部屋に戻ってから、若子は何度も考えた末、千景に電話をかけた。すぐに繋がり、千景の声が聞こえる。「もしもし、若子、どうした?」「冴島さん、明日うちに来てほしいの。修も一緒に、三人で晩ご飯食べよう」「明日?」「うん、都合どう?」千景は少し考えてから、「大丈夫だよ。でも藤沢にも話してある?」「もう伝えてあるし、ちゃんと了承ももらったよ」「それなら、明日行く」「会社が終わったら私が迎えに行くよ」「自分で行くから大丈夫。住所だけ教えてくれればいい」「うん、絶対来てね」「もちろん。約束したから、必ず行くよ」「わかった、じゃあ住所をショートメッセージで送るね。私、明日は五時に退社できる予定だから、車で三十分くらい。早めに来てもいいよ」二人はあっさり電話を切った。若子はすぐに住所を送信し、何度も確認してから送った。......翌朝、若子はバッグを持って出かけようとしていた。「若子」階段のところで修が呼びかけてくる。「朝ごはん食べていけよ」「もう出ないと遅刻しちゃう」「いいから、食べてから行きなよ」「今日は初めて出社したばかりだし、遅刻は絶対にまずいの」「じゃあ、俺がお前の上司に電話してあげる」露骨な「特権」アピール。若子は首を振った。「やめて。本当にやめてよ。私は普通の社員として働きたい。何の特別扱いも受けたくないし、自分の力だけでやりたいの。もし電話したら本気で怒るから」修はちょっとがっかりしたようにうなずいた。「分かった。じゃあ一分だけ待ってて」修はダイニングに走り、焼きたての卵を二つと牛乳をトレーに乗せて持ってきた。「これだけは食べていって。卵と牛乳、さっと食べてくれたらそれでいいから」そこまでされると、若子も断れなかった。卵を口いっぱいに詰め込んで、牛乳で流し込み、「これでいい?」と微笑む。修はようやく安心したように、「運転気をつけて。あんまり急いじゃダメだからね」「分かってる。ありがとう」そう言って家を飛び出す。修はお皿を召使いに渡していると―「そうだ!」若子が戻ってきて、「修、今日の夜は冴島さんを家に呼んでるから。できれば予定を早めに切り上げてね。もしかしたら早めに来るかも」修は「分かった。早く帰るようにするよ」とう
修はしばらく沈黙していたが、やがて低く言葉をこぼした。「分かってるよ、ちゃんと理解してる」若子は寒さを感じた。それは体の寒さじゃなくて、心が少し冷えてしまったから。「修、帰ろう。子どもが待ってるし、もう帰りたい」修は小さくうなずく。「うん、帰ろう」ふたりだけの時間―それは、修にとって「こっそり盗んだ」ようなひとときだった。でも、もう終わりにしなくてはいけない。若子が踵を返したとき、足元に何かを踏んでバランスを崩し、思わず倒れそうになった。修が素早く腕を伸ばし、若子を抱きとめる。「大丈夫?」驚きで心臓が跳ねる。顔を上げると、修の顔がすぐ近くにあった。突然、修が若子の顔を両手で包み、唇を重ねた。若子は呆然としてしまう。かつての記憶が一気に押し寄せてきて、胸が熱くなった。一瞬、彼を突き放すこともできず、ただそのまま立ち尽くしてしまう。やっと我に返り、強く修を押し返した。もし昔の自分だったら、すぐに平手打ちをしていたかもしれない。でも今はただ呆然と彼を見つめていた。感情が入り混じって、うまく言葉にできない。「ごめん、抑えきれなかった」修はうつむいて、どこか子どものようにしょんぼりしていた。そんな姿を見ていると、若子の胸に懐かしさがこみ上げてくる。―十二年。人生の中で、いくつ「十二年」があるんだろう。若子は静かに言った。「帰ろう」遠くの街路樹のそば、誰にも気づかれず、ひとりの背の高い影が二人を見つめていた。最後には寂しそうに息を吐き、そっと踵を返して夜の中へ消えていった。修と若子が家に戻ったときには、もう深夜だった。暁はすっかり寝ている。若子もそのまま静かに部屋へ向かった。「修、早く休んで」「若子、怒ってる?」「え?」「さっき、キスしたから」若子は自分の唇を無意識に触れて、気まずそうに微笑んだ。「うっかりだったんでしょ。もう、次はしないで」そう言って歩き出したところで、修が突然彼女の手首を掴んだ。「俺たち、本当にもう何も可能性はないのか?」その問いに、若子は胸が痛くなった。―愛がなくなったわけじゃない。でも、これまでのいろんなことが重なって、あまりにも多くの傷とすれ違いが生まれてしまった。今さら「やり直そう」と言われても、それ
そういえば、今日の午後も修はバラを一本くれたばかり。どちらも「道端で買った」と言っていた。夜風が吹いてきて、少し肌寒くなる。若子は思わず身を縮めた。その瞬間、修はすぐに上着を脱ぎ、優しく彼女の肩にかけてくれる。「修、大丈夫だよ。寒くないし、自分で着て」若子は修の体を気づかう。「俺は平気だから」修は外套をかけたまま、手をそっと若子の肩に置き、なかなか離さなかった。二人の距離が近くなって、ちょっとだけ気まずい空気が流れる。ちょうどそのとき、若子のスマホが鳴った。その着信音が、ぎこちない雰囲気を打ち消してくれる。若子は軽く修の手から離れ、電話を取る。「もしもし」電話の向こうから、千景の声が聞こえる。「若子、俺だ」「冴島さん、どうしたの?」「いや、特に用はない。ただ、もう寝たのかなと思って」「まだ寝てないよ。今、外にいる」「そうなんだ。一人?」「ううん、修と一緒」若子は隠すつもりもなく、素直に答えた。「そっか」千景はそれ以上聞かず、「じゃあ邪魔しないよ。ただちょっと声が聞きたかっただけ。他に用はないから、またね」あっさりと電話を切ろうとする千景。けれど、若子はなぜか胸がざわついて、「ちょっと待って」「どうかした?」一瞬ためらいながら、若子は口を開く。「ううん、なんでもない。冴島さん、遅いし早く休んでね」「......ああ、分かった」二人はそのまま電話を切った。「冴島から?」修が問いかける。若子はうなずいた。「修、明日、冴島さんを家に招待してもいい?」さっき電話でそれを伝えたかったのに、ここは修の家だから自分ひとりで決めてはいけないと、迷ってしまった。修は、若子が千景にそれを言おうとしていたのを感じ取っていた。「直接言えばいいのに。なんで俺に聞く?」「だって、ここは修の家だし、勝手に人を招くのはちょっと......」「それは違う。ここはお前の家でもある。若子、俺の人生にはお前が半分いる。お前は暁の母親だろ?」修は、若子に自分のそばで自由にいてほしいと願っている。でも本当は、若子の心がどんどん遠ざかっている気がして、どこかで焦っていた。とくにさっき千景から電話がかかってきたときの、若子の表情―あの一瞬に、今も胸が締めつけられる。
夜になり、若子と修は家で食事をせず、外に出かけた。暁は連れていかず、修にとっては久々のふたりきり。まさに「デート」だった。若子としては、修の気持ちを断れなかっただけ。ふたりの関係があんなふうにこじれていたのに、今はようやく少しわだかまりが解けてきている。せっかくここまで来たのに、また気まずくなるのは嫌だった。何より、ふたりは暁の親―子どもだってきっと、両親が仲良くしている姿を望んでいるはず。たとえ離婚しても、ギスギスしない方が絶対に子どものためになる。修はレストランを丸ごと貸し切りにして、ふたりでロマンチックなディナーを楽しんだ。それから映画館へ行き、ラブストーリーを観ることに。映画は感動的で、エンディングのあとには周りの女の子たちが泣きじゃくっていた。けれど、若子の目から涙は出なかった。―きっと、もう昔みたいに、恋愛で泣くことがなくなったんだろう。あんなにたくさん涙を流した過去があるから、今はどんな物語を観ても、どこか心が麻痺してしまう。修は隣で若子の表情を気にしていたが、彼女が特に何も言わないので、そのまま映画館を出た。「若子、あの映画どうだった?なんだかあんまり反応なかったような......気に入らなかった?」「そんなことないよ。ちゃんといい映画だったし、感動した。ただ私、涙腺がちょっと強いだけ」若子は映画やドラマで泣くことがほとんどなかった。「修、そろそろ帰ろうか?」ふと、暁のことが気になった。もう寝ているだろうか、少し心配になったのだ。修は歩みを止めて言った。「若子、もうちょっとだけ一緒にいない?今日はせっかくふたりきりで出かけられたんだ。急いで帰らなくてもいいじゃない」久しぶりに和やかに食事して、映画を観て、こうやって一緒に歩ける―そんな当たり前の時間が、修にはものすごく貴重に感じられた。ほんの一時間でも、このひとときを長く味わいたかった。若子はうなずいた。「うん、いいよ」もう外に出てきたのだから、少しぐらい付き合っても問題ないと思った。映画館を出ると、外はネオンがきらきらと輝き、夜の街はにぎやかだった。「こんな遅い時間でも、まだ帰らない人がたくさんいるんだね」思わず若子がつぶやく。修は人混みを眺めながら答えた。「みんな、それぞれ事情が
また半月が過ぎた。この間も色々あったけど、すべてがゆっくり、着実に前に進んでいる。千景も光莉も曜も、みんな無事に退院した。若子の仕事も少しずつ慣れてきて、修も以前の落ち着きを取り戻している。仕事も普通にこなしているし、もうあの沈んだ顔ではない。ただ、母親である光莉が何度か会いに来たけれど、修はそのたびに顔を合わせなかった。やっぱり、この母親との間には深い壁がある。西也は逃げ出したままで、今も行方不明。週末、若子は仕事が休みで、パソコンの前に座って小説の構想を練っていた。その前に、前に知り合ったあの作家さんにも相談した。彼女はとても親身になって、いろいろなアドバイスをくれた。難しい金融の知識をたくさん盛り込もうとすると、どうしても読む人は少なくなる。だけど、もしみんなに読んでほしいなら、難しい話を誰にでもわかるように書かなきゃいけない。路地裏の八百屋のおばちゃんだって理解できるくらい、やさしい言葉で、難しい言い回しや派手な表現を避けて、簡潔で明快な内容にするのが大切。若子も同じ考えだった。自分が書きたいのは、誰でも読めて、知識の壁を感じない金融小説。「ママ、ママ」暁がベッドの上で立ち上がった。「どうしたの?」若子が顔を向ける。「のど乾いた」「わかった」しばらく考えて疲れた若子は、パソコンを閉じ、子どもを抱き上げる。「水を飲みに行こう。ついでにちょっとお散歩しようか」水を飲ませてから、暁を抱っこして外に出る。玄関まで来たところで、修が向こうから歩いてきた。「若子」「修、おかえり」朝から会社の電話がかかってきて、あわただしく出かけていた修が、やっと戻ってきたところだった。修は両手を背中に隠している。「ねえ、何隠してるの?」「当ててみて」修は優しい眼差しで若子を見つめる。「わかんないよ、早く見せて」修は、背中から一本のバラの花を取り出した。道で、子どもが一人でバラを売っているのを見かけて、一本だけ買ってきたらしい。こんな不意打ちのロマンチックなプレゼント―もし離婚前だったら、若子は間違いなく心から喜んでいたはず。けれど今は......一瞬、何も言えずに固まる若子を見て、修は少し寂しそうに笑う。「気に入らなかったら暁にあげても
動画はなんとなく眺めていただけだったけど、気づけばだんだん眠くなってきた。そろそろ寝ようかと思ったとき、不意にスマホの画面にライブ配信が流れてきた。―あれ、この人どこかで見たことある......そうだ、前に小説を書いていたあの作者じゃない?安奈が捕まったのも、この人のおかげだった。まさか今はライブ配信までやっているとは。しかも、いわゆる美肌フィルターなんか全然使ってなくて、すごく自然体。配信ルームにはたくさんの視聴者がいて、彼女は読者と和やかにやり取りしている。しかも、アンチのコメントも全然気にせず、むしろ軽やかに読み上げて返していく。あるアンチがこんなコメントを書いていた―【作者があんなクズキャラを書くのは、自分がクズだから。自分がだらしないから、そんなキャラしか書けないんだ】作者はすぐさま笑って返す。「じゃあ、私が天才キャラを書いたら、私も天才になるの?次の本はIQ190の天才でも書いてみようかな。そもそも、いろんなキャラを書いてきたよ?殺人犯もいるけど、じゃあ警察に通報してくれる?『作者が殺人犯を書いたから本人も殺人犯です!』って、警察に報告してくれたら助かるなぁ、想像力がすごいね」さらに新しい悪口コメントが流れる。【女主人公がだらしなくて最低、作者も頭おかしい、ゴミみたいな小説......】一文まるごと封建時代のような悪意と偏見にまみれている。作者は明るく言い返す。「え~封建時代の人も私の本読んでるの?そんなに嫌いで、ここまで気分悪くなっても、やっぱり見に来ちゃうんだ。素直に『好き』って言えばいいのに、憎しみに隠してさ、私ちょっと嬉しいよ。あなたの『愛』、ちゃんと伝わってるからね」そのとき、さらにコメント欄にこんなのが現れる。【このコメント見て分かった、この小説もやっぱりゴミだわ、作者頭おかしい】作者はわざわざピックアップして返事をする。「あなた、人間ですか?まあ一応『人』ってことにしてあげるけど。コメント読むだけで、あんたの脳みそ使ってないのがよく分かる。他人が何か言えばすぐ信じる。誰かが『地球は四角い』って言ったら信じちゃうタイプでしょ?ネットで調べてみたら?悪口に流されて、まともな判断力もない。こういう読者が離れていくのは私にとって幸運だよ。自分の頭で考えず、アンチに乗せら