その後、僕は絢乃さんに自分の家族の職業や、実家近くのアパートでひとり暮らしをしていることなどを話した。 父が銀行員をしていること、母が結婚前には保育士として働いていたことにも彼女は感心されていたが、もっともリアクションが大きかったのは四歳上の兄・悠が将来自分の店をオープンさせるべく、飲食チェーンで正社員としてバリバリ働いていることだった。僕としてはちょっと面白くなかったというか、正直兄にジェラシーさえ感じていた。「へぇー、スゴいなぁ。立派な目標をお持ちなんだね。桐島さんにはないの? 夢とか目標とか」 と興味津々で問うてきた彼女に、大人げなく「余計なお世話だ」とも思った。放っといて頂きたい。「…………まぁいいじゃないですか、僕のことは。今はこの会社で働けているだけで満足なので」 多分、ぶっきらぼうに答えた僕の顔にもその感情は表れていたかもしれない。絢乃さんも少々不満げだったが、もしも「昔はバリスタになりたかったのだ」と僕の夢を語っても関心を持って下さっていたのだろうか。 でも、そうなると「どうして諦めたのか」と詮索されるのもイヤだったし……。 ちなみに、彼女は今もそのことについて詮索してこない。「この会社で本当にやりたい仕事はなかったの?」と訊かれたことはあっても。 そして、このセリフはウソだが半分は僕の本心である。その当時、総務課の仕事に満足していたかといえば不満だった。総務課に配属されたことは不本意だったし、島谷氏が課長になってからは毎日不満タラタラだった。 それでも退職せず必死に会社にかじりついていた理由は、篠沢商事の平均月給が他に受けた会社よりずっと高く、福利厚生も充実していたからだ。ここを辞めたら、こんなにいい給料がもらえて待遇もいい会社にいつ恵まれるか分からなかった。 それよりも、僕にはその時、気がかりなことがあった。もし源一会長がお亡くなりになったら、この会社やグループ全体の経営方針はどうなってしまうのか、と。 篠沢グループの各社がこんなに優良ホワイト企業でいられるのが(中にはブラックな部署もありそうだが……)、源一会長の経営手腕のたまものだったのだとしたら、後継者次第で変わってしまう可能性もあった。 そして……、彼の後継者になり得るのは加奈子さんと絢乃さんだけだった。他の親族に候補者がいなければ。
「ええ、入社した時から乗ってます。でも中古なんで、あちこちガタがきてて。そろそろ新車に買い替えようかと」 僕は彼女のために安全運転を心がけながら、少し謙遜もこめてそう答えた。でも走行距離はかなり行っていたし、車検をクリアできそうになかったことも事実だ。「新車買うの? どんな車種がいいとかはもう決まってるの?」「ええ、まぁ。父がセダンに乗ってるので、僕もそういうのがいいかなぁと思ってます。現金でというわけにはいかないので、頭金だけ貯金から出してあとはローンになるでしょうけど」「そっか……。大変だね」 意気込んで決意を語った僕に、絢乃さんはそんなコメントをした。 僕は同情されるのがあまり好きではないのだが、何故か彼女に同情的なことを言われるとイヤな気持ちがしなかった。それは彼女が決してお高くとまっていなくて、その言葉の端に彼女の優しさが滲んでいたからだ。 幸いにも僕には大金をつぎ込むような趣味はないし、篠沢商事は月収が高いので貯金の額もそれなりにあった。クルマの維持費やアパートの家賃(十二万円)と光熱費やら生活費やらを引いても月に五万円くらいは貯金に回せたのだ。 とはいえ、初対面の女性にお金の話をするのも野暮なので、絢乃さんにその話はしなかった。「――ところで絢乃さん、助手席で本当によかったんですか?」 その代わりに、再度そう訊ねてみると。「うん。わたし、小さい頃から助手席に乗るのに憧れてたんだー♡」 という無邪気な答えが返ってきた。僕にはちょっとばかり意外な返答だったので正直驚いたが、彼女のような育ちの女性なら、クルマに乗る時は後部座席というのがデフォルトなのだろう。 つまり、この夜が彼女にとっての助手席デビューということだ。もっと上等なクルマならなおよかったのだろうが、それは言わないでおこう。「そうですか……。それは身に余る光栄です」「え? 何が?」 思わずポツリと洩らした言葉に、絢乃さんが反応して顔を上げた。独り言のつもりだったのだが、聞こえてしまったらしい。「絢乃さんの助手席デビューが、僕のクルマだったことが、です」 可愛らしく首を傾げる彼女に、僕は誇らしい気持ちと照れ臭さ半々でそう答えた。
「――絢乃さん、これが僕のクルマです。さ、どうぞお乗り下さい」 僕はリモコンキーでドアロックを解除すると、彼女のために後部座席のドアを開けた。「ありがとう、桐島さん。でも……助手席でもいいかなぁ?」 彼女はそう言いながら、助手席のドアに手をかけた。「えっ、助手席……ですか?」「うん。ダメ、かな? お願い」 その懇願するような眼差しがこれまた可愛くて、僕のハートはまた射抜かれてしまった。「いえ、あの……。いいですよ、絢乃さんがどうしてもとおっしゃるなら」「やったぁ♪ ありがとう!」 子供みたいに諸手をあげて無邪気に喜ぶ絢乃さん。こんな何でもない仕草まで破壊級に可愛すぎるなんて反則だ。これにやられない男はいないだろう。彼女はある意味、小悪魔ちゃんかもしれない。「では、助手席へどうぞ。ちょっと狭いかもしれませんけど」 「うん。じゃあ失礼しまーす」 彼女はクラッチバッグを傍らに置き、お行儀よくシートに収まるとキチンとシートベルトを締めた。 初めて出会った日に、狭い車内で至近距離に想いを寄せる女性がいるというこのシチュエーションは、男にとってちょっとした拷問だ。オプションとしていい香りがしていればなおさら。「――絢乃さん、何だかいい香りがしますね。何の香りですか?」「ん、これ? わたしのお気に入りのコロンなの。柑橘系の爽やかな香りでしょ? 今のご時世、香りがキツいとスメハラだ何だってうるさいからね」「そうですね」 スメハラ=スメルハラスメントの略。つまり、香りによる嫌がらせということだが、今の時代は柔軟剤の香りが強いだけで嫌がらせと言われてしまうのだ。イヤな時代になったものである。 僕も職場でハラスメント被害に遭っているだけに、この言葉にはちょっとばかり敏感なのだ。「セクシー系の香りって、あまり強いと相手に悪い印象を与えちゃうでしょ? だからわたしも香りには気を遣ってるの。元々シトラス系の香りは好きだったし」「なるほど。確かに、こういう爽やかな香りなら品があっていいですよね。僕も好きです」 逆に、どキツいセクシー系の香水は清楚な絢乃さんに似合わない気がする。お嬢さまだから、というわけでもないだろうが。「――ところで、このクルマってお家の人から借りてるの? それともレンタカー?」 無邪気に問うてきた
「はい。お母さまから直々に頼まれました。まさかこういう事態になるとは思っていらっしゃらなかったでしょうけど」「そうだよね……」 源一会長が倒れられたのは、加奈子さんにとっても想定外の事態だったはずだ。彼女はただ、可愛い一人娘である絢乃さんと僕の間に接点を持たせたかっただけなのだから。「そういえば桐島さん、お酒飲んでなかったもんね。それもこのため?」 絢乃さんは、僕がパーティーの間にアルコール類を口にしていなかったことをそう解釈した。実際はそれほどアルコールに強くないのだが、マイカー通勤をしていることも事実なのでこう答えた。「ええまぁ、そんなところです。僕、アルコールに弱くて。少しくらいなら飲めるんですけど」「そっか。わざわざ気を遣ってくれてありがとう。じゃあご厚意に甘えさせてもらおうかな」 彼女は僕に家まで送ってもらえることが嬉しそうだった。だがひとつ、僕には心配なことがあった。彼女に乗ってもらうクルマがそこそこボロい中古の軽だったということだ。 父は国産メーカーながらセダンに乗っているので、そっちを借りてきた方が格好もついたかなぁ。そろそろ車検にも引っかかりそうだし、僕もセダンに買い換えようかな。……そう思ったのもその頃だったと記憶している。「はい。……僕のクルマ、軽自動車なんですけどよろしいですか?」「うん、大丈夫。よろしくお願いします」 彼女の返事を聞いて、僕はホッとした。軽に乗っている男を見下す女性も多い中、絢乃さんは違うのだと分って嬉しかったのだ。 でも、今度買うクルマは絶対にセダンの新車にしようという決意は揺るがなかった。 僕はそこで、パーティーのために戻ってきた時、自分のビジネスバッグをロッカーに置いてきたことを思い出した。ロッカーは鍵がかけられるし、どうせ財布に大した金額は入っていなかったので盗られる心配もなかったのだ。「では、少しこちらで待っていて頂けますか? ロッカールームからカバンを取ってきますので」「分かった」 テーブル席で美味しそうにジュースを飲み干す絢乃さんをその場に残し、僕はエレベーターで総務課のロッカールームがある三十階へと上がっていった。
――と、そうこうしている間に時刻は夜八時半。絢乃さんのスマホにメッセージの受信があった。テーブルの上にカバーを開いた状態で置かれていたので、僕もチラリと画面を覗き込むと、どうやら加奈子さんに送ったメッセージの返信らしいと分ったのだが……。〈絢乃、返信が遅くなっちゃってごめんなさい! パパは寝室で休ませてます。 あなたのタイミングでいいから、閉会の挨拶よろしく。招待客のみなさんにちゃんとお詫びしておいてね〉 という最初のメッセージだけは読み取れた。が、二つ目のメッセージが届いた途端、絢乃さんは「えっ!?」という声を上げて慌ててスマホを持ち上げ、僕の目に入らないようにしてしまった。画面を二度見していたが、何か僕に読まれるとマズいことでも書かれていたのだろうか?「絢乃さん、どうかされました?」「ううん、別にっ!」 僕が首を傾げて訊ねると、彼女は思いっきりブンブンと首を横に振ってごまかした。短く返信した後ですぐにスマホはクラッチバッグの中にしまわれてしまったので(これはダジャレではない)、その時は絢乃さんの慌てた理由を知ることができなかったが、彼女の首元まで真っ赤に染まっていたのは何か関係があるのだろうか。 絢乃さんは「そろそろお母さまからの任務を果たしてくる」と言って席を立った。パーティーの閉会の挨拶を頼まれていたのだ。本当は九時ごろ終了の予定だったのだが、主役である源一会長が不在になったので閉会時刻を早める決断をしたのだろう。「――桐島さん。わたしはそろそろ、ママからのミッションを果たしてくるね」「はい、行ってらっしゃい。オレンジジュースのお代わりを用意して待っています」 絢乃さんのグラスは空っぽになっていたので、挨拶を終えて喉がカラカラになって戻るであろう彼女のために僕は再びドリンクバーへ行っておくことにした。「ありがとう」 彼女はステージの壇上で篠沢家の次期当主、そしてグループの跡継ぎらしく堂々と挨拶をして、やりきったという表情でテーブルへ戻ってきた。ように僕には見えた。「絢乃さん、お疲れさまでした。喉渇いたでしょう」「うん。ありがとう」 オレンジジュースのお代わりを美味しそうに飲む彼女を見ながら、僕もそろそろ加奈子さんからのミッションを果たさねばと思った。「……ママからの返信に書いてあったんだけど、帰りは貴方が送
――それから三十分ほど、僕と絢乃さんは美味しいケーキを食べながら他愛ない話をしていた。「――ねぇ、桐島さん。こういう個人的なパーティーを会社の経費でやるのってムダだと思わない?」 お父さまのお誕生日祝いだというのに、絢乃さんの感想は率直で辛口だった。「どう……なんですかね? 僕はそんなこと、気にしたことありませんでしたけど」 僕も素直に答えた。社会人になってから毎年、ずっと当たり前のように行われてきたので、僕も何となく「そういうものなのか」と当然のことのように受け入れていたのだが、当たり前ではなかったのだろうか?「このお祝いの会ってね、元々は有志の人たちがお金を出し合ってやってたらしいの。それがいつの間にかこんなに大げさなことになっちゃって、しまいには貴方みたいなパワハラの被害者まで出ちゃう事態になっちゃってるんだよね」「へぇ……、そうなんですか。知りませんでした」 実は本当に初耳だった。有志のメンバーだけで始めたお祝いの会がここまで大規模なものになるくらい、源一会長は人望に厚い人だったということだろう。役員になる前も営業部のエースと言われていたらしいし(これは小川先輩からの情報だ)。「だからね、わたしが将来会長になった時は、思い切って廃止しちゃおうかなぁって思ってるの」「……そうなんですか?」「うん。わたし、大勢の人から大げさに誕生日祝ってもらうの、あんまり好きじゃないから。『おめでとう』の一言だけ言ってもらえれば十分。プレゼントは……まぁ、もらえるものなら嬉しいかな」「なるほど……」 この時の僕は、その方がいいだろうなと思う程度だった。まさか、それがあんなにすぐ現実になるとは思ってもみなかったからだ。「……桐島さん、ケーキ美味しそうに食べるねー。わたし、スイーツ好きの男の人って好きだよ」「…………えっ? そ、そうですか?」 絢乃さんから天使の微笑みでそう言われた僕は、思わずドギマギした。「うん。なんか親しみ持てる。お酒ガバガバ飲む人よりずっといいよ」「はぁ、それはどうも……」 僕はどうリアクションしていいか困った。これは褒められているのだろうし、絢乃さんが好意的に僕を見て下さっていることは分らなかったわけじゃない。 でも、日比野のことがあったせいか、つい勘ぐってしまうようになっていたのだ。女性が何気なく言った言葉の裏に、