「行かない」啓司の声は平板で、感情の起伏を感じさせなかった。ちょうどそのとき、電話が鳴った。紗枝からかと一瞬思い、受話器を取ると聞こえてきたのは、鈴の甲高く甘えた声だった。「お兄さん?お義姉さんが牡丹別荘から出て行っちゃったから、私ひとりじゃつまらないの。お兄さんの世話をさせてよ。警備員に門を開けさせてくれない?」わざとらしい口調に、啓司は微塵も表情を動かさず、短く言った。「世話は要らない」そう言って電話を切ると、すぐにスマホを牧野へ差し出した。「ブロックしろ」「承知しました」牧野は手際よく操作を済ませた。その頃、入り江別荘の前にいた鈴は、再度かけ直しても話し中の音しか返ってこないことに苛立ちを募らせていた。紗枝が会社に行ったのではないかと思い、彼女は黒木グループへ向かった。だが到着してみると、受付から思いがけない一言を告げられた。紗枝はここ数日、休暇を取って出勤していない。「なによ......この女、勝手に休んで......!」紗枝のオフィスで、誰もいない空間に向かって、鈴は思わず悪態をついた。「......今なんて言った?」背後から声がして、鈴の体がびくりと震えた。振り返ると、そこにいたのは拓司。相変わらず端正な顔立ちに、にこやかな微笑を浮かべている。けれど、彼のその微笑みに、鈴は得体の知れない寒気を覚えた。「た、拓司さん......!別に、何も言ってないよ......ただ、お義姉さんが急にお休みなんて、ちょっと不思議だなって思っただけで......」慌てて取り繕う鈴に対し、拓司は一歩ずつ距離を詰めながら、口元に笑みを浮かべたままじっと見つめてくる。その視線だけで、鈴の背筋は凍りついた。世間が知っているのは、啓司の冷酷さばかり。だが、拓司の裏の顔その腹黒さと計算高さを知っている者は少ない。かつて幼い鈴が淡い恋心を抱いた彼に、恐怖を植えつけられたあの事件を、鈴は決して忘れられなかった。「最近ずっと、紗枝の世話をしていたんだろ?じゃあ、なぜ彼女が休んでいるのか知らないはずがない」淡々とした語調の中に、かすかな威圧が混ざる。鈴はうつむき、指先でスカートの裾をいじりながら、小声で答えた。「し、知らない......お義姉さん、昨日帰ってきたと思ったら、急に荷物まとめて出てい
牧野は紗枝の前まで歩み寄ると、どこか気まずそうな表情を浮かべながら口を開いた。「奥様、申し訳ありません。昨夜、社長から『花を用意しろ』と指示を受けまして......これらの花は、すべて私が手配したものです」紗枝がまだ何も言わぬうちに、隣にいた梓が目を見開き、思わず声を上げた。「わざとやってるの?私怨でやってるんでしょ!」その剣幕に牧野は少したじろぎながらも、彼女の方を向き、声を落とした。「梓ちゃん......そんなこと言わないでくれ。これも仕事なんだ」「仕事?こんなのがあなたの仕事?紗枝に白と黄色の花なんて、何を狙ってるのよ。誰を怒らせたいわけ?」梓はずっと、こんなひどい花束を大企業の社長が妻に贈るはずがないと信じていた。だが、今になってようやく気づいた。まさか自分の婚約者が、その花を用意した張本人だったなんて!いつも「啓司の右腕」だの、「首席秘書」だのと偉そうに言っていたくせに。「昨夜は遅くて、本当に眠気が限界だったから、部下に任せたんだ。まさか、こんな物を用意するなんて......」「また人のせい?」梓はすかさず言葉をかぶせた。その口調には、怒りというよりも呆れが混じっていた。「梓ちゃん、君は僕の彼女だよ」牧野はため息をついた。知り合って数日の紗枝に、ここまで肩入れするとは......一方で、紗枝はというと、怒りに満ちていたはずの心が、目の前で口論を繰り広げるバカップルのおかげで、すっかり冷めてしまっていた。「......誤解なら、いいわ」その一言に、牧野は胸をなでおろした。「すぐに花をすべて処分させます」「待って。全部捨てるなんてもったいないわ」紗枝は彼を制した。「花びらを摘んで、乾燥させて......夜、お風呂に入れるの。せっかくだから、そういう使い方にしましょう」「はい、承知しました」牧野は素直に頷いた。そのやり取りを見届けて、梓もようやく安心した表情を見せた。「紗枝、じゃあ私は仕事行ってくるね。夜、一緒にお風呂入ろう」「いってらっしゃい」紗枝は柔らかく微笑んで送り出した。「お風呂」という単語が耳に入った瞬間、牧野の脳裏に浮かんだのは、梓の入浴シーンだった。いけない、こんなこと考えてる場合じゃない。早く彼女をこっち側に戻さなければ。その思いが
「呪い......?何の話だ?」啓司には、まったく心当たりがなかった。もし本当に紗枝を殺そうとしているなら、こんなまどろっこしい方法を取るはずがない――そう、本気で思っていた。「自分で送った花、見たでしょ?家の前にずらっと並べて......白や黄色の花ばっかり。あれ、どう見ても呪ってるみたいじゃない!」紗枝の声はわずかに震えていた。妊娠中の情緒不安定のせいかもしれない。けれど、白や黄色の菊が死者を弔う花だということは、常識の範囲だ。啓司は何も言わず、無言のまま通話を切った。その画面を見た瞬間、紗枝の怒りはさらに燃え上がった。怒りを抑えながら、そばにいた梓に聞いた。「ねえ、私......考えすぎかな?」梓はきっぱりと首を振った。「そんなことないよ。ヒナギクなんて贈る人、いるわけないでしょ。ハクチョウゲならまだしも」「......そうよね。怒らないようにしなきゃ。怒ると赤ちゃんに悪いもの」紗枝は大きく深呼吸をした。鬱を患っていた頃、医者に言われた言葉がふと脳裏をよぎる。「怒るより、怒らせた方が精神的にいい」と。まずは逸之を学校に送ってから、改めて啓司に言いたいことを言おう。そう心に決めた。玄関を出ると、雷七がすでに車を準備して待っていた。逸之を後部座席に乗せ、紗枝はいくつか注意事項を伝える。出発前、逸之がそっと紗枝の手を握った。「パパは......きっと、わざとじゃないよ。だから、怒らないでね」「うん、大丈夫。ママ、ちゃんとわかってるから」紗枝は微笑みながら答えた。子どもにまで気を遣わせるようなこと、もう二度としたくなかった。逸之を見送ったあと、紗枝は改めて啓司に電話をかけた。今度はすぐに出た。「すぐに牧野が行く」啓司は先ほど、部下の牧野に連絡し、事情を聞いたうえで紗枝のもとへ向かわせていた。「牧野が来て......何するの?離婚協議書でも届けに来るの?」紗枝の声には、氷のような冷たさが宿っていた。「昨日のことは......誤解だった」啓司は一拍置き、言葉を続けた。「お前が妻として、ちゃんと子どもを育ててくれるなら......俺は離婚しない」その一言を聞いて、紗枝はようやく理解した。自分が、なぜあの頃、鬱になったのか。啓司は自分の過ちを、決して過ちとして認めない。
翌朝早く、紗枝は目を覚ますと、逸之と梓のために朝食を用意した。洗面を終えた梓がリビングに戻ってくると、テーブルいっぱいに朝ごはんが並んでいた。肉まん、海老入りの茶碗蒸し、味玉に焼き餃子。「紗枝、これ全部あなたが作ったの?」梓が目を輝かせてそう尋ねると、紗枝はにっこりとうなずいた。「うん、どうぞ、召し上がって」「うわぁ......美味しそう!私って本当に幸せ者だわ」梓はうきうきと椅子を引き、逸之が部屋から出てくるのを待って、三人で朝食を囲んだ。「私ね、毎朝起きられなくて、いつもコンビニで適当に買って済ませてるの。こうして誰かが朝ごはん作ってくれるなんて、夢みたい」豪邸に住んで、気の合う友達もできて、しかも美味しい朝食つき。梓は今、幸せの絶頂だった。「夜、帰ってきたら夕飯も作ってあげる」紗枝がにこやかに言うと、「やった!今日早めに仕事終わらせて帰るわ。私も手伝うから」と梓は笑顔で返した。紗枝も、かつては料理が苦手だった。でも、啓司の影響で少しずつ覚えていったのだ。彼が美味しそうに食べてくれる姿を見るだけで、満たされた気持ちになれた。今では、誰かに「美味しい」と言ってもらえるだけで嬉しくて、また作りたくなる。「ママ、梓さん、僕も手伝うよ」逸之も元気よく手を挙げた。「じゃあ、今夜はみんなで料理しましょ」紗枝は優しく笑った。家の中は和やかで、穏やかな時間が流れていた。まるで本当の家族のように、三人が並んで座って朝のひとときを楽しんでいた。そのとき、玄関のインターホンが鳴った。紗枝は立ち上がり、モニターを確認する。画面には、邸宅の前にずらりと並んだ数台の車の姿が映っていた。「ちょっと見てくるね」スリッパを履いて外へ出ると、梓と逸之もあとに続いた。門の外には、スポーツカーが何台も停まっていて、その車には小さな花が大量に積まれていた。少し離れた場所からその様子を見た逸之は、思わずつぶやいた。「......バカパパも、たまにはいいことするんだな」ボディーガードたちは揃いのスーツに身を包み、車のトランクから花束を降ろしては、邸宅の前に整然と並べていく。その光景は、どこか異様だった。「何してるの?」紗枝が近づいて尋ねると、「奥様、これは社長からの贈り物です」と、ボディーガードが恭しく答え
逸之が夏目家の旧宅に連れ戻されたとき、彼は小さく首をかしげながら尋ねた。「ママ、なんでここに住むの?」紗枝は彼の頭を優しく撫でて、微笑んだ。「ここもね、私たちの家なの。しばらく住んでみようか。そのままだと、埃まみれになっちゃうから」「ふーん......じゃあ、パパはいつ引っ越してきて一緒に住むの?パパに会いたいな」紗枝の表情が一瞬曇った。しかしすぐに表情を整え、いつもの優しい声で答えた。「パパは今、病気なの。元気になったら、また一緒に暮らせるわよ」逸之はその変化を敏感に察知していた。バカパパがまたママを怒らせたに違いない。布団に身体を沈めながら、ぽつりと呟いた。「パパが早くよくなりますように。そしたら、家族みんなでピクニック行けるもんね......」数日前、ママが景之おじさんと電話していたとき、キャンプやピクニックの話をしていたのを、彼はちゃんと覚えていたのだ。紗枝はその言葉を聞き、そっと逸之を抱きしめた。でも、どう慰めればいいのか、分からなかった。今の啓司は、離婚を言い出している最中だ。母子三人でのピクニックどころか、一緒に食事すら断られるに違いない。それを考えると、胸の奥がひどく痛んだ。やがて逸之が寝静まったのを見届けると、紗枝はそっと部屋を出た。だが、彼女が去った直後、逸之はぱちりと目を開け、布団の中から時計型の電話を取り出した。ひそひそと布団の奥に潜り込んで、啓司に発信する。バカパパは記憶をなくして、わからないことも多いだろう。だからこそ、自分が助けてあげなくちゃならない。車の中で携帯が鳴ったとき、啓司は何気なく通話ボタンを押した。そして、受話器越しに聞こえてきたのは、甘えるような声だった。「バカパパ」啓司は反射的に切りそうになったが、その指を一瞬だけ止めた。そういえば、自分には息子がいたのだった。「......要件は?」冷たい声で、まるで部下に話しかけるような調子だった。だが逸之は気にする様子もなく、生意気な口調で言い返した。「またママを怒らせたでしょ?引っ越したんだよ、元のおじいちゃんの家に」啓司は、自分が完全に悪かったと自覚していた。調べもせずに紗枝が浮気したと決めつけ、離婚届にサインするよう迫った。あれは、自分の早とちりだった。「今日は遅い。明日.....
牧野は静かに言葉を継いだ。「すでに手配してあります。昨日、奥様が美希を見舞った際に何があったのか、詳細を調べさせています」その言葉を聞いた啓司は黙り込んだ。自分が紗枝を誤解していたのは、どうやら事実らしい。だからこそ、彼女はあれほど激怒し、花瓶で自分を殴ったのだ。「......紗枝は、今どこにいる?」「おそらく、牡丹別荘に戻られたかと」啓司はこめかみを押さえながら、苦痛に耐えるように目を閉じた。「出てくれ。少し休みたい」「では、離婚の件は?花城さんがまだ外でお待ちですが」最近調子に乗っている牧野の言い方に、啓司は苛立ちを隠せず、不機嫌そうに言い放った。「帰らせろ」「かしこまりました」牧野が退出すると、啓司は独り静かに部屋に残された。休むと言ったものの、気が立って眠れる状態ではなかった。長い逡巡の末、啓司は再び立ち上がり、部屋を後にした。廊下を抜けると、まだ牧野が残っていた。「......行くぞ。牡丹別荘へ」その言葉に、牧野は心の中で密かに確信した。社長は記憶を失っても、やはり奥様を想う気持ちは変わっていないのだ。「はい、すぐに車を手配します」桃洲の空は気まぐれで、今は霧雨がしとしとと降り始めていた。牡丹別荘に到着する頃には、すっかり夜の帳が下り、空には重く厚い雲が垂れ込めていた。車が別荘の敷地に滑り込むと、啓司はすぐに降りた。「啓司さん、お帰りなさい」最初に出迎えたのは、他でもない、鈴だった。だが啓司は彼女に目もくれず、ただ一言だけ口を開いた。「......紗枝は?」鈴はその言葉に、露骨に不機嫌な顔を見せた。「お義姉さん、今日はちょっと様子が変でした。昨夜は一晩中帰ってこなかったし、今日戻ってきたかと思えば、急に荷物をまとめ始めて......行き先を訊いたら、『あなたに関係ない』って冷たく言われました」そう言い終えた鈴は、不満げに言葉を続けた。「啓司さん、あの人のこと、甘やかしすぎじゃないですか?私たち黒木家の人間にも、全然敬意を払ってないように思えます」だが啓司は、彼女の後半の愚痴など一切耳に入れていなかった。すぐに牧野へと振り返った。「......電話をかけろ」「はい」牧野もまた、鈴の存在をまるで見ていないかのように振る舞った。突然の無視に