Chapter: 73.春奈は実は、ケンは失敗すると思っていた。あんなに真面目な男に誘拐なんて、そんな大胆なことできるわけがない。いざとなったらビビって失敗するに決まってる。そんなリスクは負えない。だから、彼は捨て駒にした。春奈はケンがアルバイトをするBarで、昔の知り合いに会った。それは父親が不動産で成り上がった小金持ちの河本賢也(こうもとけんや)で、彼は一言で言うならクズだった。顔はまぁまぁ整っていたが、その性格の悪さが滲み出て、あまり好感の持てる人物ではなかった。賢也はお金に物を言わせて女を取っ替え引っ替えし、〝遊んで飽きたら捨てる〟を繰り返していた。令嬢たちの間でも悪評が立っていて、彼の父親は出自にコンプレックスでもあるのか、しきりに彼と令嬢を見合わせようとしていたが、全て惨敗していた。彼の方でも大人しいだけの令嬢には興味がないのか、そんな事には全く頓着せず、日々遊び人のように過ごしていた。だがある時、「彼の子を身籠った」と言ってきた女が2人同時に現れ、さすがの彼の父親も怒りに震え、彼をしばらく家から追い出したようだった。それを彼は、まるで長期休暇でも貰ったかのようにA国に来てまた遊び倒し、とうとう父親から一切の送金を止められたのだった。そんな頃、春奈は彼と再会し、彼の現状を聞いて、ある計画を思いついたのだった。「なぁ、あいつ、そろそろ仕掛けたかな?」「さぁ…」春奈は気怠げにそう言って、いつものカクテルに口をつけた。ケンが出国してから、思った通り監視が厳しくなった。それがわかっていたから、春奈は賢也に「あまり自分に近づくな」と言っていた。理由もきちんと説明してやったのに、バカな賢也は気にせず話しかけてくる。だから最近、彼女はホテルに閉じ籠もった生活をしていた。賢也にも自分からの連絡を待つように言い、なるべく接触しないようにしていた。全てはこの計画を成功させる為なのだ!わざと両親と言い争いをしてケンに取り入り、彼を出国させて雪乃をつけ狙わせる。悠一が彼に注意を向けて、計画を失敗した彼に処罰を与えている隙に、今度こそ本当に狙うのだ。その為には、お金の為ならなんでもするような人間が必要だ。しかも、頭が悪ければ尚良い。それが、河本賢也の役割だった。彼は今、父親のせいでお金に困っている。プラス、彼はスリルのある遊びに飢えている。こんなに
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 72.雪乃はとりあえず、青年を事務所の応接スペースにあるソファへと運んでもらった。そこへ寝かせてもらうよう伝えると、なぜか男は雑に青年を扱い、雪乃を困惑させた。「ご苦労さま。もう帰ってもいいわよ」「いえ、こちらに控えております」男はきっぱりと言った。雪乃はそう聞いて、まぁ、いいか…と頷き、それならと男にコーヒーを出し、支度をする為に自室に戻ることを伝えた。「また後で来ますね。え…と。名前を訊いてもいいかしら?」「……田中です」田中さん…。たぶん偽名ね。いいけど。「じゃあ、田中さん。朝食は済まされました?」「お気遣いなく。ありがとうございます」「……」取りつくしまがない。もう、いいわ。雪乃はため息を一つついて、事務所を後にした。田中はコーヒーを一口飲んで、フッと笑った。ボスの奥さまは、なんだか可愛らしい人だな…。自分のような者にコーヒーを出して、名前まで訊いてくれる。おまけに朝食の心配までしてくれるなんて…。そんな人、見たことない。彼はチラッと向かいのソファに寝かせた青年を見て、苦笑した。自分が狙ってた相手に助けられたなんて…。目を覚ましたらどう思うだろうな。しかし…〝保険証〟か…。そのおかしさに、ついククッと肩を震わせて笑ってしまった。あの女とは大違いだ。田中は、いつかの那須川グループ本社ビルの地下に、春奈を閉じ込めた時もそこにいた。あの女は泣くか喚くばかりで、本当に鬱陶しかった。しかも自分たちのような者を徹底的に見下していて、奥さまのように、普通に声をかけることすらしなかった。ボスの見る目は正しい。そう思って、田中は満足げにカップを置いた。一方、雪乃は。自室に戻ると、麻衣と友香に『諸事情により、本日事務所閉鎖』とメッセージを送った。麻衣からは訳を尋ねる返信があったが、面倒だったのでまた明日にでも話すことを伝え、浴室に入った。そしてシャワーを浴びて部屋に戻ると、今度は悠一からのメッセージが届いていた。『気を失っていても、2人きりにはならないように』とあった。「……」なにこれ。雪乃は濡れた髪を拭きながら、返信した。『親切なボディーガードさんがいるから、大丈夫よ』そう送って、手早く髪を乾かし、着替えて簡単にサンドイッチを作り、下へと降りた。雪乃の返信を受け取った悠一は、口をへの字に曲げて、今彼女に付
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 71.「あの…大丈夫ですか?」朝のジョギングの帰り道、雪乃は道端で蹲っている青年に声をかけた。そこは木陰になっていて、彼の黒一色の服装ではなかなか目につきにくいところだったが、偶然にも雪乃は吹いた風に被っていたキャップを飛ばされ、追いかけた先で気がついたのだった。「あの…?」青年は額に脂汗をかき、とても苦しそうにお腹を押さえていた。「病院に行きますか?」「……っ」青年の前に屈んでそう問いかけるが、痛みの為か返事をもらえず、雪乃は困った。声をかけた以上、このまま知らん顔はできない。でも見たところ外国人っぽいし…。病院に連れて行っても大丈夫かな?医療費とか沢山かかったら、かえって迷惑かけちゃうかも……。雪乃は悩んだ末、もう目の前がマンションだった為、とりあえず中に連れて行って休ませることにした。「うち、このマンションなんで。中で休んでください。腹痛の薬もあると思いますし…」「あ、ありがとう…」それだけ言って、青年はぐったりと気を失ってしまった。え?……どうしよう…。私一人じゃあ運べないし…。そう思って、ポケットからスマホを取り出した。トゥルルルル…トゥルルルル…なかなか相手が出ない。今日は来てないの?もう!普段、用もないのに来てるくせに!雪乃はイライラと唇を引き結んだ。その時ー『雪乃』耳から身体を震わせる深い声音が応答した。「き、今日はマンションに来てる?」動揺を隠すように急いで問うと、悠一はクスッと微笑って言った。『行ってない。なんだ?寂しくなったのか?』「違うわよ!」何なの、この男!?自惚れてんじゃないわよ!雪乃は、少し赤くなった顔を歪めて言った。「いないならいいわ!じゃあね!」『待て』「?」強い口調で制されて、タップしかけた指を思わず止めた。『何かあったのか?』「?いいえ?」ただ人手が欲しかっただけだ。雪乃はそれだけ答えると、通話を切った。目の前で人が気を失っているのだ。長話をしている暇はない。仕方ない…。雪乃は気合を入れて、倒れている青年の頬を叩いた。「すみませんっ。起きてください!」パシンッと結構強めに叩いても、彼は目を覚まさなかった。う〜ん…駄目か〜。どうしようかと考えていると、ふいに後ろから声をかけられた。「奥さま」振り返ると、一人の屈強な男が立っていた。「私で良ければ、
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 70.数日前、悠一はある1つの報告を受けていた。A国に遣った、藤堂家…特に春奈の動向を監視する者たちからのものだった。その者たちが報せるには、春奈はA国で数日過ごしただけで癇癪を起こし、両親と仲違いをして別荘を出て行ってしまい、とある若い男と接触したというのだ。その日はその男の部屋に泊まり、どうやら関係を持ったようなのだが、2〜3日もすると男はチケットを取り、出国したということだった。男は〝ケン〟と呼ばれる、春奈が常連の店のアルバイトらしく、普段は真面目に働く至って普通の青年らしかった。送られてきた男の写真を見た時に抱いた感想は、「あの女が好きそうな顔だな」というだけのもので、特に危険な感じは受けなかった。だが次の日、雪乃に付けていたボディーガードから受けた報告で、男〝ケン〟が彼女の前に現れたことを知り、これが春奈の仕業だと理解した。「いかがいたしましょうか」同じく報告書に目を通していた真木は、悠一の目に怒りの火が宿るのを見てため息をついた。まったく、あの女も懲りないな…。今度こそ、見逃してはもらえないだろうな…。真木は自業自得だと思いながらも、悠一がどこまでやるつもりなのか心配していた。「社長ー」「まだだ。こいつが何をするつもりなのか、はっきりするまでは手を出すな」確かに、ケンは他国の人間だったこともあり、手を出すにしても迂闊に証拠などは残せない。国際問題に発展するようなことは、避けるべきだ。まずは彼の身内や友人などを調べて、どの程度の付き合いなのか、仮に彼が行方不明になったとして、どのくらい捜そうとするのか…。つまり、どの程度〝騒ぐのか〟を調べる必要があった。「かしこまりました」真木は頭を下げて悠一のオフィスを後にし、早速A国で懇意にしている情報屋へ連絡を取った。そして、監視者へは春奈への監視の強化を指示した。何かあっても絶対に逃げられることのないよう、一時も目を離さず、24時間態勢で監視に臨むよう伝えた。以前のように彼女に同情したり、籠絡されたりするような者が出ないよう、今回は厳選した人事だったが、お互いがお互いを見張れるように2人一組で行動する事を、改めて指示した。次の失態は、真木自身の失脚にも繋がりかねない。悠一は、信頼を裏切る者に容赦がない。これまで真木はそれに応えてきたからこそ、今の地位を築けているのだ。もち
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 69.ケンは物陰に隠れて、藤堂雪乃を見ていた。春奈が見せてくれた写真の彼女よりも何倍も美しく、好ましい感じだった。写真の彼女は確かに美しく、たおやかで、それでいてその瞳に聡明さが窺えた。一方、今目にしている彼女はとても溌溂としていて、瞳は太陽の光を受けてきらきらと輝いている…という感じで、全体的に強く、靭やかに見えた。ケンは実際に彼女を初めて目にした時、混乱した。本当に彼女が人の夫を奪ったのか?春奈が言うには、自分たち姉妹は子供の頃から元夫、悠一のことが好きで、姉の雪乃はいつも彼女と悠一が仲良くするのを邪魔していたらしい。それを両親にいつも注意されて不貞腐れていたのだが、ある時悠一の祖母を味方につけて婚約を交わしてしまったと言うのだ。話を聞いた時、とんでもない女だと思った。さぞかし意地悪で、傲慢な女に違いない!そう思っていた。でも、実際の彼女は……。ケンは躊躇していた。春奈から、「夫のことはもう諦めたけれど、子供の頃からの意地悪や今回のことに対する仕返しがしたい」と言われた時は〝よし、協力してやろう!〟と思った。それが、彼女をちょっとだけ誘拐して怖がらせ、悠一からお金をせしめてやろう…という内容でも、雪乃が実家を破産させて、両親まで困窮させていると聞いたから、手伝ってもいいと思ったのだ。春奈は言った。「悠一はすっごくお金持ちだから、欲張りさえしなければお金を払って解決する方法をとるわ」と。「お金持ちって…どれくらい?」そう訊いたのは単純に興味があったのと、身代金の金額の、境界線の見当をつけたかったからだ。「う〜んとね。とにかくすごいお金持ちよ。想像がつかないくらい。だからね、このくらいなら……」と、こっそりと耳元で囁かれた金額に驚いて、思わず生唾を飲み込んでしまった。「そ、そんなに…?」「うん。いい話でしょう?」にっこり笑ってそう言う春奈に、ケンは焦った。「もしかして、君もすごいお金持ちなのかい?」彼はそんな環境に身を置いたことがなく、関わり合いになることを恐れた。だが、彼女は平然と答えた。「以前はね。でも、言ったじゃない。お姉ちゃんに破産させられたって。今は見る影もないわ」「……」「無理ならいいのよ?諦めるから…」弱々しげにそう言われて、ケンは頭の中が酷く混乱した。「いや…」「大丈夫よ。他の人をあたって
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 68.「春奈!もういい加減にしろ!」バシッという音が玄関ホールに響き渡った。「なによ!殴ったわね!?」春奈は一瞬にして赤く腫れ上がった頬を手で押さえ、キッと父親の藤堂真を睨みつけた。A国ー。那須川悠一が唯一残してくれた別荘で過ごすうち、その露骨に監視される生活や、今までと違い買い物も満足にできず、欲求が満たされない毎日に春奈のイライラが頂点に達し、とうとう地団駄を踏みながら喚き散らした。「もう嫌!!こんな生活耐えられない!お父さんたちは平気なの!?」「春奈……」母親の小夜子は眉根を寄せ、真はその唇を捻じ曲げた。こんな生活にしたのは誰なんだ。張本人が何を言ってるんだ!真は胃の底がグツグツと煮えたぎり、最近特に痛み出して最早薬無しでは生活できないほどだった。「春奈…元々はここも処分されるはずだったのよ?それを残してもらえたんだからー」「バカ言ってんじゃないわよ!私がサインしたからここを残してくれたのよ!?今があるのは!私の!おかげなの!」「……」勘違いも甚だしいが、これ以上何を言っても無駄だろうと、真はため息をついて頭をゆっくりと振った。小夜子はただその目に涙を浮かべて、哀れそうに娘を見つめた。その2人の態度に、春奈の怒りが爆発した。「もういい!!私、出て行くから!」「春奈!!」急いで娘の腕を掴んだ妻が思い切り振り払われてよろけたのを見て、真は一気に青筋を立てた。「勝手にしろ!その代わり、何があっても責任は取らんからな!!」去っていく後ろ姿に怒鳴りつけたが、帰ってきたのは「フンッ!」という嘲りだけだった。「あなた……」打ちひしがれたように縋り付く妻に、真は言った。「もう諦めなさい…。あの娘は、もうどうしようもない。育て方を間違えたとしか言えん」「……」涙を流して立ち去ってしまった娘を思い、小夜子はがっくりと肩を落とした。一方真は、この事態を悠一に知らせなければならない事に、また胃が痛む思いだった。けれど、黙っている訳にはいかない。黙っていても監視者が報告するだろう。ここで口を閉ざせば、次はどんな処罰が待っているかわからない。そんなのは御免だ!真は雪乃を頼りにしていた。この娘が悠一をなんとか宥めてくれれば、自分たちの再起もあり得るのだ。今はそれを待って英気を養う時だ!真はぐっと唇を噛み締め、腕の中の妻を休ませ
Last Updated: 2025-07-23
Chapter: 56.対話Ⅱ「いいわ。本題に入って」希純はその言葉に眉を寄せた。「そんなに急いでいるのか?」そう言いながら、さり気なくソファの方へと導いた。彼女を座らせ、自分も正面に腰を降ろした。「この後、用があるの」「どんな?」美月は、自分の前に置かれたコーヒーカップに目を移した。確かこのブランド、奈月が好きなのよね…。そう心の中で嗤って、視線を上げた。「あなたに関係ないわ」「……」希純はぐっと喉に何かが詰まったように感じた。〝あなたに関係ない〟彼女とこんな感じになってから、よく言われる言葉だ。それは、酷く自分を傷つける言葉だった。「なぜだ…?何が関係ないんだ?俺は!お前の夫だぞ!?」「……」ドンッとテーブルを殴っても、美月は冷めた目で希純を見つめるだけだった。そうして、静かに口を開いた。「話し合う気はあるの?ないの?」「離婚などしない!!」怒りのあまりつい本音を叫んでしまった希純に、美月は傍らに置いたバッグを手に取り、言った。「もういいわ。協議書なんかいらない。離婚届にサインをして中津さんに届けさせて。あなたとはもう、関わりたくない」「!」そう言われた瞬間、希純は目を見開き固まった。美月はそれを見てもなんの感情も表さず、サッと立ち上がりオフィスのドアへと向かって歩いた。そして部屋を出るまで振り返ることもなく、立ち去って行ったのだった。「社長…」呆然としている希純に呼びかけてみたが、なんの反応もなかった見ると、その目にはうっすらと涙が滲み、口はぎゅっと固く閉じられていた。中津はとりあえず美月を引き留めねば…とひとまず希純の前を辞し、エレベーターへと向かった。「奥さま!」呼びかけると、彼女は立ち止まって待ってくれた。「中津さん」口調は優しい。でも、その瞳は冷めていた。おそらく、自分のことも信じていないのだろう。中津は彼女の前で一つ息をつき、言った。「このままでよろしいのですか?」「?」首を傾げるが、特に気分を害した感じはしない。なので、思い切って訊いてみた。「何が駄目だったのか、教えていただけませんか?」「なんのこと?」そう返されて、中津は尋ねた。美月の物は全て取り返した。奈月も追い出した。希純も、もうあんな曖昧なことはしないと言った。「それでも社長を許さないのは、許す気がそもそもない、ということです
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 55.対話Ⅰ希純は、朝からそわそわしていた。実は、昨夜もあまり眠れなくて、頭の中では美月とどう会話をするか、シミュレーションばかりしていた。中津はそんな上司に苦笑し、お茶を差し出した。「落ち着いてください」「あぁ、わかってる」そう言いながらも指はトントンとデスクを叩き、その視線はチラチラとオフィスのドアへと度々向いていた。明らかに今日の希純は、いつもに比べてオシャレをしていた。チャコールグレーのジャケットは彼の整った体型にフィットし、中に着たサックスブルーのシャツとの相性も良い。ジャケットと同系色のネクタイも合わせて、首元からのVゾーンも完璧だった。全体的に落ち着いた大人なスタイルで、彼の魅力が引き立っていた。しかも、爽やか系のコロンもつけているようで、気合いが入った様子がわかる。社長…奥さまに会うの、よっぽど楽しみにしてたんですね…。でもオフィス内だから、ジャケットは脱いでほしいかなぁ。上司が初心すぎて、見ている方が恥ずかしい。中津は離婚に関しては美月の味方をすると決めていたが、できるなら、彼女には考え直してもらいたい。最近の希純の頑張りが彼の見方を変えたのか、今日のオシャレにしても、健気でつい微笑んでしまうのだ。中津はちらりと時計を見て、そろそろかな…と思った。過去、美月は午前中会社に訪れる時には、大体10時前後に現れた。彼女にとってそれが、〝ちょうど良い時間〟なのだろう。まぁ確かに、業務が始まってすぐは連絡事項の伝達で忙しいし、お昼前はランチミーティングや会議で席を外している事が多い。中津はこの、常に相手のことを考えて行動する美月の性格を好ましいと思いつつ、損な性格だなぁ…とも思っていた。本来対等であるべき関係において、片方が常に相手を立てている…というのは正常な関係ではないと中津は思っている。例えそれが愛情故であったとしても、無意識に片方が心理的負荷を負っている状態でいるというのは、その関係性が壊れた時に取り返しのつかない事になる可能性を秘めているからだ。彼らのようにー。コンコンコンッいろいろ考えて注意力がそれていたところ、ノックの音がして、中津はハッと顔を上げた。急いでドアを開けに足を踏み出した時、なぜか偉そうな「入れ」という希純の声がした。「……」なぜ彼はこうなのか……。素直じゃないにも程がある。中津として
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 54.目論見「尚…?」「ー!」その声に、尚はハッと気が付いた。記憶の中の、希純への憎しみに囚われていた。「どうしたの?大丈夫?」心配そうに眉を寄せて自分を見つめる美月に、尚はホッと息をつき、頷いた。「平気。ちょっと…考え事してた…」「……」美月はまだ心配がなくならないのか、そっと尚の肩を撫でた。「聖人さんに連絡する?」そう言って小首を傾げるのに、尚は「ううん」と言った。「たぶん撮影中だから、いいわ」「そう…」未だに寄せられた眉を「えいっ」とぐりぐりしてやると、それで美月の顔にもようやく笑顔が戻った。「支度できた?ランチ行こ!」そう言ってソファから立ち上がると、美月も「うん」と立ち上がり、2人は揃ってホテルのレストランに向かった。「ところで、いつまでホテル暮らしするの?」「うーん、どうしようかな…」このあたり、美月は何も考えていなかった。でも今問われて「確かにそうだな…」と思い、悩み始めた。それを見て、尚は言った。「うちのマンション、今空きがあるわよ?ホテルにお金払うなら借りたら?」それを聞いて、美月は益々悩んだ。いいんだけど…。借りると家のこと、全部自分でやらないといけなくなっちゃうのよね…。美月は家事ができる。結婚をして、希純の為に覚えたのだ。でも、もうやる気はないし…。今世いつまで生きられるか分からないなら、どうせならダラダラしたい。だって、そんな生活楽しそうじゃない?余計な事に煩わされず、好きなことをやって毎日過ごすなんて…。なんて贅沢なのっ!美月はつい、自分がダラダラして過ごしている姿を想像して、ニヤけてしまった。「なぁに?楽しそうね?」「ん?ふふふ…」尚は、笑う美月にテンションが上がるのを感じた。「さぁ!なに食べようかしら〜」ちょうどエレベーターが止まって扉が開いたので、尚はそう言いながら美月の方を振り向いた。彼女はニコニコと笑いながら、学生時代に戻ったかのように言った。「太っても知らないわよ?」そうして尚の腕を取って、はしゃいだ様子で歩き出した。今世、尚は目醒めてから少しずつ前世と行動を変えてきた。希純と美月はもう既に出会ってしまっていたから、変えられない。じゃあ彼女には、あの男以外の男との出会いを仕掛けて、人生の選択肢を与えてやろう…。そう思った。無理かもしれない。でも、やる価値
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 53.憎悪「……」通話を切って、暗くなったスマホの画面をじっと見た美月は、ふぅ…と一つ息をついた。尚は、その顰められた眉を人さし指でちょんっとつつき、ふふっと微笑った。「どうしたの?」小首を傾げてそう問う彼女の、細められた目は楽しげで、美月は鼻でフッと笑った。「明日、離婚の話し合いに行ってくるわ」そう言うと、尚は何かを考えるように瞳をキョロっと動かし、「一緒に行こうか?」と訊いてきた。美月はそれに「ううん」と首を振り、ニコッと微笑った。「大丈夫。終わったら、直接真田邸に行くわ」美月は明日で話し合いが終わるとは思っていなかった。なぜって、希純は結構しつこい男だから。離婚を切り出す前、まだ自分が彼に従順で大人しかった頃も、何かある度に「どうした?」「何があった?」「なんでそうなった?」「お前はどうしたい?」と、本当にしつこかった。きっと今回もそうなるだろう。あれだけ「別れたくない」と言っていたのだ。そんな簡単にいく訳がない。美月はこの離婚に関して長期戦を覚悟していたので、今やっとスタートラインに立てるという心境だった。まぁ、早く済めばそれに越したことはないんだけど…。明日の事を考えて、美月はじっと思考に耽った。一方、尚は。ふふっ。佐倉希純、ざまぁみろっ。心の中で思い切り嗤っていた。前世、尚は大学3年の途中で退学した。美月はそのまま4年に進級して卒業し、希純の支援を受けながらピアノのレッスンをしていたのだが、今思えばあの男は始めから、彼女にそれ以上の事をさせる気はなかったのだ。だいたいあの男は最初から美月に好意を持っているようだったし、卒業後も〝支援者〟という立場を盾に彼女をやれ食事だ、気分転換だとよく連れ出していた。あれはつまり、デートだったのね。姑息な男だっ。美月はお嬢さま育ちで、しかもピアノのレッスンに明け暮れていたから当然、異性との会話や接触に免疫がなかった。そこを上手く利用されたに違いない。あの男!尚は思えば思うほど、腹が立って仕方なかった。あの頃の自分は、希純を良い男だと思っていた。ハンサムだし、優しそうだし、お金持ちだし…なにより美月に惚れてそう!彼女の幸せを誰よりも願っていた尚は、2人のことを応援していたのだ。結婚が決まって、豪華絢爛な結婚式や披露宴をやって、美月はしばらくの間とても幸せそうだった。
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 52.当惑「おい、中津…。本当にこのやり方であってるのか?」希純はデスクで肘をつき、目の前に立つ秘書に問うた。「さぁ…どうですかね……?」「おい!」バンッと手を叩きつけた。「お前が言ったんだろう!?SNS消させて、別荘とウェディングドレスを取り戻せって!」指を突きつけて、まるで断罪するかのように喚く希純に、中津は至極冷静に言った。「それはやって当たり前の事ですよ?それで奥さまのお怒りがまだ収まらないからって、私に当たらないでくださいよ」「……」今2人の関係は〝社長と秘書〟ではなく、完全に〝恋愛相談員と相談者〟だ。中津は希純のプライベートに踏み込みすぎている自覚はあったが、あまりにも彼が不甲斐ないので、口を出さずにはいられなかったのだ。「奥さまからは何の連絡も?」そう尋ねると、彼は力なく頷いた。「そうですか…」確かに、中津も少し意外だった。昨夜彼は美月に、奈月のことを報告した。彼女が一番怒っていたであろう要因を〝取り戻した〟と伝えたのに、帰ってきた返事は『だから何?』だけだった。何がいけなかったのか…?SNSを消した。別荘、ウェディングドレス、カード、全て取り戻した。別荘の庭と内装も、元通りにするよう手配した。……何が足りないんだ??もちろん、希純と奈月の曖昧な関係を完全になくすことが一番大事なのはわかっている。がー。それをどうやって証明する?言葉で何を言っても、信じてもらえなければどうしようもない。まさか破局宣言でもしろと?そこまで考えて、中津はぷるぷると頭を振った。あり得ない!〝破局宣言〟なんて、公に「不倫してました〜」て認めるようなものじゃないか!「……」希純はずっと黙り込んだまま、ああでもないこうでもないと頭を捻っている中津に、言った。「お前の方にも、何もないのか?」「はい…」今思えば、希純は自分が楽観視していたと後悔している。美月がどうして許してくれないのか、わからない。嬉々として中津に報告してもらったのに、反応が予想外に冷たかった。『だから何?』て、どういう意味だ?そんな事をやっても無駄だって言いたいのか?希純は、以前妻に会った時に向けられた、冷たく、軽蔑に満ちた眼差しを忘れることができなかった。美月!美月美月美月美月!希純は頭を抱えた。我慢していないと、大きな声を出してしまいそうだった。
Last Updated: 2025-07-26
Chapter: 51.前世尚には、思い出す度に死にたくなる記憶がある。いや、記憶があるというようなそんな曖昧なものじゃない。実際に目で見て、体験したのだ。気がつくと、自分がまだ小説家の如月尚として確立していない頃にいた。訳が解らず、自分の頭がどうかしてしまったのかと思った。未来視???そんなはずはない。あの絶望が!あの憎しみが!幻なんかなはずがない!ドンッ!!尚はギリギリと歯軋りして、パソコンの乗ったデスクに両拳を叩きつけた。その拍子に、傍にあったアイスティーの入ったグラスが倒れ、パソコンを水浸しにした。「!」見るも無残な状況だったが、それで尚もハッと気持ちを取り戻し、次に慌ててパソコンやその他の物の水分を拭き取った。まぁ、だが…結果的にパソコンは壊れ、中にあるはずの書きかけの原稿のデータもとんでしまった。彼女は落ち込んだが、ある事に気付いて途端にその瞳を輝かし、早速新しいパソコンを買いに出かけた。彼女は思った。そうよ。これから先で人気の出たものを書けばいいんじゃない!人のものを盗る訳じゃなし、早く書いたっていいじゃない!彼女は笑った。もちろん一字一句覚えてる訳じゃない。でも、何度も読み返しながら書いたのだ。また同じものが書ける!そう気がつくと興奮して、尚はアハハと笑った。何がなんだか分からないけど、つまり、私は生き直してるのよね!?この頃なら、美月だってまだ生きてる!まだチャンスはある!!彼女は美月の葬儀で泣き崩れる希純を見ていた。その隣には、当然のようにあの女が寄り添っていた。クソ野郎が!!尚は、爪が掌に食い込んで血が滲むほど、拳を握り締めた。涙に濡れる男を激しく睨みつけて、一瞬たりとも目を離さなかった。殺してやる…。自然とそう思っていた。義妹に手を出しながら妻も手放さないなんて、どんだけ畜生なのよ!尚の殺意を含んだ眼差しに、希純の近くに控えていた男が視線を向けてきた。「…?」そしてその眉が顰められるのに、彼女は冷たく微笑み、そのまま焼香もせずくるりと背を向け、葬儀場を後にした。復讐が済んだら会いに行くわ。尚は心の中で美月に言った。それまで待ってて、美月!彼女の顔には、強い決意を秘めた笑みが浮かんでいた。一方。「なんだ…?」あの憎しみに満ちた目は、希純に向いていた。中津は不安を覚えて希純を見たが、彼は自分で立って
Last Updated: 2025-07-20