妊娠が分かった時、バレッタはリントン侯爵に打ち明けようか迷った。 既婚者で家族のいる男の子供を身籠ったのだ。「堕ろして欲しい」と言われるに決まっている。 けれど、バレッタはお腹の子を産む決意をしていた。 ――父親がいなくても、この子はちゃんと自分が育ててみせる。 「堕ろせ」と言われても、それだけは絶対に聞けない。 バレッタは覚悟を決め、いつものように家を訪ねてきたリントン侯爵に、自身の妊娠を打ち明けた。 彼はそれに大きく驚いた表情を見せ――次の瞬間、パァッと満面に笑顔を咲かせた。「そうか――そうか、そうか! 私の子を身籠ったのか! あぁ……今日はなんて……なんて素晴らしい日だ! ありがとう……ありがとう、バレッタ! 悪阻は大丈夫か? 辛くないか? ベッドに横になっててもいいぞ。何かして欲しい事はあるか? 私が全部するから、遠慮なく言ってくれ」 全くの予想外なリントン侯爵の喜びように、バレッタは思わずポカンと呆けてしまった。 その上、「今すぐ離婚の要求をしてくる」との彼の言葉に、バレッタは大いに慌ててしまった。「今離婚をしてしまったら、不貞をした貴方の評判が地に落ちて侯爵の仕事が難しくなってしまうわ。それに夫人とは政略結婚なのだから、離婚をしてしまったら色々な面で支障が出てしまうでしょう。私は静かで穏やかな生活を好むし、そんな私が侯爵夫人にはなれないし、今の生活を壊したくないの」 バレッタはそのような事を懇々と訴え、リントン侯爵は彼女の言う通りな事に口を噤むしかなかった。 それに、冷静になって思ったが、夫人に離婚を要求したとしても、彼女は絶対に首を縦には振らないだろう。 今までの態度と言動から、あの女は、侯爵家の資産目当てで自分との結婚を承諾したのだろうから。 バレッタとお腹の子の存在が知られてしまったら、あの女の事だ、恐らく彼女に危害を加えてくるだろう。 バレッタと自分の子を守る為にも、あの女には絶対に彼女達の事を知られてはならない―― そこまで考え、リントン侯爵はバレッタの言う事に渋々了承するしか無かった。******** その日からリントン侯爵は、外交で家を空ける日以外は頻繁にバレッタの家に来るようになり、身重な彼女の世話や手伝いを積極的にした。 リントン侯爵が自分の家にいる事が殆ど無くなったが、夫人は彼の事など一切興味
リントン侯爵と侯爵夫人は政略結婚だった。 しかし、政略結婚でも良き夫婦関係になろうと、リントン侯爵は結婚前から夫人に対し親交を築こうとした。 だが、夫人は違った。リントン侯爵にいつも冷たい態度を取り、必要最低限の会話しかしなかった。 夫人の友人から聞いたが、彼女は面食いとの事だった。 自分のようにパッとしない、極々平凡な見た目は彼女の好みではないとリントン侯爵は落ち込んだが、諦めず友好的に接した。 そして二人は結婚し、初夜は夫人の「疲れているから早く済ませたい」との言葉で、義務的に必要最低限のみで終わらせたが、すぐに彼女の妊娠が発覚した。 余りにも早い妊娠に、リントン侯爵の脳に嫌な疑問が過ぎる。 それを考えないよう無理矢理頭の隅に追いやって、彼は夫人の妊娠を喜んだ。 リントン侯爵の喜びとは反対に、不機嫌な夫人は彼が自分の手伝いをしようと近付く事を頑なに拒んだ。 リントン侯爵は気持ちが沈みながらも、夫人が欲しいと言った物は何でも買ってあげた。 そして産まれてきた赤ん坊は、髪も瞳も顔つきも自分に全く似ていない女の子だったが、それでもリントン侯爵は夫人を労い、母子共に無事な事を感謝をした。 夫人がつけた、『ヘビリア』と名付けられた我が子の育児を積極的にしようとしたが、夫人がそれを強く拒絶した。「あなたは子育てに一切関わらないで頂戴。あたくしが全部しますので。あなたは家にお金を入れてくれるだけでいいわ」 そう冷たい口調で告げられ、腹を痛めて産んだのは夫人だから、ただ無事を祈っていただけの自分は何も言えないと、リントン侯爵は口を噤んでしまった。 しかし、実際にヘビリアの世話をしていたのは乳母で、夫人は殆ど何もせず外に出掛けては夜遅く帰ってきた。 複数人の男と遊んでいるという噂もちらほらと聞いたが、本人に確認する勇気も無く、時が経つにつれて自分の心が干乾びていくのをリントン侯爵は感じていた。******** そんなある日、リントン侯爵は用事で人が滅多に通らない浜辺近くを歩いていた。 すると、浜辺の岩の上に座って海を見ている女性がいる事に気が付いた。 茶色の長い髪に、蒼色の煌めく瞳。 その横顔がとても美しく、吸い寄せられるように女性のもとまで歩いていくと、彼女は小さく唄を歌っていた。 快晴の空のように澄み切った声音に、リントン侯爵は思
『そういう訳だ。国王、この男を預かっていいだろうか』 ネプトゥーの問い掛けに、国王は考える間も無く、深く頭を下げた。「どうぞ宜しくお願い致します、海獣神ネプトゥー様。妻を見習い、息子達に分け隔てなく接してきたつもりでしたが、儂の愚かな過ちの所為で、スタンリーに強い劣等感を抱かせてしまっていたようです……。それが更に良くない方向に捻じ曲がってしまった……。何年掛かっても構いません。ネプトゥー様に全てお任せしてしまい、平身低頭の思いですが、どうか息子に正しい心を取り戻させてやって下さい……」「ち、父上っ!? ――嫌だ、僕は行きたくない! 僕はこの国の王になるんだ!! そして国民皆が僕を敬うんだ……っ!」『性根を正しき方向へ鍛え上げれば、それも可能になるだろう。……何十年掛かるやも知れぬがな』 ネプトゥーはそう言うと、喚くスタンリーの首根っこを掴んで持ち上げた。 暴れるスタンリーに構わず、ネプトゥーはヴィクタールの方を見る。『我はそろそろ戻ろう。第一王子よ、我に出来る事はもういいか?』「一つ、お願いがあるんだ。王家の『伝承』、今後はアレを無しにして欲しい。王になる者はこちらが決める。あと、王族が『聖なる巫女』の血を引く娘との婚姻も無しだ。それもこちらが自由に決める。――今まで本人の意志関係無く、無理矢理王族と結婚させられた『聖なる巫女』もいるんだ。オレの母のようにな……。そういうのは、もう止めにしたい」 眉を顰めながら言うヴィクタールの言葉に、国王が瞼を閉じ、顔を伏せた。「――それに……さ。政略じゃなくてさ、王族で生まれても、自分の好きな子と結婚したいだろ? なぁ、ウェリト?」「へっ?」 いきなり話を振られ、ウェリトは思わず隣の女性を見て、顔を真っ赤にさせた。 女性もつられて頬を赤く染めている。「なっ、何で俺に……!?」「お前は末っ子で甘えたがりのところがあるから、彼女のような姉さん女房は合ってるかもな?」「っ!!」 ウェリトはこれ以上にない程顔を赤くさせて、口をパクパクさせている。「ヴィル、ウェリト殿下の顔から湯気が出そうだよ……」「ははっ。悪ぃ悪ぃ、からかい過ぎた。そういう訳で、『伝承』は今を持って完全廃止だ。いいか?」『あぁ、いいぞ。了解した』 ネプトゥーはヴィクタールのお願いをすんなりと受け入れた。「お前が寂しくなった
「あとは……『古の指輪』を盗んだ、だっけ? これは王家の物だから、王族のヴィル兄さんが持ち出しても何の問題も無いけど? はぁ……全く何言ってんだか」「…………!!」 スタンリーが悔しそうに唇を噛む。「衛兵、スタンリー兄さんとヘビリア嬢を捕まえて牢に入れて。――そうそう、パーティーの時ヴィル兄さんに飲ませた『睡眠薬』の残りが、どちらかの部屋にまだあるかもしれないから、それも探して。更なる『証拠』になるし」「はっ!」 衛兵達が素早く動き、スタンリーの武器を奪うと、彼とヘビリアを拘束する。「くそっ! は……離せっ!!」「そうよ、離しなさいよっ! あたしはリントン侯爵家の長女なのよ!? あんた達が勝手に触っていい身分じゃないの! ――お父様……お父様、助けて!! あたしは何もしてないわ!! ねぇそうでしょ!?」 リントン侯爵夫人は気絶しているので、ヘビリアはすぐさまリントン侯爵に助けを求めた。「…………」 彼は俯いていた顔を、ゆっくりと上げる。 そこには、表情が一切何も無かった。「……私はもう、君の『父』では無い。――いや、最初から『父』では無かったか……。ここに来る前に離婚届を教会に提出し、正式に受理された。君の母親は頑なに署名を拒否したが、不貞の証拠を全て見せたら、観念して署名してくれたよ。だから君とは血も何も繋がっていない、ただの“他人”だ。君の母親も、シャーロットもだ」「は……っ!? な……何よそれ……っ?」「君の母親に『子育てに一切口出しするな。あなたは金さえ家に入れてくれればいい』と何度も強く言われ、君達に叱りも褒めも何もしないままここまで来てしまった。私は父親失格だ……。君達に対しても、“あの子”に対しても……」 苦渋に歪んだその顔は、深い後悔も濃く刻まれていた。「君が出所しても、私には一切頼らないで欲しい。今回の責任を取り、近い内に『侯爵』の爵位を国へ返上するつもりだ。返上したら私は平民になり、無一文になるだろう。『聖なる巫女』の血筋は傍系の者に託そうと思う」「なぁっ……!?」 親が離婚しても、リントン侯爵を頼れば今まで通りの裕福な生活が出来るとヘビリアは思っていた。 しかし彼が平民になったら、確実にそれが出来なくなる。 自分も、今まで散々馬鹿にしてきた『平民』になり、今まで散々貶してきた『貧乏』を余儀無くされてしま
無数の責めるような視線に、スタンリーは尻餅をついたままたじろぐ。「……スタンリー、お前は色々とやり過ぎた。オレはお前を絶対に許さねぇ。コイツを殴った事、刺した事。それ以上の痛みや苦しみをお前に与えたくて仕方ねぇ」 射抜くような視線でスタンリーを睨みつけるヴィクタール。 その鋭い眼光に、「ヒッ」とスタンリーの喉から情けない声が漏れた。「……スタンリー殿下の次期国王は絶望的だな……」「あぁ、獣神様に認められなかったし、海獣神様の“愛し子”を刺したんだからな……。牢行きだよな、絶対に」「ヴィクタール殿下が次期国王なのは決定的じゃないか?」「そうだな……。獣神様達にも認められたし、お二方共ヴィクタール殿下に好意的だし、文句の付け所が無いよ」 聞こえてくる民衆の話し声に、スタンリーの顔が怒りと羞恥で真っ赤に染まる。「――お、お前達っ! 忘れてないか!? 兄上は婚約者がいるのに堂々と不貞をしたんだぞ!? しかも王家の宝である『古の指輪』を盗み出した!! そんな犯罪者が次期国王な訳ないじゃないか!! 牢行きなのは兄上の方だっ!!」 スタンリーの叫びに、ヴィクタールは微かに顔を顰めた。「――確かに兄さんは牢行きになるな。但し、ヴィル兄さんじゃなくてスタンリー兄さんの方だけど?」 その時、突然後ろからよく通る少年の声が聞こえ、皆が一斉に振り返る。 そこにいたのは、この国の第三王子であるウェリト・サーラ・ラエスタッドだった。「ウェリト!?」「兄さんっ! 生きてて本当に良かった……っ!」 ウェリトが勢い良く飛びついてきて、ヴィクタールはよろめきながらも彼を受け止める。「あぁ、お前も元気そうで良かったぜ。ところでお前、どうしてここに? 隣国に視察に行ってたんじゃ……?」「何か嫌な胸騒ぎがして急いで戻ってきたんだよ。そしたらとんでもない事になってるしさ――っていうか、何で兄さん上半身裸なんだよっ!? 皆の前で恥ずかしいだろっ!?」「しょうがねぇじゃん、海に飛び込んだりで色々あったんだからさ」「伝説の獣神様が二人も目の前にいるし、とんでもなく色々あったのは十分理解したけどさ!? 少しは隠せよなっ!?」「んだよ。女じゃあるまいし別にいいじゃねぇか」 溜め息をつき、ヴィクタールが目に掛かった黄金色の濡れた前髪を掻き上げる。 色艶があるその仕草に、周
「詠唱は……ま、簡単でいいか。『海獣神ネプトゥー、我の前に姿を現せ』」 その瞬間、リシュティナの指に嵌めていた指輪が青く強烈に輝き始めた。 その場にいた者達の視界が真っ青に染まり、その光が徐々に無くなっていった頃、ヴィクタールはそっと目を開けた。 目の前に浮かんでいたのは、逞しい上半身を晒け出し、下半身は魚の姿で、手に三叉槍(トライデント)を持つ、立派な髭を生やした威厳ある壮年の男だった。『我を呼び出したのは汝らだな。多大な魔力に、直系の「聖なる巫女」の血を引く者――おぉ、汝は我の“愛し子”だな。汝が蘇ったのは気配で感じていた。フェニクスよ、心から礼を言う』『この二人が頑張ったからよ。私はただ条件を満たしたので「蘇生魔法」を掛けただけですわ』『ふむ。汝らの心根、とても良し。――“合格”だ。汝らに「富」と「力」を与えよう』「――あ、そんなのいらねぇから」『何?』「……はあぁっ!?」 ヴィクタールのあっけらかんとした返答に、ネプトゥーは眉尻をピクリと動かし、スタンリーが素っ頓狂に叫んだ。「何を言ってるんだ、兄上っ!? 折角『富』と『力』を与えて貰えるんだ! 受け取らないでどうするんだよ!? だったら僕が代わりに全部貰う! そう海獣神様に伝えろ!」「ならあたしも戴きますぅ♡ あたしは贅沢言わないから、『富』だけお願いしますぅ」 スタンリーに続いて、ヘビリアも便乗してきた。 そんな二人に、ネプトゥーは身も凍るような威圧の眼差しを向けた。『黙れ、欲深き愚かな者共が。汝らに与える「富」と「力」など一欠片も存在しない』「………っ!!」 二人はネプトゥーの鋭い眼光に、喉の奥から情けない悲鳴を出し、その場に尻餅をついてしまった。『……本当にいらぬのか?』「あぁ。そんなの貰ったって、戦争や人同士の争いの火種になるだけだ。人は目標の為に懸命に努力するからこそ輝くんだ。今後はそういうのは無しにしてくれ」『……フッ、そうか。分かった、そうしよう。では、我に出来る事は何かあるか? 可能な事なら叶えてやろう』「あぁ……その前に訊きたい事があるんだ。お前――って言っちゃ流石に失礼か。フェニがタメ口を好むから、同じ獣神だし同じかと思ったんだけど」『あぁ、構わぬ。我は汝が気に入った。気にせず気楽に話すがよい』「じゃあそうさせて貰うぜ。お前、スタンリー達に