「バカなの?」部屋へと戻った美月は夫からの返信を見て、そう呟いた。ドライブだけがデートだとでも?フッと鼻で嗤い、彼女はスマホをテーブルの上に置いた。そして満たされたお腹を休ませる為、大きなソファにゴロンと寝転んだ。実はこれ、一度やってみたかった!希純が眉を顰めそうな感じがして、今までやる勇気がなかったのだ。でも、もう彼女は気にしない。やりたい事は我慢しない。やりたくない事はやらない。自分はこれからは好きに生きるのだ!美月は自分がなんだかとても大変な決意をしたかのように感じて、少しドキドキした。だがーピンポ~ンチャイムが彼女の思考を止めた。「はい?」来客の予定はなかったので、用心してドアはほんの少ししか開けなかった。案の定そこには見たくもない人物、妹の奈月が立っていた。「お姉ちゃんー」パタン。彼女を見た瞬間に美月の顔から表情が消え、そのまま無言でドアを閉めた。美月はご丁寧に鍵までかけて、彼女に帰るよう示した。「お姉ちゃん!?ちょっと、開けてよ!なんで閉めるのよ!?」ドンドンとドアを叩きながら喚かれて、美月の眉根はぎゅぅぅ…と思い切り顰められた。「お姉ちゃん!!」「帰って。あなたと話す事なんかないわ」「嫌よ!私とお兄さんは何でもないから!誤解しないで!!」「……」この娘はなんて事を大声で喚くのよっ。美月は頭がズキズキと痛みだし、盛大にため息をついた。そして鍵を開け、静かにドアを開いた。「入って。そこに座って」そうして、さっきまでいい気分で寝転んでいたソファに奈月を座らせ、備え付けの冷蔵庫から水を出して渡した。「お水…?」「文句ある?」そう言うと、奈月はふるふると首を振った。今日のお姉ちゃんはどこか違う。奈月は貰ったお水を一口飲んで、目だけキョロキョロと動かした。「何を考えてるのか知らないけど、私一人よ」「そ、そういうことじゃないのっ。ごめんなさい…」チッ。誰かいるかと思ったのにっ。浮気でもしててくれたらラッキーだったのに、ついてないわ。奈月は心の中で不満を吐き出し、顔には心配げな表情を浮かべた。「なんで家出なんかしたの?お兄さん、心配してたわよ?」「へぇ……」昨日の今日でもう知ってるなんて、ずいぶん仲がよろしいこと。居場所まで教えてるなんてね。美月は皮肉げに嗤った。「で?誤解ってな
その頃の美月は。ホテル内のレストランで昼食を摂り、食後の紅茶を飲みながらスマホを見ていた。画面に映し出されているのは昨日の奈月の投稿ー。『私のお願い。食事の後に素敵な場所へドライブ。お仕事お疲れさま♡』そんな言葉と共に電話中なのか、少し離れた所に男性の背中がテーブル上のシャンパン越しに写っていた。見慣れた後ろ姿。スーツは誕生日に自分がプレゼントした物だった。「気持ち悪い……」冷たく呟いて、美月は画面を消した。トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…ウエイターに部屋のカードキーを示してサインをし、立ち上がったところに電話が鳴った。画面には夫の名前が表示されている。「………はい」彼女は話したくなかったが、離婚協議書のことがあったので仕方なく応答した。『美月、やっと通じた!』余計な話しをするつもりはなかった。「離婚協議書は?できたの?」『美月!冗談言わないでくれっ』プッ……プープープー希純は切られた通話に絶句した。彼女はまだ怒ってるのか?いい加減しつこくないか??トゥルルルル…トゥルルルル…トゥルルルル…もう一度掛けてみた。プッ……プープープープー切られた。「クソッ!なんだってんだ!?」俺が何をしたっていうんだ!!怒りのあまりスマホを乱暴にデスクの上に放り投げ、希純は肩で息をした。ピロンッその時、メッセージを知らせる音が鳴り、見ると美月からだった。それを知って、途端に希純の表情は和らぎ、「なんだよ…」と嬉しそうに呟いた。ほら見ろ、やっぱり美月は俺を気にしてるじゃないか。さっきの電話が強気すぎて、俺が怒ってると心配になったのか?そう思いながら軽くスマホをタップした。そこに表示されたのは『昨夜はずいぶん楽しかったようね。そんな暇があるなら、早く離婚協議書を作ってちょうだい』という言葉と、奈月のSNSのスクリーンショットだった。「……」なんだ、これ?これって、まるで俺らがデートしてるみたいじゃないか…!そういえば中津も言っていた。なぜ奈月を放置するのかと…。「確かに。これはないな…。」『昨夜は奈月を送って行くついでに一緒に食事をしただけだ。ドライブなんかしていない』美月に返信をしてしばらく待ってみたが、何も反応がなかった。誤解だって言ってるのにっ。なんで許してくれないんだ!?『ーはい』秘書
「彼女にお昼のお弁当を頼まれたとか…?」「?あぁ、最近料理の勉強をしてるとか言ってたから」そう言った時、希純の口元が僅かに上がったのを見た。「それで?わざわざ手作りのお弁当を頼まれたのですか?奥さまではなく、ただの義妹に?」その皮肉げな言い方に、希純の片眉がピクリと上がった。「なんだ?何が問題なんだ?」「……あなたは根本的に間違っています」中津の冷え切った声音に一瞬戸惑いの表情を見せた希純だったが、プライドの為か素直に問い返せなかった。「ロビーでお待ちいただいてますが、どうされますか?」「は?なんで通さない?」昨日も言ったんだけどね…。中津は肩を竦めた。「お連れします。一般社員が使うエレベーターで」強調して言うと、「専用を使え」と言い返された。「専用は社長と奥さまのみが使用できるようになっているはずですが?」「……今日だけだ」「……」希純は自分を見る中津の瞳に軽蔑の色を見て取り、ぐっと奥歯を噛み締めた。「なんだ?何か言いたい事でもあるのか?」「……いいえ」最早、注意する気にもならない。中津は昨夜更新された奈月のSNSの投稿を見て、朝から彼女に怒り心頭だったのだが、もうそれを口にする気もなかった。彼には既にあり得ない投稿がなされている事を告げてあるし、それを放置し、更に更新の機会を与えるような事をしてしまうその神経が理解できなかったのだ。それでいて「離婚したくない」だなんて、勝手が過ぎる!てなものだっ。中津は最低限の礼だけをしてオフィスを出て行った。少しして、「希純兄さん」と柔らかい声音で呼びかけられ、ノックもなしにオフィスに入って来た奈月を見た。希純は彼女の後ろに中津の姿がないことを知ると、複雑な表情をした。「兄さん?」「いや……」きっと何か用があって、一緒に来れなかったんだろう。そう思ったが、その日中彼の姿を見かけることはなかった。??秘書は常に近くに控えているものではないのか?少し苛ついたが、不安にも思った。彼のあの軽蔑に満ちた目と冷ややかな声に、希純は自分の何がいけなかったのか分からずに落ち着かなかった。『はいー』彼は秘書室に連絡を入れ、中津の居場所を聞いた。『中津でしたら、本日は早退致しました』「なに?」聞いてない。あり得ない。上司に黙って早退とか、バカにしてんのか!?「体調不良
中津は一般社員が使うエレベーターがある側のスペースにいたので彼女は気が付かなかったらしく、その顔には微笑みが浮かび、実に堂々とした態度だった。その行方をじっと見ていると、呆れたことに彼女は受付をスルーし、そのまま社長のオフィスへ直行の専用エレベーターがある方へと歩を進めて行った。中津は慌てて、だが胸の内に怒りを溜めて、足早に奈月を追いかけて行った。「奈月さん」声をかけると彼女はピタリと足を止め、そして一拍置いて振り返った。その顔はいかにも純粋で、なんにもわからないような表情が浮かんでいた。「中津さん、おはようございます」小首を傾げて挨拶をするその姿は、何も知らない者から見たらとても可愛らしく、思わず笑顔になってしまうほどだった。でも中津には通じない。彼は彼女の狡猾さも腹黒さも知っているので、その純粋さを装う姿が余計に腹立たしく、口調もややつっけんどんなものになってしまうのだった。「おはようございます。ここで何を?」ジロジロと彼女の手にあるランチボックスを見た。「あぁ、希純兄さんにお昼のお弁当を持って来ました」ニッコリ笑ってそう言うと、僅かに手の物を掲げた。「申し訳ありませんが、社長はいつもデリバリーを頼まれますので、それは必要ないかとー」「あ…でも……」彼女はもじもじと袖をいじり、小さな声で言った。「昨日約束したんです」中津は目を眇めた。あのクズ男は…っ。イラッときた感情を抑えて「ではー」と手を出した。「私がお届けいたします。ご苦労さまです」「……」奈月は悲しげに眉根を寄せて、上目遣いに彼に言った。「私が届けては駄目ですか?」駄目だよ。心の中ではそう答えたが、彼はため息をつき言った。「では、こちらロビーでお待ち下さい。確認して参ります」「……わかりました」何が何でもこの専用エレベーターは使わせない。という彼の意思を感じたのか、奈月は渋々と承知した。そしてくるりと向きを変えると、ロビーにあるソファに腰掛けた。中津はそれを確認し、ついでに受付に彼女を勝手に通さないようきつく言い聞かせ、急いで社長室へと向かったのだった。そして今に至るのだがー。
ハッー中津はもう何度目かの夢を見て、今もまた飛び起きた。心臓がドキドキと早鐘のように鳴り、額には冷や汗が滲んでいた。またこの夢か……。彼は額の汗を拭い、傍らのスマホの時計を見た。4:30 いつもこの時間に目が覚める。中津はキッチンに行き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出してゴクゴクと喉に流し込んだ。冷えた水が身体の中を通る感覚に、彼の気持ちも次第に落ち着きを取り戻していった。いつも見る夢ー。それは美月の死に関するものだった。初めはなぜこんな縁起の悪い夢を…?と不思議に思っていた。だが夢は見る度に違う場面で、彼の上司で彼女の夫である希純が、彼女の墓の前で号泣しているものだったり、彼女の妹の奈月が泣きながら嘲笑っていたり。その他にも、彼女を取り巻くいろいろな人物の場面があった。そして、それらに共通しているのは〝美月の死〟であり、中津は夢を見た後いつも言いようのない不安を胸に抱えて、再び眠ることができなくなるのだった。「社長ー」翌日、中津がオフィスで希純の前に立つと、彼は手にしていた書類をバサリと置き、椅子の背もたれに背を預け、視線を上げた。「なんだ?退職願でも持って来たか?」「……ご希望でしたら準備します」そう言うとチッと舌打ちし、希純は皮肉げに嗤った。「嫌味も通じないのか?」「申し訳ありません」「……」頭を下げる彼に希純はしばらく口を閉ざし、やがて言った。「反省したのなら、もういい」彼にとって中津は替えの利かない存在だった。ただ単に付き合いが長いだけでなく、彼が今何を必要としているか言わなくても理解し、動くことのできるのはこの男だけで、言葉の足らないことが多い自分と他者が衝突したりしないように、細かい配慮を自然としてくれるのも、この男だけだった。だから、今回は許してやる。そう思っていたのに、目の前の男からはお礼の言葉も安心したような感じもなく、寧ろ呆れたようなため息をつかれてしまった。「〝反省〟とは、一体何に対してですか?」「わからないのか?」そんなはずはない。わざとだ。希純はおよそ初めての中津の反抗的な態度に、腹が立った。そしてその苛立ちを、デスクの上にあった書類を投げつけることで表した。バサッー中津は顔に投げつけられた書類を微動だにせず受け止め、そのまま床に落ちた物を静かに拾い上げた。「お尋ね
「社長」静まりかえるオフィスで明日の会議で使う資料に目を通していた希純は、秘書の中津の呼ぶ声に顔を上げた。「美月は見つかったか?」「はい」ようやく期待通りの答えが得られて、希純は無言で続きを促した。「奥さまは精華ホテルにご滞在されてます」「精華ホテル?」自分の答えに眉根を寄せて首を傾げる希純に、中津は苦笑した。わかりますよ〜。うちのホテルがあるのになんで?て思ってるんですよね〜。中津は積極的に美月を連れ戻そうとは思っていなかった。なぜなら今ー「希純兄さん」「!」「奈月…」この娘はなんで勝手に入って来るんだよっ。つい先ほど希純を訪ねて現れた彼女に、中津は確かにロビーで待つよう言ったはずだった。それがなんで最上階にある社長のオフィスに?そんな気軽に入れませんよ、ここは!?「奈ー」「出て行ってください」「え…?」中津の冷たい言葉に、奈月の笑顔がピシリと固まった。「ロビーでお待ち下さいとお伝えしたはずです。なぜここに?」「え…と……」問い詰められて奈月はちらりと希純を窺い見た。「おいー」「なんでしょう?」彼女に頼られて口を挟もうとしてきた希純を、中津は気にせずに問い返した。「ここには重要書類や機密書類等いろいろあります。そんな所へ部外者を簡単に入れてはいけません!」「……」正論を断固とした口調で告げられて、希純も二の句が継げなかった。そんな彼を見て奈月も自分の不利を知り、おずおずと口を開いた。「ごめんなさい。私はただー」「何ですか?また遅くなったから送ってほしくて、ついでに食事でもしませんか?とでも仰るつもりですか?生憎ですが、社長はそんなに暇ではありませんっ」「……」まさに中津の言った通りの事を言おうとしていた奈月は呆気にとられ、口をポカンと開けた。え?なんなの、この人?ちょっと前まですごく丁寧な人だと思ってたのに…。「おい、さすがに言いすぎだ」「…」はい!?正気か、この人っ。ほんの数時間前に起こった事を何も覚えてないかのように奈月を庇う彼の姿に、中津は呆れてしまった。アウトだな。もう手の施しようがない。間違いなくクズだ、この男は。中津は腹の底からはぁぁぁ…と息を吐き出し、「失礼します」と言い捨ててその場を後にした。「おい!!」背中から希純の怒声が聞こえたが、もう振り返りたくなかった。