好きな人の隣に立てるのはどうして一人だけなんだろう? 隣には右と左の二つあるのに…… 結婚相手が二人まで可能となった世界線で恋をする連作短編集 わたしは誰の後ろめたさを感じることもなく、世界のすべてに祝福されながらこのヴァージンロードを歩いている。 その先で優しくわたしを迎えてくれるのは、学生時代からずっと一途に想いつづけていた彼――。 と、その妻。
View More正輝がマンションを出て行く日、彼は優しく微笑んでいた。 「空良、朋絵。今までありがとうな…… その…… 何かあったらいつでも声を掛けてくれ。離婚しても俺は真斗の父親だということには変わりないんだし…… できることならなんだって力になりたいと思ってる……」 「うん…… ありがとう……」 今までの様々な出来事がフラッシュバックして、思わず泣きそうになる。正輝の最後にかけてくれた言葉が心にしみて、すべてを許してしまいそうになる…… 今までそうやって何度この男は朋絵のことを騙し続けてきたことだろう。 まったく。朋絵はいったいこの男のどこをそんなに好きになってしまったんだろう…… 正輝の出て行ったマンションの部屋はアタシたち残された家族にとって少し広すぎて、ずいぶんと静かに感じる。……もうずっと正輝はこの部屋にあまり帰ってきていなかったというのに…… 昼下がりの天気の良いリビングのソファーに朋絵と二人で深く腰掛ける。 目の届くところにベビーベッドがあり、かわいい我が子、真斗がすやすやと眠っている。 テレビのワイドショーではしきりに不正を働いて逮捕された産婦人科医の事件が報道されていた。確定申告の時期の少し前に妊娠していない女性に偽の妊娠証明書を書き、母子手帳をもらうことで多額の税金を逃れることを手伝っていた。ある程度の期間が過ぎれば死産の証明を書いて一時的な税金を免れようとしていたらしい。 政府が少子化対策のために導入した出生軽減税率や重婚制度は、結果として愛のない結婚や責任のない出産を多く生み出す結果となってしまい、女性を子供を産むための装置にまで貶める結果になってしまった。 ――しかしそれだけではない。 少なくともアタシにとっては…… テレビをリモコンで消し、昼下がりの部屋にはかすかな町の喧騒と子供の寝息だけしか聞こえない。 わアタシの隣に座る朋絵がアタシに寄り添い、その肩を抱きしめて熱い口づけを交わす。舌と舌を絡ませ、お互いの粘液に愛を伝道させる。 あの日…… 正輝がアタシと離婚したいと考えていることを朋絵に聞かされた時、アタシはすべてを朋絵に話すことにした。 「アタシね、朋絵のことが好きなの!」 「うん、知ってるよ。わたしも空良のこと、ずっと前から好きだよ」 「あのね、アタシが言っているのはそ
「……修羅場、ってやつか」 この期に及んでまだ軽口を叩けるとはいい度胸だ。アタシ達二人の視線を見て、あまり和やかでない空気を察したか、正輝さんはそれっきり黙り込み、向かい合うアタシ達より少し上空の何もないところに視線を置く、珍しく両膝の上に手を置き(ここからは確認できないが多分握っていると思う)、少し震えているように見える。「えっとー……」普段はしっかりしているキャラを演じているつもりのアタシだったが、いざこういう時になるとはっきりと言葉を出せなくなった。しばらくして、見るに見かねた朋絵が替わりに口火を切った。ずっと優柔不断で頼りないタイプだと思っていた朋絵が以前よりも頼もしく感じられるようになっていた。女は子を産むと強くなれるものだ。守らなければならないものがはっきりするから、何をしなければならないのかもはっきりする。――男はまるで駄目だ。ことさら正輝のような人は自分が父親になったという自覚がなさすぎる。朋絵はつまらない天気予報を流すテレビの電源をリモコンで消し、左手をひらいてアタシの膝の上に、右手は固く握ってテーブルの上に置いた。「正輝さん……」その言葉で正輝さんは視線を朋絵に向ける。目線を合わせるではなく、彼女の目の少し上に視線を向ける。「まずね、これだけは言っておくわ。正輝さんはこの家を出て、その女性と一緒に住むべきよ」「え……」 正輝さんにとってはその言葉が少し意外だったようで、丸くした視線を少し下におろした。その時初めて朋絵と視線が合う。その瞬間に獲物を捕らえたかのようにその水晶体をぐっと睨み付け、二度と視線を外せないようにする。もし、外せばその次の瞬間には取って食われてしまうぞとでもいいそうな空気で。 正輝からすれば、少し意外だったのかもしれない。従順で御しやすいと思っていた朋絵に手をかまれたのだ。「その女性は前の旦那さんと離婚して、そのあとどうやって子供を育てるつもり?」「そ、それは…… 実家に帰るつもりだろう……」「それでいいと思ってる? いい? 子供にとって父親と言う存在はぜったいに必要だと思うわ。それがたとえ血の繋がっていない父親であっても、血のつながっている祖父母なんかよりもずっと大切な存在。わかる?」 こくり。とうなずく正輝さん。――うそつきめ。わかっているならなぜいつも真斗をほったらかしにして不倫なんてしていたのだ。と、言いたいところだ
彼女が、誰のことを見ているのかはすぐにわかった。 アタシが、彼女のことをずっと見ていたからだ。 中学生時代からずっと親友だった朋絵が高校に入って恋をした。 内気な朋絵はその恋の相手、重光正輝を遠巻きからずっと眺めているだけで積極的な行動はしなかった。遠くから熱いまなざしを向け続け、自分の中で煌々とその身を焦がす朋絵。あたしはそれを好ましい状況とは思えなかった。 放っておけばいつかは冷める恋だったのかもしれない。 だけれども、短絡的なアタシは積極的な行動に出た。 狡猾なアプローチで重光正輝を朋絵から奪った。 いつか襲い掛かるかもしれない彼から朋絵へと向けられる毒牙から朋絵を守った。 正輝に対する嫉妬の炎をまるで自身の恋心だと自分自身を騙すように正輝に向けた。 決して正輝のことがキライだったわけじゃない。それ以上に朋絵のことを好きだっただけだ。 朋絵のことを、一人の女性として愛していただけだ。 自分のやっていることに嫌気がさし、何度か身を引こうとしたこともある。 正輝と離れて都会の大学に進学し、すべてを清算しようとしたこともある。 都会での就職に負けたアタシは田舎へ戻り、地元の小さな出版社に就職した。 朋絵が、「帰ってきてほしい」と言ってくれたからだ。 しかし、目の前で朋絵と正輝が仲良くしているのは我慢ならなかった。 再会した正輝は朋絵と交際しているにもかかわらず、アタシにも関係を迫ってきた。「妊娠したかもしれない」 ちょっと困らせてやろうと言っただけの言葉に、正輝は大喜びをした。 朋絵と別れ、アタシと結婚すると言い出したのだ。 ――責任をとる。 たぶんそういうことではなかったのだろうと思う。 就職を前に、アタシとの間に生まれてくる子供による、出産軽減税率が欲しかったのだ。 お腹が大きくなってからウエディングドレスを着るのは嫌だと言ったら、急いで式をあげようと言い出した。生まれてくる子供のためと、若いながらも少し大きめのマンションを購入した。 式が終わってから、流産したと嘘をついた。 アタシが妊娠したということはまだ誰にも言っていなかったので、妊娠のことは二人だけの秘密の出来事として闇に葬られた。 結婚してからも、正輝さんはあまり積極的に子供をつくろうとは言わなかった。たぶん、あたしのことを気遣っていてくれたのだろう。 アタシ自身も、あまり男性とセックスをす
「問題ないだろう? どうせ空には俺の子を産むことはできないんだ。別に結婚している意味なんてない。」 正輝さんは言葉を続ける。 きっと彼の中でわたしの意見なんてはじめから聞く必要なんてなくて、従順なしもべであることを期待している彼はわたしの反論なんて想像もしていなかったのだろうと思う。「だからと言って、その女の子どもは正輝さんの子どもと言うわけでもないんでしょう?」 予想もしていなかったであろうわたしの反論に少しだけたじろぐ正輝さん。 一瞬だけ息をつまらせたが、さすがの彼はそんなことでは躊躇しない。「結婚して、俺の子だということにすれば出産軽減税率の対象にもなるだろう? 今、俺も社長になって収入が増えたし、このまま高い税金払い続けるよりもその方が節税にもなるんだよ」「――だ、だからって、何でそうやって空良のことを追い出さなくっちゃ……」「別に俺は空良のことを追い出そうなんて考えてなんかいない。ただ、離婚するだけだ。理子(受付の女の名前だ)と結婚をするために…… それに理子とは別居婚にするつもりだ。だから別に空良を追い出す必要なんてない。今までどおりここで一緒に暮らせばいいんだよ。誰も損なんかしない。なあ、朋絵。お前からその…… 空良に話をしてもらえないだろうか。その……離婚についてだ」 ――わたしの中で正輝さんに抱いていた理想と言うか、憧れと言うか、そういったものが一度に崩れ去っていくのがわかった。 今は、結婚の話をしている。 愛についての話だ。 それを、彼はいつの間にかお金の話にすり替えた。 ――挙句。散々自分の好きなようにやって、めんどくさいところだけわたしに押し付けようとしているみたいだった。そもそも正輝さんにとっての結婚ってなに? 子供は税金を安くするためのツールでしかないの? あなたは本当に父親なのか? なぜ毎晩家に帰って早く我が子の顔を見たいと思わないんだ! 血の繋がっていない空良は毎日家に帰る度、いの一番に真斗の顔を見ているのだ。空良の方がよっぽど父親らしいじゃないか。 大体その受付の女の話は本当なのか? 本当だとしたらあんたはそのDV男の子を身ごもっている女を抱いていたのか? 想いは次から次へとあふれ出てしまいそうだったがそれらすべてを一度内に閉じ込めた。閉じ込めたうえで「分かった。空良に話してみる」とだけ返事をしておいた。
「正輝さん。浮気しているでしょう?」 二人きりの時に思い切って質問したわたしの言葉に、正輝さんの答えはわたしの想像した以上の回答をした。「浮気じゃないよ。……本気だから」 聞けばどうやら会社の受付をしている若い女らしかった。何度かあったことがあるが、それはそれは嫌な女だった。普段仕事での態度はクールで仕事ができる女に見えなくもないが、イイ男を見れば色目を使って甘い声を出すいけ好かない女だ。 大学を卒業すると同時に見合いで結婚した旦那さんは結婚するやいなや彼女に対し暴力をふるうようになったという。離婚をしようと考えもしたが、そのことでまた暴力を振るわれるのが怖くて言いなりな生活をしていた折、暴力亭主の子を身ごもった。正輝さんはそのことで相談に乗っているうちにそういう関係になったという。「そのDV亭主とは離婚させようと思う。どうせそんな奴に彼女の子を養う能力なんてないだろう?」「……で? だからどうだっていうの? 正輝さんはどうしたいっていうの?」「どうしたいって…… わかるだろう?」「わからないわよ。そんなこと」「結婚しようと思う。生まれてくる子を俺の子と言うことにして」「正輝さんはもう、二人と結婚しているのよ。三人とはできないわ。こんな世の中じゃ不倫なんて言葉死語になりつつあるけれど、さすがに二人と結婚している正輝さんがほかの女性に手を出せばそれは不倫になるのよ」 めずらしく正輝さんが目を反らした。 いつもなら自信たっぷりで、横暴ともいえる理屈でさえもためらわず発言する彼のその行為はあきらかに自分に火があることを無視できない証拠だ。 黙ったまま横を向き、窓の外のなんでもない風景を見つめながらテーブルの上において手の爪先でコンコンと天板を叩いたのち、静かに彼は言った。「……空良とは離婚しようと思う」「え……」 はじめから、それが決定事項であったかのように、誰にも相談していないその結論だけをさっそうわたしにつぶやいた。 言ってしまって、彼の中で何かが吹っ切れたのだろう。コンコンと音を立てていた爪先を止め、ぐっと軽い握りこぶしに変えた正輝さんはようやくこちらに向き直り、わたしの瞳をぐっと見つめてきた。 まるで、わたしにその意見に同意することを求めるように…… それは、かつて恋をした力強い瞳。 恋愛に臆病で、積極的になれなかったわたしを否応なく引っ張ってきた瞳。 わたしは
いつまでも出会ったころと変わらない恋人同士のままで…… 誰もがかつてはそう信じてやまなかったはずだ。 だがそれも子供ができるまでだ。わたしと空良は真斗を愛し、育児にいそしむあまり正輝と枕を並べる夜は目に見えて少なくなった。 それは空良にしても同じことだったようだ。わたしたち夫婦は互いに愛し合いはしていたものの夜の営みはなくなっていった。「正輝…… 浮気してるんじゃないかしら……」 ふいに空良がそんなことを言い出した。たしかに最近帰りが遅くなったというのはあるが、それはあくまで仕事が忙しいからだと疑うことすらなかった。正輝さんはその頃、会社の社長に就任していた。以前に働いていた会社の上司と共同で起こした小さな会社だったが、社長をしていたその上司はすべて正輝さんに任せると言って引退した。若くして会社を任された正輝さんが仕事が忙しくて奔走しているという話は頷けた。 帰りが遅く、食事も外で済ませることがほとんど。会社に泊まることも多く、家に帰らない日が続く。 空良もまた、浮気を疑いはしたもののそれ以上そのことに踏み込もうとはしなかった。 彼女もまた、仕事に面白さを感じるようになっていた。 子供が産めない体であることを会社に告白した空良は、次々と重要な仕事を与えられるようになった。 これまで、妊活の姿勢を崩していないと判断されていた空良はいつ出産を理由に退職するかわからないと思われていたふしもあり、長期にわたる企画にはあまり参加させられないでいたが、今回の件で会社はもともと実力のある空良にどんどんと仕事をこなしてもらうようになった。あるいは空良に同情して、少しでも多くのプロジェクトに参加させようとした会社の意向があったのかもしれない。 地方の小さな出版社で主に雑務ばかりをこなしていた空良にも、好きに書いてよい記事のスペースが与えられ、正輝さんがどこで誰と浮気をしているのか、気にもとめていない様子だった。その頃のわたしは育児をしながらずっと自宅で家事をこなしていた。外で働いている空良は仕事から帰り、まっさきに真斗の寝顔を確認する。空良と二人で食事をとって、その日一日の出来事を語り合い、子供の世話をする。子供の夜泣きには二人で対応した。 正輝さんが家に居なくてもわたしたちは真斗と三人で一つの家族として成立しており、不満を感じることもなかった。 空良が正輝さんの浮気を疑い
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