第三話 豪華(ごうか)絢爛(けんらん)
あれから二年。 梅乃は十歳になった。
「花魁、失礼しんす……」 玉芳の部屋に勝来がやってきた。
最初の禿だった菖蒲は十五歳になり、下級の妓女となっていた。
それにより、禿の最年長は勝来である。
「本日の予約は……」 勝来が予定を読み上げると
「へー 初見(しょけん)さんか……」 玉芳は驚いていた。
玉芳が驚くのも無理もない。
少し前だが、戊辰戦争が起こり 上野周辺は瓦礫(がれき)や死体の山であった。
ここ吉原も、彰義隊の避難所として利用している為、戦争に巻き込まれたくない客は遠のいていった。
「少し、客さんは戻ってきたのかしら……?」
玉芳はキセルを吹かしながら空を見ていた。
吉原は幕府公認の妓楼街であったが、大政奉還により幕府が権力を失う。
大名は吉原から足が遠のき、金が安く済む夜鷹を使っていた。
また吉原に来ても大見世である三原屋を使わず、吉原の壁側にある河岸(かし)見(み)世(せ)を使う客も増えていった。
吉原の妓楼は四つのランクに分けられていた。
三原屋のような格式が高い見世は、大見世。
格式が低く、引手茶屋を通さずに遊べるのが小見(こみ)世(せ)。 その中間にあるのが中(なか)見(み)世(せ)である。
そして、吉原を囲むように川の水が溜まったのが『お歯黒ドブ』と呼ばれ、そのドブの近くにある見世が、河岸(かし)見(み)世(せ)と呼ばれていた。
河岸見世は安く、格式など無い。
年季が明けて、行くところが無くなった妓女が多く在籍する。
また、三十路過ぎの女性が多いところでもある。
そして戦争により、一気に客足は遠のき三原屋も経営が苦しかった。
「久しぶりに、景気よくいこう」 玉芳は嬉しそうであった。
この落ち込んだ景気を回復しようと、強く思っていたのだ。
玉芳は一階にいる “鑓手(やりて)婆(ばば) ” の所に出向いた。
鑓手婆とは、妓楼の一階に座り、妓女の管理や会計などを行う人である。
三原屋で言えば『采』である。
「お婆(ばば)、今日の客さんは どんな方?」 玉芳は采に聞くと
「確か……金貸しの旦那とか言ったね。 アチコチの妓楼に顔を出すヤツさ…… そこいらで品定めでもしているんじゃないかい?」
「お婆、今日は車を出してくれない?」 玉芳は、珍しく采に頼み事をした。
「そりゃ構わないけど、ケチられたらどうするんだい?」
采の言うことは尤もである。
ケチる……車などを頼んでないから、値引けと言ってくる客である。
「お婆、ここは勝負です。 大見世として生き残れるかの勝負です。 もし、ケチられたら私が車代を払いましょう」
「玉芳……」 采は、花魁の玉芳の気迫に圧倒された。
「わかった! 手配しとくよ」 采はニヤリとして、親指を立てた。
「ありがとう お婆♪」
「さぁ 風呂に入って、やるよ」 玉芳は大きな声を出し、妓女たちに活気を与えた。
「それと、酒宴は……菖蒲、それと勝来も入りなさい」
「あ、はい……」 勝来は驚いていた。
菖蒲は妓女として入ったばかりで勉強の為に呼ばれたのだと分かるが、勝来は『新造(しんぞう)出(だ)し』と言って妓女の見習いという身分で、妓女としては経験していなかった。
そして、新造出しからお披露目として変わっていくのでる。
「勝来、勉強よ。 私、赤飯を用意するわ」 菖蒲が励ましたが
「……はい」 返事に元気が無かった。
梅乃は大部屋を見渡していた。
(勝来姐さんに元気がないのは、周囲の目だ! 嫉妬、妬みが当たり前の妓楼では花魁と一緒に仕事が出来れば、上客のオコボレを貰えるチャンス……みんなが欲しかったチャンスを妓女の見習いが選ばれるのだから、嫉妬の目は当たり前だよ……)
梅乃は、まだ十歳だが分かっていた。
「それと……梅乃、八時まで酒宴に参加しなさい」
玉芳の言葉は、十歳の小娘の意識を遠ざけた。
「しっかりしなさい、梅乃……」 梅乃は後ろに倒れ、気絶していた。
梅乃の目が覚めると、大部屋の空気が一変していた。
“ザワザワ…… ”
「じゃ、頼むわね」 そう言って、玉芳は自室に戻っていった。
「すごいじゃん、梅乃~」
「小夜……どうしよう……」 喜んでくれた小夜に、泣きついていた梅乃である。
「とにかく決まったのだから、精一杯 勤めるんだよ」 菖蒲は、梅乃の肩に手を置いた。
梅乃は酒宴に参加をするが、もちろん禿の仕事もある。
一層の気持ちが必要だったが……
「なんでお前が……」 いつも梅乃に絡み、蹴ってきた妓女が言いよってきた。
「すみません……」 とりあえず、梅乃は謝ったが
「生意気な……」 見下ろしてくる目が怖かった。
そして夕刻、玉芳が引手茶屋に向かう時間である。
「花魁、通ります」 大きな声で迎えをアピールすると、周囲の目が玉芳に向いた。
『この景気の悪い時に車で花魁だと? 一体、誰だよ……』 こんな噂が吉原に響いた。
幕府が崩壊し、景気が悪くなった吉原に玉芳が風を流し込む。
そして、他の妓楼と差をつける為に車まで用意したのだ。
まさに、これが玉芳の作戦であった。
そして精一杯の声を出してアピールをする梅乃と小夜。
ここが見世の運命の分かれ道であった。
「お待たせしました。 三原屋の玉芳でありんす……」
(えっ?) 梅乃は驚いていた。 普段なら、初見の客には笑顔を見せない玉芳が優しい言葉で迎えていた。
「お、おぉ……」 客は面食らっていた。
「本日は車で失礼しんす……お嫌でしたら、車代は私が……」
玉芳が言いかけた所で、客が言葉を被せてきた。
「構わんよ。 私が持つ」 客は軽く手を胸に置いた。
「ありがとうございます……では、こちらへ」
客の男は車に乗り、動くのを待った。
「では、普段ならお客さんが先に歩くものですが……私が案内を致しましょう」
そう言って、先頭を玉芳が歩いた。
そして、外八文字を見せると仲の町に歓声が上がった。
“こりゃ、変わった案内だが、これもいい…… ”
仲の町に様々な声が飛んだ。
これは、どこの妓楼もしたことのない事であった。
そして、普通に歩けば数分の場所ではあるが、三十分を使って三原屋に到着した。
「それでは、二階の酒席へ……」 ここからは禿の出番である。
酒席の部屋へ案内をすると、菖蒲が酌をする。
玉芳は、自室で小夜と酒席の衣装へと着替えていた。
そして酒席の部屋の隅で、勝来と梅乃は正座をしていた。
そして十分が過ぎた頃、玉芳が部屋に入ってきた。
「……」 玉芳は『お待たせしました』の言葉さえ出さず、客とは少しの距離を取って座った。
実際は初見の客とは言葉も交わさず、酒宴の料理にも手を付けないのが普通である。
玉芳は、セオリー通りに接客をした。
これは花魁なりの品定めである。
酒宴を盛り上げるのは客であり、花魁のご機嫌を伺っていくものである。
花魁は笑顔ではあるが、あまり言葉は交わさない。
そこで 「お嬢ちゃんたちも、どうぞ……」
禿の梅乃にまで食事を出していた。
そして、三時間の酒宴が終わる。
階段まで見送る玉芳は
「今宵は、本当にありがとございます」 深々と礼をした。
いつもと違う感じの対応に、客は驚いていた。
そして菖蒲が妓楼の出口まで見送ると、
客が 「また、同じ面子で頼むよ……」 と、言ったのである。
そして、二階の窓から玉芳が見ていた。
ふと、客が二階を見上げると、玉芳と目が合った。
玉芳が微笑むと、客は手を挙げて帰っていった。
「よくやったよ」 采が玉芳の部屋に来て、言葉を掛けた。
「しかし、いつもと違うじゃないか?」
「えぇ……いつもと同じなら、あの客は いつもと同じく別の見世に行くでしょう……」 ここからは真剣勝負をしないと、生き残れないと感じての行動だったようだ。
「大したものだよ……」 そう言って、采は一階に降りて行った。
そして、二日後に その客は来た。
今度は、普段通りに歩いて迎えに行った玉芳に
「今日は普通だな……」 つい、言葉を漏らしてしまった。
「毎度、同じですと飽きますから……」
それだけを言うと、サッと先導を促(うなが)した。
そして、梅乃が客の横を歩いた。
「お嬢ちゃん、どうなっているんだい?」 客は、初回と今回の違いを不思議に思い、梅乃に聞いていた。
「花魁は……こうして皆に幸せをくれるのです。 まるで、夜に出るお天道(てんと)様(さま)なのです」 梅乃は、こう言ってニコッとする。
そして、妓楼に到着した。
客は妓楼の二階の酒席に通され、玉芳を待った。
菖蒲が客に酌をし、会話を楽しむと玉芳が入ってくる。
「お待たせしました……」
玉芳の言葉で、全員が驚いた。
(普段、言わない言葉だ……いつもはツンとしているが、ここで変化を出したんだ……) 梅乃には、まさに生きた教材であった。
この変化は、男の気を引くのに時間は掛からなかった。
「ありがとう……これからも楽しませてくれよな」 客は、玉芳が席に付いてからスグに心を持っていかれたようだ。
アチコチの妓楼を渡り歩いてきた客は、玉芳に堕ちた。
時代は変われど、男はツンデレに弱いようだ。
「そこで……コレを……」 玉芳が手を叩くと、部屋に赤飯が運び込まれた。
「どうした?」 客はキョトンとしていた。
「今宵、この勝来の妓女としての初日でございます」
「そうか、めでたいな♪」 客はめでたい日に立ち会えた事を喜んだ。
「お召し上がりください。 これは、私の奢りです。 さっ、勝来も……」 玉芳は勝来を近くに呼び、全員で赤飯を食べた。
その時、勝来は涙が溢れて化粧が取れかかってしまった。
「あらあら……」 玉芳はクスッと笑った。
これも変化である。 玉芳は客の前で笑うことは少なかった。
いつもなら、張りつめた空気で存在感を出していたが、今回は違った。
(姐さん……何かあったのかな?) 梅乃は、小さいながらに疑問を抱く。
酒宴は進み、梅乃は子供なので先に失礼をした。
そして、三時間ほどすると酒宴が終わった。
丁寧に挨拶をし、階段まで見送る玉芳。
そして、階段を下りてから菖蒲と勝来が外までの見送りをする。
客が歩いて帰ろうとした時に、玉芳は妓楼前まで速足でやってきた。
少し息を切らした声で、
「また、会えますか?」 と、言ったのである。
客は面食らった顔で
「あぁ、すぐ来るよ」 そう言って、客は帰っていった。
これは、全て玉芳の演出である。
ただ、この変化により玉芳自身にも変化が出てきた。
そして、朝の六時になると浅草寺の鐘の音が鳴る。
新造になった勝来は、菖蒲に同行して客の見送りを行っていた。
そんな中、梅乃はバタバタとうるさい妓楼の中で熟睡をしていた。
第二十話 新しい禿「……」「へっ?」 梅乃と小夜は驚いていた。「何、ボーっとしているんだい! 部屋割りと仕事を教えてやるんだよ」采は梅乃たちに言っていた。「は、はい―」 三原屋は、新しい禿を迎えいれることになったのである。(先日の客は、この事だったのか……) 梅乃は思い出していた。時を戻して三十分前、「梅乃、小夜、新しい禿になる古峰《こみね》だ。 しっかり教えてやりな」 采の言葉だった。そして古峰は 「……」 無言だった。(この娘は……声が出せないのかな? たまに吉原では変わった人はいるけど……) 「こんにちは。 私は梅乃、よろしくね♪」 梅乃は、『最初が肝心《かんじん》』とばかりに元気よく自己紹介をする。しかし、古峰は “プイッ ” と、横を向いてしまった。(はぁ? 可愛く無いヤツだな……) 梅乃が目を丸くすると、「梅乃~ そんな元気の押し売りみたいな真似じゃ、驚くよ~ 優しくよ♪」「こんにちは。 私は小夜だよ。 よろしくね~♪」 小夜の持ち味の、ほんわかした声を古峰に掛けたが……“プイッ ” また横を向いていた。「―プッ」 梅乃は吹き出してしまった。「なんなのよ~ そんなんじゃ、モテないからね~」 温和な小夜が叫んでしまうほどであった。そして一時間後、「梅乃、小夜、古峰を連れて買い物に行ってきな」 采はメモを梅乃に渡す。「じゃ、古峰。 行こう」 梅乃が声を掛けると「……」 古峰は返事をしなかった。(コイツ、殴ってもいいかな……?) 梅乃がイライラし始める。そして仲の町を歩いていると「梅乃~ 小夜~」 鳳仙楼の禿、絢が声を掛けてきた。「絢~」 梅乃と小夜は、小さく手を振る。「久しぶり~って、新しい禿?」 絢はヒョコッと、古峰を見る。「……」 古峰は挨拶をしなかった。「随分と面白いのが入ってきたね~」 絢は顔をヒクヒクさせて言うと「でしょ。 私たちも苦戦中《くせんちゅう》よ」 梅乃が呆れたように言う。「はははっ……じゃ、頑張ってね~」 絢は、そそくさと去っていった。そして、買い物をする茶屋の千堂屋に着く。「おっ、梅乃ちゃん、小夜ちゃん こんにちは」「こんにちは。 今日はコレをお願いします」 梅乃は、メモを千堂屋の主人に渡した。すると、 「梅乃ちゃん、小夜ちゃん、こんにちは。 こちらは新し
第十九話 花の蜜 「ごめんください……」 昼見世が終わりの時間、一人の来客が現れた。「はーい」 小夜が対応する。そこには二十歳くらいの女性が立っていて「私、引手茶屋の千堂屋《せんどうや》で働いています野菊《のぎく》といいます」「はい……」 小夜は不自然な事に戸惑っていた。「良かったら、此処《ここ》で働けないでしょうか?」 野菊の言葉に、小夜は驚く。「少々、お待ちください」 小夜は、采の元へ向かい説明をしていた。そして、 「なんだい? いきなりどうしたんだい?」 采も驚き、野菊に聞くと「あの……茶屋から、接客を勉強しろと言われまして、働きながら勉強できる所を探していまして……」 と、野菊は説明するが、采は困っている。「まぁ、話した事は解るが……ここで働くのは女郎だよ? アンタ、出来るのかい?」「やった事はありませんが、お願いします」 野菊は何度も頭を下げる。そして、細かい説明をした采は悩んでいた。「う~ん……」 「どうしたんだい?」 采に話しかけてきたのは文衛門であった。「お前さん……」 そして、采は文衛門に野菊の事を説明すると「なんだって? 千堂屋が? ちょっと行ってくる」 文衛門は、慌てて千堂屋に向かった。そして、文衛門は千堂屋で店主と話していた。「それって……本気かい?」 文衛門は驚いている。どうやら野菊は、千堂屋の店主の娘だと言う。千堂屋は引手茶屋である。三原屋などの大見世は、千堂屋からの紹介で来る客も多い。 そんな得意先の茶屋ではあるが、「本気かい? なんで娘を女郎にするんだい?」 文衛門は、興奮気味に話していた。引手茶屋の店主は、本気のようだ。話しを聞いた文衛門は、野菊を預かることになってしまった。「お前さん、本気かい?」 当然ながら、受け入れをした文衛門に采は、驚きと怒りさえ混じった声で叫んでいる。「あぁ、仕方ない……あの親父も、「働かせるなら評判の良い所に……」 なんて言うものだから……」文衛門が肩を落としながら話していると、「まぁ、なっちまったもんは仕方ない。 野菊、菖蒲に付いて勉強だよ」采は野菊に指示をし、一緒に菖蒲の部屋に向かった。そして、菖蒲に説明をすると「えっ? お婆……本気?」 当然ながら、菖蒲は唖然《あぜん》としていた。「よろしゅう、お頼み申しんす……」 野菊は三
第十八話 春に舞う乙女たち 正月が過ぎ、厳しい寒さを抜けて春がやってきた。 この春を境に梅乃と小夜は十一歳となる。 誰も二人の誕生日を知らない訳で、春に拾った子だからと言うことらしい。 明治初期、少しずつ江戸の名残が薄くなっていった。 世間では、奉行から警察と呼ばれるようになり姿も変えている。 「梅乃~」 声を掛けてきたのは花緒である。 「花緒姐さん、おはようございます」 見世の前に出ていた梅乃を追いかけるように花緒も外に出てくる。花緒は、以前に勤めていた近藤屋から買い取った妓女である。四人の妓女が三原屋に来たが、花緒だけが梅乃と よく話す仲であった。他の妓女より端正な顔立ちで、可愛いより綺麗タイプの妓女である。「梅乃~ 昼見世の時間、外から見て目立つように助言を貰えないだろうか……」 珍しく花緒がアドバイスを求めてきた。「あの……私、男でもないし、妓女でもありませんが……」 梅乃が困っていると、 「梅乃って、見る目あるじゃない。 少しだけでいいから~」 (花緒姐さんって、美人だけど話すと子供っぽいんだよな~ だから、なんか断りにくいんだよな~) 梅乃は困りながらも「わかりました。 後で怒らないでくださいね……」 梅乃は、念を押して承諾《しょうだく》する。そして梅乃は、花緒が目立つように張り部屋を見ていた。(こうして見ると、花緒姐さんは地味なのか?)梅乃から見た花緒は、綺麗ではあるが不思議に目立たなさを感じている。 「花緒姐さん、なんとなくですが分かります……」 「何? どんな?」 花緒が食いついてくると 「それは、華《はな》です」 「華?」「はい。 花緒姐さんは顔立ちが良いのですが、なんとなく華やかさと言うか…… もったいないと思ってしまいました」「ふむ……」「すみません。 頭にきたなら叩いて結構ですので……」 梅乃が頭を差し出す。「しないわよ! 私から頼んでおいて、出来ないわよ」 花緒は、慌てて両手を振っていた。「でも、どうしたら華やかさが出るんだろう……」「少し、外に出てみませんか?」 梅乃は花緒を外に誘って、仲の町を歩いてみた。 「ねぇ、仲の町を? どうして?」 花緒は、落ち着かない様子で梅乃の後ろを歩いていく。 「姐さんたちは昼見世の後は芸子の練習をしたりで、あまり外を歩かないじゃ
第十七話 年の瀬の騒ぎ「おはようございます」 梅乃と小夜は、早起きをして吉原を散歩していた。妓女たちは、朝の六時に客を見送る『後朝の別れ』を済ませてから寝床に入り、十時くらいまで仮眠に入る。梅乃と小夜は、子供なので夜の九時には寝ている。 朝の六時には起きて、妓女の見送りには息を潜めて邪魔をしないようにしているのだ。『後朝の別れ』が済むと、梅乃と小夜が慌てて小用に向かう。その後、時間潰しに吉原の中を散歩するのが日課だった。「もう寒いね……」「うん、早く帰ろう」 そう言って、急いで妓楼に戻る。「おはようございます。 潤さん」 梅乃と小夜は、毎朝 見世の前を掃除する片山に挨拶をする。そして、しばらくすると「梅乃……私、お腹が痛い」 小夜が言い出した。「お婆~ 小夜、お腹が痛いみたい」 梅乃が采に話すと「赤岩先生に診《み》てもらいな」 采は親指で赤岩の部屋をさした。赤岩は三原屋に住ませてもらう代わりに、全員の診察をしているのである。「ふむ……ちょっと早い気がするが……」「なんだい?」 采が聞く。「おそらく馬かと……」 馬とは、生理の言い方である。 月のもの、血の道 などと呼んだりもする。「へ~ じゃ、初馬《はつうま》かい!」 采は喜んでいた。そして、采は腹帯《はらおび》を改良して小夜の下腹部に付けた。この月経帯を新馬《しんうま》と呼んでいた。 馬の帯に似ているからとのことらしい。「小夜……大丈夫?」 梅乃は、まだ生理を知らず、痛がっている小夜を心配していると「大丈夫も何も、お前もじきに来るよ。 心配するな」 采は、そう言ったが梅乃は心配であった。翌日、小夜に出血が見られた。そして一階の大部屋では 「おめでとう~」 なんて言葉が飛び交い大部屋には、勝来や菖蒲も来ていた。(なぜ、おめでとう……なのか?) 首を傾げる梅乃と小夜であった。翌日から小夜はお休みとなった。采が『初めてだから』と言って休ませるとは、 じつに優しいお婆である。そうなると、お鉢《はち》は当然 梅乃に回ってくるのだ。「梅乃~髪結い」 「梅乃~服を押さえて~」 と、仕事が増えてきた。(クタクタだ~) 梅乃は疲れていた。そこに小夜がやってきて、「ごめんね 梅乃~」 小夜は、申し訳ない顔をしていた。「大丈夫だよ」 梅乃は、そう言って手をニギニギ
第十六話 足抜《あしぬけ》秋から冬へと向かう頃、寒さも一段と増してきていた。「梅乃、ちょっと来な」 見世の中から采が呼ぶ。「はい。 なんでしょうか?」 梅乃は、采の元に行くと「ちょっと、噂《うわさ》を拾ってきてくれないかい?」 噂を拾うとは、“吉原の中で噂を聞いてこい ” と言うことだ。大体は引手茶屋に行き、馴染みの主《あるじ》であれば噂や情報を提供してもらえるが、ここ最近では聞かなくなっていたようだ。「ウチの評判も気になるしね。 吉原細見の他にも情報がないかと思ってね~」 「わかりました」 梅乃は仲の町を歩き、聞き耳を立てていた。(確かに、子供になら口が滑ることもあるだろう……) 子供ながら、梅乃はしっかりしていた。『ヒソヒソ……』 やはり、色んな場所で、色んな事を話している人はいるものだ。その中で、気になる人たちが目に入る。そこには男性が三人いて、小さい声で話していた。そしてお歯黒ドブを指さしていたのだ。(なんかあるのか?) 梅乃はお歯黒ドブに近づき、垣根《かきね》の隙間《すきま》から外を見てみる。「なにも変わらないけどな……何かあるのかな?」 今まで気にしていなかった梅乃は、マジマジと外を見ていると「吉原の外って言っても、変わらないかな~」 そんな程度の感想だった。そして翌日、朝から梅乃はお歯黒ドブの方を見にくるとそこには怒りを露《あら》わにしている男性がいる。梅乃は、そっと近づいていく。そこから聞こえてきたのは「また足抜《あしぬけ》か……これで何件になるやら……」 そんな言葉だった。足抜とは、脱走のことである。妓女は借金を抱え、過酷《かこく》な労働《ろうどう》環境《かんきょう》の中で働かなくてはならない。そして年季が明けるまでは吉原から出る事が許されないのである。妓女が吉原から出られる方法は二つ。身請けをされて、身請け人が借金を払うのがひとつ。もう一つは、死ぬことである。病気が重く、死ぬ間際になれば実家に帰らされることはあるが、だいたいは命を落とすケースが多い。借金を抱え、身請けが出来ない妓女は吉原から出る事が出来ないのである。吉原の出入り口は一つしかない。 大門である。その大門には四郎《しろ》兵衛《べえ》会所《かいしょ》というのがある。そこには足抜をしないか見張りをする者がいる。男性は
第十五話 恋慕《れんぼ》秋になり、人肌恋しい季節になってきた。これは現代でも変わらないことであろう。「なんか、このままも寂しいわよね……」 と、ある妓女が言う。「このままって?」 「この仕事をして、年季が明けても身請けもなく、最後は河岸見世とか……」多くの妓女の悩みでもある。妓女が身請けをされるのは、花魁クラスである。 稀に中級妓女でも身請けはあるが、ほんの一握りの話しである。この時代にマッチングアプリなんていうものは無く、心を満たされる妓女は、ほぼ存在しない。妓女を身請けするというのは、男性にとっても莫大な金が必要となる。ここで妓女を指名するのは金持ちでも妻帯者が多いので、身請け出来ない男性が多い。「あぁ……私の年季が明けてからの人生はどうなるのやら……」 なんてボヤく妓女も増えてくる季節でもある。(そんなものなんだな……) 横で聞いていた梅乃は、分からない感覚であった。そして梅乃は小夜と話していると「私、わかるな~ 私だって、いつかは結婚したいもん」 小夜の願望に、梅乃は(小夜、思ったより大人なのかも……) 少し出遅れたような気持ちになっていた。ここ最近、梅乃の顔立ちがハッキリして大人びてきた。 大きい瞳は変わらないが、子供の顔立ちから抜け出してきていた。しかし、変わらないのが小夜である。クリッとした目、小さい口元など幼さが抜けていなかった。(なのに、負けた気がする……) 梅乃は、少し悔しがっていた。午後、梅乃は勝来の部屋に来ていた。そして、雑談の中から「姐さんは、誰かに身請けされたいですか?」 梅乃は、唐突に勝来に聞いていた。「そうねぇ……でも妓女になったばかりだから、そんな事は考えられないわ」「そうですよね。 菖蒲姐さんはどうですか?」「私も同じ……まだ十五だし、借金の返済が始まったばかりだもん」梅乃と小夜は、禿の仕事をしていても借金の返済にはならない。妓女として働いてからカウントされる為、禿や新造までは借金が膨らむようになっている。(途方もなく、先の話しだ……) 梅乃は、目が点になっていた。「私なんて、菖蒲姐さんの後でいいわよ」 勝来がそう言って、クスクスと笑っていた。「勝来の方が位も高いし、見つかるのが早いわよ」 菖蒲も挑発に負けじと返していた。(なんだかんだで、楽しそうだな……)