30代の疲れ気味なサラリーマン・山下遥は、乙女ゲームの世界に聖女として召喚される。だが、男の聖女に興味を持つ者はおらず、彼を選んだのは戦闘狂の騎士・コナリーだけだった。契約によって彼の痛みを肩代わりする遥は、コナリーの容赦ない戦いに巻き込まれ、激痛に転がりながら必死に支える。 やがて訪れる魔王討伐。遥のゲーム知識によって勝利を収めるが、その功績は王子に奪われて…
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30代後半の疲れ気味なサラリーマン、山下遥は、目の前の光景を呆然と見つめていた。
何がどうなってこうなったのか――理解はしている。だが、納得は到底できない。
遥は、数人の女子とともに異世界へと召喚された。
しかも、「聖女」 という肩書きを与えられ、王国の命運を左右する魔王討伐に関わることになっている。
召喚された場所は、乙女ゲーム『☆聖女は痛みを引き受けます☆』の世界。
遥は、このゲームをプレイ済みだった。
乙女ゲームと銘打たれているが、その実態は RPG部分は妙に作り込まれていて、まるで作業ゲーのようにアイテムを集めなければならない。
敵の魔王は圧倒的に強いが、特定のアイテムを全て揃えれば簡単に倒せる仕様になっている。
問題は、その アイテム収集に膨大な時間がかかる ことだった。
情報を集め、ダンジョンを探索し、一つずつ揃えていかなければならない。
まるで作業ゲーのようなプレイ感 で、ゲーム部分だけ見れば妙に完成度が高かった。
だが、ここまでがピークだった。
魔王討伐を終えると、ようやく恋愛ゲームが始まるのだが――
肝心の恋愛部分は手抜きで、頑張った報酬がしょぼい。
どのルートを選んでも、似たような展開で、最後には必ずハッピーエンド。
ライバルとの駆け引きもなければ、バッドエンドもない。
攻略対象ごとの個性は薄く、スチルはやる気のない塗り絵のようなクオリティ。
結果、ゲームとしては 「クソゲー扱いされている」 というわけだ。
遥はゲームをクリアした経験があるからこそ、この世界のことを知り尽くしていた。
そして何よりも――
「コナリー・オブライエンとは絶対に契約したくない」
これだけは、遥が強く望んでいたことだった。
聖女の役目は、契約相手の傷の痛みを共有し、離れた場所から癒やすこと。
そのため、契約相手の選択は 「いかに安全な相手を選ぶか」 にかかっていた。
聖女たちは召喚された後、教会に閉じ込められ、「聖女の訓練」 を受けることになった。
その中で、契約する騎士や王族たちの特徴を教えられ、彼らの戦闘スタイルや役割について学ぶ時間が設けられていた。
そして、聖女たちは当然のごとく、最も安全な相手を選ぶよう指導された。
王子や魔法使いといった 戦闘にあまり関わらない攻略対象 が人気となり、聖女たちはこぞって彼らを選んでいった。
そして、教会の関係者が 「絶対に選ぶな」 と言わんばかりに語ったのが、王国一の騎士 コナリー・オブライエン だった。
彼は 戦場の最前線 に立ち、敵の攻撃を受けながら戦う。
味方を庇い、自らを犠牲にすることも厭わない。
それどころか 「戦闘狂モード」 に入ると、痛みをものともせず戦い続け、HPが残りわずかになっても攻撃を止めない。
――彼と契約した聖女は、確実に地獄を見る。
当然、聖女たちは全員が彼を避けた。
遥もまた、彼との契約だけは 絶対に避けよう と思っていた。
なにせ、ゲームをクリア済みだからこそ、コナリーがどれほど 痛みに鈍感で、戦闘狂なキャラ かをよく知っていたのだ。
だが――
「男である」 というだけで、遥にはそもそも選択権がなかった。
王子や魔法使いたちは、当然のように 「女性の聖女」 を選んでいき、遥は候補にすら入らなかった。
結果として――
王子や魔法使いは女子聖女を選び、遥とコナリーだけが取り残された。
「……あー、やっぱりこうなるよな」
心の底から落胆しながら、遥は目の前に立つコナリーを見上げた。
「私と契約を交わしてくれますか、聖女?」
低く落ち着いた声。
騎士としての誇りを感じさせる堂々とした態度だが、その瞳の奥には、契約相手を選ぶ余地がないことを悟ったような諦念が見え隠れしていた。
遥もまた、選択の余地がなかった。
「……騎士のコナリー・オブライエン、貴方と契約を交わします。俺のことは、ハルと呼んでください。貴方が魔王討伐より無事にお帰りになることを、心から祈っております」
契約の儀式が執り行われ、神官が呪文を唱える。
「光の加護に導かれし絆よ。 この誓いに、真の繋がりを宿せ。 痛みを半分に。願いを二重に。運命を一つに」
淡い光が、二人の間に生まれた。
コナリーの胸元、遥の左手。それぞれに同じ紋様が浮かび上がり、柔らかく脈打つように光る。
聖女と騎士の魔法契約が結ばれた瞬間、遥の体に鈍い痛みが走った。
まるで、どこか遠くで誰かが怪我をしたかのような感覚。
「……うわ、これが契約の証かよ」
だが、その痛みは 「契約の証」 に過ぎなかった。
次の瞬間――
コナリーは 無表情のまま、突然自分の剣を抜いた。
「……え?」
何が起きたのか理解する間もなく、鋭い刃が彼の腕を切り裂く。
鮮血が甲冑の上を滴り、空気を張り詰めたものに変えた。
「ぎゃああああああああああ!!??」
転げ回ったのはコナリーではない。
遥だった。
痛い。めちゃくちゃ痛い。尋常じゃなく痛い。
傷が広がる感覚がそのまま伝わり、身体中の神経が焼け付くような衝撃に襲われる。
「なるほど、確かに痛みは共有されているようですね」
遥の苦悶をよそに、コナリーは冷静に腕の傷を見つめていた。
―― 聖女になった異世界生活、最悪の幕開けだった。
◆◆◆◆◆
◆◆◆◆◆季節はめぐり、新緑が風に揺れる朝だった。遥は、王城の正門の前に立っていた。朝の光に照らされた白亜の城壁はどこか静かで、けれど凛としていた。大理石の塔と赤い屋根瓦が連なる王城は、長い歴史とともにこの国を見守ってきた。門の内側には美しく手入れされた庭園が広がり、咲き誇る花々の向こうに玉座のある塔が見える。王城を出る最後の朝。遥は、背に大きな荷を担ぎ、静かに門を見上げていた。ここから――新たな旅が始まる。聖女という役割は、もう過去のものだ。これからは、自分の意志で選んだ道を歩いていく。「……本当に行くんだな」背後から、少し寂しげな声が響いた。振り向けば、そこに立っていたのは――ルイスだった。かつては王子、そして今はこの国の王。だがこの瞬間だけは、誰よりも一人の男の顔だった。「うん。遺跡の調査依頼をこなしながら、世界中を巡るつもりだよ。ノエルの伝手で隣国の遺跡にも行けることになったし、楽しみで仕方ないんだ。どんなお宝アイテムが眠ってるか、今からワクワクしてる」「……すっかり、トレジャーハンターだな」冗談めいた口調とは裏腹に、ルイスの瞳には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。「まさか異世界で、こんな肩書きを手に入れることになるなんてね」遥は照れくさそうに笑いながら、背中の荷を軽く叩いた。「ゲームじゃレアアイテム狙いでひたすらダンジョンに潜ってたけど……まさか現実になるとは思わなかった」ルイスは小さく笑いながらも、わずかに表情を曇らせた。「元の世界から聖女を召喚した我が国には、君たちを保護する責任がある。貴族の称号を得て、この国に残った者もいる。……遥にも、穏やかな人生を歩んでほしかったが」遥は一拍置いて、真っすぐに言葉を返す。「心配かけてごめん。でも、俺の選んだ道なんだ。後悔はしてないよ」ルイスはその言葉に静かに笑みを返す。「いや、君らしい生き方だ。……まあ、一人でトレジャーハンターをすると言ったなら、私の部屋に閉じ込めてでも行かせなかったと思うがね」「俺を閉じ込めるつもり?」遥がいたずらっぽく笑い、ルイスもつられて微笑む。そこへ、地図と筆記用具を詰めた鞄を背負ったノエルが、駆けてきた。「遥さん、準備できたよ! 最初に行く遺跡はここにしようよ。絶対に古代の秘密が眠ってるはずだから!」彼は興奮した様子で、
◆◆◆◆◆魔力の名残すら残らない封印の間に、しんとした静寂が戻っていた。だがそれは、かつての重苦しい沈黙ではない。どこか安堵を含んだ、世界の再生を告げる静けさだった。光がすべてを洗い流したあと、ルイスは静かに自らの掌を見つめていた。そこに感じるべき力は、もうどこにもなかった。異能も、魔法も――すでに失われていた。「……本当に、消えたんだな。異能が……魔法が」低く呟いた声は、実感の滲むような戸惑いと、かすかな寂しさを含んでいた。呟いた声はかすかに掠れ、喉の奥で迷っていた。それでも彼は顔を上げ、まっすぐに遥たちを見た。「俺は……王として国を導けるのだろうか。異能も、加護もないただの人間として――」その言葉に、誰もすぐには答えられなかった。コナリーですら、厳しい現実を見据えるように静かに視線を落とす。遥はそっとコナリーに下ろしてもらうと、ためらいのない足取りでルイスのもとへ歩み寄った。そして、静かに彼の掌に触れる。「……たとえ力がなくなっても、ルイスは変わらないよ。優しさも、強さも」その言葉に、ルイスは目を伏せ、小さく息を吐いた。そう言った遥の声は、どこかすべてを包み込むような大きな優しさに満ちていた。ルイスは目を細め、微かに息を吐いた。その表情には、不安が滲んでいたが、それでも前を向こうとする確かな決意が宿っていた。そんな彼の背に、そっと手を添えたのはノエルだった。親しげな仕草で、まるで「大丈夫」と伝えるように。一方で、遥とコナリーの間にも変化があった。聖女としての力を失い、契約の魔法も、痛みの共有も、本当の意味ですべてが断たれていた。それは、ふたりを結んでいた“役割”の終わりを意味している。それでも――遥は振り返り、まっすぐにコナリーを見た。そして、ためらいなく彼の胸に飛び込む。「もう、契約で繋がってなくても、俺はコナリーのそばにいたい」その一言が、すべてだった。コナリーは、ほんの一瞬だけ目を見開き、そして静かにその身体を抱きとめた。かつてよりもずっと、自然に、あたたかく。「ありがとう、遥。……それだけで、十分です」ふたりは互いの体温を確かめるように、しばらくそのまま動かなかった。やがて――かつて“魔界”と呼ばれた土地から、異能の濁流はすべて消え去った。黒き瘴気は浄化され、むしろ豊かな大地と
◆◆◆◆◆静寂が、封印の間を包んでいた。遥はそっと手を広げ、横に立つコナリーを見上げる。コナリーは静かに頷き、迷いなくその身体を抱き上げた。少年の身体は軽く、けれど確かな決意がその胸に宿っているのが、腕を通して伝わってくる。遥はコナリーの腕の中で、皆の視線を受けながら、そっと胸元のペンダントに触れた。光に消えた直人の余韻を胸に、遥は“妖精の涙”に手を添える。透明な宝玉の奥に、かすかな光の粒が揺れていた。「……いくよ」誰にともなく呟いた声は、決して震えてはいなかった。遥は目を閉じ、唇を寄せ、静かにキスを落とす。――その瞬間。眩い光が、“妖精の涙”から溢れ出した。純白の輝きが波紋のように広がり、封印の間全体を満たしていく。暖かく、柔らかく――それでいて、世界の理を揺るがすほどの強大な力が、空間の隅々にまで染み渡る。地脈が震え、空気が揺れ、大地の奥底に澱んでいた怨嗟が、苦しげな声を上げながら、静かに光に溶けていった。魔王の力――その源たる異能と怒り。かつて封じられた王族たちの呪いと嘆き。魔界に満ちていた腐りきった魔力の残滓。すべてが、浄化されていく。石化していた王族たちの像が、音もなく崩れ始めた。その顔立ちは、どこか穏やかで、まるで解き放たれることを喜ぶような表情を浮かべている。砕けた破片は、さらさらと砂となって宙を舞い、静かに大地へと還っていった。――その中心に立つふたり。カイルとレオニスもまた、ゆっくりと光に包まれていく。レオニスが、遥に向かって穏やかに微笑んだ。「私と直人を目覚めさせてくれてありがとう、遥。最期に直人に触れられ、言葉を交わせたことが、何よりの幸せだ。君に、幸多からんことを」「ありがとう、レオニス……」遥が小さく返した言葉に、レオニスは満足げに頷く。続いて、カイルが静かに口を開いた。「遥。アーシェの声に耳を傾けてくれて……ありがとう。弟と共に、感謝している。長い封印から解放してくれて、本当にありがとう」その言葉とともに、ふたりの身体が光となり、風に溶けていく。その消失は、あたたかく、やさしく、そして静かだった。遥は涙ぐみながらも、その涙をそっと指先で拭った。けれど、胸の奥には確かな痛みが残っている。その肩を、強く――けれど壊れ物のように優しく――コナリーが抱きしめた。遥の
◆◆◆◆◆封印の間に、地の底から湧き上がるような重低音が響き渡る。大地の脈動が、異能の呼応に応えるかのように、威圧的な震動を空気に伝えていた。カイルとレオニスが向かい合い、無言のまま両手を掲げる。二人の掌の間に、光の粒が集まり始めた。レオニスの身体から放たれる膨大な異能――それはまるで星の爆ぜるような煌めきで、空間すらも焼き尽くしそうなほどに強く、激しい。その暴走を、カイルの異能が静かに、しかし力強く制御する。彼の魔力が、レオニスの力に優しく輪郭を与え、流れを整え、均衡をもたらしていく。二人の足元に光が満ち、やがてそれはゆっくりと広がり、神秘的な魔法陣を描き始める。繊細な幾何学の紋様が次々と浮かび上がり、宙に舞う光環がいくつも重なっていく。中心から放たれた輝きが層を増しながら天井へと伸び、まるで天へ至る光の塔のように立ち現れた。一陣の風が吹き抜ける。誰も息を呑み、その場から動けなかった。ただ、光と力の織りなす壮麗な光景に目を奪われていた。地脈の鼓動が最高潮に達した瞬間、魔法陣の中心が音もなく裂ける。そこに現れたのは、眩い光の門だった。それは、はるか遠く――遥と直人が召喚された“元の世界”と通じる、異世界への扉。直人は、その安定したゲートを見つめながら小さく呟いた。「……魔法陣がすごく安定してる。これなら、君も戻れるかもしれない、遥」そう言って、遥へと手を伸ばす。「一緒に帰らないか? もう十分頑張ったろ」遥は瞳を伏せ、わずかに揺らす。少しの間ののち、静かに首を横に振った。「……ごめん。俺は……ここに残る」直人が目を見開く。遥の視線は、まっすぐにコナリーへと向けられていた。黙って佇む騎士と視線が合い、遥は小さく頷く。「大切な人がいるんだ。俺の“帰る場所”は、もう――あっちじゃない」直人は、ふっと肩をすくめて笑った。「そっか。……じゃあ、"妖精の涙"の起動は君に任せるよ」「え?」「俺があちらの世界に消えたら、"妖精の涙"にキスして。聖女のキスで起動するなんて、ゲーム世界っぽくて、いいだろ?」遥は苦笑しながら頷き、そっとコナリーの隣へ歩み寄る。コナリーの胸には“妖精の涙”が揺れていた。その時、レオニスが高らかに声を上げた。「――直人、繋がった! あの時間、あの場所に!」直人は、何かを確かめるように魔法陣
◆◆◆◆◆石の扉が、音もなく開いた。そこは、空気すら静止したような、深く沈んだ空間だった。地下深く、地脈の魔力が脈打つ神殿の最下層。広間の中央に佇むのは、ふたつの石像。堂々たる威厳と気高さを宿す若き王と、中性的な気配を漂わせる青年。――始まりの異能王、レオニス・ド・ルミエール――始まりの聖女、相馬直人「……ここが、封印の地……」遥は、ぽつりと呟いた。そして、そっとカイルの腕から降りると、静かに石像を見つめた。その目に、ノエルの屋敷の地下で見た幻が重なるように浮かび上がった。かつて見た“始まりの異能王と聖女”の記憶が、静かに重なってゆく。◆地下最深部、結界の中心。王と聖女は並んで立っていた。足元に浮かぶ無数の魔法陣が光を放ち、教会の詠唱が低く響く。空間全体が、古代語の呪に染められていく。聖女・直人は王の隣で微笑んだ。「また、いつか……この国が、俺たちを必要としてくれたら」「……きっと、誰かがこの扉を開いてくれる。俺はそれを信じてる」レオニスは、その声に静かに頷いた。封印の光がふたりを包み込み、魂ごと静かに凍らせていく。かすかに触れ合った指先。言葉にしなかった願い。――こうして、異能王とその聖女は、石の中に眠りについた。◆「……見える……」遥は、石像に近づき、床に刻まれた封印の魔法陣を見つめた。そこには、聖女にしか読めない光の文字が浮かんでいた。『……聖なる光よ、黄昏に囚われし魂を……いま、目覚めの地へと導き給え……』レオニスが、未来の聖女に託して刻んだ封印解除の呪文――遥は指先でそっと文字をなぞり、その言葉を静かに口にした。コナリーたちは警戒をにじませながらも、遥の意志を信じ、黙って従った。「……聖なる光よ、黄昏に囚われし魂を……いま、目覚めの地へと導き給え……」ふわりと光が広がり、石像を包む。封印の紋が淡く脈動し、絡みついていた封の光が一筋ずつ解けていく。やがて――石が剥がれ落ちるように崩れ、ふたりの姿が現れた。まず、白衣の聖女・直人が瞼を開き、続けて、冠を戴く若き王・レオニスが静かに息を吸い込んだ。長い眠りから目覚めたその眼差しは、理知的にして深く、どこか遠くを見つめているようだった。直人の視線が、遥に向けられ、わずかに揺れる。「……日本人……?」それは、半信半疑の呟きだった。
◆◆◆◆◆戦いの終わった神殿の一室には、静寂が戻っていた。アドリアンの死。剣を下ろした兵たち。言葉にできない余韻だけが、冷たい石床に残されている。その中で、遥はただ一人、砕けた指輪の破片を見つめていた。手の中にあるのは、淡く鈍い光を宿す小さな欠片。何度も命を救ってくれたもの。そして――アーシェの魂が封じられていたもの。「……ありがとう」そっと呟いた遥の声に、誰も言葉を返さなかった。ただ、すぐそばに立つカイルだけが、視線を遥に落とす。銀の髪が静かに揺れる。感情を見せないその瞳に、微かに影が差した。「アーシェは、俺の弟だ」静かな声だった。「……分かってる。あなたが、カイルなんだね」遥はそっと頷き、指輪の欠片を見せる。「この中に、彼の声が残ってた。――ずっと、あなたに会いたがってた。兄さんを、目覚めさせてって……それだけを願ってた」指輪から伝わった数々の記憶。痛みも、孤独も、そして最後の望みも――全部、知っている。カイルはしばらく何も言わなかった。けれど、ほんの一瞬だけ、目を伏せる。「……アーシェを、連れてきてくれてありがとう」その言葉は、まるで祈りのように響いた。静かで、重く、そして確かに――優しかった。遥は思わず目を伏せる。そのとき、微かに空気が震えた。――恩返しを。誰かの声が、遥の胸に響いた。アーシェのものだ。もうこの世にはいないはずの魂が、欠片のどこかにまだ宿っているように。カイルの目が、遥に向く。「……願いを言え。君の望みを」淡々とした声だったが、それは命令ではなく、真摯な問いだった。遥は、少しだけ迷ったあとで、はっきりと答える。「――始まりの異能王と、聖女に会いたい」カイルはゆっくりと頷いた。「分かった」そして、ためらいもなく、カイルは遥の身体を両腕で抱き上げた。「わっ……ちょ、ちょっと……!」驚いた遥が声を上げたが、カイルはまるで気にした様子もなく、静かに歩を進める。(あれ……?)抱き上げられた腕の中で、遥はふと違和感を覚える。アーシェとカイルは、記憶の中では少年の姿だったはずだ。それなのに――抱かれている腕はしっかりしていて、青年としか思えない体躯。強引に持ち上げられたというより、自然に包み込まれるような感覚だった。「異能って……万能かよ……」思わず小さく呟
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