その後の二、三日も、玲奈は相変わらず忙しさに追われていた。毎日早朝から夜遅くまで仕事漬けの彼女にとって、茜が青木家で一緒に暮らしているとはいえ、母娘で過ごす時間はほとんどなかった。一方で、智昭も多忙ながら、毎日のように茜に電話をかけてきていると聞いていた。とはいえ、その電話の時間に彼女はいつも不在で、親子の会話の内容までは分からなかった。茜の誕生日は金曜日だった。智昭が普段から十分に愛情を注いでいたからか、誕生日に彼が帰って来られないことを知っても、茜はそれほど落ち込むことなく、玲奈の腕に抱きついてこう言った。「大丈夫、ママが一緒にいてくれたらそれだけでいいよ」だが、当日も玲奈が忙しくて一緒に過ごせる時間があまりないと知った時、せめてご飯を作ってプレゼントを渡す程度しかできないと聞かされた茜は、さすがに少しがっかりした様子だった。玲奈の手作りケーキを食べるのは、もう随分と久しぶりだった。あの味が恋しくなっていた。最低でも、玲奈はケーキを作ってくれると思っていた。でも、最近の玲奈の忙しさは見てきたから、茜は落ち込んではいたけれど、わがままを言ったりはせず、「そっか、わかったよ……」とだけ口にした。玲奈は本当に多忙だった。長墨ソフトに藤田グループ、そしてケッショウテック。どこも彼女を必要としていた。毎日深夜まで残業が続き、いくら身体があっても足りない状態だった。とはいえ、茜の誕生日だ。自分が産んだ子なのだから、どんな形であれ、ちゃんと責任を果たすべきだと思っていた。まだ智昭と正式に離婚もしていないのに、娘のことを放置しているようでは、あまりに無責任だ。それに今は……そう思った玲奈は、「明日、もし早く仕事が終わったら、ケーキ作ってあげるね」と言った。茜はぱっと笑顔になった。「うん!ありがとう、ママ!」ところが木曜日、玲奈は目が回るほど忙しく、すべてが終わった頃にはすでに深夜三時か四時を回っていた。帰宅してシャワーを浴び終えた頃には、もう朝の五時になっていた。そのうえ九時過ぎにはケッショウテックで会議があり、ケーキを作る時間など到底なかった。玲奈は急いで茜にうどんを一杯作り、プレゼントを渡すのが精一杯で、そのままケッショウテックの会議へと駆け出していった。その日も、すべての仕事が
月曜の朝、玲奈が会社のビルに着いたちょうどそのとき、同じく出勤してきた翔太と鉢合わせた。翔太が微笑む。「おはよう」「おはよう」その直後だった。玲奈の視界に、瑛二の姿が映った。彼の姿を目にした瞬間、玲奈の足がほんのわずか止まる。翔太も瑛二の姿を確認すると、眉をひそめた。瑛二は翔太の反応を特に気にした様子もなく、玲奈のもとへとまっすぐ歩み寄ってきた。「昨日の夜中に帰ってきたばかりなんだ。しばらく会えてなかったから、ちょっと顔を見たくて」瑛二に他意はなかった。ただ、本当に顔を見に来ただけだった。玲奈の態度ははっきりしていて、彼女を困らせたくなかったし、嫌われるのも望んでいない。だから彼は言った。「仕事中だよね?私のことは気にしないで。すぐ帰るよ」玲奈としても、瑛二に対してこれ以上言うことはなかった。突然の訪問に、言葉も浮かばなかった。彼の言葉に玲奈は軽くうなずくと、そのまま振り返ってビルの中へ入っていった。翔太は瑛二に一瞥をくれると、玲奈のあとを追った。瑛二は玲奈の背中を黙って見送る。しばらくそうして立ち尽くしていたが、やがて車へと戻った。車内には、一束の花が置かれていた。本当はそれを玲奈に渡すつもりだった。でも、今の距離感でそれを差し出してしまったら、きっと次に会うとき、彼女はもっと遠ざかってしまうかもしれない。そう思うと、瑛二は苦笑せざるを得なかった。翔太がエレベーターのボタンを押し、玲奈とともに中へ入る。無言のまま彼女を見ている翔太に、玲奈がふと顔を上げる。「何かあった?」翔太は首を振る。「いや、別に」そう言いながらも、結局は我慢できずに尋ねた。「さっきの田淵さんって、よく会ってるのか?」「いいえ」瑛二の仕事は特殊で、まとまった休みもほとんどない。例え彼が玲奈に会いたくても、時間が合わないのが現実だ。先ほどの玲奈の対応からも、瑛二を拒んでいることは明白で、翔太は内心ほっとしていた。ただ、瑛二が本気で攻めてきたら、玲奈が押し切られてしまうのではないかという不安もあった。そんなことを考えていたら、ふと辰也の顔が浮かんだ。辰也もまた、玲奈に好意を持っているはずだ。けれど、辰也はずいぶん長い間姿を見せていない。翔太と同じように、彼もまた積極的に玲奈にアプローチしてこな
玲奈の離婚を指折り数えて待っていたのは、礼二や瑛二だけではなかった。辰也もまたその一人だった。だから、礼二以外にも、辰也は木曜日が玲奈と智昭の離婚証明書を受け取り予定日だと知っていた。彼はこのところ地方への出張が多かった。そして木曜の未明、わざわざその日に合わせて帰ってきたのだった。自宅で数時間ほど休んだあと、午前十時を過ぎて少し仕事を片付けたが、どうしても気になって、彼は清司に電話をかけた。「最近ずっと忙しくてさ、お前や智昭ともしばらく飯に行ってないよな。今日の昼、一緒に智昭も誘ってどう?」清司は答えた。「俺はいいけど、智昭は無理だな。数日前に海外出張に行ってて、まだ戻ってないんだ」辰也の胸がざわついた。「智昭……出張に?」ということは、今日の離婚手続きは行われていない?最近、智昭や優里たちとはあまり連絡を取っていなかった辰也は、清司に電話したのも、玲奈と智昭の離婚の進捗を探るためだった。もし離婚が成立していれば、今日こそは——まさか、こんなことになるとは……「それで、智昭はいつ頃戻ってくるんだ?」清司は今では、智昭と玲奈の離婚には以前ほど関心を持っていなかった。辰也の問いにも、特に深く考えることなく返した。「さあな、毎年この時期は特に忙しいって知ってるだろ?今回もどれくらいかかるか分からないよ」辰也は視線を落とし、それ以上は何も言わなかった。電話を切ったあと、玲奈の番号を見つめながら、今日は連絡できるかもしれないと思っていた自分の希望が、また遠のいたことを悟った。……忙しい日々は、いつもあっという間に過ぎていく。金曜の午後、仕事中の玲奈に茜から電話がかかってきた。学校は今日から夏休みに入り、家に智昭がいないから一緒に住みたいというのだ。玲奈はそれを断った。数日前、智昭から電話があったときには、すでに数日間出張に出ていた。彼女はすぐに帰国するとばかり思っていた。だが、そこからさらに一週間が経っても、彼はまだ戻ってこなかった。茜は夏休みに入ってからはしばらく家に一人でいたが、ついに我慢できず、水曜日にまた玲奈に電話をかけてきた。「ママ、パパ出張に行ってもうずいぶんになるし、一人で家にいるの寂しいよ。ママのところ行ってもいい?」寂しげな声に、玲奈はスマホを握る手に力がこもっ
月曜日、玲奈はいつも通り出勤した。忙しい玲奈は、ケッショウテックと長墨ソフトを行き来していた。火曜の夜、退勤時のエレベーターの中で、玲奈はふとスマホの日付を見て、そっと視線を落とした。一日中働き詰めだった礼二も、すっかり疲れきっていた。ふと閃いたように、彼は訊いた。「明日、離婚証明書をもらう日だったよな?」玲奈はスマホをバッグにしまい、「そう」と答えた。智昭との長年の関係が、ついに終わろうとしている。礼二は彼女のことを思い、喜ぶべきか悲しむべきか分からなかった。正直、智昭のことは気に入らなかった。だが、玲奈が何年も彼を愛してきたことを思うと、この結末にやるせなさを感じずにはいられなかった。けれど、どんなに辛いことも、いつかは過ぎ去る。正式に離婚すれば、玲奈もようやく新たな一歩を踏み出せる。そんな思いを胸に、彼は玲奈の肩をそっと叩いて慰めた。言葉はなかった。翌朝、ランニングを終えて朝食を取り、会社に戻って仕事を始めようとしたその時、玲奈のスマホが突然鳴りだした。智昭からの電話だった。以前、離婚の手続きをした時に、正式に離婚が成立する日取りを決めていた。明日がその日だったので、智昭が電話をかけてくるのは当然のことだった。彼女は電話を取った。「もしもし」そう言って、智昭が口を開く前に彼女は続けた。「明日の朝九時、時間通りに行くから——」そこまで聞いたところで、智昭が彼女の言葉を遮った。「今、海外に出張中なんだ」玲奈は一瞬言葉を失ったが、何も言わないうちに智昭が続けた。「数日しないと戻れそうにない。だから離婚証明書を受け取るのは、少し延期になるかもしれない」玲奈は眉をひそめ、沈黙したままだった。智昭は彼女の不満を察したのか、「悪かった、今回は俺が悪い」と素直に謝った。玲奈は深く息を吸い、数秒の沈黙の後、「わかった」と答えた。そう言い終えるやいなや、彼女は一方的に電話を切った。電話を切ったあと、彼女は眉間を押さえた。まだ気持ちの整理もつかないうちに、スマホがまた鳴った。だが、智昭からの再度の着信ではなかった。今回の着信相手は瑛二だった。玲奈はさらに眉をひそめた。今後、彼女はあの基地に頻繁に行くことになるだろう。瑛二とは、顔を合わせる機会はきっとある。瑛二には
遠山おばあさんや優里だけでなく、他の者たちも同じことを思っていた。結菜は鼻で笑って言った。「前から言ってたよね、あいつにそこまでの実力なんてないって。でも信じなかったのはあなたたちでしょ」美智子も笑いながら言った。「まさかあんな大胆に、あんなに大勢の前でデタラメ言えるなんてね?ねぇ、優里ちゃん?」優里は何も言わず、ただゆっくりと口元を歪めて笑った。そのとき、結菜が嬉しそうに口を開いた。「ってことはさ、あの女が離婚した後で湊家に嫁ぐなんて、たぶん無理じゃん?」玲奈の実力に疑問がある以上、将来どこかの名家に嫁ぐ可能性も限りなく低い。つまり、玲奈も青木家も今後本当に這い上がるチャンスなんて、ほとんどないってこと。そう思うと、遠山おばあさんも結菜も、自然と機嫌が良くなった。車に乗ってから、遠山おばあさんが笑いながら言った。「智昭が海外から戻ってきたら、もう離婚届受理証明書を受け取れるんだからね」結菜はそれを聞いてうれしそうに「そうそう」と頷いた。当事者じゃないとはいえ、やっぱり胸が高鳴った。だって、今は毎日智昭のことを「お義兄さん」って呼んでるし、姉と智昭の関係なんてもう紙切れ一枚じゃ測れないって思ってるけど、法的には玲奈と智昭が夫婦ってのが、どうしても気に食わなかった。遠山おばあさんも佳子も、結菜と同じような気持ちだった。智昭と優里の関係が安定してるのは理解してても、玲奈と智昭が法律上は夫婦だって考えると、やっぱり胸の奥がざわつく。智昭と玲奈の関係のせいで、みんながモヤモヤしているのは当然だったが、優里に至ってはなおさらだった。以前は、智昭と玲奈が犬猿の仲だったから、優里はすべてにおいて自分のほうが勝ってると思っていたし、智昭が玲奈に情を持つなんて考えたこともなかった。だから、法律上の夫婦だって聞いても、特に何も感じなかった。けれど、玲奈が仕事で力を見せ始め、さらに智昭の態度が目に見えて変わったのを感じてからは、その法的な夫婦関係が妙に引っかかるようになってきた。そんなことを思っていたとき、結菜が訊いてきた。「そういえばさ、姉ちゃん、義兄さんって今回の出張、いつ戻ってくるの?」そう聞かれて昨日、智昭がわざわざ玲奈に会いに行ったことを思い出し、しかも今回の出張ではまだ一度も連絡がない。優里の胸は、もやもやと重くなっ
ケッショウテックの件については、青木家の人間もすでに知っていた。玲奈はいまや事業を成功させ、裕司と青木おばあさんたちはそのことを心から喜んでいた。玲奈のために祝おうと、土曜の昼、彼らは玲奈と一緒に外食に出かけた。裕司の車がレストランの近くに着き、駐車場に入ろうとした時、反対側から来た車と危うくぶつかりそうになった。相手がスピードを出しすぎていたのが原因だったが、裕司は争いごとを避ける性格で、特に咎めることはなかった。本来は彼の車が前に出ていて先に入るべきだったが、相手が強引に割り込もうとしたため、裕司は眉をひそめ、窓を下ろして話そうとした。相手もこちらに理があると感じたのか、同時に窓を下ろしてきた。しかし、相手の窓が下がった瞬間、裕司の表情は一気に冷えた。正雄も、まさか相手が裕司と青木おばあさんたちだとは思っておらず、かけようとしていた言葉が喉元で止まった。助手席にいた佳子、後部座席の大森おばあさん、さらに後続車の遠山おばあさんたちも皆、裕司の姿を目にした。まさかこんな偶然があるとは、誰もが予想していなかった。裕司は視線を外し、正雄が反応する前に、先に車を駐車場へと滑り込ませた。今日は食事を楽しむ予定だったのに、正雄たちを見た途端、青木おばあさんの顔色はたちまち曇った。玲奈は祖母の手を取って寄り添い、そっと手の甲をなだめるように撫でた。娘の体調も少しずつ回復し、玲奈の状況も良くなってきたことを思い出すと、青木おばあさんの心にも安堵が広がり、過去に囚われず前を向こうと、気持ちが少しずつ晴れていった。車を停めると、玲奈と青木おばあさんたち一家六人は先にレストランへと入っていった。祖母の気持ちが前向きになったおかげで、一行の気分も大きくは崩れなかった。だが、大森家と遠山家の面々はそうはいかなかった。青木家の人々の背中を見送りながら、大森おばあさんも、遠山おばあさんも、優里たちも、皆一様に顔を曇らせていた。ケッショウテックの件については、彼ら全員がすでに知っていたからだ。たとえ智昭の助けで藤田総研が明確な方向性を見出したとはいえ、ここ最近の投資が無駄になったことは事実だった。それに、現時点ではあくまで「方向性」が見えただけで、藤田総研の未来がどうなるかは、まだ全くの未知数だった。そのうえ