もういいからとっとと来なさいと電話を切ってから、ものの十分ほどでこんこん、とノックの音を聞く。
鍵を開けて外を覗くとデカい図体をそこはかとなく小さくさせて、陽介さんが立っていた。「……何をしてるんですか貴方は。明日から仕事なんだから、今日くらいゆっくりしていれば」
「だって、ゆっくり会えるのは今日だけだって思ったら、やっぱ会いたくて。それに」
「それに?」
「……慎さんがなんか隠し事してる気がして」
「隠し事……って、いうか」
ただ、友人と会う。
隠し事と言っても、その相手が翔子さんで、話を聞かれたくないという、ただそれだけなんだけど。 しょぼん、と眉尻を下げながら、その手にもった紙袋からほんわりと良い匂いをさせている。 その姿を見ると、なんだかすごく僕が酷いことをしたような気になって来る。「陽ちゃん、いくらなんでも彼女縛り過ぎなんじゃないのー?」
「げっ?! 翔子?!」
僕の後ろからひょっこり顔を出した翔子さんに、陽介さんはあからさまに驚いて一歩退いた。
「と……友達って、翔子、っすか」
「そうだけど。他にいるわけないでしょう?」
「じゃ、私は帰るね! 神崎さん、今度ランチ行こうねー!」
「はい是非」
陽介さんと入れ違いに出て行く翔子さんが、僕の背をぽんと叩く。
「神崎さんと並んで歩いたら、真田さん妬いてくれるかなぁ」
と、何か厄介なことを考えている気配をさせつつ帰って行った。
なかなかに、彼女の相手となる男性は大変そうだと思う。「な……何の話を、してたんすか」
「色々と。それより、良い匂いですね」
陽介さんの持った紙袋の口の端を指で引き、中を覗く。<
【高見陽介】慎さんが、少し変だ。『あと、少し』『もう少し……』慎さんから唇にキスしてくれて、たどたどしく唇を舐めるその誘惑に、俺はものの見事に陥落した。最初はそれでも、舌を交互に舐め合っては様子を見ていたはずなのに、気付けばカウンターに彼女を追い詰めるようにして退路を塞ぎ、手はがっしり首筋を抑えて貪るような口づけをしていて。ん、ん、とくぐもった小さな声に漸く唇を解放したものの、理性はまだどこか遠くにぶっ飛んだまま。赤く火照った唇が濡れていた。どくどくと血が体中をめぐるのを感じながら親指で拭うと、飲みきれなかった唾液の筋が唇の端から首へと伝っているのを見つけて、吸い寄せられるように顔を埋める。俺の服を握る、慎さんの手が震えていることに気付かなかった。滑らかな首筋に舌を這わせると、びくびくと肩を強張らせる。それを、首筋が敏感なのだと頭の中で都合よく変換して、短い息の繰り返しを聞きながら、肌を吸いながら辿って上がり耳の淵を舐めあげた。瞬間、「ひっ……」と、空気を吸い込むような小さな悲鳴が耳に聞こえ、我に返る。自分が今、何をしているのかを、鼻を擽る肌の匂いと視界に広がる榛色の髪に知らされ、冷水を浴びせられたようにすっと身体が冷えた。「すんませっ……!」慌てて捕まえていた肩を引きはがして一歩下がる。腕の長さの分だけ空間が出来て、慎さんは握っていた俺のジャケットを離してゆるゆると自分の胸元に寄せていく。その手が震えているのを見て、更に血の気が下がった。「俺っ……」「や……大丈夫」いや、大丈夫なわけないだろ、何やってんだ俺。慌てて彼女の顔を見る。泣いているに違いないと思っていた俺は、彼女の熱を孕み潤んだ瞳に息を飲んだ。肩が小さく上下しているのが、息遣いが乱れていることを示していてまた身体を熱くする。でも、間違いなく震えてる。これ以上は無理なのはありありと目に見えていて。わかんねえ!でも止まらないとダメだ!発情した男には毒にしかならないその表情から、顔を逸らして強く目も瞑り。「……ほんと、すんません! 頭冷やして来ます!」みっともなく、彼女を放置してトイレに逃げ出してしまった。洗面所の冷水で顔を洗ってそれでも足りなくて、流しに頭から突っ込んだ。やっちまった、なにやってんだ俺。今まで怖がらせないように、安心しても
もういいからとっとと来なさいと電話を切ってから、ものの十分ほどでこんこん、とノックの音を聞く。 鍵を開けて外を覗くとデカい図体をそこはかとなく小さくさせて、陽介さんが立っていた。「……何をしてるんですか貴方は。明日から仕事なんだから、今日くらいゆっくりしていれば」「だって、ゆっくり会えるのは今日だけだって思ったら、やっぱ会いたくて。それに」「それに?」「……慎さんがなんか隠し事してる気がして」「隠し事……って、いうか」ただ、友人と会う。 隠し事と言っても、その相手が翔子さんで、話を聞かれたくないという、ただそれだけなんだけど。 しょぼん、と眉尻を下げながら、その手にもった紙袋からほんわりと良い匂いをさせている。 その姿を見ると、なんだかすごく僕が酷いことをしたような気になって来る。「陽ちゃん、いくらなんでも彼女縛り過ぎなんじゃないのー?」「げっ?! 翔子?!」僕の後ろからひょっこり顔を出した翔子さんに、陽介さんはあからさまに驚いて一歩退いた。「と……友達って、翔子、っすか」「そうだけど。他にいるわけないでしょう?」「じゃ、私は帰るね! 神崎さん、今度ランチ行こうねー!」「はい是非」陽介さんと入れ違いに出て行く翔子さんが、僕の背をぽんと叩く。「神崎さんと並んで歩いたら、真田さん妬いてくれるかなぁ」と、何か厄介なことを考えている気配をさせつつ帰って行った。 なかなかに、彼女の相手となる男性は大変そうだと思う。「な……何の話を、してたんすか」「色々と。それより、良い匂いですね」陽介さんの持った紙袋の口の端を指で引き、中を覗く。
「……それは、どういう」意味だ?と眉をひそめる。「見ててわかるもん。神崎さんと居る時の陽ちゃんのあまったるーい砂糖漬けみたいな顔。私は見たことなかったよ」ぽくぽくぽく、とポッキーが彼女の口の中に消えていく。話の合間で、彼女が小さく「これ苦いね」と呟いた。そしてもうひとつ、今度は別のチョコレートを手に取る。「今付き合ってる人ってさぁ、普段は全然優しくないの。何があっても仕事優先だし仕事の話の時は私のことなんか綺麗に忘れられてるし。でも、一緒に居るときすごーく甘い表情見せてくれて、私も多分、そうなんだと思う。あ、これが恋なんだなあって、実感できた。陽ちゃんにそんな甘い気持ち、持ったことも見せたこともなかったんじゃないかなぁ」「こないだは浮気されてるかもーって泣きそうだったじゃないですか」「それはだって!やっぱりほっとかれると寂しいのは仕方ないじゃん!恋するが故なの!」僕の言葉に、彼女は少し唇を尖らせて「ほんとは信じてるもん」と反論する。そんな表情は確かに、恋する女性だと思った。「で、例えばの話、私が真田さんに出会うより前に、神崎さんと陽ちゃんが出会ってたら、どうなってたと思う?」「……どうもこうも、きっとただの店員と客だったと思いますが」よくも悪くも一直線の陽介さんを見て、浮気だとか心変わりとか、思い浮かばなかった。だけど翔子さんは、違うと思う、と首を振る。「私がフラれてたと思う。私みたいに軽いノリの別れ話じゃあなかっただろうけどさー」「そんなことは」「絶対だよ。陽ちゃんにとって神崎さんは特別。私に真田さんが特別なのと一緒」
「昔、ちょっと怖い思いをしたことがあって。寸前で逃げては来たのですが……そういったことにはどうしても恐怖感があって」「そうなんじゃないかなあ、とはちらっと思ってた。いくら外見が男っぽいからって、男のフリして生活するのってよっぽどだと思うもんねえ」ん、と差し出されたポッキーを受け取って、別に食べたくもないのだけどなんとなく口にくわえる。少しビターな味だった。「陽介さんは知ってるので、すごく慎重に接してくれてはいるんですけどそれでは何一つ、進めない気もして」「神崎さんは、陽ちゃんとそういうことしたいとは思うんだ?」「と、聞かれるとわからないんです。したいかどうかなんてしたことないからわからないし、でも……男の人はしたいものなんじゃないか、と。…………ね、ねちっこいって、貴女も言ってたじゃないですか」僕がちょっと恨めしそうに視線を向けると、「あ!」と彼女は口許を抑えてバツが悪そうに目を逸らした。「ごめん。私無神経なこと言ったあ」「……いえ、別にいいですけどね、それ以上詳細は知りたくありませんが」「もー……私、自分はそういうの聞かされても平気なもんだから、つい自分も喋っちゃうんだよね」「僕は聞きたくありませんからね!」「わかったわかった。で……陽ちゃんがねちこいのに我慢してるんじゃないか、と」「……僕は、したいかと聞かれるとわからないけど、陽介さんにだけ我慢ばかりさせるのは、違うでしょう?」それでは、陽介さんにばっかり負担がかかる。最初はそれで良くても、いつか絶対無理も生じるんじゃないかと思ってしまう。翔子さんは、んー、と小さな唸り声を上げ、黙り込んでしまった。「……すみません、難しいですよね」「んー? うん、難しいのは難しいんだけどね……私は私の意見を言うべきなのかどうか、迷ってる」「どういう意味ですか?」「うん、だって。そういうのって、人それぞれ絶対違うと思うから正解なんてどこにもないと思うの。だから、私の意見を言って神崎さんが気にし過ぎたりすると、余計に逆効果になったら怖いもん」「……それぞれ、ですか」「それぞれだよ。短大の友達にもいたよ、電車で痴漢にあってからそういうこと全部気持ち悪くなって彼氏と別れたとか。でも、私は面倒くさくて暫く放置してた方だけど」「は……ほ、放置?!」「スカートまくり始めたとこで、足踏んづけた
―――――――――――――――――――――――――――正月三箇日を終えてすぐの四日は、月曜で店は定休日だ。実質、営業は明日からになる。陽介さんの仕事始めも、同じ五日からだと聞いた。つまり正月休みの最終日となるその日、約束通り、ちょうど昼の時間に携帯がワンコール鳴らされる。それが翔子さんからのものだと確認してから、店の扉を開けた。「やほー! 来たよ、神崎さんあけおめー」「おめでとうございます。いいから早く入って」呑気な彼女を店に引っ張り込んでから、扉の外を一度確認してすぐに閉め、即刻鍵をかけた。「なになに? なんでそんな警戒してんの?」「いえ……陽介さんが来るかもしれないと思って」結局この年末年始、今日以外の全日陽介さんとは顔を合わせていたというのに、僕が今日は友人と会うからと断ったら、彼は思いのほかしつこかった。今まで僕から友人という言葉を聞かなかったからというのもあるのだろう。何時ごろですかとか、終わったら会えますかとか、友人って誰ですかとか。疑ってるというわけではないんだろうけど、爪弾きのような雰囲気を感じ取ったのかもしれない。さすがの嗅覚である。だがしかし、今日だけは陽介さんを同席させるわけにはいかないのだ。「よーっし、じゃあ今日はいっぱいしゃべろーっ!」翔子さんが持ってきたおやつをテーブル席いっぱいに広げていて、僕はホットコーヒーを二つ、隙間を見つけて置いた。「で、神崎さんは何を聞きたいの? 陽ちゃんのこと?」と、いきなり核心を突かれて面食らう。どうしてわかったんだ、と顔に出たんだろう。「だって! 女が、女友達を欲しがる時って恋バナしたい時じゃない?」余りにも図星過ぎて、ぐうの音も出なかった。だけど、いざ話すとなると何から話せばいいのか、わからない。「……恋バナ、っていうか。相談したいことがあって」「あ、はい! 相談ってことは内緒話? 陽ちゃんにだけ内緒? それ聞いとかないと、私ホイホイ喋っちゃう方だからさ」「ホイホイは困る!」恐ろしいことを言うな!とにかく今日話すことは二人だけの秘密で、とお願いすると彼女はビシッと敬礼をしてみせた。「おっけー。内緒って言ってくれてたらちゃんと守るよ。私馬鹿だからさー、判断つかないの。ちゃんと言っといてくれたら言わないよ」彼女が自分を滑稽に見せ乍らそう言うので
ひゅる、と冷たい風が吹いて寄り添うように身体の距離も近くなる。二人同時に近づいて目が合うとほわっと温かくなるような笑顔が浮かんだ。「すみません、夕方の新幹線だなんて嘘ついて」「大丈夫っすよ、きっと元旦の夜なんて空いてますって」そうしてまた、僕の手を引いて歩きはじめる。手を繋ぐことには、いつのまにかすっかり慣れた。キスにも慣れた。それ以上のことも、ようはきっと、『慣れ』なんだろう。大丈夫、ちゃんとわかってる。今触れているこの手は陽介さんのもので、彼は僕に乱暴なことはしないとちゃんとわかってる。だから、きっと大丈夫だ。「……神戸観光でも、しますか?」「え、今からですか? したいけど、新幹線の最終って何時でしたっけ」「遅くなっても、どこか……泊まれる、とこ、とか」しどろもどろにそう言うと、「え」と戸惑った小さな声が聞こえた。「……新神戸の駅、とか。泊まれるとこ、あったと、思って」無駄に静かな通りが、憎らしかった。心臓の音まで、聞こえてしまいそう。彼が、こくんと、喉を鳴らした音まで、聞こえてしまった。しかし、そこから余りにも反応がないものだから、もしかして意味が通じてないのかもと不安になってくる。だ、だとしたら恥ずかしいことこの上ない。いや、意味が通じてないのならさっきの発言に深い意味などなかったことにしてしまおう。かああ、と頭に血が上った状態で、冷や汗が滲み出てもう限界だと思ったとき。「そんなこと、言われると。俺、めっちゃ調子に乗ってしまいそうですけど……」