新婚当初、別々のベッドで眠ることに明穂は寂しさを覚えた。寄り添う温もりを想像していたあの頃の甘い期待は、今や遠い記憶だ。だが、吉高との間に漂う不協和音、紗央里の影や心のすれ違いを思えば、ツインベッドの距離感に心から安堵した。それでも安眠は訪れず、明穂は霞がかった朝を迎えた。カーテンの隙間から差し込む薄い光が、彼女の疲れた顔を冷たく照らす。
時計の針がどれだけ進んだのか、抱き合った二人の上に柔らかな日差しが降り注いでいた。ふと気づくと、明穂の右手が忙しなく動き、何かを探している。 「これか?」 大智がティッシュの箱を差し出した。
明穂を奪うと手紙で宣言した大智は、弁護士の記章を胸に金沢に帰ってきた。スーツ姿の彼は、3年前のやんちゃな面影を残しつつ、精悍な雰囲気をまとっていた。
明穂はキッチンに立ち、ふと振り返って大智に尋ねた。「珈琲と紅茶、どっちがいい?」声は落ち着かせようと努めたが、どこかぎこちなかった。大智はソファにふんぞり返り、片手で乱れた髪をかき上げながら、「いや、炭酸飲料でいいよ。コーラか何かある?」と軽い調子で答えた。その声には、ニューヨークの雑踏を抜けてきたような、どこか大らかな響きがあった。明穂は一瞬眉をひそめた。ニューヨークで3年も過ごしたなら、きっと不摂生の極みだろうと想像していた。ハンバーガーショップのカウンターで、脂っこいフライドポテトをつまみながらコーラの飲み放題に溺れる大智の姿が頭に浮かんだ。だが、ちらりと彼を見ると、意外なことに肌艶は良く、頬に旅の疲れは見えるものの、目は生き生きと輝いていた。ワイシャツ越しに見える腕や肩は、かつてのやんちゃな少年っぽさが消え、全体的に引き締まった身体付きに変わっていた。ニューヨークの喧騒が、彼をただの怠惰な男にしなかったらしい。明穂は冷蔵庫を開け、コーラの缶を取り出しながら、ふと大智の変化に心がざわついた。あの3年間、彼は何をしてきたのか。コーラのプルタブを引く音が、静かな部屋に小さく響いた。缶を渡すと、大智は「サンキュ」と笑い、ぐいっと一口飲んだ。その喉が動く様子に、明穂はなぜか目を離せなかった。吉高の妻としての自分と、かつての大智との記憶が、炭酸の泡のように胸の中で弾けた。
翌朝、明穂が洗濯物を干していると、タイヤが道路を滑る音がして電気自動車が玄関先で停まる音がした。軽い音で扉が開き、重い音で扉が閉まった。ありがとうございました。聞き覚えのない声が(ありがとう)と声をかけている。(タクシー?)吉高はBMWで通勤し、明穂の母親は軽自動車を使う。明穂に友人はほとんどおらず、タクシーでの来客の予定はなかった。タクシーを降りた革靴は、一直線に明穂の家に向かって来た。(男の人の革靴だわ、誰?)ピンポーン明穂は手すりに身体を預けながらリビングへと向かった。インターフォンは続け様に鳴り続け、明穂は恐る恐るモニターのボタンを押した。そこには見知らぬ人物が立っていた「どちら様でしょうか」明穂の声がインターフォン越しに小さく響いた。
京都の学会から帰宅した吉高は、どこかぼんやりと惚けた顔をしていた。リビングのソファにどさっと腰を下ろすと、脱ぎ捨てたスーツが床にくしゃりと落ち、ふわっと独特の香りが漂ってきた。それはまるで、真新しい畳の清々しい青さと、薔薇の香水のような甘く濃厚な匂いが混ざり合ったような、不思議な余韻を残すものだった。明穂は鼻をひくつかせ、ちらりと吉高を見やった。おおかた、学会の合間に紗央里と京都の風情ある日帰り旅館にでも寄って、二人きりでしっぽりとお愉しみでもしていたのだろう。吉高のそんな浮ついた雰囲気が、なんだか妙に生々しく感じられた。それでも彼は、いつも通りの平然とした顔で、「はい、お土産だよ」と軽い調子で言った。手に渡されたのは、京都の老舗の名菓が詰まった、風呂敷に包まれた菓子箱だった。明穂は箱を受け取りながら、ふと吉高の目を見た。そこには、京都の雅やかな街並みや、紗央里との秘密めいた時間が映っているような気がした。「ありがとう」その瞬間、吉高の指が明穂の手に軽く触れ合い、明穂は言い知れぬ寒気を覚えた。それは一瞬の接触だったが、まるで冷たい水が背筋を滑り落ちるような、得体の知れない感覚だった。菓子箱を受け取ると、そのずっしりとした重さが掌にずんと響き、まるで吉高と紗央里がひそかに分かち合った時間の重さ、隠された罪の深さを象徴しているかのようだった。風呂敷に包まれた箱の冷ややかな感触が、明穂の指先に妙に現実味を帯びて感じられた。部屋の空気は一瞬にして張り詰め、静寂が二人を包んだ。明穂の胸の内で、疑念が黒い霧のようにゆっくりと広がっていく。吉高と紗央里が京都のどこかで過ごした時間は、ただの気まぐれな寄り道だったのか、それとも何かもっと深い秘密を孕んでいるのか。吉高はソファにもたれたまま、穏やかな微