「そうか。ならば用はない」
人影はまた剣光を放ち、男の喉を瞬く間に突き刺した。
刃の先に注がれた剣気と鮮血が入り混じり、不気味な血腥さが漂う。 人影の口元が僅かに動いた。「必ずや…この手で見つけ出し、遺恨を晴らす…」
人影は、苛立ちを込めた表情で剣の柄を力強く握り締め、地鳴りを轟かせるように地面を穿った。
・ ・ ・ 翌日。 蘭瑛《ランイン》は賢耀《シェンヤオ》がいる宮殿で、痙攣するかのように顔を引き攣らせていた。「ねぇ、お願い!一緒に永徳館《よんとくかん》へ来てよ。蘭瑛先生がいてくれたら、きっと永憐《ヨンリェン》兄様も許可してくれるから〜」
どうしても永憐の稽古に参加したい賢耀は、蘭瑛同席なら、稽古に参加してもいいんじゃないかと、打診してきた。
賢耀の身体はもうほぼ回復していた。 しかし、異様な回復劇だったものの、まだ回復してから二日しか経っていない。 蘭瑛は悩みながら梅林《メイリン》と顔を見合わせる。 梅林は大きく息を吸いながら、頬に手を当てながら呟いた。「そうねぇ〜。とても元気そうだけれど…。永憐様が何ておっしゃるか…」
「ん〜、ですよね…」
蘭瑛は目尻を垂らし、困り顔で続ける。
「それに…私のような部外者が永徳館へ行ったら、怒られませんか?」
「それは問題ないと思うわよ。毎日、黄色い声が飛び交っているから」
梅林はクスクスと笑っている。
(黄色い声?虫か何かか?)
女の熱烈な感情に疎い蘭瑛は、その声の主が何か分からず、首を傾げた。
賢耀は吹き出すように高笑いし、「行ってみれば分かるよ」と言った。蘭瑛は賢耀に、半ば強引に連れて行かれ、仕方なくといった様子で、永徳館へ向かうことになった。梅林は食材を取りに行くと言って、途中で別れた。
宋長安の宮殿内はとてつもなく広大だ。少しでも迷ったら、客室どころか藍殿にすら戻れないだろう。蘭瑛はキョロキョロと辺りを見回しながら、進んだことのない道を、賢耀たちに続いて歩いていく。 しばらく進むと、区切られた敷地内にある立派な木造の建物から、木刀のぶつかる音が何層にも連なって聞こえてきた。その奥では、物珍しそうな芸を見るかのように、宮殿内の女たちが、目を光らせて集まっている。 蘭瑛はその光景に思わず目を瞠った。 すると、突然。耳を劈くぐらいの拍手と歓声が沸き起こった。『キャア〜!永憐さまァ〜!』
「……」
(黄色い声というのはこれのことか…)
蘭瑛は思わず、苦虫を噛み潰したような顔になる。
永憐が袍や髪を揺らすたび、黄色の拍手喝采が起こり、中には興奮のあまり手拭いで目元を抑える者もいるではないか!(立っているだけで女を泣かせてしまうなんて…。なんて罪深い男なんだ…)
蘭瑛はやれやれといった様子で、賢耀の話に耳を傾ける。
賢耀曰く、以前は立ち入りを制限していたが、何度対策を講じても、覗き見する女子たちが後を絶たない為、今は邪物の訓練も兼ねて解放しているらしい。 「ね?凄いでしょ」賢耀は入り口の前で靴を脱ぎながら、蘭瑛に白い歯を見せた。
すると、永憐が賢耀たちに気づいたようで、こちらに向かって歩いてくる。 蘭瑛は賢耀の後ろで、永憐に向かって拱手をした。「耀《ヤオ》、もう大丈夫なのか?」
「もう平気だよ!永憐兄様。今日は、蘭瑛先生も連れてきたからいいでしょ?」
永憐は蘭瑛の顔をチラッと見た。
そしてすぐに、賢耀に目線を戻し、続ける。 「今日は剣の稽古だ。賢达《シェンダー》は握れるか?」「大丈夫だよ!ほら」
賢耀は、自分の剣を横向きにして楽々と鞘から抜き出した。ふと蘭瑛の目に、剣の根本に何かが刻まれているのが見える。
(『賢达《シェンダー》』というのは、皇太子殿下の剣の名前なのか〜)
綺麗な篆書《てんしょ》で彫られた文字を眺め、蘭瑛はまた目線を元に戻す。
当然ながら剣に疎い蘭瑛は、今からどんな稽古が始まるかは全く見当もつかない。とりあえず「無理はしないように」とだけ、背後から賢耀に伝えた。ここにいる者が全員、襟元を正し始める。
永憐と向かい合うように弟子たちが座り、挨拶を交わす。 永徳館の中は厳格な空気が流れ始め、こうして厳しい稽古が始まった。蘭瑛は一番後ろの壁面の前で、賢耀の様子を観察することになった。永憐は、賢耀を気遣ってか身体を使った激しい稽古ではなく、術の霊力で剣を操れるかどうかの稽古を始めた。剣を浮かせたり、手の動きで剣を上に持ち上げたりと、皆がそれぞれ鍛錬している。しかし、賢耀の観察を続けていると、賢耀だけ剣を手元に引き寄せることができず、剣を何度も床に落としてしまっていた。賢耀の霊力が極端に弱っていることに気づいた蘭瑛は、目の前の様子を紙に綴った。
永憐は賢耀に向かって声を張り上げる。
「耀!賢达をこちらに飛ばしてみろ!」
「うん!行くよ!永憐兄様」
賢耀は剣を浮かせ、利き手を伸ばして「飛べ!」と言うが、飛ばす力も弱く、永憐の手元に届く前に落ちてしまった。
「…霊力が弱っている。まずは、霊力を回復させてからだ。今日は瞑想し、全身の経脈を整えろ」
永憐はそう言って、落ちた賢达を拾い、賢耀に渡した。
賢耀は、自分の霊力が低下していることに酷く落胆し、最初の意気込みは全く消え失せてしまった。 肩を落とした賢耀は賢达を持って、蘭瑛の横に腰を下ろす。「ねぇ蘭瑛先生…。霊力はどうしたら戻る?」
「…ん〜、そうですね…。まずは、永憐様の仰るように経脈を整えましょう。手首を一度、お借りしてもいいですか?」
「うん、いいよ」と言って賢耀は、袖を捲って蘭瑛に右手を差し出した。
蘭瑛は、賢耀の右手首に自分の人差し指と中指を当て、経脈に触れようとするが、やはり経脈の流れを感じられない。「どう?」
賢耀の言葉に、蘭瑛は首を横に振った。
「そっか。じゃ、瞑想を頑張るしかないね」
賢耀は袖を元に戻し、遠いものでも見るかのように、永憐の姿を眺め始めた。
目の前で繰り広げられている激しい稽古を見ながら、賢耀は続ける。「瞑想も大事なんだけどさ〜、今は永憐兄様の動きを観察していたいんだよね〜。ほら見てよ。あの俊敏さと鮮明さ。どうやったらあんな風になれるのかなぁ〜」
賢耀の言葉に促された蘭瑛は、目線を永憐の方に向ける。
先の先まで動きが読めているのか、永憐は俊敏に降りかかってくる弟子たちの剣先を、何度も飛ぶように躱し、「遅い」「まだまだだ」「ぶれている」「弱い」と、冷たい一言を次々と放つ。 誰一人と、剣先を永憐に掠めることすらできないでいると、永憐は穏やに弟子たちを見守っていた宇辰《ウーチェン》を、前に呼び出した。「しっかり見ていろ」と弟子たちに言い残し、永憐は宇辰の前で、持っていた自分の剣を鞘から引き抜いた。
「お!永冠《ヨングァン》だ!」
隣にいる賢耀が、目を光らせて言い放った。
「ヨングァン?」と蘭瑛が言い返したあと、目線は永憐に釘付けのまま、賢耀は口だけを動かす。「うん。あの永冠《ヨングァン》っていう剣はね、かつて剣豪と呼ばれていた冠月《グァンユエ》という人が使っていた剣で、あの最凶の玄天遊鬼《げんてんゆうき》を滅多刺しにして、封印したと言われているんだよ。特殊な剣で、剣が認めた者しか鞘から抜けないんだって。ようは鍵付きの剣ってやつさ」
「へぇ〜…」「あれで斬られたら、普通の人間なら即死だよ」
その一言に、何故か蘭瑛は両親のことを思い出した。両親を斬った剣も、永憐の持っている永冠のように鋭く光っていた。
瞼を閉じれば、今も鮮明に思い出せるあの光景━︎━︎━︎━︎。(両親を斬った人は、今も宋長安のどこかにいるのだろうか…)
ふと、蘭瑛は永憐を見る。
一枚の花弁が儚げにふわりと舞うように、永憐は袍をはためかせ、宇辰の一撃を躱した。その姿は四大美人の一人と言われた西施《さいし》のように、とても美しかった。永憐の稽古が事なく終わり、蘭瑛は永徳館から自分の部屋に戻ってきた。賢耀の弱くなった霊力を補えるように、何か手立てが無いか、蘭瑛は出発前に借りた遠志の小さな本を捲り始めた。
(何の薬を飲まされていたんだろう…。毒の種類まで判明できたら良かったんだけどなぁ〜。それにしても、霊力と体力を同時に失くさせる毒なんて、よほど医術に精通する者じゃないと作れないと思うんだけど…。三家以外にも、特殊な医術を持った者がいるんだろうか?もしかして、玄天遊鬼がどこかで作ってるとか?)「んなわけないか…」
思わず独り言が漏れる。
それもそのはず。玄天遊鬼は、六華鳳宗を追放された際、開祖・六華鳳凰から全ての六華術を剥奪されたと聞いている。医術を使えるはずがないのだ。 蘭瑛は紙を捲るように次々と思考を巡らせていると、ある頁に書き記された言葉が、目に留まった。 『物事は常に大きく捉えよ。目の前にある小さなものが全てではない。迷いが生じたのならば、根本を見直すべし』「根本が分かれば苦労しないって…」
蘭瑛は、大きく溜め息を吐きながら、本を閉じた。
すると、部屋の出入口の扉からコンコンと音が鳴った気がした。何か物が当たったのか自分の聞き間違えか、蘭瑛はしばらく扉の方を見る。しばらくすると、またコンコンと次は少し大きな音が鳴った。蘭瑛は扉の前に移動し、閂をゆっくり引き抜く。そして、恐る恐る扉を開けると蘭瑛は思わず目を見開いた。そこには、以前賢耀の宮殿前で梓林《ズーリン》の横にいた女が、焦ったように息を切らした様子で立っていた。
その女の名は、秀綾《シュウリン》と言った。
この章では、女性に対する性暴力や性差別用語を含みます。そちらをご留意の上、ご一読ください。 ・ ・ ・ ・ 蘭瑛《ランイン》は項垂れた頭を上げるように、目を覚ました。 ぼんやりと映る視界が、段々と鮮明になっていく。 (ここは…、どこだ…?) 使われていない古びた部屋だろうか。埃っぽい臭いが充満している。どうやら身体は、柱に立つようにして縛り付けられ、両手は後ろで縛られているようだ。完全に身動きが取れない体勢だ。 視線を正面に向けると、見知らぬ男たちが蘭瑛を見て、蹂躙したい欲望にまみれた様子で笑っている。 蘭瑛が目を覚ましたことに気づいた女が、下品な男たちを払いのけるかのように、蘭瑛に向かって歩いてきた。 「目を覚ましたようね?蘭瑛さん。あの時は、私の腕を捻ってくれて、どうもありがとう」 「……」 蘭瑛の顎を掴みながら、蝋燭の灯りから醜い顔を見せたのは梓林《ズーリン》だった。 「悪く思わないでちょうだい。私の意思で、こんなことしてる訳じゃないから。ある人を怒らせたからこうなっちゃってるだけなの。あなたには残念だけど消えてもらわなきゃならない。ただ…あなた、容姿がいいじゃない?胸も豊満だし。そのまま消えてもらうのは忍びないから、最後に男たちに好きなように弄ばれて、凌辱されたらいいんじゃないかと思って、性に飢えてる男たちをここに集めたの。さあ、どれだけ耐えられるかしら?」 蘭瑛は何も言わず、梓林を怒りの目で一瞥した。 「そんな怖い顔で私の顔を見ないでくれる?あ、そうそう。王《ワン》国師は今夜外に出られてるそうなので、残念だけどあなたを助けてくれる人は誰もいないわ。今夜はひたすら、屈辱を味わってちょうだい」 身動きの取れない蘭瑛だったが、顎を掴まれていた梓林の手を何度も首を振りながら振り解き、口の中にたまたま入った指を、血が出るほど思いっきり噛んだ。 「…いたっ!何すんのよ!この傻屄《シャビー》が!」 梓林は怒りに任せ、蘭瑛の額を思いっきり平手打ちする。 すると、近くにいた髭面の男が面白がって近づいてきた。 「なぁ、いつになったらそこにいる艶々な豆腐を食べられるんだ?早く食わせてくれよ〜。俺たち腹ペコなんだ」 「あっそう。なら、とっととやってちょうだい」 梓林はそう言って、外に出て行った。 蘭瑛は静かに目を閉じた。 これまで
目の前にいる秀綾《シュウリン》は、背が高く細身で、目と同じ淡い朱色の髪を乱していた。 「お願い!中に入れて!話があるの!」 秀綾は更に目を赤くして、蘭瑛《ランイン》に尋ねる。 蘭瑛は永憐《ヨンリェン》に言われた事を思い出すが、「ど、どうぞ…」と言って、秀綾を部屋の中に入れた。 「突然尋ねてごめんなさい。あなたにどうしても伝えたいことがあって…」 蘭瑛は秀綾を使っていた椅子に座らせ、六華鳳宗から持ってきた白茶を淹れた。秀綾は息を整え、話し始める。 「あなたの命が危ないの。梓林《ズーリン》があなたを殺そうとしてる」 眉間に皺を寄せた蘭瑛は「ズーリン?」と尋ねながら、白茶の入った茶杯を秀綾の前に置いた。 「そう、あなたがこないだ手首を捻ってたあの人。あ、ありがとう」 秀綾はそう言って、茶杯を手に取った。 一口口に含んだ後、秀綾はひと息ついて、また続ける。 「梓林は、光華妃《コウファヒ》と繋がっていて…」 「ちょ、ちょっと待って。光華妃って誰?」 蘭瑛は、手を前に出しながら秀綾の話を遮り、知らない宋長安の妃について尋ねた。 秀綾は、何も聞いてないの?と言わんばかりに、相関図のようなものを紙に書き始める。 「いい?この二人は服従関係にある。これまでも、たくさんの人を追放したり、消したりしている。今回の皇太子殿下の件も光華妃の謀反。皇太后の他にも妃は二人いて、朱源陽《しゅうげんよう》から来た美朱妃《ミンシュウヒ》と、青鸞州《せいらんしゅう》から来た雹華妃《ヒョウカヒ》がいる。賢耀殿下の母君、元皇后の紫秞妃《シユヒ》は三年前に亡くなっていて、今は光華妃とその息子の光明《コウミン》殿下が偉そうに立ち回ってる」 「はぁ…」 (色々と複雑そうだな…) 秀綾の説明を聞いた後、蘭瑛の頭の中にふと永憐と賢耀の二人の姿が浮かんだ。立場を超えて、互いの名を『耀《ヤオ》』と『永憐《ヨンリェン》兄様』と呼び合うほど親しい仲なのは、ただ単に仲が良いからではなく、この宮殿に潜む蜘蛛の巣のように張り巡らされた無数の手から賢耀を守り、関係性を世間に知らしめる為なのだろう。時々、賢耀が幼さを見せるのも、母親の死が影響しているに違いないと蘭瑛は思った。 そのあとも、秀綾から光華妃の狡猾で尊大な醜悪を聞かされ、蘭瑛は複雑な宋長安の人間関係を少しだけ知った気がした。 蘭瑛
「…し、知りません…」 「そうか。ならば用はない」 人影はまた剣光を放ち、男の喉を瞬く間に突き刺した。 刃の先に注がれた剣気と鮮血が入り混じり、不気味な血腥さが漂う。 人影の口元が僅かに動いた。 「必ずや…この手で見つけ出し、遺恨を晴らす…」 人影は、苛立ちを込めた表情で剣の柄を力強く握り締め、地鳴りを轟かせるように地面を穿った。 ・ ・ ・ 翌日。 蘭瑛《ランイン》は賢耀《シェンヤオ》がいる宮殿で、痙攣するかのように顔を引き攣らせていた。 「ねぇ、お願い!一緒に永徳館《よんとくかん》へ来てよ。蘭瑛先生がいてくれたら、きっと永憐《ヨンリェン》兄様も許可してくれるから〜」 どうしても永憐の稽古に参加したい賢耀は、蘭瑛同席なら、稽古に参加してもいいんじゃないかと、打診してきた。 賢耀の身体はもうほぼ回復していた。 しかし、異様な回復劇だったものの、まだ回復してから二日しか経っていない。 蘭瑛は悩みながら梅林《メイリン》と顔を見合わせる。 梅林は大きく息を吸いながら、頬に手を当てながら呟いた。 「そうねぇ〜。とても元気そうだけれど…。永憐様が何ておっしゃるか…」 「ん〜、ですよね…」 蘭瑛は目尻を垂らし、困り顔で続ける。 「それに…私のような部外者が永徳館へ行ったら、怒られませんか?」 「それは問題ないと思うわよ。毎日、黄色い声が飛び交っているから」 梅林はクスクスと笑っている。 (黄色い声?虫か何かか?) 女の熱烈な感情に疎い蘭瑛は、その声の主が何か分からず、首を傾げた。 賢耀は吹き出すように高笑いし、「行ってみれば分かるよ」と言った。 蘭瑛は賢耀に、半ば強引に連れて行かれ、仕方なくといった様子で、永徳館へ向かうことになった。梅林は食材を取りに行くと言って、途中で別れた。 宋長安の宮殿内はとてつもなく広大だ。少しでも迷ったら、客室どころか藍殿にすら戻れないだろう。蘭瑛はキョロキョロと辺りを見回しながら、進んだことのない道を、賢耀たちに続いて歩いていく。 しばらく進むと、区切られた敷地内にある立派な木造の建物から、木刀のぶつかる音が何層にも連なって聞こえてきた。その奥では、物珍しそうな芸を見るかのように、宮殿内の女たちが、目を光らせて集まっている。 蘭瑛はその光景に思わず目を瞠った。 すると、突然。耳を
「ご機嫌いかがですか?」 「見ての通りだよ!蘭瑛《ランイン》先生がくれた薬飲んだらさ〜、凄い楽になって、ほら」 賢耀《シェンヤオ》は座ったまま、身体を腰から左右に動かす。 一晩、付きっきりで賢耀の側にいた護衛の泰然《タイラン》も、他にいた護衛たちも、賢耀のあまりの回復の早さに驚きを隠せないでいた。 周りの驚愕な様子に見向きもせず、賢耀は続ける。 「いやぁ〜ほんと、僕はいつも永憐《ヨンリェン》兄様に助けてもらってばかりで…」 (永憐兄様?そんなに慕っているのか…) 蘭瑛はふ〜ん、と思いながら黙って耳を傾ける。「永憐兄様が蘭瑛先生を連れてきてくれなかったら、間違いなく死んでたよ」 蘭瑛は作り笑みを見せた。 本当にその通りだ。あと三日遅かったら、賢耀は間違いなく、ここにいないだろう。先ほど中に入ろうとしてた医局長の女は、賢耀の様子をひどく知りたがっていた。毒殺に深く関わっていることは間違いないだろう。 しかし、皇太子殿下という天下人を殺めるなど、代償があまりにも大きすぎる。余程憎く、殺意があるのか…若しくは、誰かへの当てつけか?剣で一突きすれば早いが、毒殺にすれば自然死に見せかけられる。不特定多数の人間を使って、毒薬を紛れ込ませれば、犯人は特定されにくい。計画性は十分にある。 蘭瑛は頭の中で、ぐるぐると考えを巡らせた。 それにしても、やはり術を持つ者は回復が早い。処方したのは、術者専用の強い解毒剤だったということもあるが、蘭瑛は賢耀の異様な回復力を見て、胸を撫で下ろした。 「ねぇ、蘭瑛先生!いつから、外に出ていい?」 賢耀は早く外に出たくて、堪らないらしい。 どうやら、永憐が師範となって毎日行っている稽古に、一刻も早く出たいそうだ。蘭瑛は「三日後の体調を見てから」という判断を下すと、賢耀は「え〜、そんなに?」と子どものように駄々をこねた。 こういう人懐っこい所といい、少年のような無邪気さが否めない賢耀を、永憐も可愛がっているのだろう。だから、宋長安にいる数多の流医ではなく、わざわざ治る確率の高い、医家の六華鳳宗《ろっかほうしゅう》を尋ねてきたのかと、蘭瑛は悟った。 それから、蘭瑛と梅林は賢耀の『永憐愛』を、しばらく聞かされることとなり、蘭瑛の目が段々と萎んでいったのは言うまでもない。 ・ ・ ・ 一方。宋武帝《そんぶてい》の宮
歩いて来た道を戻るように、妃たちの殿門の前を通り過ぎ、突き当たりを左に向かってそのまま歩いていくと、藍殿《らんでん》はあった。 「こちらになります」 「は、はい」 青を基調とした立派な建造物が何棟も連なっており、宿舎か何かだと蘭瑛《ランイン》は思った。ぼんやり眺めていると、隣にいた宇辰《ウーチェン》が、爽やかな笑みを向けて口を開く。 「あちらは、永憐《ヨンリェン》様の住居です。こちら側は、私たち護衛や侍女が寝泊まりする所になっております」 宇辰は、向かって右側の塔を指しながら、蘭瑛に説明した。 「はぁ…」 やはり、国師というだけあって、暮らしぶりは桁違いのようだ。ここで、露店の串焼きなんぞ食べた日には、間違いなく打首にされるだろうな…。蘭瑛から思わず苦笑いが漏れる。 「蘭瑛様は客人ですので、今晩はこちらではなく、あちらの塔にある客室へご案内いたします」 藍殿の斜め奥にある塔を指され、蘭瑛はコクっと頷いた。 宇辰の後ろに続いて歩いていくと、左右に分かれる中央の廊下に到着する。奥にはだだっ広い中庭があり、その庭を囲うかのように、藍殿は造られているようだ。宇辰から、左側の廊下は永憐の住居に繋がる為、ここから先は入室禁止であることを、入念且つ丁寧に説明された。 あんな威圧感を漂わせた、仏頂面の男の家に入ったところで何になる?居心地が悪いだけじゃないか。 蘭瑛はそう思いながら、口元を一文字に固める。 しかし、宇辰によると、今も永憐に好意を寄せた下女たちの侵入が後を絶たず、寝台に潜り込んだり、下着や肌着を盗む不届き者がいるんだとか。蘭瑛は宇辰に、無断で入ったらどうなるかを尋ねてみると、無断で入室した場合は、男女問わず三日三晩鞭打ちの刑に処され、しばらくの間、禁足処分になるとのことだった。 蘭瑛は、誰が見ても分かるぐらい顔を引き攣らせて、宇辰が歩いていった右の塔へ進んでいく。 すると、厨房から肉料理の香りがふんわりと踊るように、蘭瑛の鼻腔に入り込んだ。 (はぁ〜、なんて美味しそうな匂い…) 美味しいものに目がない蘭瑛は、口から生唾が飛び出そうになった。 そういえば、今日は突然の事で何も口にしていない。寄り道して、露店の串焼きを食べてくるべきだったと、蘭瑛は少し後悔した。 ぎゅるるる、とお腹が鳴るの
馬に揺れること一炷香《いっちゅうこう》。 新安《しんあん》をあっという間に通り抜け、威風堂々とした宋長安《そんちょうあん》の町に辿り着いた。 華山《かざん》の麓より、初夏の陽気を感じる。 軒先一つ一つに竹簾がかかり、連なる日陰の下を通るように、人々が行き交っている。この果てしない町並みは一体、どこまで続いているのだろう。蘭瑛は不覚にも好奇心をくすぐられた。 宋長安の二人は馬の手綱を緩め、宮廷へと繋がる緩やかな坂道を、ゆっくりと進んでいく。 蘭瑛《ランイン》は、見慣れない景色に目を奪われつつも、複雑な感情が胸を掻きむしっていた。 父親を打首の刑にした先帝の宋長帝《そんちょうてい》は、もうこの世に存在しない。しかし、旱魃した場所に水を張るのが難しいように、どれだけ月日が経とうと見聞は残り、残された者たちの心は未だ枯れ果てたままだ。過去に起きた『華山の乱』が、どのように宋長安の人々に伝わっているか分からないが、恐らく六華鳳宗に良い印象を持つ者は少ないだろう。 蘭瑛の目は、段々と虚ろになっていく。 すると、今まで口を開かなかった後ろの美人が、突然言葉を発した。 「宋長安は初めてか?」 「あ、はい…。今まで来る機会がなかったので」 過去の尾を引いているせいもあるが、宋長安は新安よりも流医が溢れており、当然ながら今まで一度も宋長安から、依頼が来たことはない。六華鳳宗は、色んな意味で管轄外だ。 ふと、蘭瑛は疑問に思った。 宋長安には宮廷専属の御用医家はいないのだろうか?と。 普通、宮廷に一人は御医と呼ばれる医家がいるはずなのだが…。 蘭瑛は後ろの美人に、恐る恐る尋ねてみる。 「あ、あの…。宋長安には御用医家はいらっしゃらないのですか?」 永憐は、少し間を置いて答える。 「いない訳ではないが、色々と信用できない」 (信用できない…) 蘭瑛は心の中で呟いた。 なるほど。宮廷の中に、毒を盛れと言われたら毒を盛るような、よからぬ流医がいるという訳か。 あまり、余計なことを尋ねない方がいいと思い、蘭瑛は目線を馬の頭に向ける。すると、その斜め後ろで手綱を引く、指先の長い永憐の右手が、目に入った。 新安で手当てしたことを思い出し、蘭瑛は後ろまで聞こえるように首を横にして、ぎこちなく美人の名を呼んだ。 「あ、あの…。ワ…、王《