翌朝、一葉は慎也と共に、早くから病院を訪れていた。桐生家が経営する病院は複数あり、そのどれもが最新鋭の医療設備を誇るトップクラスの私立病院だ。しかし、いかに設備が最高水準であろうと、慎也が招聘した専門家たちがどれほどの権威であろうと、最終的なカンファレンスの結論は、以前と何ら変わらなかった。言吾が受けた一発目の銃弾は、幸いにも主要な臓器を逸れていた。しかし、動脈を損傷したことによる失血はあまりに多量であり、加えて二発目が致命的な部位を傷つけている。今日まで命を繋いでいること自体が奇跡に等しい状況で、意識の回復など望むべくもなかった。烈が組織した医療チームに集められていたのは、各分野のトップエキスパートばかりだった。彼らが当時、言吾に施した救命措置は、現時点でも望みうる最高の治療であったことが、改めて証明されたに過ぎない。もし当時の医療チームのレベルが少しでも劣っていたなら、専門家たちの見立て通り、言吾は今日まで命を繋ぐことすら叶わなかったに違いない。結局、カンファレンスに参加した中で最も権威のあるとされる教授もまた、これまでの医師たちと同じ見解を述べるに留まった。言吾の意識が回復するには、奇跡を祈るか、あるいは彼自身の並外れた生への渇望に懸けるほかない、と。「脳波の反応を見る限り、患者さんは外部からの刺激をある程度は感知しているはずです。現状では、ご家族や、彼にとって非常に大切な方が根気強く話しかけ続け、意識を呼び覚ます……それに賭けてみるほかありませんな」これまで言吾の治療にあたってきたのも、その分野における一流の専門医ばかりだった。そのため、一葉たちにとって、この結果は到底受け入れられないというものではなかった。更に多くの専門家を招聘したのは、万に一つの可能性にでも、すがりたかったからに他ならない。専門家たちが病室を後にして、一葉と慎也は同時に、ベッドに横たわる言吾に視線を落とした。無数の管に繋がれ、かつての精悍な面影もまるでない彼の姿に、二人の胸には、重苦しい空気が立ち込めた。とりわけ一葉の心は、ひときわ重く沈んでいた。かつての自分も、今の言吾と同じように、全身を管に繋がれ、身動き一つ取れなかった。医師の誰もが、目覚めるどころか、三日と持たないだろうと匙を投げていたのだ。意識を取り戻した彼女は、い
それは、姪を大切に思っていないからではない。むしろ、その逆だ。己が最も慈しむ者を脅しの道具に使うような愚か者には、この世に生を受けたこと自体を骨の髄まで後悔させるほどの恐怖を味わわせる。それが、桐生慎也という男のやり方だった。慎也に「心を痛める必要はない」と言われ、一葉はそれ以上、父の件で思い悩むのをやめた。人心を掌握し、人を脅すことにかけて、自分は彼の足元にも及ばない。策士である慎也の領域に、自分が余計な心配を差し挟む必要はないのだ。今日のビジネス会議での一件が、まさにそうだった。彼は警察に連行された。仮に、烈が仕立て上げた筋書き通り、自分たちが本当に言吾を匿う「犯人蔵匿罪」を犯していたとしても、彼は「必ず戻る」と言い、そして言葉通り、何事もなかったかのように無傷で帰還した。そのことを思い出し、一葉は慎也を見上げた。「今日、警察ではどうだったの」「問題ない。形式的な聴取をされただけだ。その後、言吾の居場所は移しておいた。まだ彼の罪状は確定していない。厳密に言えば、俺たちは指名手配犯を匿っていることにはならない」慎也は続ける。「それに、獅子堂烈のかつての勢力は本港市にまでは及んでいなかった。彼はここで罪を犯したわけじゃないから、こちらの警察に彼を拘留する権限はない。そうなれば当然、俺に罪が問われることもない」慎也という男は、常にあらゆる可能性を想定して事を進める。何か行動を起こす際には、その先に起こりうる全ての事態を読み切り、盤石の備えを固めているのだ。だからこそ、どのような不測の事態が起きようとも、彼は常に冷静に対処できる。その言葉を聞いて、一葉は張り詰めていた息をようやく吐き出すことができた。最初から慎也は「大丈夫だ」と断言していた。それでも、彼を巻き込んでしまったのではないかという恐怖と不安が、心の底に澱のように溜まっていたのだ。一葉の安堵を敏感に感じ取って、慎也はくしゃりと笑いながら彼女の頭を優しく撫でた。「心配するな。すべて俺を信じろ」「うん」「今夜は早く休め。明日、言吾のために各科の専門医を呼んでカンファレンスを開く。朝一で向かうぞ」言吾に対する慎也の心遣いに、一葉は思わず感謝の言葉を口にした。「ありがとう」「礼などいらん。当然のことだ。それに言吾は……俺の命の恩人でもあるだろう」どのような理由
国雄は、心の底からそう思っていた。もう、必要ないだろう、と。一葉は今、こんなにも満ち足りた生活を送っている。言吾への未練も断ち切り、別の男と結ばれようとしている。もはや、優花と争う理由などないはずだ。優花を追い詰めて不幸にしたところで、一葉に何の得もない。ならば、もっと寛大になって、皆が幸せに暮らせるようにすればいいではないか。彼は、完全に優花の側に立って物事を考え、一葉を「心の狭い人間」だと決めつけ、いつまでも過去に拘泥すべきではないと断じている。だが、彼は全く考えようともしない。そのあまりに身勝手な言い分を、一葉は冷めた心で聞いていた。なぜ、私が?なぜ、一度ならず二度までも、私の命を奪おうとした優花を、許さなければならないというの?それに、彼女を追い詰めても私に利益はない、ですって?あの女が身から出た錆で破滅するのを見届けること、それこそが、私にとって最大の喜びであり、利益だというのに。だが、一葉は、それ以上何も言わなかった。心が、一方に偏りきってしまった人間には、何を言っても無駄だ。そんなことに時間を浪費する必要などない。そのことを、彼女はもう、とうの昔に知っていた。「あなたの焦がれるその人に合う心臓が欲しければ、さっさと柚羽さんを治すことね。さもないと、まず死ぬのはその女、その次は……あなたの息子よ」彼が柚羽を脅しの材料にするというのなら、こちらも彼の最愛の息子を切り札に使うまでだ。その言葉を聞いた瞬間、国雄の心に芽生えかけていた僅かな後ろめたさは、一瞬にして凄まじい怒りへと変わった。「一葉!お前……っ!これで、父さんや母さんから愛されなかったなどと恨み言を言うつもりか!自分の言っていることが分かっているのか!あれはお前の兄だぞ、実の兄だ!同じ腹を痛めて生まれた、たった一人の兄なんだぞ!」「国雄さん、何をそんなに驚いていらっしゃるの。受け入れがたいとでも?あなたたちは、ずっと私のことを性悪な女だと思ってきたのでしょう?性悪な女が、性悪なことをする。血も涙もなく、実の兄さえ手にかけようとする。……ごく自然なことじゃないかしら?」一葉は、冷たい笑みを浮かべて父を見つめた。その視線に、国雄は何かを言い返そうとしたが、ただ「き、貴様」と口の中で言葉を詰まらせるだけで、後が続かなかった。しばら
その言葉を聞くと、あれほど荒れ狂っていた国雄の表情から、みるみるうちに険が取れていく。そして、心に余裕が生まれたのだろう。「それから、優花のことだ。お前は、桐生慎也に約束させなければならん。私が柚羽の治療を終えたら、私と優花を無事に解放すると!」「もちろん、お前たちの前に優花が二度と姿を現さないよう、私が保証する!」人は、一つの望みが叶うと、すぐさま次を望む生き物だ。今の国雄がまさにそれだった。ここへ来る前は、ただ愛する人の心臓を手に入れることしか頭になかったはずなのに、一葉が条件を呑んだと見るや、途端に優花まで助けようと欲を出している。一葉は、どうせ守る気などないのだから、適当に頷いてしまおうかと一瞬考えた。だが、あまりにあっさり承諾すれば、かえって怪しまれるだろうと思い直す。「優花を見逃す条件は、あなたが先に柚羽さんを完治させることよ」一葉のその言葉に、国雄は即座に非難の声を上げた。「一葉、父さん、お前のことを思って言うんだがな、お前は昔から根に持つ質で、心が狭すぎる。もう桐生慎也と一緒になるんだろう。昔のことなど、いつまで引きずっているんだ?」「優花は、どうあってもお前の妹だろうが!あいつを殺したところで、お前に何の得がある?なぜ許してやれんのだ?確かに、あいつは言吾さんと一緒になりたくて、お前たちの仲を裂くようなことをしたかもしれん。だがな、お前だって、あいつがあれほど欲しがっていた桐生慎也を奪ったじゃないか!これでお互い様だろうが。なぜ、いつまでもあいつに固執する?人を恨んでばかりいると、長生きできんぞ!」その言い草に、一葉は、ふん、と鼻で笑った。「私が長生きできるかどうかは知らないわ。でも、確かなことが一つだけある。あなたの焦がれるあの人が、心臓なしではもう長くないってこと」「早く柚羽さんを治すことね。さもないと、その大切な人は、本当に『手の届かない人』になってしまうわよ」「き、貴様……っ!!!」国雄は怒りのあまりしばらく言葉を失ったが、やがて絞り出すように言った。「一葉、そこまで性悪になるのはやめろ!」「自分のためを思わんのなら、せめて腹の子のことを考えたらどうだ!前の子供だって、お前のその悪辣さのせいで流れたんだろうが。今度の子まで、同じ目に遭わせたいのか?次も流れたら、もう二度と産
柚羽が口にした「叔母様」という言葉に、旭の瞳が一瞬、揺らいだ。一葉と言吾の夫婦仲がうまくいっていないと聞き、雲都まで彼女を訪ねたこと。離婚した後、彼女を何度も口説き、この家に連れて帰り、家族に紹介するという甘い夢を、幾度となく思い描いたこと。夢に見た光景は、今、目の前にある現実と何一つ変わらない。温かく、幸せに満ちた食卓。長年病床にいた妹は元気になり、叔父は一葉との仲を心から認め、優しく二人を祝福している。夢のように美しい光景は、確かに実現した。ただ、その物語の主役は、自分ではなかった。それに気づくと、たとえ気持ちの整理をつけ、諦めたはずでも、感情は理屈で割り切れるものではないと、旭は痛感する。心の底から一葉と叔父を祝福したいと願っているのに、どうしようもなく胸が痛むのだ。どうして、自分ではなかったのだろう、と。あれほど好きで、好きで、たまらなかったのに……手に入れたくて、仕方がなかったのに……世の中とは、往々にしてそういうものだ。手に入れたいと強く願うものほど、決して手に入らず、そして、手に入らないものほど、完全に忘れ去ることなどできはしないのだから。夕食の後、旭と慎也は書斎へと向かった。一葉も自室に戻ろうとした、その時だった。執事がやって来て、国雄が面会を求めていると告げた。柚羽の治療の件で話がある、と。その言葉を聞いた瞬間、一葉は父の魂胆を即座に見抜いた。……柚羽を脅しの道具にするつもりね。会いたくないと拒絶されることを恐れた国雄が、柚羽の名を出して揺さぶりをかけているのだ。会わなければ、彼女の治療に「何か」が起きるかもしれない、そう暗に示して。一葉はしばらく黙り込んだ後、執事に父を応接室へ通すよう伝えた。部屋に入ってくるなり、国雄は執事を人払いするよう顎で示した。扉が閉まるや否や、彼は抑えきれない怒りを爆発させた。「一葉!お前、あの組織から逃げ出すだけならまだしも、なぜ桐生慎也と組んで、組織を潰したりしたんだ!」「私は、あれほど長い間、奴らと渡り合ってきたんだぞ……ようやく、ようやく順番が回ってきて、今月末には適合する心臓が手に入るはずだった……それが全部、全部お前のせいで台無しだ!」国雄が焦がれる、手の届かぬ人――その女性は、重い心臓病を患っていた。もはや、心臓移植以外に助かる道はない。彼
これほど聡明で、多くの人間の生命を意のままに操ってきたこの自分が、ただの詐欺師に手玉に取られたのだ!これほどの屈辱は、生涯で初めてだった。紫苑の顔色がみるみるうちに変わっていくのを、烈は冷ややかに見つめていた。彼女が何も言わずとも、その表情の変化だけで、烈には全てが分かった。騙されたのだ。あの女が親友だと吹聴していた相手は、ファルス家の令嬢などではなかったのだと。烈は、侮蔑を込めてフン、と鼻で鳴らした。「……使えねぇ女め」「そんな役立たずのお前が、青山一葉の男運に嫉妬するんじゃねぇよ。家柄が少しマシなだけで、顔も、頭も、他に何か一つでもあの女に勝るものがあるか?それに、類は友を呼ぶって言うだろ。お前みてぇな性根の腐った女には、俺みてぇな男がちょうどいいんだよ。いい男なんざ、夢にも思うな。他人を値踏みする前に、まず自分の姿を鏡で見てみろ。てめえが、一体何様のつもりだ」烈は、生まれついての悪党であると同時に、極めて頭の切れる男でもあった。だからこそ、相手の些細な目の動き一つで、その思考を正確に読み取ることができる。特に、自分と同じく腹黒い人間の心の内など、手に取るように分かるのだ。烈の言葉は、まるで鋭い刃のように、紫苑の心の最も柔らかい部分を容赦なく抉った。彼女の顔からはさらに血の気が引き、その表情は険しさを増していく。心の内で、激しい憤りが燃え上がった。不公平だわ……!どうして。どうして、私が獅子堂烈のような男とお似合いだなどと言われなければならないの?私が、青山一葉に劣るですって?家柄だけじゃない。容姿も、卒業した大学も、何もかも、私が一葉より優れているはず!ただ、研究者の道を選ばなかったというだけじゃない!それに、性根が腐っている、ですって?好きでこんな風になったわけじゃない。穏やかに生きられるのなら、誰がわざわざ心労を重ねてまで他人を陥れようとするものか。母が早くに亡くなり、少しでも賢く立ち回らなければ、私と弟は、あの継母の手でとっくに殺されていた。それでも……弟は、あの女に殺された。あの継母が、この生活が、私をこうさせたんじゃないの。心をすり減らし、必死で生き抜くしかなかった私を、どうして責められるというの?……一葉たちが桐生家に戻ると、ちょうど柚羽が食事の準備を終え、テーブルに料