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第1346話

Author: 夜月 アヤメ
修はしばらく沈黙していたが、やがて低く言葉をこぼした。

「分かってるよ、ちゃんと理解してる」

若子は寒さを感じた。それは体の寒さじゃなくて、心が少し冷えてしまったから。

「修、帰ろう。子どもが待ってるし、もう帰りたい」

修は小さくうなずく。「うん、帰ろう」

ふたりだけの時間―それは、修にとって「こっそり盗んだ」ようなひとときだった。

でも、もう終わりにしなくてはいけない。

若子が踵を返したとき、足元に何かを踏んでバランスを崩し、思わず倒れそうになった。

修が素早く腕を伸ばし、若子を抱きとめる。

「大丈夫?」

驚きで心臓が跳ねる。顔を上げると、修の顔がすぐ近くにあった。

突然、修が若子の顔を両手で包み、唇を重ねた。

若子は呆然としてしまう。かつての記憶が一気に押し寄せてきて、胸が熱くなった。

一瞬、彼を突き放すこともできず、ただそのまま立ち尽くしてしまう。

やっと我に返り、強く修を押し返した。

もし昔の自分だったら、すぐに平手打ちをしていたかもしれない。

でも今はただ呆然と彼を見つめていた。感情が入り混じって、うまく言葉にできない。

「ごめん、抑えきれなかった」

修はうつむいて、どこか子どものようにしょんぼりしていた。

そんな姿を見ていると、若子の胸に懐かしさがこみ上げてくる。

―十二年。人生の中で、いくつ「十二年」があるんだろう。

若子は静かに言った。

「帰ろう」

遠くの街路樹のそば、誰にも気づかれず、ひとりの背の高い影が二人を見つめていた。

最後には寂しそうに息を吐き、そっと踵を返して夜の中へ消えていった。

修と若子が家に戻ったときには、もう深夜だった。暁はすっかり寝ている。

若子もそのまま静かに部屋へ向かった。

「修、早く休んで」

「若子、怒ってる?」

「え?」

「さっき、キスしたから」

若子は自分の唇を無意識に触れて、気まずそうに微笑んだ。

「うっかりだったんでしょ。もう、次はしないで」

そう言って歩き出したところで、修が突然彼女の手首を掴んだ。

「俺たち、本当にもう何も可能性はないのか?」

その問いに、若子は胸が痛くなった。

―愛がなくなったわけじゃない。

でも、これまでのいろんなことが重なって、あまりにも多くの傷とすれ違いが生まれてしまった。

今さら「やり直そう」と言われても、それ
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