退勤十五分前、社内の空気はゆっくりと温度を落としはじめていた。パソコンの電源を切る音、引き出しを閉める音、椅子のキャスターが床を擦る音が、ぽつぽつと鳴り始める。喧騒とは違う、終わりの気配がフロアに漂っていた。
鶴橋蓮は、まだ自席で書類を整理していた。資料のチェックリストをひとつひとつ確認し、確認印を押し、今週の営業進捗をまとめる作業に集中していた。もともとこうした作業は嫌いではない。淡々と積み上げていくことで、明日への区切りが見える気がする。
そのときだった。視界の端に、細い影が静かに差し込んできた。
「今日の分です。お疲れさまでした」
低く、よく通る声が耳に落ちた。だが、その音には感情の起伏がなかった。ただ、そこにあるべき言葉を淡々と置いただけのような響きだった。
机の端に、一枚の茶封筒が置かれている。印字された宛名もなく、ただ手書きで「営業・クライアント資料」とだけ書かれていた。字は細く、筆圧の弱い、どこか躊躇いを含んだ筆跡だった。
「ありがとうございます」と、鶴橋は反射的に言葉を返したが、そのときすでに今里は背を向け、自席へと戻っていくところだった。歩幅は静かで、姿勢に無駄がない。振り返ることもなく、まるで風景の一部のように椅子へ沈み込んでいった。
封筒を手に取る。微かに紙がこすれる音がした。中身は、今日の朝会で課題として挙がっていたクライアント向けの提案資料。しかも、すでに修正と加筆が施されている。会議の議事録に沿って、ポイントが整理され、構成が刷新されていた。
だが、この作業は誰にも指示されていなかった。課長も特に言及していなかったし、役割分担の中にも組み込まれていなかった。少なくとも鶴橋自身が気づいていた限りでは、この資料を作る義務は誰にもなかった。
にもかかわらず、そこには“必要なこと”が、すでにすべて整えられていた。
(“使えへん”って、誰が決めたんやろ)
封筒を開いたまま、手の中で微かに震える資料を見つめる。ホチキスの位置は揃えられ、ページの角はきっちり折り目がついている。添付されているメモは、一枚目の余白にそっと貼られていた。そこには「三頁目
午後二時を少し過ぎた頃、三階の奥まった備品倉庫には、時間が止まっているかのような静けさが漂っていた。季節は春だが、ひんやりとした空気が棚と棚の間に籠もっている。建物の構造上、窓もなく陽射しも入らないこの空間では、外のぽかぽかとした陽気がまるで嘘のようだった。金属棚の列に挟まれたその場所に、鶴橋蓮はひとり、黙々と作業をしていた。ジャンパーの袖を少しめくり、軽く汗ばんだ額を手の甲で拭う。マスク越しに吸い込む古紙と埃の混じった空気は、薄く喉に刺さった。床にしゃがみこみ、ダンボール箱を引っ張り出しては中身を確かめる。印刷が色褪せた社内マニュアル、破れかけた請求書控え、年季の入ったバインダー。「……いつの時代やねん、これ」小さくぼやいて、使えそうな資料と廃棄対象を分ける作業を繰り返す。底がふやけた箱を持ち上げると、ずしりとした重さが腕にかかった。中はぎっしりと詰められた紙束と、大小まちまちのファイルが無造作に押し込まれていた。バインダーの角がすでに崩れかけ、どれも色褪せて黄ばみが出ていた。そんな中に、ひとつだけ妙に目を引くものがあった。色は薄い青。一般的なスカイブルーよりも、ほんの少しくすんだ柔らかな青で、他の灰色や茶色の資料の山の中では不自然なほど目立っていた。そのファイルは、ほかのもののように曲がったり埃をかぶったりしておらず、表面には手入れされたような光沢が残っている。まるで、ついさっき誰かがそこに差し込んだような存在感があった。「……なんや、これだけ浮いてんな」手に取った瞬間、微かに厚みと重さが指に伝わった。中身が詰まっているわりには、軽い。だが、整った重さだった。背表紙には何も書かれておらず、タイトルらしきラベルも貼られていない。指の腹でなぞると、表面がわずかにざらついていた。立ち上がりながら、鶴橋はそのままファイルを開いた。そこには書類ではなく、業界新聞の切り抜きが数枚、ビニールポケットに一枚ずつ丁寧に収められていた。時代を感じさせるレイアウトと、今とは違う字体の見出し。黄色くなった紙にはインクのにじみもあり、何度も読み返された形跡があった。ふと
退勤十五分前、社内の空気はゆっくりと温度を落としはじめていた。パソコンの電源を切る音、引き出しを閉める音、椅子のキャスターが床を擦る音が、ぽつぽつと鳴り始める。喧騒とは違う、終わりの気配がフロアに漂っていた。鶴橋蓮は、まだ自席で書類を整理していた。資料のチェックリストをひとつひとつ確認し、確認印を押し、今週の営業進捗をまとめる作業に集中していた。もともとこうした作業は嫌いではない。淡々と積み上げていくことで、明日への区切りが見える気がする。そのときだった。視界の端に、細い影が静かに差し込んできた。「今日の分です。お疲れさまでした」低く、よく通る声が耳に落ちた。だが、その音には感情の起伏がなかった。ただ、そこにあるべき言葉を淡々と置いただけのような響きだった。机の端に、一枚の茶封筒が置かれている。印字された宛名もなく、ただ手書きで「営業・クライアント資料」とだけ書かれていた。字は細く、筆圧の弱い、どこか躊躇いを含んだ筆跡だった。「ありがとうございます」と、鶴橋は反射的に言葉を返したが、そのときすでに今里は背を向け、自席へと戻っていくところだった。歩幅は静かで、姿勢に無駄がない。振り返ることもなく、まるで風景の一部のように椅子へ沈み込んでいった。封筒を手に取る。微かに紙がこすれる音がした。中身は、今日の朝会で課題として挙がっていたクライアント向けの提案資料。しかも、すでに修正と加筆が施されている。会議の議事録に沿って、ポイントが整理され、構成が刷新されていた。だが、この作業は誰にも指示されていなかった。課長も特に言及していなかったし、役割分担の中にも組み込まれていなかった。少なくとも鶴橋自身が気づいていた限りでは、この資料を作る義務は誰にもなかった。にもかかわらず、そこには“必要なこと”が、すでにすべて整えられていた。(“使えへん”って、誰が決めたんやろ)封筒を開いたまま、手の中で微かに震える資料を見つめる。ホチキスの位置は揃えられ、ページの角はきっちり折り目がついている。添付されているメモは、一枚目の余白にそっと貼られていた。そこには「三頁目
昼のチャイムが鳴る前から、社内にはそれとなく休憩の空気が漂い始めていた。誰かが椅子を引く音、弁当袋を開けるラップ音、雑談の第一声。いつものことだった。昼休みの始まりは、業務と業務の間の、一時だけ許された緩みであり、居場所の輪郭が色濃く浮かび上がる時間でもあった。営業部の一角では、村瀬が声を上げて弁当の中身に突っ込みを入れ、佳奈がそれを笑いながら受けている。別の席では二人組がスマホを見せ合って何か話している声が聞こえてくる。音と音の重なり合いが、昼という空白を満たしていく。そんななか、ひとりだけ別のリズムで動く人影があった。今里澪が立ち上がったのは、鶴橋が自販機横のカップコーヒーを選んでいたちょうどそのときだった。遠くない距離にあるその姿に、自然と目が向いた。今里はデスクに散らばった資料を丁寧に揃え、引き出しの中から財布を取り出した。それを上着の内ポケットに入れ、軽く身支度をする。動きに無駄はなく、しかしどこか儀式めいて見えるほど、整いすぎていた。鶴橋がボタンを押してカップが落ちる音がしたが、そのわずかな衝撃のような音にも、今里は反応しなかった。誰とも目を合わせず、何も言わずに、静かにオフィスの扉を開けて出ていく。イヤホンもつけず、スマホも持っていない。手ぶらで、ただ外へ出るためだけに歩いていた。足音は、驚くほど軽かった。革靴の底が床に吸い込まれていくようで、音を残さない。まるで、誰にも存在を気づかれないように歩く術を知っているようだった。鶴橋はカップを持ったまま、今里の背中を無意識に追っていた。ドアが開いて光が差し、背中がその向こうへ消える。誰も気にしていない。ただ自分だけが、その沈黙を目に焼き付けていた。フロアの外は、春の陽射しが眩しく、街路樹の桜がゆるやかに揺れていた。花びらが風に舞い、ふわりと今里の肩口にひとひら落ちた。肩に落ちたその花びらは、軽く揺れながら、しばらくそこにとどまり、やがて風に押されて彼の背中へと滑り落ちていく。けれど彼はそれに気づかず、ただまっすぐ歩いていく。(どこで、何食うてんねやろ。毎日、決めてんのかな)そんな疑問がふと浮かび、胸の内で消えてい
プリンターのローラー音が、乾いたリズムで鳴っていた。午前十一時半、まだ昼休み前の中途半端な時間。営業フロアの空気は、朝の忙しさを一通り過ぎたあとの、わずかな弛緩を孕んでいた。鶴橋は複合機の前に立ち、出力を待っていた。契約書類の一部を急ぎで印刷しているところだったが、機械の調子がいつもよりわずかに遅く、時間が歯痒いほどに流れていた。そのとき、背後から足音が近づいてきた。ヒールの音。一定のテンポで、軽やかに床を叩く。「おつかれさん」振り返ると、奥村佳奈が笑顔を浮かべて立っていた。細い指で髪を耳にかけながら、複合機の操作パネルを横目で確認している。「次、私。けっこう詰まってる?」「ああ、もうすぐ終わる思う。ちょっと時間かかっとるけど」そう言って鶴橋は目の前の機械を見やった。印刷はあと三枚。佳奈は鶴橋の隣に立ち、印刷が終わるのを待ちながら、ぽつりと口を開いた。「ねえ、鶴ちゃん」「ん?」「今里さんって、ほんまに使えへん人やと思う?」問いかけは唐突だった。だが、その声色には責めるでもなく、冗談でもなく、ただ純粋な“気になってる”という温度があった。鶴橋は、返事に詰まった。何気ない会話の中で、この手の質問は往々にして職場の“空気合わせ”につながる。適当に笑って「まあ、空気やなあ」とでも返せば会話は流れていく。けれど、今はなぜか、それができなかった。「…いや、ミスはあるけど」印刷された紙を受け取りながら、言葉を継ぐ。「なんかこう、“やろうとしてる”って感じはあるな」自分でも、何を根拠にそう言ったのか曖昧だった。だが、その言葉は口を突いて出たというより、心の奥から自然と流れ出てきたものだった。佳奈は鶴橋の横顔をちらりと見て、目元を少しだけ和ませた。「見てる人は見てる、ってやつやね」そう言って、軽く紙束を受け取り、操作パネルに自分のデータを呼び出し始めた。笑顔の奥にある何かを読み取るには、鶴橋にはまだ時間が足りなかった。彼はその場から離れ、資料を片手に自席へと戻って
午後一時半、昼休みが明けたばかりの社内には、まだ微かに外気のぬるさが残っていた。エアコンの風が控えめに吹き、フロア全体は淡く沈んだ空気に包まれている。電話の着信音が時折鳴り、キーボードの打鍵音が連続して響く。そのなかを、鶴橋は軽く伸びをしながら、不要書類の束を手に立ち上がった。シュレッダーにかける資料を処理しようと、短く歩き出す。その途中、視線の先にひっそりと動く人影があった。今里澪だった。自席に座ったまま、机の端に資料の束を整えて並べている。前日配布した会議用資料。その綴じの甘さを気にしたのか、今里はひとつひとつ手に取り、ホチキスの留め直しをしていた。鶴橋は足を止めかけ、そのまま少し背を丸めて資料を抱えたまま様子を見た。声はかけない。ただ、静かに、目だけを向けていた。今里は無表情だった。だが、その指の動きはどこか異様なほどに丁寧だった。紙をひと束ずつ取り上げ、留め直し、端を指先で撫でていく。そのとき、手のひら全体を使うのではなく、人差し指と中指で紙の表面をなぞるようにして、空気を抜いていくような動きをした。滑らかな仕草。だが、それは明らかに意識的なものではなく、長年の癖のように見えた。指の腹が紙の端をなぞると、静電気のような感覚が伝わってきそうだった。紙がきしむ音もせず、ただ時間だけがそこに流れていた。鶴橋はそれを、まるで映画の一場面のように感じた。日常の中の断片、それだけで心がなぜか引き寄せられる。(これ、誰も気づかへんようなとこやのに…)誰も頼んでいない作業だった。誰からも指摘されていないし、誰からも評価されない。資料の綴じが少し甘いことなど、会議では誰も気にしなかった。だが今里は、それを「放っておけなかった」ように見えた。何度も同じように紙を取り上げ、手のひらで整え、位置を合わせてホチキスを留める。ほんのわずかだが、留める角度も揃っていることに、鶴橋は気づいた。ほんのわずかなズレが、彼のなかでは“乱れ”になるのかもしれない。(この人、何にこんなに丁寧なんやろ)思わず、もう一度息を吸い込む。質問のような、独白のよ
朝の光が窓越しに差し込む時間帯、営業フロアはいつものように慌ただしく立ち上がっていた。電話のベルがひとつ鳴って、すぐに止む。その余韻に重なるように、キーボードのタイピング音や書類をめくる乾いた音が入り混じる。空調の風が均一に天井から流れ、コーヒーの香りが微かに漂う中、鶴橋蓮は自販機横の倉庫室から戻ってきた。外回りの資料を取ってくるついでに少し伸びをしたせいで、肩が微かに重い。デスクに戻ると、見慣れないファイルがひとつ置かれていた。A4サイズのクリアファイルに、緑色の付箋がひとつ貼られている。文字は細く、整った字でこう書かれていた。「進捗整理(営業チーム)・資料更新済」手に取ってページをめくると、各資料の右上には異なる色の付箋が貼られていた。黄色、水色、そして朱色。どれも重ねて貼られ、ページが開きやすいよう端がずれている。まるで階段のように見えるそれは、ひと目で目次のように機能していた。最初は気にも留めず、内容を読み進めていたが、ふと鶴橋は手を止めた。付箋の並びが、自分が過去の打ち合わせで話した順番と、妙に一致している。見込み案件から契約進行中のクライアント、その後に新規候補。無意識のうちに話しやすい順にしているつもりだったが、その順序を“誰か”が拾って並べ替えたような、そんな配置だった。(…いや、たまたま?)手に持つ書類をもう一度めくり直して確認する。中身の構成も、以前自分が社内会議で使った資料の流れに近い。会話の中で出た細かい修正希望も、すでに反映されていた。思わず、声を出しそうになる。一番最後のページを見て、さらに息を詰めた。ファイル名がPDF出力用として印刷されており、「営業チーム用(202X\_0425\_Tsuruhashi)」と書かれていた。データ作成者の名前ではなく、誰のためのものかが明記されていた。思わず椅子の背もたれに寄りかかる。背中に固い感触が伝わるなか、周囲の雑音がふっと遠のいたように感じられた。誰かが、明確に自分のためにこの資料を作った。しかも、それを「そうとは悟られないように」さりげなく置いていった。作業して