理やり顔を上向けにされた。「痛い…」涙目で訴えたが、ふんっと嗤われた。「この程度で泣き言を言うな」「……」どんなに哀れを誘うような顔をしても、見つめる瞳には嫌悪と憎しみしか宿っていなかった。なんで…?春奈は、自分がなぜこんなにも悠一に憎まれたのか、分からなかった。だから、怯えながらも尋ねずにはいられなかった。「どうして?どうして、こんなひどい事するの?」「分からないのか?」悠一の瞳に、益々憎しみが込められた。「お前が、あのガキ共に余計な事を吹き込んだせいで、雪乃は死んだんだ」「え…」死んだ?誰が……。お姉ちゃんが…!?呆然としていた春奈が、急に意識を取り戻して叫んだ。「待って!お姉ちゃん!?お姉ちゃんが死んだって、そう言ったの!?なんで!!」「……」悠一は目を眇めて、目の前で焦ったように喚いている女を見つめた。まるで、自分に罪がないみたいに言うんだな…。だが、「どうしてお姉ちゃんが死ななきゃいけないの!?」彼女がそう言った途端、湧き上がる怒りが抑えられなかった。「お前だ!!お前が!あいつらに雪乃がいなければって言ったんだろうが!!」「!」ゼイゼイと肩で息をして、怒りを吐き出す悠一の目には、涙が滲んでいた。ああ…そうか…。あの子たちまだ小さいのに。そんなことしちゃうんだ…。春奈の目から光が失われた。そして、ふふっ…と小さく笑うと突然立ち上がり、ここに来た時から目に映っていた子供たちに向かって、怒鳴った。「この人殺し!!」咲良は驚愕に目を見開いて固まり、陽斗は地団駄を踏んだ。「なんだよ!僕はママの為にやったんだぞ!」「うるさい、バカ!あんたのせいで、お姉ちゃん死んじゃったじゃん!!」「バカって言うママがバカ!!」2人の罵り合いに咲良は泣き、悠一はイライラと歯を食いしばっていた。そしてダンッ!!と床を踏み鳴らし、3人それぞれに視線を据えた。「お前ら全員が人殺しだ。母子3人、仲良く罪を
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 107.邸の中は耳が痛くなるほどの静寂と、悠一の怒りのオーラが支配していた。小高を始めとした全ての使用人、邸のボディーガード、運転手、庭師に至るまで、全ての人間が集められた。「誰だ?」悠一の傍には先日の、雪乃を運んだという運転手が跪き、その彼の横には陽斗が転がされていた。まだ10歳程度の子供の頬は赤く腫れ上がっていて、泣きすぎて声も枯れていた。「うう…」「陽斗!大丈夫!?」連れて来られた咲良が横たわる弟に駆け寄り、目の前の使用人たちをギロリと睨みつけた。「誰よ!?」彼女は、弟が使用人の誰かに虐められたと思った。そして父親が、その犯人を今探し出している最中なのだと思った。だが…。「お前もそこに跪け」「え…」そうじゃなかった。悠一の冷たい声音に怯えながらも、彼女は納得がいかなかった。なんで私が…?だから、そう言った。すると、普段優しい訳ではないがひどくもない父親が、「あ"?」と睨みつけてきた。それにビクつきながら、それでもまた言った。「なんで私がそんなことしなきゃいけないの?私は、陽斗を虐めてなんかないわ!」「……」悠一はただ黙って、本邸から連れて来たボディーガードにクイッと顎をしゃくった。すると、そのボディーガードは咲良に近づいて来ると、ドンッと一切の容赦なく突き飛ばしてきた。「きゃあ!」床に強く膝を打ちつけて、痛みに涙が出た。「なにするの!?パパ!コイツをやっつけてよ!!」そう訴えたけれど、そこには彼の冷めた眼差ししかなかった。「パパ…?」そこで初めて何かがおかしいと気づき、咲良はキョロキョロと辺りを見回したのだった。だが誰もが彼女と目を合わせようとせず、怯えたように俯いていた。「ねぇ…これ、なに…?何が起こってー」「うるさい」その時、悠一の低い声が彼女の疑問を遮った。「いつまでもペラペラと…。少しは黙っていられないのか?」「パパ…」呟くと、一刀両断された。「俺はお前たちの父親じゃない」「!」「!!!!」そこにいる全ての人が皆、驚いて目を見開いた。泣いていたはずの陽斗さえ、ピタリと泣き止んだ。それを見た悠一が、皮肉げに嗤った。「確かに、お前たちには那須川の血が流れている。けど、それは俺の血じゃあない」「そ、それは…」小高が代表するように尋ねた。「どなたのお子さまなのでしょうか…?」
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 106.前世ーキキーッ!!邸の前に、急ブレーキと共にバンッ!という乱暴にドアが閉められる音がしたと思ったら、玄関扉までが勢いよく開けられた。中にいた使用人や執事が一斉に振り向くと、そこには髪を乱して息を荒げた悠一が立っていた。「旦那さー」「雪乃は!?」小高の言葉を遮り、厳しい口調でそう問い詰める彼に、誰もが顔色を失くして俯いた。「答えろ!!雪乃はどうした!?」「……」「小高!」この邸の管理は彼が一手に引き受けている。その彼にも分からなかった。使用人たちが、奥さまを蔑ろにしていたことには気がついていた。あまりにもひどい時にはそれとなく注意していたが、悠一の態度が彼女に冷たいことから、彼(彼女)たちは、雪乃を粗雑に扱ってもいいと勘違いしていたのだ。小高は答えた。「申し訳ございません。私の落度です…」そう言った途端、悠一が拳を壁に叩きつけて怒鳴った。「そんな言葉で納得できるか!!」「……」「……」「……」鬼のような形相で皆を睨みつける悠一に、そこにいる人々はガタガタと震えていた。なんで…?奥さまのこと、嫌いなんじゃなかったの…?今まで何も言わなかったじゃん…。奥さま、どこに行ったんだよ…。雪乃が行方不明となって、既に5日が経っていた。2日間は待ってみた。どこか気晴らしにでも行っているのかと思ったから。だって、陽斗坊ちゃんが「ママは一人で遊びに行っちゃった」て言ったから…。そこへ、悠一の友人である長谷直也がやって来た。彼も急いで駆けつけたのか、服装が少し乱れていた。「悠一…」彼は、ソファに座って、両手で頭を抱え込んでいる親友の肩に手を置き、力強く言った。「こっちでも方々探してる。きっと見つかるさ」「……」悠一の眉間には深いシワが刻まれ、怒りのオーラが漂っていた。もしかして、雪乃は逃げたのか…?俺を嫌って?考えれば考える程、心が締め付けられる。わかっている。自分が、彼女にとっていい夫ではないことくらい。でも、彼女は自分を愛しているんじゃなかったのか!?本当に嫌いになったのか!?なぜ、俺から逃げようとするんだ!?悠一は、ギリギリと歯を食いしばって耐えていた。全ての使用人が集められ、何か気づいたことはないのか、誰も彼女を見ていないのか、一人ずつ厳しく問い詰められた。そんな時、一人の運転手が青い顔をしておずおずと
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 105.3年後ー「雪乃、ただいま」出張から戻った悠一が、迎えに出た雪乃を優しく抱きしめ、額にキスをした。「おかえりなさい」それに微笑んで彼を見上げる雪乃に、邸の使用人たちも皆優しく微笑んでいた。悠一が言った。「雪乃、ことりを連れてスキーに行かないか?」「スキー?」首を傾げると、悠一は嬉しそうにある一枚の写真を出してきた。「君、子供の頃スキーに行ってみたいって言ってただろ?ちょうど良さそうな別荘があったから、買ったんだ。リフォームも済んだし、この冬はここで過ごさないか?」「……」一気に話す悠一の声を聞き流しながら、雪乃は写真を見て呆然としていた。そこはー彼女が絶望の中、その生を終えた場所だった。写真には懐かしい景色が写っていて、雪乃の指は微かに震えていた。悠一はそれに気づき、心配そうに尋ねた。「どうした?嫌だったか?」「ううん…そうじゃないの……」緩く頭を振ってそう言う彼女に、彼は眉を寄せた。雪乃はそんな彼を安心させるように微笑み、もう一度写真を見た。大丈夫。屋根の色も違うし、扉の形も違う…。「倉庫…食糧庫みたいなものは、ある…?」「倉庫?いや、ないな。必要なら作らせるが?」そう言われて、ホッと息をついた。そして顔を上げて言った。「いらない。その代わり、大型の冷蔵庫と冷凍庫が必要ね」「わかった。用意しよう」雪乃の何か吹っ切れたような、何か分からないがいつもと同じ微笑みに、悠一もホッとして微笑った。雪乃は思った。もしかして、前世も彼は、私の為にあの別荘を手に入れたのかもしれないわね。子供の頃に言ったっていう、私ですら忘れていた言葉を覚えてたのかも…。そう思うと、雪乃の気持ちは明るくなった。「そうだ!ことり用に、ソリもいるわ」楽しそうにそう言う彼女と悠一が、揃って2階に上がる階段に足をかけると、タタタッと小さな足音が駆けてきた。「パパ!」その声に振り向いた悠一が、満面の笑みでしゃがんで両腕を広げた。そして、全力でその中に飛び込んで来る可愛い娘に、言いようのない愛おしさを感じた。「ただいま、ことり」優しく頭を撫でて、抱き上げてやる。2歳になる娘はニコニコ笑ってギュウッと悠一に抱きつき、お土産をねだった。それを雪乃に窘められて、彼女は小さな舌をべッと出した。「ママばっかりずるい!ことりのパパなのっ」
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 104.新婦控室に、悠一が現れた。今日の彼はいつもと違ってダークカラーではなく、眩しいほどの白いタキシードを着て、そのスタイルの良さを見せつけていた。雪乃は以前の結婚式で着たものをまた少し形を変えて仕立て直し、透き通るような肌との境界線が曖昧なドレスに身を包んでいた。何度新しく作ろうと言ってもこれがいいと言うから、好きにさせていたが…なるほど、よく似合っている。悠一は思わず控室の入り口で立ち止まって、雪乃に見惚れていた。「どうしたの?入って」不思議そうに首を傾げるその仕草も、なにもかもが愛おしい。スタスタと近寄って来て、悠一にふわりと抱きしめられた雪乃は、慌てて彼の胸を押し戻した。「お化粧が服に付いちゃうわ」「構わない」構うわよっ。……まったく。雪乃はため息をついて、そっと顔を上げた。「悠一」と呼びかけると、「ん?」と目を合わせてきた。「前のお式の時、すっごく嫌そうだったのは、なんで?」「それ、今訊く?」頷くと、不貞腐れたように答えた。「君を騙す為の式なんか、嫌に決まってる」雪乃は微笑み、心から囁いた。「悠一、あなたを好きになってよかった」「雪乃…」そっと近づいてくる悠一の唇を、雪乃は慌てて両手で塞ぎ、押し戻した。「まだ早いわよっ」「……」眉を寄せて抗議する悠一だったが、ふと、彼女の目の縁が赤くなっていることに気づいて目元を緩めた。そして自分の唇を押さえている彼女の柔らかな手を取って、その指先に口付けた。「!」顔を真っ赤に染めてその手を引っ込めようとするが、悠一は許さなかった。「君は俺のものだ。例え君自身でも、それを否定することは許さない」「悠一…」ガツッ…!次の瞬間、雪乃に頭突きをされた。「痛いよ、雪乃…」非難がましくそう言うと、彼女は腰に手をあてて言った。「私が誰のものか、決めるのは私よ!あなたじゃないわっ」「……」無言で額を擦る悠一に、続けて言った。「今は、私は私のもの。でもこの式が終わったら、あなたのものにもなるわ」その滲み出るような愛情の籠もった声を聞いて、悠一は満足そうに微笑んだ。「全部?」そう言うと。「バカ!」その言葉と共に、ゴンッと今度は頭に拳骨が落ちてきた。「痛いよ、雪乃…」上目遣いで見上げると、彼女は「まったく…」と呆れたようにため息をついた。「〝那須川雪乃〟はあなた
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 103.ここに来てどれくらい経ったのか、全然分からない。最初は数えてたけど、変わり映えしない毎日にだんだんと面倒くさくなって、やめてしまった。ある意味、ここは楽園だった。嫌なことをしてくる人も、言ってくる人もいない。自分以外、誰もいないから。何もしなくてもご飯が出て来る。美味しくないけど。イジメみたいなものもないし、自由にしていられる。部屋の中だけだけど。雨の日以外は1日のうち30分、中庭に出て運動もできる。狭いし、囲われてるし、1人だけど。テレビもないし、ゲームもない。新聞も、雑誌も、何にもない。でも一日中ぼーっと過ごしてても、誰も文句を言わない。私…何してるのかしら…。春奈は今日も大きなため息をついて、今ではすっかり身体に馴染んだここの服を見下ろした。ダサ…。でも誰も見ないし、もう気にならなくなった。その時ー。カシャン…とドアの横にある小さな、猫とか犬が外に行く時に出入りするような大きさの、スライド式の扉?が開いた。そして、無言で食事の乗ったトレーが入れられた。見ると、もう見慣れた質素な食事が乗っていた。野菜スープにおにぎりが2つ。今日の中身は梅干しとおかかみたい。それからチキンの塩コショウ焼きと、目玉焼き。今日はソースが付いてた。あれ?どうしたんだろう?今日はデザートに果物が付いてる。3粒だけ春奈が首を捻っていると、いつもは無言の食事係が説明してくれた。「今日は那須川家の悠一様と、その婚約者の藤堂家ご令嬢、雪乃様の結婚式だ。朝食にはデザート、昼食にはジュース、夕食は、なんと祝膳が供される。ありがたく頂くように」「……」あなたが出す訳でもないのに、威張らないでよねっ。……そっか。お姉ちゃん、悠一と結婚するのね…。春奈はふっ…と笑った。おめでとう、お姉ちゃん!そうして春奈はトレーを手に取り、テーブルまで運んだ。始めはまったく口に合わなくて食べなかった食事も、お腹が空けば美味しく食べられる。それも今は普通に食べてる。春奈は所作だけは美しく、黙々と食事を口に入れた。そしてー「ん…」デザートに出された果物を口に入れて咀嚼した途端、彼女の頭の中に懐かしい記憶が再生された。「お姉ちゃん、私、まだ食べたいの。ちょうだい?」春奈が姉と一緒に那須川家に遊びに行った時、昼食の後出された果物が、驚くほど美味しかった。お姉ち
Last Updated: 2025-08-29
Chapter: 173.結末(今世)就業後。希純はさっさと仕事を終わらせて、中津の挨拶もそこそこに会社を後にした。運転手も、昼間の沈んだ様子の社長を見ていたので自然と顔に笑みが浮かび、問いかけた。「チケット、手に入れられたのですか?」車に乗り込んだ途端にホールへ向かうように言われ、始めはなんの為に?と疑問に思ったが、その嬉しそうな様子から事情を察して尋ねたのだ。「ああ。中津がくれた」「そうですか。よかったですね!」最近の社長はとても親しみがもてていいと思う。以前はなんだかピリピリしていることが多くて、中津さんがいない時はこんな風に話しかけたりできなかった。運転手の男は、バックミラーに映る希純の緩んだ目元を見て、感慨深げに微笑んだ。ホールに着き、ドアを開けて見送った時なんかは、さらっと「お疲れさま」とまで言われた。「ご連絡頂ければお迎えに参りますが?」そう言うと、彼は後ろ手に軽く振って「いいよ」と言った。そのご機嫌な後ろ姿に、男は丁寧に一礼した。*開演前のざわつきの中、希純は自分の隣が2席空いていることに気がついた。こんないい席なのに、まさか遅刻か?開演後に来ても、演奏中はもちろん会場に入れない。しかもこんな前の方なら、目立つこと間違いなし。希純は自分のことでもないのに、妙にそわそわとしていた。そこへー「お疲れ様です」「?」聞き慣れた声に振り向くと、そこには一人の女性を連れた中津の姿があった。「お前も来たのか?」眉を顰める上司にも怯まず、中津はニッコリと微笑んだ。「はい。彼女と一緒に」「井藤花果です」「……」その緩んだ顔に苛つきながらも、側でペコリと頭を下げた女性に視線を向けた。「こんばんは」「こんばんはっ」初めてあった中津の彼女は、可愛らしい感じの女性だった。彼らは希純を越えて隣に中津、その隣に花果が座った。2人は「間に合ってよかったね」「遅刻するかと思ったよ」などコソコソと囁きあっていて、希純は少しだけ疎外感を覚えた。そこで「彼女は如月尚のファンなんじゃなかったのか?」とそっと尋ねてみたのだが、振り向いた中津に「別にファンじゃなくても、来ていいでしょ」と冷たくあしらわれ、希純はそれ以上話しかけるのをやめた。その内コンサートが開演し、彼も舞台に集中して隣にいる2人には見向きもしなくなった。今回はクラシックだけのプログラムで、
Last Updated: 2025-12-08
Chapter: 172.佐倉希純(今世)Ⅱ実際、中津は彼がチケットを手に入れられないことを予測していた。美月は今や老若男女を問わずに人気のあるピアニストで、大人が愉しむクラシックオンリーのものや、子どもも楽しめるいろいろな楽曲を集めたものなど、様々な形のコンサートを開催していた。たまには他楽器の演奏者をゲストに迎えながら合奏をしたり、抽選で選ばれた彼女のファンを招待して即興で連弾したり…ととにかく趣向を凝らしたコンサートが人気だったのだ。今回の〝特別販売〟は、チケット完売後にも拘らず問い合わせがあまりにも多かった為、本来ならば空けておいた最後列の席を当日券として販売することに、急遽決めたのだった。そういった理由で席数も僅かで、実は徹夜組もいるという情報を得ていた中津は、午後から行ったところでこのチケットは到底手に入れられないだろうと思っていた。彼は今、目の前で真面目に資料に目を通している希純を見て、会議の進行が遅れないように気を遣った。なぜなら彼には今日、就業後に予定があったからだ。残業も一切無しで帰りたい。その為にはー「はい、ちゃっちゃと資料読んじゃってくださいね〜。あと30分で会議始まりますよ!」「少し遅らせてー」「無理です」断固としてきっぱりと断られた希純は額に青筋を立てながらも、結局は中津の言う通り資料に集中した。そして全て読み終え、ふぅ…と息をついたところで他の業務の為に側を離れていた彼を呼び出した。『はい、中津ー』「終わったぞ」そう言って、返事も聞かずに電話を切った。中津は既にツーツー…と鳴っている音に苦笑して、手元の業務を片付け席を立った。コンコン!オフィスのドアをノックして開けると、そこには少し不機嫌そうな顔の希純が待っていた。「遅いぞ。何してた?」「すみません。明日の午前中はゆっくり出社していただけるように、前倒しで書類の整理をしてました」「っ……そうか」「はい」にこやかに告げられて、希純は不満を口にし辛くなってしまった。なんだよ。そういう気遣いできるならチケット取っといてくれよ。心の中でぶちぶちと文句を言って視線を逸らした。そうして彼は目を通した書類を手に、中津を連れて会議室へと向かったのだった。*会議後。「はぁ〜、疲れたな…」「お疲れ様でした」中津はオフィスに入るなり、グーッと背伸びをした希純を労った。今回の会議は重要度
Last Updated: 2025-12-08
Chapter: 171.佐倉希純(今世)Ⅰ今世ー「社長、まだ決められないんですか?」「ん?」いや、ん?じゃなくて!中津は目の前で、どこかうきうきとスーツを選んでいる希純を見て、げんなりとした。オフィスの中にある小さなクローゼットには、急に必要になった時用に喪服と他、何着かの着替えが用意されている。希純は今その前に立ってあれこれとスーツを選び、その度に中津に「どうかな?」という視線を向けてくるのだ。そして中津は、律儀に「それはちょっと暗い」とか「華やかすぎて浮きそう」だとかアドバイスをしていたのだが、その時間が長くなってくると段々面倒くさくなってきた。も〜、いったい何分こんなことやってんだ?どれでも一緒だよっ。チラリと腕時計を見て、彼は希純を急かした。「社長、早く選ばないと、裸で行くハメになっちゃいますよ!」「ハハッ、何言ってんだー」そう言いながら自身も時計を見て、急にバッ!と勢いよく振り向いた。「おい!もうこんな時間じゃないか!なんで言わないんだよ!」え〜、言ったし…。なんだったら急かしたし…っ。中津は不満げに口を尖らせると、希純を無視して勝手にクローゼットを漁りだした。「おい!」彼は希純の怒りになど頓着せず、パッパとスーツの上下、それからそれに合ったシャツとネクタイを選び、「はい!」と押し付けた。「これで!」「……」無言で眉を顰める希純に、中津も無言で更にぐいっと押し付けた。やがて、仕方なさそうにため息をついてそれを受け取った希純を着替えに送り出し、中津ははぁ…と息を吐き出した。今日は、美月のコンサートが開催される日だった。希純は当初、海外で仕事を進めていた為このことを知らなかった。だが帰国後その情報を得て、なんとかチケットを買おうとしたのだが既に完売で、泣く泣く諦めていた。その為、彼は今後このようなことがないようにと美月のファンクラブに入会し、万全の体制を整えることにしたのだった。そうしていたところ、そのファンクラブからの通達で【当日チケット特別販売】があることを知り、こうして出かける準備に余念がないという訳だった。開演にはまだまだ十分に時間がある。だが枠の少ないチケットを手に入れる為には、早めに行かなければならない。今朝。希純は、中津を呼んで重々しく言い渡した。「今日の分の決裁は午前中に全て済ませる。俺は午後から出かけるから、後は頼むぞ」「
Last Updated: 2025-12-08
Chapter: 170.佐倉希純の場合(前世)Ⅲ「はぁ?」尚の眉がピクッと跳ね上がった。「〝浮気はしてない〟ですって?あなたね、まさか〝身体の関係はないから浮気はしてない〟なんて甘っちょろいこと言ってんじゃないでしょうね?」「何が違う?」希純が問うと、尚は苛立たしげにドンッと足を踏み鳴らした。「バカじゃないの!?やったかやらないかじゃなくて、気持ちが動いたかどうかが問題なのよ!」「動いてない!」「ハッ!アンタのどこをどう見てそんなこと言ってるの!?誰も信じやしないわよ!」「っ…」希純は痛いところを突かれた様に、口を閉ざした。そんな彼を、尚は嘲笑した。「心当たりがあるんじゃない。本当、最低ね!」「……」項垂れる彼に、更に言った。「そんなアンタに美月を弔う資格なんかないわ。さっさと帰ってちょうだい」それに対し、希純は呟くように言った。「本当に、彼女のものは何もないのか…?」「……」「本当にー」「ないわ」「……」そう言い切ると、希純はゆっくりと掌でその顔を覆った。「……っ」しばらくして微かな嗚咽が聞こえたが、尚は聞こえないふりをした。彼女は部屋を出る間際、振り向いて言った。「気が済んだら帰ってちょうだい。声もかけなくていいわ」そうして希純は一人残された部屋で、声を殺して泣いた。「美月…すまない……すまない、美月…。俺が悪かった…」何度も呟いて、やがてふらりと立ち上がると泣き腫らした目をそのままに、彼は帰って行った。尚は窓からその後ろ姿を見送り、そっと息をついたのだった。*「尚…?」ぼんやりとしていた彼女に声をかけた聖人は、その男らしい眉を心配げに寄せていた。「ああ…まだいたの?」「……」その言葉に、聖人の瞳にはほんの少し悲しげな色が宿った。それを見て尚は申し訳なさそうに言った。「そんな意味じゃないの。ただ…」「わかってる。大丈夫」聖人は優しく微笑んだ。彼は、尚が彼女の親友の遺骨を手に入れる為、兄の怜士と取引したことを知っていた。だから希純から彼女の居場所を尋ねられた時、彼女の罪を見逃すことを条件にそれを教えた。そして怜士には、自分の相続権を放棄することを条件に、彼女を追いかけることを許してもらったのだ。聖人は尚が自分の元を去った時、いかに彼女を愛していたかを思い知った。いつの間にか姿を消していた彼女は事務所も辞めていたし、弟の英明に訊
Last Updated: 2025-12-04
Chapter: 169.佐倉希純の場合(前世)ⅡA国ー。そこは年間を通じて穏やかな風が吹き、人々は親切で治安も良く、お年寄りや子どもにとってもとても過ごしやすい国だった。しかもここは昔から有名な音楽家や芸術家が沢山輩出され、その道を志す者にとってもチャンスの溢れる場所だった。尚はパソコンからふと視線を上げ、明るい日差しの入る窓の外を見た。彼女は美月の遺骨を抱えてたった一人この地に降り立ったが、その穏やかな気候と何かしらの事情を抱えた彼女にも親切に接してくれる人々に助けられ、心からここに来て良かったと思った。尚が選んだのは田舎にある小さな一軒家で、小さいとは言っても一人で暮らすには十分な広さのある間取りと、庭には色とりどりの花々が咲く今の暮らしに、彼女は満足気に微笑んだ。美月も喜んでるかな…。吹く風に感じる暖かさが、美月の魂の温度の様に感じられて、尚は手にしていたペンを置いた。そこへーキンコーン…キンコーン…とドアチャイムが鳴るのを聞いた。「はい」尚がドアを開けると、そこには佐倉希純の姿があった。「何しに来たの?」彼女は彼を見た途端に顔を顰め、迷惑そうに言った。だが希純はそれに取り合わず、真っ直ぐに彼女を見つめて口を開いた。「お前が盗んだのか?」「……」それは問いかけの形をとっていたが、断定だった。尚は胸の前で腕を組み、ふんっと鼻を鳴らした。「今頃気がついたの?遅いんじゃない?」「貴様!」その嘲るかのような口調に、希純の額に青筋が立った。激昂した彼を見て、尚は白けたように視線を流した。「とりあえず中に入って。近所迷惑だわ」「……」そのままスタスタと家の中に戻って行く彼女に従って、希純も中に入って行った。そしてリビングに案内されたと同時に、彼は急くように要求した。「美月を返せっ」「……」尚はそんな希純を振り返り、肩を竦めて軽く言った。「無理よ」「は?何が無理だっ。彼女は俺の妻なんだぞ!?返せ!」言い募る希純にも、彼女は冷静に応えた。「言ったでしょ。無理なの」「だから何でだ!?」バンッ!と手にしていた荷物を床に叩きつけ、希純は怒りのままに怒鳴った。尚はそんな彼を見てやれやれとため息をつき、ひとまずソファに座るよう手で示した。希純は憤慨しながらもドカリと腰を下ろし、ふんっと鼻から息を吐いた。「いくら欲しい?」「なんですって?」質問に眉を跳ね
Last Updated: 2025-12-04
Chapter: 168.佐倉希純の場合(前世)Ⅰ2週間後。希純は父親の純孝と共に霊園へと向かった。彼は妻の好きだった花を花束にして供え、僧侶の言葉が終わるのを待った。そして係の者が美月の骨壺を取り出そうとして、戸惑ったように振り返るのを見た。「どうしました?」「それが……」彼は視線を泳がせ、僧侶の顔を見て、最後に希純に言った。「ありません…」「は…?」ありません?何が?何が無いっていうんだ?「まさか…?」その言葉に、彼は慎重に頷いた。「佐倉美月様の骨壺が見当たりません」「あり得ない…」希純は唇を震わせながら呟いた。そして、一気に激昂した。「なぜだ!?」希純は目の前にいる男の胸ぐらを掴み、答えのない問いを繰り返した。僧侶はこの事態に眉をひそめ、ひとまず希純を宥めた。「ここの管理者を呼べ」純孝は周りで青褪めている職員にそう言い、深いため息をついた。少し待つと、管理者の男が急いで走り寄って来た。「佐倉様…」彼は純孝に声をかけた。だが、「ここの管理はどうなってるんだ!?墓泥棒が入ったのにも気がつかなかったのか!?」希純がそう怒鳴りつけてきた。肩を怒らせて、ふーふーと息を荒げていた。「も、申し訳ありません。ですが、私共にも何がなんやらー」「言い訳はいい!!早く監視カメラを確認しろ!」希純の言葉に、男は慌てて事務室に駆け戻って行った。「希純…」それを見送って、純孝が無念そうに口を開いた。「とりあえず、警察に連絡しろ。彼女を取り戻したいなら冷静になれ」「……っ」希純はその場に膝をつき、頭を抱えた。誰だ?誰がやった!?ライバル社の連中の誰かか?それとも、骨壺と引き換えに金を要求しようとしてる奴がいるのか!?希純はギュッと目を瞑り、爆発しそうな怒りを堪えていた。純孝は周りが見えなくなっている息子の代わりに僧侶に頭を下げ、また改めて供養をお願いする旨を伝えた。「希純、とりあえず事務室に行こう」彼は、未だどうしたらいいのか分からずにオロオロしている男に片付けを頼み、希純を伴って移動した。「これを想定して遺骨を移したいと言ったのか?」「まさか!そんなこと、考えたこともないっ」希純は父親の質問に驚いて強く否定した。2人はそのまま、この霊園を管理している者がいる事務室へと入って行った。そしてわかったことは、今月始めにこの霊園内外の清掃などを請け負っている
Last Updated: 2025-12-04
Chapter: 157カーン……カーン……古い鐘の音が鳴り響く中、教会の扉が開け放たれ、2人の姿が現れた。ワーッ!と歓声が上がり、両サイドに分かれて立つ人々から一斉に花びらが舞い散らされた。純白のタキシードとウェディングドレスに包まれた2人に、淡いピンクの花びら。爽やかな微風と暖かな陽射し。芽衣の夢見る、おとぎ話の中の結婚式のような一幕だった。尚と聖人は人々の列の一番後に立って、この光景を見ていた。その顔には喜びの笑顔と、薄っすらと浮かんだ涙があった。「もう人のものになっちゃったのね」呟くと、「やめろよ〜」と聖人が情けない声を出した。尚はそれにクスッと笑うと、近づいてきた2人に向けて、手にした花びらを投げかけた。ひらひらと舞った花びらは、芽衣の真っ白いベールやふわりとしたドレスを飾るように舞い降り、とても綺麗だと思った。小さい頃から准ばかりを追いかけ、彼だけを頼りに心を預けてきた。そんな娘の、今日が一番夢見てきた日だ。そう思って、尚は芽衣を抱きしめた。「おめでとう。幸せにね」そう囁くと、芽衣はにっこりと笑った。「うん!」その笑顔は、誰よりも、何よりも美しかった。それから美月や怜士のもとへと歩み寄り、同じように祝福を受ける2人を見送って、尚は満足げに頷いたのだった。「さて…これからは私たちの第二の新婚生活ねっ」隣に立つ聖人におどけてそう言うと、彼はニッと笑って大きく頷いた。「やっとまた君を独占できる」「っ……」その言いように尚の顔がサッと赤らみ、聖人はそんな彼女を愛おしげに見つめて微笑んだ。「仲いいね~」そんな両親を振り返って見ていた芽衣がそう言うと、准はフッと笑い、彼女の耳元にそっと囁いた。「負けてないから」「?」「芽衣、愛してる
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 156数週間後ー。准のもとに、一冊のノートが届けられた。見ると、そこにはまるで夏休みの絵日記のように、日々旅先で撮った写真が貼られ、その時の感想などが綴られていた。彼はそれで初めて、芽衣と尚がこの間ずっと旅行に出ていたことを知った。ペラリ…ペラリ…と厚みを増してページを繰りにくくなっているノートを大切そうに見ながら、准の目元は優しく細められていた。准は何ページか見ただけで、それらが自分が芽衣に送った映像の場所だと気づき、そこを辿って旅をした彼女をまた、愛おしく思った。本当なら、芽衣と結婚した後の新婚旅行で、これらの場所を巡る予定だった。だがそれが崩れてしまったことになど、准は頓着しなかった。ノートには彼女の楽しげな様子がわかる言葉が書かれていて、それを読むだけで、彼は嬉しい気持ちが溢れてきた。広大な花畑では尚が撮ったのか、芽衣も写真に写り込んでいた。【大好きなお花。たくさんきれい!】紅葉を撮ったはずの山では季節の違いで、青々とした景色が広がっていた。【赤いお山はまた見にくるよ】海辺では、誰もいない砂浜と鈍く輝く水面が、微かに光を反射していた。【ちょっとさむかった。砂の上を歩くのは気もちよかった!】そんなことが1頁1頁、丁寧な文字で書き記されていた。准は仕事の手を完全に止めて、本田すら書斎から出し、完全に一人でこれを見ていた。「芽衣…」彼の口元には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。そして、最後のページをめくってー。「!……」そこは、准が撮ったことを最も後悔していた、あの、教会のある場所だった。彼は、ここでただ美しいだけの、憧れを呼び覚ます為の映像を撮るつもりだった。それがまさか…。准は、あの女が映っていた、最終的に芽衣に贈られた映像を思い出して、ギリッと指先に力が入った。くしゃりとノートの端がたわむのに、ハッと
Last Updated: 2026-07-30
Chapter: 155その後。准は精力的に仕事を片付けながら、一番下の叔父、真田英明にある提案をした。それは、彼の会社である真田エンターテインメントに所属する全タレントに、「困っている人がいたらできる限り手を差し伸べる」というミッションを与えるというものだった。絶対じゃない。できる限り、でいいのだ。大袈裟なことじゃなく、小さなことでいい。無理なく、手を差し伸べる余裕がある時だけでいいのだ。准の提案に始めは首を捻っていた英明だったが、彼から芽衣が今まで受けてきた扱いを聞き、それなら他の、世間一般でいう〝弱者〟と言われる人たちも、同じような扱いを受けたことがあるのでは?ということに気がついた。別に善行を売りにするつもりはない。でも、イメージアップには繋がる。真田エンターテインメントには悪質なタレントはいなかったが、それでも時々は悪い噂やデマを流されることはある。英明はニッと笑って准の肩を叩いた。「任せとけ。これで、弱い立場の者や動物には手を差し伸べる必要があるって考えも広まるし、うちのタレントのイメージも上がる。いいことだな〜」「……そんな簡単なことでもないですけどね」快く応じてくれたことに感謝しながらも、お気楽に笑う英明に呆れて言った。ただ、確かにこれは、一歩を踏み出すきっかけになるだろう。時間がかかっても、准は他にもこの活動を広め、やがて誰もが自然に、誰かに手を差し伸べることができる社会になればいいと思った。そうすることで、芽衣が生きやすい世界に少しでも近づけば…と思うのだった。*芽衣は、真っ白な砂浜に裸足で降り立ち、風に飛ばされそうな帽子を手で押さえながら、海を見ていた。少し肌寒くて、映像で見た時ほど海も輝いていなかった。それでも芽衣は、ただ黙ってそこに長い間佇んでいた。「芽衣ー」呼ばれて振り向くと、尚がショールを広げて肩からかけてくれた。「風邪ひくよ?」「うん…」頷いて、名残惜しげにもう一度海を振り返り、そして尚と一緒に車に戻った。今2人は、芽衣の希望で旅行に出ていた。ふと思ったのだ。あの施設で見た映像は、准ちゃんも全部見たんだろうか?と。時々彼も映り込んでいたから、きっと見たんだろう。他の女の人と一緒に…。そう思うと胸が痛んだが、芽衣は、自分も同じように見てみたいと思ったのだ。だから尚に頼んだ。あの映像で見た同じ景色を見に行
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 154聖人は准の昼休憩の時間を見計らって、彼の会社にやって来ていた。芽衣との婚約が破棄された後も、彼は時間を見つけては彼女との結婚式の準備を引き続きやっていたからだ。諦めるつもりは毛頭ない。その気持ちを口にしている割に、准はここでひたすら芽衣からの連絡を待っていた。〝逢いたい〟ただこの一言があれば、自分は今すぐにでも彼女を迎えに行く。聖人にそう言っていた准は、芽衣の気持ちが〝依存〟から〝愛情〟に変わるのを待っていた。聖人には分からなかった。芽衣は、自分に優しくしてくれる人も、親切にしてくれる人も、皆「好き」だと言う。だから准は、自分もその括りに入っているだけなのではないかと疑っているのだろうが、そうじゃないとなぜわからないのだろうかと思うのだ。芽衣が「好き」という相手はたくさんいる。でも、無条件にその腕の中に飛び込んでいくのは、准だけだ。父親である自分は別として、怜士にもしないのに、准にはするのだ。単純に〝家族だから〟で済ませられる答えじゃないと思わないのか?それなのに、頻繁に会いに来てくれていたのにもう「行かない」と言われて、どれだけ彼女が辛かっただろうかと思うと、ほんの少しくらいの意地悪は許されるだろうと聖人は思うのだった。でもまさか、芽衣自身が准の迷惑になっていると思っているとは思わなかった。誰だ、そんなことを吹き込んだのは…。苛立つが、今は目の前の、愕然と目を見開く甥のメンタルを何とかしてやらなければならない、と思った。見ると、握られた拳はワナワナと震え、唇はきつく噛みしめられていた。准はこれまで、諦めないと言いつつ、何の反応も示さない芽衣にかなりがっかりしていた。やっぱり、自分なんていなければいないで適当に過ごしていけるんだな…。そんな風に思って落ち込んでいた。けれどー。迷惑…?そんな風に思ってたのか?なんでそう思った?どんなに考えても、自分が芽衣にそんな風に思われるようなことを言った
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 153「ハナ〜!」芽衣が庭先で呼ぶと、小さなお友だちの女の子がピョコッと顔を出した。「メイ!」彼女はパッと顔を輝かせ、タタタッと駆け寄ると芽衣に抱きついてきた。「おかえり!」2人は抱き合って笑い、再会を喜んでいた。その光景を見ていた尚は、やっぱり帰ってきて正解だったな…と満足げに微笑んだ。あそこは美月も怜士もいるし、使用人たちも優しいけれど、こうやって抱き合って笑い合ったり、一緒に同じ遊びをしてくれるような人はいなかった。尚だって一緒に遊んだりはするけれど、やっぱり芽衣にしてみれば〝遊んでもらってる〟という感覚だっただろうと思う。子ども同士、遠慮もなく遊べる相手がいるというのはやっぱりいいものだ、と尚は改めて思った。「メイ、こっち来て!」「なぁに?」ハナに手を取られ、庭の奥に連れて行かれた芽衣が、しばらくして駆け戻ってきた。「ママ!猫の赤ちゃんがいるよっ」嬉しそうにそう報告する娘の笑顔が、尚の昨日までの腹立たしい気持ちを吹き飛ばしてくれた。「そう?じゃあ、怖がらせないように、そっと見ようね」「うん!」連れられて見に行くと、どうやら以前、リオンが抱いていたあの猫が子どもを産んだらしかった。母猫は警戒してこちらを見ていたが、立ち止まって見守る姿勢をとると、興味をなくしたように子猫を舐め始めた。「かわいいね〜」ふふふと笑いながらそっと囁く芽衣と顔を見合わせて、尚も微笑んだ。しばらく猫たちを見て、満足した芽衣とハナと一緒に家の中に入った。「帰ったのね。じゃあ、今夜はうちで食事をしましょう?」早速誘いを受けて、尚の心も温かくなる。この家族と出会えた事は、本当に彼女の人生において美月と出会えたことと同じくらい嬉しいことだった。尚はしばらく彼女たちとお茶を飲んでお喋りをして、今夜の招待に備えた準備をする為にお暇をした。家に戻ると、昨日までと違ってガランとして静かだったが、前
Last Updated: 2026-07-23
Chapter: 152「なんとかならないの?」美月のその言葉に、怜士はまたカップを置き、ふむ…と考えた。*「え…なんて言ったの?」聖人の驚愕した声音に、尚は電話越しにもわかるくらい腹立たしげな口調で言った。『准くんとの婚約は解消するって言ったの。それから、元の家に戻るから』「ええ……?」聖人は彼女の話を聞きながら、チラリと側の男に視線を遣った。「何ですか?」准が尋ねると、聖人は引き攣った笑みを浮かべ、「なんでもない」と否定した。「なんでいきなりそうなった?」彼はコソコソと尋ねたが、尚は鼻息も荒くふんっと吐き出した。『准くんが、心変わりしたそうよっ』「……」いや、それはない。聖人は思わず心の中で突っ込んでいた。現に、今も彼は撮影を終えてやっと帰って来たというのに有無を言わさず捕まって、芽衣のウェディングドレスのデザインやらについて相談を受けていたのだ。准はあーでもないこーでもないとカタログを見て、デザイナーは誰に頼もうか?とか、式の演出はどの程度だったら芽衣が喜ぶだろうか?とか、事細かに尋ねられていたのだ。結婚式はまだまだ先だというのに。そんな准が心変わり?ないない。聖人は改めて一人で首を振った。だがー。『だからねー』尚が続けた。『私たち、もうそっちには帰らないから。ここで暮らすわ』と言った。「え!?ちょ、ちょっと待って!どういうこと!?」「叔父さん?」いきなり慌てだした聖人に、准がカタログから顔を上げて問いかけた。聖人はその顔をじっと見て、そしてふい…と顔を逸らした。「なんでもないよ。続けて」後ろ手で准に〝関係ない〟と示しながら、場所を移動した。『そこにいるのね?』尚の低い声が耳元で
Last Updated: 2026-07-23