澪は表情ひとつ変えず、しかし優しげな面差しのまま、頬を二筋の涙が静かに伝っていた。青と白の縞模様の病衣をまとい、そばのベッドの縁に手をかけながら、ゆっくりと膝をついた。「樹......おばさんからお願いよ。淳也を許してあげて......あの子はまだ幼く、分別もつかないの。どうか張り合わないで」その言葉に、淳也は目を赤く染め、喉の奥から低くうなるような声を漏らした。「あいつに頼むなって言っただろ!聞こえないのか!」母子の情愛を描くこの光景を前にしても、樹の胸に湧いたのは哀れみではなかった。ただ滑稽さと、作り物めいた薄ら寒さだけが残った。澪が父の不倫相手として我が家を壊したあの日、この結末を予感すべきだったのだ。藤崎家を離れると決めたなら、なぜもっと遠くへ逃げなかった?なぜ父に見つかるような真似をしたのか。すべては、澪がわがままにこの私生児を産んだからだ。自分が生きている限り、この混血の子が藤崎家に受け入れられることは決してない。そう、決して。ちょうどその時、樹のポケットで携帯が震えた。画面を一瞥し、ためらうことなく通話ボタンを押した。先ほどまでの鋭い怒気は影を潜め、その声色は柔らかく変わった。「どうした?」電話の相手は、明日香だった。「今、どこにいるの?」「市立病院だ」樹は視線を上げ、淳也を見下ろしながら口元に冷ややかな笑みを浮かべた。短い沈黙ののち、受話器の向こうから明日香の少し弱った声が届く。その声音は、不思議なほど温かく心地よかった。「学校の近くの......あのうどん屋、覚えてる?あそこのうどんが食べたいの。ネギ抜きで」「ああ、覚えてる。すぐ行く」「うん......待ってる」通話が切れるのを確かめると、樹はゆっくりと立ち上がった。勝者のような足取りで、冷たい眼差しを淳也に落とした。「選択肢は二つだ。一つ――帝都に留まり、お前の母親が徐々に病に蝕まれ、やがて死にゆく様を見届けること。確か......あの女はもう長くない。二つ――帝都を離れ、海外へ行き、僕の許可なしに二度と帰国しないこと。ただし、その間は毎月あの女の治療費を払い、大学卒業までは面倒を見てやる」淳也の目尻には暗い色が差し、わずかに赤みを帯びていた。その瞳には諦めきれない炎が揺らめき、まるで飼い慣らされぬ野犬のよう
樹が淳也を捕らえ、地下室に閉じ込めたのには、理由がまったくなかったわけではない。ほんの少しの「罰」を与えたかったのだ。前回、明日香が失踪した際、樹はわざわざ人を手配し、徹底的に調べさせた。隣の階の住人たちは皆、淳也が明日香の借りている部屋から出てくるのを目撃し、中には口論する声を聞いた者までいた。だが、事態は彼が思っていたほど単純ではなかった。学校近くの部屋に明日香は住んでいなかったが、その部屋には帝雲学院の制服を着た生徒が頻繁に出入りしている、そんな証言があった。淳也以外に、思い当たる人物はいない。樹にとって、もはや明日香と淳也の過去などどうでもよかった。今の彼には、明日香に関してはわずかな疑念すら、到底許せなかった。病室の外で、芳江は落ち着かない様子で振り返り、ドアの前に並ぶスーツ姿のボディーガードたちを見て、即座に不穏な空気を察した。彼女はそっと携帯を取り出し、素早く番号を押した。一晩共に過ごして、この「奥さん」は思っていたほど悪い人ではないと芳江は感じていた。結局のところ、人の情はもらい物から始まる。澪から受け取った心付けは少額ながら、一日分の稼ぎには十分な額だった。明日香は芳江からの電話を受けた。病室では江口が甲斐甲斐しく世話をしており、湯気の立つ湯飲みを明日香のベッドサイドに置いた。「まったく......あなたはいつも心配ばかりかけて。無事でよかったわ。試験のことは気にしないで。まだ機会はあるから、入学試験で頑張りなさい」「......うん」明日香は淡々と答えた。感情がこもらないのは、この場にいてほしくない人物がまだ近くにいるからだ。「しっかり休んでね。何かあったらいつでも呼んで。私は外にいるから」「江口さん、ご迷惑をおかけしました」「家族なんだから、遠慮は無用よ」確かに家族だった。先週、康生と江口は結婚届を提出したばかりなのだから。康生は頑固で古風な男で、再婚を派手に祝うべきではないと考え、皆に知らせるだけで披露宴は開かなかった。そのとき、枕の下で微かな振動を感じた。江口が病室を出た後、明日香は携帯を取り上げたが、着信はすでに切れていた。表示された名前は芳江。開くと、録音メッセージが届いていた。「お嬢様、私がお世話してたあの奥さん、もう目ぇ覚ましとりますがね......旦那
遼一の声色が、低く沈んだ。明日香が入院したという報せを珠子が耳にしたのは、中村からの何気ない一言によってだった。昨夜、遼一は帰宅しなかったが、珠子の胸の奥では、すでに答えが形を取りつつあった。試験を終えて帰宅したばかりの珠子は、部屋を去ろうとした時、固く閉ざされたドアをじっと見つめた。その視線には、何を思っているのか計り知れぬ深さがあった。廊下に出ようとした瞬間、哲朗と鉢合わせになる。彼の手に抱えられた報告書の束に珠子がぶつかり、紙片がばらばらと床へ舞い散った。「ごめんなさい」珠子は慌てて頭を下げた。散らばった書類の中には、明日香のCT画像も混じっていた。「大丈夫ですよ。俺がしっかり持っていなかったので」哲朗は穏やかに笑い、膝を折って一枚ずつ拾い上げていく。そのとき、一枚の書類がふわりと康生の足元まで飛んでいった。彼が拾い上げたそれは、子宮摘出手術の同意書であり、遼一の署名が鮮やかに記されていた。康生の眼差しは、氷よりも冷たく光を失い、手に握った数珠が音もなく軋んだ。「康生さん?」と哲朗が声をかけた。返事はない。康生の視線は、常人であれば背筋が粟立つほどに冷厳だった。哲朗はわずかに口元をほころばせ、「ありがとうございます」とだけ告げた。やがて哲朗は別室で、樹に明日香の容態を伝えた。「ご安心ください。明日香さんは過労によって子宮の傷口が開いただけです。すでに止血処置は済んでおり、命に別状はありません。薬は忘れず、時間通りに服用させてください。それから......明日香さんの精神面には特にご留意を。カルテによれば、以前より重度のうつ病を患っておられたようです。本日、その発作で窓から飛び降り、自ら命を絶とうとされました」短い沈黙の後、樹は低く「ああ、分かった」と応じた。別の廊下では、千尋がエレベーターから姿を現した。哲朗は先に病室へと戻った。樹の傍らに立った千尋が報告する。「すべて調べがつきました。昨夜、明日香さんは淳也に会いに行かれたようです。澪は持病が悪化して入院し、すでに危篤の通知が出ています」樹の眉間に深い皺が刻まれ、全身から殺気が立ちのぼった。「あの母子の手口、見くびっていたな。明日香はどうやってあいつと出会った?」「昨日、澪は帝雲学院に呼び出され、その道中で明日香さんと遭遇
明日香は今回の数学オリンピックの試験に姿を見せなかった。清治は焦りに駆られ、校内を右へ左へと駆け回り、日和もまた、校門の前でひたすら彼女の姿を待ち続けていた。誰もがただ、明日香が現れることを願っていた。学校側から連絡を受け、樹はようやく駆けつけた。彼もまた、明日香が再び行方をくらませたという知らせを受けたばかりだった。樹には、この試験が明日香にとってどれほど大切なものかが分かっていた。この日のために、明日香は何日も夜を徹して勉強に打ち込み、心身を削ってきたのだ。康生もその知らせに驚きを隠せなかった。彼には地下組織時代からの情報網があり、とくに情報を売買する独自のルートを持っていた。今では地下の世界とはほとんど縁を切っているが、その網はまだ生きていた。樹が人探しを頼めば、康生なら三十分もかからずに消息を掴めた。携帯に届いたメッセージを確認すると、康生は眉をひそめ、短く息を吐いた。「ご安心ください。明日香は昨夜、桃源村で遊んでいて軽い怪我をしただけです。今は遼一が病院で付き添っていますので、ご心配なく」「病院?どうして明日香が病院にいる!」樹の背後で話を聞いていた千尋は、胸の奥に嫌な予感を覚えた。今回の件で、明日香は決して簡単には許さないだろう、そう直感した。試験終了まで、残り十五分。微かな人声が耳に届き、明日香はゆっくりと瞼を開けた。ぼやけた視界が少しずつ鮮明になり、頭上には透明な点滴チューブが揺れていた。......私、まだ生きているの?最後の瞬間、遼一に腕を引き上げられたことは覚えている。だがその時には、もう意識の縁が遠のいていた。ドアが開く音がして、幻かと思った。だがそこに立っていたのは、樹だった。彼はそっと彼女の手を握りしめた。「遅くなって、ごめん」紛れもなく樹の声だった。幻覚でも夢でもない。彼の手のひらの冷えた感触が、現実を告げていた。明日香は感情の色を失った瞳で、淡々と彼を見つめた。「いいのよ」彼女は顔を横に向け、窓の外の眩しい陽射しをただ見つめた。「この二日間のことだけど......」樹はぽつりぽつりと語り出した。南緒がサラ金に借金を背負い、体で返済を迫られていたこと。自分が最も暗い時期を過ごしていた頃、南緒が傍にいてくれたこと。そして、昔の恩を思えば見捨てる
明日香のその様子を目にした瞬間、遼一の胸中に、これまで覚えたことのない苛立ちが込み上げた。「明日香......言ったはずだ。これはまだ、始まりに過ぎないと」低く落ち着いた声の奥に、凍りつくような冷たさが滲む。「お前の、その薄っぺらい同情心と、余計なお節介さえなければ、何も起こらなかったかもしれない。どうせ変えられないのなら、受け入れた方が楽だと思わないか?」遼一は指先で明日香の長い髪を弄びながら、耳元に囁いた。「全然良くない!触らないで!」明日香はヒステリックに叫び、肩を振り払った。その時、ドアが二度、軽くノックされた。「おいおい、喧嘩は愛情を削るぞ。一旦休戦したらどうだ?」哲朗の声だった。「遼一、少し話がある。出てこい」遼一は一瞥だけ明日香にくれると、ゆっくりと立ち上がり、病室を出た。病室の前で、哲朗は手元の診療記録のページをめくっていた。「知ってたか?明日香は以前、重度の鬱病を患っていた」「......それで?」遼一の素っ気ない返しに、哲朗はわずかに眉を上げ、彼が何も知らなかったことを悟ったようだった。「つまりだな、鬱病患者は感情を安定させるために薬が必要なんだ。さもないと......」言葉の途中で、廊下を通りかかった看護師が息を切らしながら駆け寄ってきた。「新垣先生!大変です、患者さんが......飛び降りようとしています!」二人は同時に振り向いた。明日香は椅子を踏み台にし、すでに窓枠に身を乗り出していた。遼一は反射的に駆け込み、その光景を目にした。ためらいの欠片もなく、明日香の体は外へ傾いていた。哲朗は冷ややかな目で、その様子を見守っている。こんなにも早く、限界が来るとはな。明日香......たとえ樹がいても、お前は彼から逃れられない。お前が味わった苦しみなど、あの子に比べれば取るに足らん。間一髪、遼一はその手首を掴んだ。ここは十五階。落ちれば命はない。明日香は、ほとんど絶望の色を帯びた瞳で遼一を見上げた。その衝動には前触れがなく、鬱病の重篤な症状が露わになっていた。鬱病患者は死を恐れず、むしろそれを解放と考える。死は、甘い誘惑を囁く悪魔のように、何度も何度も脳裏に姿を現す。明日香は、自分に死の衝動を抱かせまいと必死に戦ってきた。だが、この行動だけ
明日香は、遼一という男の冷酷さの底知れなさを見誤っていた。どれほど必死に懇願しようとも、彼が赦しを与えることなどありはしないのだ。無表情のままなすがままに薄絹を纏わされ、最後の一枚を身につけたとき、明日香は有無を言わさず彼の膝の上に乗せられた。その薄絹は、すでに熱を帯びた蜜で濡れそぼっていた。遼一はその蜜を指で掬い取ると、雪のように白い明日香の胸へと塗りつけた。「欲しくなったか?乞え。さすれば与えてやろう」それが、二人の間の取引。だが、たとえそんなものがなくとも、今日この場から逃れられぬ運命であることは、明日香自身が誰よりも分かっていた。明日香は自らの身体を抱きしめ、小刻みに震えていた。窓は固く閉ざされているというのに、肌を刺すような寒さが身に沁みる。三十分以上も肌を晒され続けた唇は、すでに血の気を失い、青紫色を帯びていた。解き放たれた欲望のままに、遼一は明日香に繰り返し悦楽の頂を与えたが、そのたびに彼女の下腹部を灼けつくような痛みが襲った。やがて体勢を変えさせられ、明日香は両手を壁に縫い付けられる。そして、その両脚の間に、彼の熱く巨大な存在が押し込まれた。意識が途切れる最後の瞬間、目の前で無数の光の花が咲き乱れ、弾け飛んだ。腰を支えていた手が離れると、明日香の脚から力が抜け、冷たい床へと崩れ落ちる。そのまま、彼女の意識は闇の底へと沈んでいった。時計の針は、とうに午前三時を指していた。浴室から現れた遼一は、何事もなかったかのようにシャツの釦をひとつひとつ留めていく。その佇まいは非の打ちどころのない紳士そのもので、彼は床に倒れ伏す明日香を冷ややかに見下ろした。「着替えろ」身じろぎもしない明日香に、遼一の黒い瞳が険しく細められる。その視線の先で、彼女の脚の間から流れ出した一筋の鮮血が、彼の瞳に焼き付いた。「痛い......」かろうじて漏れる明日香の呻き声。遼一は思考を巡らせる間もなく、手早く明日香の身体を清めると、コートを羽織らせて車を病院へと走らせた。けたたましい着信音に叩き起こされた哲朗は、ずきずきと痛むこめかみを押さえながら、眼鏡を外した。「頭のネジでも飛んだか?こんな夜更けに叩き起こすな」遼一の胸に、久しく忘れていた恐怖という感情が疼きとなって甦る。やりすぎた、のかもしれない。遼