翌日、若子は仕事中も上の空だった。パソコンの画面に並ぶ数字を見つめても、何も頭に入ってこない。気がつけば、午前中がぼんやりと過ぎていた。昨夜、若子は千景にメッセージを送って、今日のフライトの時間を尋ねた。千景は「北区空港、午後二時半発」とだけ返してきた。もう、時刻は一時を過ぎている。急に心がざわつき始めた。本当はもう決めていた―見送りには行かないと。別れなんて受け入れられないから、会わずに済ませるつもりだった。でも、気持ちが抑えきれなくなった。だめだ、このままじゃ嫌だ。行かせたくない。若子はパソコンをパタンと閉じ、慌てて席を立った。車に飛び乗り、空港まで一直線。道中、千景に何度も電話をかけた。でも、どれもつながらない。空港は広くて、人も多い。どこを探せばいいのかわからないまま、フライト時間を頼りに人混みの中を歩き回る。それでも千景の姿は見つからなかった。電話をかけ続け、メッセージも何度も送る。【冴島さん、電話出てよ。お願いだから行かないで。今、空港にいるの】【話したいことがいっぱいある。お願い、一度だけ返事して。頼むから】けれど、どれも返事はなかった。午後二時半。若子は空港のひんやりとした階段に座り、空を見上げる。雲の間をゆっくりと上がっていく飛行機を見つめながら、涙が頬をつたう。千景、あの飛行機に乗ってしまったのかな。こんなふうに、行ってしまうの?せめて、電話の一本でも、メッセージの一つでも返してほしかった。若子は涙をぬぐい、悔しさと寂しさがこみ上げて、もう一度メッセージを送った。【これからも連絡しようって言ってたのに、まだ飛行機に乗る前から電話も出てくれないし、返信もくれないなんて。冴島さんのバカ、もう嫌い、もう絶対に許さないから!】メッセージを送り終えると、若子は膝を抱えて泣き出した。そのとき、カラカラとスーツケースのキャスターが転がる音が近づいてきたけど、若子は気にしなかった。すると、隣に誰かが腰かける。「ねえ、お嬢さん、こんなところで泣いててどうしたの?」聞き覚えのある声に、若子はハッと顔を上げた。そこには見慣れた顔―千景が座っていた。「冴島さん、うそ......行かなかったの?」「会いたいって言ってたんだろ?おかげで飛行
若子の鼻の奥がツンと痛んで、涙が止まらなくなった。「冴島さん、私だって、どうしたらいいかわからない。すごく怖いの。未来がどうなるのか、何も見えないんだ......」その言葉を聞いた瞬間、千景の心は鋭く刺されたように痛んだ。「君の言う通りだ。俺だって怖いし、これからどうなるのか、正直分からない。でも、もうこれでいいんじゃないか。君は藤沢と一緒にいればいい。二人は十年以上の歴史があって、君は彼のことをずっと好きだったし、二人の間には子どももいる。俺なんて、ただの部外者さ。どうやったって敵わないよ」「冴島さん、そんなこと言わないで......」運命の人に出会えたら、一分間でも十分に恋に落ちることができる。逆に、合わない人となら、どれだけ一緒にいても、心はどんどん離れていく。「じゃあ、俺は何て言えばいいんだ?」千景は言葉を絞り出す。「君と藤沢の長い歴史を考えたら、君の心の中に彼のための場所が全く残っていないなんて、本当に思えるのか?」「......」若子はうつむいて、「私......」「若子、君が否定したとしても、藤沢は君の心の中に永遠に居場所がある。傍から見ていれば、よく分かるよ」もしかしたら、部外者だからこそ見えるのかもしれない。昨日の夜、修が若子を連れて出かけたとき、千景はこっそり後をつけた。二人のやり取りを見てしまった―二人がキスするところまで。彼らはかつて、世界で一番近しい存在だった。離婚しても、長い年月と子どもという絆がある。千景は、ますます自分がこの関係に入り込む資格なんてないと感じていた。「若子、もう航空券を買った。明日の午後の便だ」「え......?」若子は驚いて千景を見つめる。「もう航空券買ったの?」「うん。本当は明日の朝伝えるつもりだったけど、今話しても同じだろう」これ以上引き延ばせば、ますます離れたくなくなるだけだ。「冴島さん......」若子の心は焦りでいっぱいになった。でも、何と言えばいいかわからなかった。引き止めたい気持ちはあるのに、うまく言葉にならない。仮に引き止めても、どうなるというのだろう。「これでいいんだ。俺はただ帰国するだけ。そんなに悲しまなくていいさ。また会えるよ。これからも連絡しよう」千景の、少し荒れた手が、優しく若子の頬の涙を拭った。「泣
この晩ごはんは、和やかな雰囲気のまま終わった。食事のあと、三人はリビングでくつろぎながら話をした。空気はどこまでも穏やかだった。若子と修は、ほとんど本の話ばかりしていた。若子はこれから書こうと思っている本について、修にたくさん質問を投げかけた。修はひとつひとつに丁寧に答え、アドバイスもしてくれた。金融のことに関しては、修のほうがずっと詳しいし、何年も経験を積んできただけあって、どんな難しい話題も分かりやすく語ってくれる。二人が会話を深めていくうちに、どんどん専門的な話になって、もう他の人にはついていけないほどだった。千景は、ソファで黙って二人のやりとりを眺めていた。何を話しているかよくわからなくても、ふたりを見ているだけで不思議と嫌な気持ちはしなかった。目線はずっと若子に向けられていた。会話に入る隙間もないけれど、それでよかった。ただ、静かに見守っていた。ふと気づくと、時刻はもう九時半を過ぎていた。千景は時計を見て、それから長いこと若子の横顔を見つめていた。そしてそっと立ち上がり、静かに部屋を出ていった。若子と修は、話に夢中になりすぎて、千景が立ち上がったことにさえ気づかなかった。何かが足りないような気がして、若子がふと顔を上げると、千景はすでにドアを曲がって、姿を消していた。「冴島さん!」若子は慌ててあとを追う。玄関を出たときには、千景はもう遠くまで歩いていた。「冴島さん、ちょっと待って!」若子は背中に向かって声をかける。千景は、立ち止まった。若子は急いで追いついて、「どこに行くの?」千景は背を向けたまま答えた。「俺は、やっぱり出ていったほうがいいと思う」「今日はここに泊まるって約束だったのに、どうして黙って出ていくの?」千景は振り返って言った。「君と藤沢はすごく楽しそうだったから、邪魔したくなかっただけだ」若子は、その言葉で初めて自分が千景のことを気にかけていなかったことに気づいた。「冴島さん、わざとじゃないの。私、本当に本を書きたくて、話に夢中になってただけ。ごめんなさい」「謝らなくていい」千景は言う。「君は何も悪くない。ただ、俺は帰りたくなっただけ。何も言わずに出ていって悪かった」「今夜はここに泊まるって言ったよね?もう夜も遅いし、明日帰ればいいじ
「そう言ってもらえてすごくうれしい。ちゃんと整理できたら一番に見せるから、変なところとかミスがあったら、絶対に教えてほしいな」修は「うん」とうなずいて、やさしく言った。「もう待ちきれないよ」そのやりとりを、千景は黙って見つめていた。二人がこうして並んでご飯を食べて、まるで天の采配みたいに息がぴったり合っていて、長い間すれ違ってきたのに、今またこうして前向きな話ができる。同じ話題で盛り上がって、同じ考えを持っている―その姿を見ていると、二人はやっぱり似合いの相手なんだと思えてくる。けれど、自分と若子には、共通の話題なんてあるだろうか。金融の話なんて全然わからない。自分はただの冷血な殺し屋だ。若子のそばにいるときだけは普通の人間になれる気がするけれど、本当の自分なんて、到底受け入れられない。修は違う。生まれも育ちも誇れるほど立派で、学歴も自信たっぷりだ。若子には修みたいな人がふさわしい。そうすれば、幸せな人生がきっと待っている。それに修は、自分の過ちにもちゃんと気づける人だ。もし若子が彼を選んだら、きっと全力で大事にしてくれる。何よりも、若子の人生も仕事も、支えてくれるに違いない。自分なんて、もしかしたら彼女の人生に災いしか持ち込めないかもしれないのに。「冴島さん、もっと食べてね」若子はそう言って、千景のお皿に料理を取り分けた。「熱いうちに食べて、遠慮しなくていいから」若子のそのやさしさに、千景の気持ちはますます固まっていく。修は、若子のそばで話を聞いて、導いてくれる存在。自分はただの「お客さん」みたいなもの。若子は千景が複雑な金融のことをわからないと知っていたから、何も話さなかった。千景がしてくれたことは、全部当たり前のこと。唯一間違いがあるとすれば、若子が彼にやさしくしすぎたこと―それが、千景に余計な期待を抱かせてしまうかもしれない。修が前に言っていた。若子は千景のこと、好きだって。でも、それはきっと―ただの友達として、だろう。「冴島さん、今夜はここに泊まっていけば?明日帰ればいいよ」若子はご飯を食べ終わったころ、すでに外は暗くなり始めていたし、食べ終えてすぐ帰ってもらうのもどうかと思っていた。せっかくなら少し話したいし、そうするとまた遅くなってしまう。千景はいまSKグループ系列
修が質問した。「じゃあ、その『金融評論家』の言っていることが本当に正しいかどうかは、どうやって見抜けばいい?だって、実際に全てが噂ってわけじゃないだろ?」「まさにその通り。そこが一番大事なポイント」若子は笑顔で答える。「だからこそ、『信頼できる情報とは何か』『どうやって金融情報を検証するか』ってテーマを本の中で取り上げたいんだ。ネットの情報源の確かめ方を紹介したり、企業のレポートや財務データ、ニュースの裏付けをどう取るかも解説するつもり。例えば、ある会社で本当に何かトラブルがあった場合、その内容がどんなものかを具体的に分析する必要があるし、その問題が解決可能なのか、あるいは単なる市場の正常な揺らぎなのか、マクロな視点でも見ることが大切。人で例えるなら、顔にホクロが一つあるだけで『人間じゃない』と決めつける人がいるけど、そのホクロも人の一部であって、ホクロ=人間ではない。でも、断片だけを切り取って『ホクロ=すべて』と勘違いしてしまう人がいる。これが『断章取義』、本質を見ずに一部だけ見て全体を判断する―まさにネットや金融の世界でよくある現象だよね」若子は続ける。「この本で一番書きたいのは、身近な例を使って金融データや知識を分かりやすく解説すること。複雑な概念をシンプルに伝えたいし、『文字が読めれば誰でも分かる』ような本にしたい。いまの金融市場は複雑で、普通の人が損しやすいから、誰でも『読んで理解できる金融』を目指してるの。読まれるかどうかは分からないけど、自分の思ったことや考えをちゃんと形にしたいんだ。......ただ、自分の考えが変じゃないか、ずっと誰かに聞いてみたかった」若子ずっと、金融のプロである修にこのテーマについて聞いてみたかったのだ。修はしばらく考えてから、真剣な眼差しで言う。「そのアイディア、十分合理的だ。小説のキャラや物語の中で、金融市場の現象や現実を生き生きと描けるし、ネットの暴力や群集心理と金融市場の群集行動を結びつけることで、金融の複雑さや不安定さ、噂や感情が投資判断にどう影響するかを読者に実感させられる。そして、物語にすることで抽象的な金融知識も身近に感じてもらえるし、実際の日常と結びつけて説明できるから、金融リテラシーやリスク意識も自然と高まる。読者に『冷静な視点』や『ファ
結局、若子は修の提案を受け入れ、ヘリコプターで帰宅することにした。車で渋滞に巻き込まれるよりはるかに早い。車を駐車場に取りに行くこともなく、ビルの屋上で待っていると、ほどなくしてヘリが到着。行き帰りで四十分もかからず、若子はあっという間に家に戻ってきた。―お金持ちって、本当にすごい。リビングに入ると、千景と修が暁と一緒に遊んでいた。暁の目をアイマスクで隠して、「どっちがパパか当てるゲーム」。暁は修の胸に飛び込んだり、千景の方へ行ったり、子犬みたいにあっちへこっちへ。大人二人は、まるで少年のようにはしゃいでいた。その光景に、若子の心はじんわり温かくなった。「若子、おかえり」千景が真っ先に声をかけ、ふたりとも慌てて暁のアイマスクを外した。若子は何も言わず、まっすぐ暁を抱き上げ、ほっぺにキスをする。「暁、ママ帰ってきたよ」「ママ!」暁は嬉しそうに若子にしがみつき、「ママ、ママ」と声を弾ませる。千景は、仕事帰りの若子の姿を見て「働き始めてから、ますます生き生きしてるな」と感じていた。若子が帰ると、執事がすぐにキッチンへ連絡。食材の準備はすでに万端、煮込み料理もタイミングを合わせて温め直されていた。二十分ほどで、ごちそうがテーブルに並んだ。暁はすでに早めに夕食を済ませていたので、執事が隣の部屋で遊ばせてくれることに。大人三人はダイニングテーブルで、和やかにおしゃべりを始める。「冴島さん、前に借りた本だけど、まだ読み終わってないけど、すごく良い本だった。実は、あの本を読んでて自分も本を書きたくなったの」「本当に?どんな本を書くつもり?」「金融の世界を舞台にしながら、ネット暴力や群衆心理、独立思考の大切さを描きたいなと思ってるの」修が少し驚いた顔で、「そんなテーマ、初めて聞いた。もう少し詳しく教えて」と促す。「今の金融市場には複雑な知識や概念があふれているけど、結局、景気の浮き沈みや市場の安定は『人の心』にも大きく左右される。みんなが不安になれば投資も消費も手控え、株価が下がり、景気も悪化する。恐怖や不安、集団心理が連鎖していく―そういう側面も描きたい」修は箸を置き、じっくりうなずいた。「なるほど、確かにそうだ。信頼感がなくなれば資本が逃げるし、一般消費も落ち込