やはり、こういう機会はしっかり掴んでおかなければならない。ちょうどその時、場内が一気に静まり返った。さっきまでの喧噪が嘘のように、しんと静まり返る。緒莉と辰琉は目を合わせ、二人とも胸の奥に違和感を覚えた。どうして急に、こんなに静かになったんだ?一方で、清那は思わず声をあげた。彼女には想像もつかなかったのだ。この院長がここまで考えているとは――しかも、全員の顔を写真に収めていたなんて。スクリーンには、つい先ほど紗雪の病室前に群がり、嘲笑していた人々の姿がはっきりと映し出されていた。写真は驚くほど鮮明で、スクリーンに映された彼らの嘲る顔や軽蔑の表情が、微塵の死角もなくさらけ出されている。それを見た日向も、思わず息を呑んだ。だが清那の驚きは、さらに表情に色濃く表れた。「うそ......ここまで細かいの?いつの間に撮ったの?しかも、こんな高画質で?」日向でさえ驚きを隠せなかった。彼の記憶にあるのは、当時の混乱した現場だけだ。人々は、最初は単なる野次馬根性で集まり、離れる気配すらなかった。だがその後、京弥が電話一本かけた途端、院長が現れたのだ。現れたのも突然なら、動きも迅速だった。そして今、こうして一階のロビーで事態を収めようとしている。清那の感嘆の声は、そのまま日向の耳に届いた。彼もまた、言葉が見つからなかった。こんな院長、敬服せざるを得ない。問題の処理の仕方も、誰もが納得せざるを得ないほど見事だ。日向は何も言わず、ただ黙って頷いた。清那は感心しきりで、彼の反応に気づきもしなかった。ただひとつ心に残ったのは――この院長、ただ者じゃない。これから多くを学ぶべき存在だということ。そして、院長は沈黙した群衆を見回し、思わずおかしそうに笑みを浮かべた。「どうしたんだ、諸君?さっきまではあれほど騒いでいたじゃないか?」そう言いながら、院長の視線はゆっくりと人々の顔を舐めるように巡る。「それから......さっき一番声を張り上げていたやつは?ここの写真と照らし合わせてやる。君の顔、ここにあるか見せてもらおうか」そう言って、院長は左右に視線を走らせ、さらには自ら群衆の中へ降りて行こうとする。すると、その場にいた人々は、まるでウズラのように首をすく
院長を目にした瞬間、緒莉の瞳が一瞬光った。院長が京弥に示した態度だけ見ても、二人が知り合いであることは間違いないだろう。そうでなければ、今のこの状況は説明がつかない。この院長はM州でも有名な人物だ。その院長がここまで京弥のために動くということは、彼の正体を知っている以外に説明のしようがない。他に理由なんて思いつきもしない。今、緒莉の胸中には強い好奇心が芽生えていた。妹婿が、こんなにもやり手だったとは。家族ですら知らなかったことだ。むしろ今の緒莉は、紗雪本人ですら京弥の正体を知らないのではないかと疑い始めていた。確証はない。だが、今までの出来事が、彼がただ者ではないことを告げている。だからこそこの男の所業を、すべて紗雪に知らせてやるべきだ。そうすれば、目を覚ましたときにすべてを知らないままでは済まない。少なくとも、自分の男が裏切ったことくらいは理解できる。そう考えると、緒莉の心は愉快になった。紗雪が不幸そうにしている顔を見られる、それだけでいい。たとえ後で目を覚ましたとしても、不幸でさえあればいいのだ。行動は急がなければならない。紗雪が目を覚ます前に、すべてを終わらせる。そうすれば、その後の計画も保障されるし、今のように常に神経をすり減らす必要もない。緒莉は拳を強く握りしめ、心の中で誓った。絶対に紗雪を目覚めさせてはならない。これまで積み上げてきた努力を、無駄にするわけにはいかない。紗雪が目を覚まさない今なら、どんなことも順調に進められる。ほとんど障害がない。だが紗雪が戻ってきたら話は別だ。誰からも注目されなくなり、紗雪の引き立て役になり、まるで道化のように見られるだろう。長い時間をかけて、ようやく二川グループの内部に食い込んだのに、紗雪が戻ってきたらすべてが元通りだ。そうなれば、これまでの努力はすべて水泡に帰す。挙げ句、正体が露見すれば、自分が築いてきた仮初めのイメージすら失われてしまう。緒莉は大きく息を吸い込み、そばにいた辰琉の服をぎゅっと掴んだ。騒ぎが収まったら、すぐにでも辰琉に実行させなければならない。長引けば長引くほど、計画は危うくなる。彼女の視線は階下をうかがっていた。京弥が降りてくるかどうか、それだけが焦点だ。も
彼が以前に見てきた名ばかりの院長たちとは、まるで別人だった。雰囲気そのものが違うと言ってもいい。出てきて、たった数言で人々の口を塞いでしまったのだ。その点に、日向は本当に驚かされた。だが、何にせよ役には立った。この人々は、本気で院長を恐れている。以前のいい加減なやり方とは比べものにならないほどだった。清那と日向は人混みの中に立ち、院長の言葉を見守っていた。なぜ自分たちがここに留まっているのか、二人にもわからない。おそらく、どうして人々が追い出されることになったのか、その理由を知りたかったのだろう。しかも、これまでこんな事態は一度も起きたことがなかった。だからこそ、二人とも本当に気になっていた。清那はその場に立ったまま、離れるつもりはなかった。日向は最初、清那を連れて行こうと思ったが、その様子を見て苦笑し、首を振った。まあいい。さっきまであれだけ大変なことがあったんだ。今は少しでも気を緩めさせてやろう。清那だって、ろくに事情もわからないまま巻き込まれた。日向としても、それは居心地の悪いことだった。今こうして、ようやく彼女が少し落ち着いたのを見て、悪くないと思ったのだ。その頃、人混みの中では、院長の言葉を聞いて一部の人は確かにしぶしぶ退いていった。だが、大半はまだ留まっていた。彼らにしてみれば、自分たちは金を払って治療を受けに来ているのに、なぜお金持ちの言いなりになって追い出されなければならないのか。それに、この病院は誰か個人の私物ではない。国家からの資金が投入されている病院だ。誰かひとりの意向でどうこうできるものじゃない。そう考えた誰かが、ついに声を上げた。「どういう意味です?俺たちは金を払って治療を受けに来ただけで、別に大それたことはしてませんよ。なんで追い出すんですか?」一人の男が先頭に立った。もともと皆、心の中には不満があったが、口に出せなかったのだ。だが、誰かが声をあげると、不満は一気に膨れ上がった。ざわめきが広がり、暴動寸前の空気に変わる。中には病院の受付をひっくり返そうとする者まで現れた。しかし、院長は背丈こそ高くはないが、その場に立つだけで、誰も軽挙妄動できなくなった。院長は静かに笑った。「つまり、諸君は自分たちが正
これだけ多くの人が一階に集まっているのだから、下手に恨みを買わないほうがいい。医者のほうからも、次々と声が飛んでくる。「先生、お願いしますよ!うちの母はもうこんなに年寄りなんです、追い出されたらどこに行けっていうんですか!」「そうだ、それに父の足じゃ、とても動かせやしない!」「この病院、ちゃんとお金を取っておいて、俺たちを追い出そうっていうのか?そんなの筋が通らないだろ!」「そうだそうだ、院長を呼んでこい!説明してもらわなきゃ気が済まない!」「みんな治療を受けに来てるのに、どうして俺たちだけ泊めてもらえないんだ!」看護師長は群衆を見ながら、内心で苛立ちを覚えていた。もうどれだけ引き延ばしてると思ってるんだ、この連中は疲れないのか?「いい加減にしてください!」彼女は拡声器を持ち出した。そうでもしなければ、この人たちを抑えられない。うるさい!「静かにしなさい!ここは病院よ!分をわきまえるって言葉、知らないの!?」看護師長もついにキレた。そもそもこの連中が、あの大物を囲んで騒ぎ立て、挙げ句の果てには暴言まで吐いたのだ。追い出されただけで済んだのは、むしろその大物の寛大さだろう。看護師長が本気で怒っているのを見て、群衆は一瞬静まり返った。だが、自分たちの権利は守らなければならない。ある者は、荷物をその場に置き、動く気すら見せない。「俺は知らないぞ!治療中の患者が行き場を失ってるんだ!金もちゃんと払ってる!ルールに従って治療を受けてるのに、どうして追い出されなきゃならない!」「そうだ!こんなの人をバカにしてるだろ!」「この病院は金持ち専用なのかよ!」「そうだ、俺たちは貧乏かもしれないけど、払う金は一銭もごまかしてないぞ!」あちこちから声が飛び交い、看護師長の声はすぐにかき消されてしまった。事態は厄介すぎた。看護師長にとっても、こんなのは初めての経験だった。彼女が頭を抱えかけた、その時、重く威厳のある老いた声が響いた。「金は払っただろうが、礼儀はないんだな!」その瞬間、場内は水を打ったように静まり返った。誰もが声のするほうを振り向く。看護師長は、やって来た人物の顔を見た途端、涙が出そうになるほど安堵した。「院長......!やっと来てくれたんですね!」
清那はうなずき、日向の肩を軽く叩いた。「そう思えたのなら、よかったわ」日向は肩に置かれた手を見つめ、瞳が一瞬揺れた。頭の中で何かを考えているようだった。「安心して。もし君の兄が本当に紗雪を大切にしてくれるなら、僕は絶対に邪魔しない。この気持ちは、時間に任せるよ」その言葉は、まさに完璧と言ってよかった。どこにも隙がなく、非の打ち所がない。清那でさえ、その言葉を聞いて少し胸が熱くなった。彼女は小さくため息をつく。「日向もいい人なんだけどね。出会う順番って、本当に大事なんだね」その言葉を聞いた瞬間、日向の瞳の光が少し陰った。清那は一見おおらかで無邪気そうに見えるが、実はことをよく分かっている。日向はそう感じた。表面ほど無神経ではなく、むしろ芯のある人間だ。だからこそ、時々、日向は清那を可愛いと思ってしまう。だが、そのたびに自分を軽蔑する。紗雪はまだ病室で横たわっていて、生死も分からないというのに。こんな時に、他の女性を可愛いと思うなんて......自分は最低だ。清那の言葉は、鋭い刃のように日向の胸を刺した。日向は視線を落とし、小さくつぶやく。「ああ、そうだな」来世があるなら。日向は心の中でそう呟いた。今は、ただ友人として静かにそばにいられればいい。それ以上は、何も望まない。「よし、ホテルを探そう。また来よう」日向は荷物を持ち上げ、清那と一緒にその場を後にした。ここにいても紗雪に会えるわけじゃない。時間を浪費するだけだ。清那は立ち上がり、手にしたミルクティーを持って彼の後を追う。日向が何の苦もなくスーツケースを二つ引く姿に、思わず親指を立てた。「さすがね。力持ちだわ」日向は少し笑って答える。「さ、行こうか」慌ただしくここへ来たせいで、病院に直行するしかなかった。そろそろ落ち着ける場所を探す必要がある。清那は日向のすぐ後ろにぴったりと付いて歩いた。一階に降りると、大勢の人でごった返していた。荷物を抱えた人、頭に包帯を巻いた人、脚にギプスをしている人――みんな焦った顔をしていて、病院のロビーはまるで市場のように騒がしかった。清那と日向は目を合わせ、同時に胸がざわめいた。特に清那は、直感で思った。この騒動、きっと自
「それでこそよ。私たちの目的と任務、それから共通のゴールを常に忘れないで」緒莉は身を寄せ、辰琉の頬に軽く口づけた。「ほら、元気出して。今回の薬量は二か月眠らせる分を持ってきたんだから、もうすぐ楽になれるわ」彼女は医者に頼んで薬の量を増やしておいた。そうすれば効果の持続時間も長くなり、後々効き目が切れる心配をする必要もない。このペースで注射し続ければ、まったく問題ない――緒莉はそう思っていた。「ああ、分かった」緒莉はさらに彼に何度もキスを落とした。「じゃあ、いい知らせを待ってるわ」辰琉は「ああ」と短く返事をしながらも、表情にはまだ緊張が残っていた。それでも先ほどよりはずっと穏やかで、顔色も落ち着いている。緒莉が耳元で囁いた言葉を思い出す。「これが済んだら、結婚の話も進めるわ。会長の席をしっかり確保できたら、安東家の投資ももう心配いらない。そうすれば、これから順風満帆よ」その考えがよぎった瞬間、辰琉の顔色はさらに晴れ、緒莉の腰を抱き寄せてホテルへ向かおうとした。だが、緒莉はすぐに手で制した。「今はやめときなさい。終わってからよ。まだここを見張らなきゃ。まさか京弥って男、ずっと病室から出てこないつもりじゃないでしょうね?」緒莉の真剣な表情を見て、辰琉も軽口を封じ、真面目な顔つきに変えて病室をじっと見張り始めた。......一方そのころ。清那と日向は、どうにも気まずい雰囲気だった。日向は鼻をこすりながら、気まずそうに言った。「で......僕たち、これからどこ行くかな」「もちろん、適当にホテルでも探すしかないでしょ」清那は、まるで慣れっこになったように答え、手にしたミルクティーをストローでひと口吸う。日向は眉をひそめた。「椎名さんのこと、そんなに詳しいのか?」「小さいころから大人に散々言われて育ったからね。ちょっとでも悪いことしたら、必ず兄さんを使って脅かすの」清那はため息をついた。「今でも会うと......やっぱり怖いのよ」日向は首をかしげた。「じゃあ、今こそ戻るべきじゃないのか?紗雪を会いに行くすら叶わない。他に方法を考えるしかないよ」「安心して。兄さんは、口は悪いけど根は優しい人だから......」清那は落ち着いた声で言い、少