Masuk男爵家令嬢、ジェニファーは薄幸な少女だった。両親を早くに亡くし、意地悪な叔母と叔父に育てられた彼女には忘れられない初恋があった。それは少女時代、病弱な従姉妹の話し相手として滞在した避暑地で偶然出会った少年。 けれど、ある事件によりジェニファーは少年に別れを告げることも出来ずに避暑地を去ることになった。 10数年の時が流れ、音信不通になっていた従姉妹が自分の初恋の男性と結婚した知らせを受ける。しかし2年後、従姉妹は病で亡くなってしまう。それから1年の歳月が流れ、突然彼から求婚状が届けられた。ずっと彼のことが忘れられなかったジェニファーは、喜んで後妻に入ることにしたのだが、残酷な現実が待っていた――
Lihat lebih banyakカチコチカチコチ……
静まり返った応接間に、秒針の音が聞こえてくる。
重厚なカーペットが敷かれた室内はとても広く、調度品はどれも高級なものばかりだ。しかし、それもそのはず。
ここは『ドレイク』王国の中でも屈指の財力を持つテイラー侯爵家だからだ。 「……」先程から緊張した面持ちで、1人の女性がソファに座っている。
彼女は見事なプラチナブロンドの長い髪に、宝石のような緑の瞳の女性だった。そして彼女の正面に座る男性は、真剣な眼差しで書類を見つめていた。彼はシルバーブロンドに琥珀色の瞳が特徴の美しい青年である。
27歳の彼は、この屋敷の当主であるニコラス・テイラー侯爵その人だ。
これから、2人は重要な取り決めをすることになっている。「ジェニファー・ブルック。これが、君の全ての釣書か?」
不意に声をかけられた女性――ジェニファーは顔を上げると、丁度ニコラスが書類をテーブルに置いたところだった。
「はい、そうです」
「そうか……現在、25歳。完全に行き遅れだな」
行き遅れ……その言葉にジェニファーの顔がカッと熱くなる。
「今まで何故結婚しなかった? ずっと家で家事手伝いだけをしていたようだが……それで出会いが無かったのか?」
ズケズケと尋ねてくるニコラスの目はとても冷たいものだった。
「家事手伝いだけをしていたわけではありません。シッターの仕事もしていました。ただ、殆どボランティアのようなものでしたので、釣書には書きませんでした。結婚しなかった……いえ、出来なかったのは……貧しくて持参金を用意……出来なかったからです……」
持参金を用意できないということは、致命的な問題だった。
「君は、仮にもブルック男爵家の長女なのだろう? それなのに持参金を用意できなかったのか?」
「釣書にもありますが、私は両親を8歳のときに亡くしています。そして叔父夫婦が私の後見人として、3人の子供たちを連れてブルック家に来ました。全員私よりも年下です……今では人数が増えて5人になっています」
「なるほど、ブルック家を食い潰されてしまったというわけか? それだけじゃなく家事手伝いまでさせられているということだな?」
「そ、それは……」
確かにニコラスの言う通りではあったが、肯定する訳にはいかなかった。そんなことが叔父夫婦の耳に入れば、大変なことになってしまう。
「まぁいい。そのお陰で亡き妻の遺言通り、君と結婚することが出来るからな。尤も、こちらとしては少しも望んではいないが……持参金は用意する必要は無い。どうせお互い望まない結婚だろうから」
ニコラスはため息をついた。
「お互い望まない、結婚……?」
その言葉にジェニファーは疑問符を投げかける。
「そうだ、俺は亡き妻の遺言を守る為。そして君はブルック家の財政難を立て直すためなの結婚なのだから、当然持参金など用意出来るはずも無い。違うか?」
「いえ……その通り、です……」
「そういう訳で、結婚式はしない。何しろ、こちらは妻が亡くなってまだ1年。君にしたって彼女は従姉妹にあたるのだからな。……それにしても何故妻は自分が亡くなった後の後妻に君を指名したのだ? まさか、君の差し金か?」
うんざりした様子でニコラスが尋ねてきた。
「いいえ! そんなはずはありません! だ、第一……私は……」
そこでジェニファーは言葉を切った。
(言えないわ……結婚式にも葬儀にも呼ばれていないなんて、そんなこと。言えばきっともっとニコラスを怒らせてしまうことになる……)
「まぁいい。お互い、嫌なことはさっさと終わらせてしまおう。結婚式を挙げるつもりは無い。この書類にサインしてくれ。俺の名前はもう記してある」
テーブルの上には婚姻届とペンが置かれている。
ジェニファーはペンを手にすると、早速自分の名前を記入した。「……書きました」
「よし、これで結婚手続きは終わりだ。用が済んだなら、出ていってくれ。後で執事を部屋に寄越すから、必要な話は彼から聞くように」
これ以上、ここにいてもニコラスの機嫌を損ねてしまうだけだろう。ジェニファーはおとなしく従うことにした。
「分かりました、失礼致します」
席を立ち、部屋を出ていこうとした時。ニコラスのつぶやきが耳に届いた。
「……全く。名前だけではなく、外見まで……妻と似ているんだな」
その言葉に一瞬ジェニファーの肩がピクリと跳ねるも、無言で部屋を後にした。
――パタン扉を閉じ、廊下に出るとため息をついた。
「ニコラス……本当に、貴方は変わってしまったのね……。子供の頃はとても優しかったのに……」
思わず目頭が熱くなりそうになる。
ジェニファーは泣きたい気持ちを必死で我慢し……ニコラスと始めて出会った頃を思い返した――
――翌朝「う~ん……」ベッドの中、ジェニファーは温もりを感じて目が覚めた。するとジョナサンがぴったりジェニファーにくっついて眠っていたのだ。その姿が愛しくてたまらない。バラ色の肌に金色の巻き毛のジョナサンはまるで天使のように見える。「フフフ……本当に何て可愛いのかしら」ジェニファーはジョナサンの頬に自分の頬を擦りつけると、笑みを浮かべた――**** 7時過ぎ―― 着替えを済ませて、身支度を整えているとベッドの上でジョナサンの声が聞こえてきた。「マァマ~……ドコ? マァマ~」「ジョナサン? 目が覚めたの?」ドレッサーの前で髪をとかしていたジェニファーはブラシを置くとベッドへ向かった。するとベッドの上ではジョナサンがお座りして不安そうに周囲を見渡している。「おはよう、ジョナサン。目が覚めたのね?」ジェニファーが声をかけると途端にジョナサンは明るい笑顔になり、両手を伸ばしてきた。「マァマ、ダッコ~」「はいはい、抱っこね?」ジェニファーが抱き上げると、ジョナサンは嬉しそうにすり寄ってくる。「マァマ、ハヨ」「おはよう、ジョナサン。愛しているわ」ジョナサンの額にキスしたとき。――コンコンノックの音が部屋に響いた。「あら、誰かしら」ジェニファーはジョナサンを抱いたまま、扉によると声をかけた。「どなたですか?」『ニコラスだ。今、大丈夫だろうか?』「え? ニコラス様?」すぐに扉を開けると、ニコラスが目の前に立っていた。「おはよう、ジェニファー。それにジョナサン」ニコラスは手を伸ばして、ジョナサンの頭を撫でる。「おはようございます、ニコラス様」「朝早くから訪ねてすまない。その……昨夜はよく眠れたか? 夜中にジョナサンが愚図ったりはしなかったかい?」「いいえ、そのようなことは一切ありませんでした。一晩中ぐっすり眠っていて、つい先ほど起きたところです」ジョナサンの背中を優しく撫でるジェニファー。「そうだったのか? 俺が見ていた時はそんなこと一度も無かったのに……」「私は昔から子守りをしていたので、子供の世話は慣れています。その差がジョナサンには分かるのかもしれませんね」「いや……多分、ジョナサンは分かっているんじゃないかな。自分のことを大事にしてくれる相手のことを。だからジェニファーに良く懐いているんだと思う」
今、ジョナサンはジェニファーのベッドの上でスヤスヤと気持ちよさそうに眠りに就いている。「……よく眠っているな。今迄は何度も愚図って目を覚ましていたのに」「そうだったのですか?」ニコラスの呟きに、ジェニファーは驚いて振り向く。「ああ。それで俺もその度に起きてジョナサンを寝かせつけるのに苦労していたのだが……今夜はいつも以上に酷かった」「……」その話をジェニファーは黙って聞いていたが……やがて、意を決したようにニコラスを見上げた。「その事ですが……私がここを去る日まで、ジョナサン様の傍に居させていただけないでようか? どうかお願いいたします」「去る日までって?」本当は、ずっとここにいて欲しいと告げたい気持ちを押し殺してニコラスは尋ねた。「それは、私がいなくてもジョナサンが大丈夫になるときまでです……。だから、提案させてください。3人で一緒に過ごす時間を作って欲しいのです。 私とニコラス様2人で面倒をみれば……いずれジョナサンは私がいなくてもニコラス様だけで大丈夫になる……と思うんです」ジェニファーは精一杯の勇気を振り絞って自分の考えを口にした。(ニコラスは私のことを良く思っていないのは分かっているわ。だけど……こうでもしなければ……)ニコラスの反応が怖くてジェニファーは俯いた。すると……。「……いいのか?」「え?」予想外の言葉にジェニファーは顔を上げた。すると目を見開いて自分を見つめているニコラスがいる。「本当に、ジェニファーはそれでいいのか? 俺が2人の傍に居ても……」ニコラスの瞳にはジェニファーの姿がはっきり映し出されている。こんなに真っすぐな瞳で見つめてくるニコラスは子供の頃以来に感じられた。「は、はい。お願いします」ジェニファーは思わず赤くなり、顔を背けた。「分かった。では明日から、なるべく3人で一緒に過ごすことにしよう。書斎にジョナサンが遊べる場所を作ればいいな。いや、それよりも俺がジョナサンの部屋で仕事をすればいいだろうか?」その言葉に、ジェニファーは慌てた。「い、いえ。そこまでしていただかなくても大丈夫です。1日数時間の間でも一緒の時間が取れればいいので」「いいや、それでも足りない。出来るだけ長く一緒にいたいから」じっとジェニファーを見つめるニコラス。まるで自分自身に向けられている言葉のように感じ
「だが、もうジェニファーに頼らないと決めたんだ。これ以上、俺の都合で迷惑をかけるわけには……」ためらうニコラスにシドは叱責する。「そんなことを言っている場合ですか!? ジョナサン様がそんなに激しく泣いているのに、泣き止ませることが出来ないではありませんか!」「そ、それは……」「ウワアアアアンッ! マァマッ! ドコ? マァマァ~ッ!」顔を真っ赤にさせ、増々激しく泣きじゃくるジョナサン。「ジョナサン様はジェニファー様を自分の母親だと信じてやみません。今だって、こんなにママと呼んで求めているではありませんか? それにジェニファー様がジョナサン様に会いたいと申し出てきたのですよ!?」「え……? ジェニファーがそう言ったのか……?」「はい、そうです。ジェニファー様が俺に、ジョナサン様に会わせてもらいたと願い出てきたのです!」「そんな……ジェニファーが……? 俺には願いは何もないと言っていたのに……」泣きじゃくるジョナサンを抱きしめるニコラス。「それは、自分からはニコラス様に頼みにくいからと話されていました」「成程……やはりジェニファーに会いに行ってたのか。まぁ多分、あの様子ではそうだろうとは思ったが」「……申し訳ございません。ですが、どうしてもジェニファー様を放っておくことが出来なかったので」シドは頭を下げた。「いや、謝ることはない。確かにシドの言う通り、俺ではジョナサンをどうにかできそうにないからな。それでは今すぐ、ジェニファーの元へ行こう」ニコラスは泣いているジョナサンを抱きかかえたまま部屋を出ると、シドも後をついてきた。そこでニコラスは足を止め、振り向いた。「シド」「はい」「ジェニファーの部屋には俺が1人で行く」「え? ですが……」「これは俺とジェニファーの問題だからな」「!」その言葉にシドの肩がピクリと跳ねる。「シド、今夜の仕事はもう終わりにしていい。部屋でゆっくり休んでくれ」「……分かりました。では、俺はこれで失礼いたします」「ああ。又明日」ニコラスはそれだけ告げるとシドをその場に残し、ジェニファーの部屋へ向かった。「ジェニファー様……」シドは遠ざかるニコラスの背中を見つめ……唇を噛みしめるのだった――**** その頃。ジェニファーはポリーが淹れてくれたハーブティーを飲んでいた。「いかがですか?
「シ、シド? 一体何を……?」突然抱きしめられたことでジェニファーは動揺した。「……で下さい……」ジェニファーの髪に顔をうずめるシドの口から、くぐもった言葉が紡がれる。「え? 何て言ったの……?」「泣かないで下さい……」今度は、はっきりとジェニファーの耳に届いた。「シド……」するとシドはジェニファーの身体を離し、両肩に手を置いた。「ジェニファー様。俺は……」そこで一度シドは言葉を切る。本当はこの場で、ジェニファーに自分の気持ちを告げたかった。幼少期からニコラスの専属騎士になる為、厳しい訓練を受けてきたシドは感情さえ殺すように指導されてきたのだ。誰かに心許すことなく、与えられた任務だけをこなしてきたシドは周囲から「冷血騎士」と呼ばれていた。(自分にとって特別な存在など出来るはずない……そう思っていたのに……だが、ジェニファー様はニコラス様の……)「どうしたの? シド」まだ涙を浮かべているジェニファーの涙をシドは持っていたハンカチで、そっと拭った。「そんな風に、1人で泣かないで下さい。俺はニコラス様の護衛騎士ですが、ジェニファー様の味方ですから」「シド……」「辛い事や悩み事があるなら、ポリーや俺をいつでも頼って下さい」自分の恋心を押し殺し、ジェニファーを見つめる。「心配してくれてありがとうシド。でも私なら本当に大丈夫だから」「何が大丈夫なのですか。俺では頼りになりませんか? ジェニファー様の力になりたいのです」「で、でも……」尚も食い下がってくるシドにジェニファーは戸惑う。(どうしてシドはここまで私に構おうとするのかしら? でもそこまで言うなら……)「それなら、私のお願いを聞いて貰えるかしら?」「はい、何でしょう」「ジョナサンに会いたいの。私からはニコラスに頼みにくくて……シドから話してもらえないかしら?」「分かりました。今すぐニコラス様に話をしてきます。絶対にジョナサン様に会わせてさしあげます」シドは大きく頷いた――**** その頃、ニコラスは自室でジョナサン相手に手を焼いていた。「ウワアアアアンッ!! マァマッ! マァマァ~ッ!!」「ジョナサン、ママには会えないんだ。その代わり、パパがいるだろう?」ニコラスは必死にあやすも、ジョナサンは一向に泣き止まない。「パパ、ヤッ! マァマ~ッ! アァァアア