逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。
それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。 逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。
だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。
それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。 里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」
「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」 「何をっ……」悲しそうな未晩は里桜の腕を掴み、手の甲へ口づける。
「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」
にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。
「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」
口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。
「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」 古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。 里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名* * * ――なぜ、こんなことになっているのだろう? 夜澄は自分が抱きとめた少女を見て、硬直する。どうやら、竜頭が勝手に身体を使って湯に浸かっていたらしい。そこへ、身を清めるために彼女、朱華が入ってきた…… 「夜澄?」 朱華もまた、何が起こったのか理解できていない表情で、自分を見つめている。なぜそんなに無防備なんだ。侍女と一緒じゃないのか。こんなときに幽鬼がやってきたらどうするんだ。白い湯帷子が湯に濡れて透けているぞ。襲ってもいいのか。「お前……状況を考えろ」 「あ、やっぱり夜澄だ。さっきまで瞳の色が黄金色だったから違うひとかと思った」 朱華の言葉に、夜澄は怒りを萎ませる。黄金色の瞳、それは竜頭の瞳の色。やはりさっきまで自分の身体には竜頭が入っていたようだ。いつの間に身体に入ったのだろう。 だが、竜頭は朱華と会話をつづける気がなかったらしい。いきなり姿を消してすべてを夜澄に任せたのだ。たぶん、彼女が自分の神嫁になる少女だということにも気づいていないに違いない。「……それより夜澄、いい加減放してよ」 さすがに湯帷子一枚を素肌の上にまとっただけの姿で抱き合うのは、どうかと思う。 朱華がまともに意見したのに気づき、夜澄は慌てて朱華から手を放す。ふわり、花の甘い香りが周囲を包んでいく。朱華は夜澄からすこし離れたところで、ふぅと腰を下ろす。 夜澄は気が気でない表情で彼女を見つめる。湯帷子越しだから気を許しているのだろうが、彼女の淡い桜色の乳首がほんのり透けていて、前夜のことを思い出してしまったからだ。 小ぶりでありながら弾力のある乳房に敏感な乳首。野外の暗闇では確認できなかった彼女の色めいた姿を想い、これではいけないと首を横に振る。「すまない。ちょっと考えごとをしてた」 とろみのある飴色の湯に、桜の花びらが閉じ込められている。昨日の薔薇の香りも悪くはなかったが、今日の桜の芳香の方が、朱華には似合っていると、夜澄は心の中で呟く。「……顔、赤いけど。いつから入ってるの?」
硝子窓に反射する朝陽を浴びて、朱華は起きる。「あれ? ここ……」 自分と未晩が暮らしていた診療所ではない。しかも、身にまとっている生成り色の朝衣もふだん着ているものより上質で、光沢感がある。なぜ自分がこのような場所で寝ていたのか首を傾げたところで、小気味のよい扉を叩く音が響いた。 「朱華さま、起きましたか?」 その声で、朱華は我に却る。思い出した。ここは神殿。自分は竜神さまの花嫁となるためここに連れられてきたのだ。自分が花神の強大な加護を封じられている裏緋寒の乙女だから…… 「あ、はいっ! どうぞ」 慌てて応えると、安心したように雨鷺が入ってきた。紺鼠色の小袖を着て髪を高く結いあげている雨鷺は同じ装束の少女を連れている。十代半ばくらいの、あどけなさが残る三つ編みの少女も雨鷺と同じ小袖姿であるのを見ると、どうやら神殿に仕える侍女見習いのようだ。「裏緋寒さまの本日のお召し物になります」 朱華と目があったことに気づいた少女は顔を真っ赤にしながらたどたどしくも要件を伝えていく。朱華はありがとうと頷き、彼女から衣装を受け取ろうとしたが、雨鷺に奪い取られてしまった。「まずは、湯殿にて身をお清めするのが先になります」 そのまま、促されるように朱華は朝衣のまま、寝台を下りる。開いた扉の前で雨鷺が 「Chiko yayattasa(感謝します)、shirar(岩となりしものよ)」と呟くと、霧のように細かい水滴が空中で弾けて消えた。「いまの……」 「ルヤンペアッテの竜頭さまより賜れたわたしの加護術です。一晩程度でしたら幽鬼の侵入を阻む小結界を編み出せます」 にこやかに解説する雨鷺に、朱華はそうだったのかと納得する。『雨』の民のなかには水を自在に操ることができるほどの強い加護を持つ人間もいるという、雨鷺は神殿の巫女のように万能なちからを持つわけではないが、特化したちからがあるから神殿内で重要な役割を持つ人間を世話することができるのだろう。 朱華が室から出ると、そこには青い外套をまとった
「だけど。そのちからを、あたしは使いこなすことができるの?」 幼いころ、禁じられた術を使って故郷を滅亡させるに至ったという過去が、朱華の心に鎖を巻きつけている。十年経って、そのちからが完全に戻ってきたからといって、すぐに使いこなせるとは到底思えない。「閉じた蓋を外すのが怖いのね。強すぎるちからは自分自身を破滅へ導くこともあるでしょう。けれど茜桜はあたしと出雲の子だから貴女にありったけの加護を注ぎ込んだのよ。使いこなせないかも、なんて怯える暇があるのなら、使いこなせるよう努力しなさい」 ぐずる子どもを叱りつけるように、帰蝶は朱華に強く伝える。 「っていうか、使いこなせ」 くだけた言葉遣いが、かつての朱華の母親の姿にぴたりと重なる。わたしの娘なんだからそれくらいできるわよ、とからから笑っていた太陽のような女性。『天』の加護を持っていたことから雲桜の神殿へ派遣された姫巫女だった女性。花神さまと結婚することだって叶ったのに、そこで出逢ったしがない神官と恋に落ち、朱華は産まれたのだ。 いつも朱華に神謡(ユーカラ)を謳っていた母。誰よりも土地神に近い存在だった母。 自分もまた、その系譜に連なる運命を辿る岐路に立ったのだ。朱華は自分がどの道を進むべきなのか、帰蝶の言葉を反芻しながら、決定を下す。「……うん」 それは、残留思念として漂うばかりの茜桜と帰蝶に向けた、最初で最後の誓い。「――あたし、もう、逃げない」 雲桜が滅亡した真実から、未晩に書き換えられた記憶から、至高神が預かっているという茜桜の加護から。 流されるように穏やかに生きるのはもうやめると決めた。「それでこそ、フレ・ニソルが誇る紅雲の娘!」 帰蝶は朱華の瞳をじっとのぞきこんで、うたうように言の葉を紡ぐ。 「たとえすべてを思いだせたとしても。許してあげて。自分のことも――彼らのことも」 朱華は黙り込んだまま、帰蝶が告げるひとことひとことを耳の奥へ、心
「――ええ。いつだって貴女を見守っているわ。菊桜の花を染める、朱華色の娘」 そして、帰蝶の姿が、蛹から蝶へ羽化するように年齢を重ねて変わっていく。彼女を護るように、極彩色の蝶々が桜の下へ集っていく。薄紅の八重桜……いや、八重よりも花びらの多い朱華色の菊桜に、大量の蝶々が飛来する。 銀色だったはずの双眸は灰紫色へ。藍色の髪は朱華と同じ、玉虫色へ。 懐かしさが、朱華の胸いっぱいに拡がっていく。 朱華が見惚れている間も、蝶の翅から溢れる鱗粉が、女性の周りを彩っていく。服装も、膝下まで着流していた白の浄衣から、緋色の行燈袴に白の襦袢、墨色の桜花の描かれた千早を羽織った、巫女装束へと変わっていた。 カイムの姫巫女の姿をした帰蝶は、ふたたび逢うこととなった娘へ、手を差し伸べる。 「貴女が幼き頃に犯した罪は、わたしも償ってあげるから。恐れないで」 朱華は自分を抱きしめる温かな腕に包まれ、声を詰まらせる。 彼女の名は、帰蝶ではないけれど。 目の前にいるのは、朱華の母親だった。「……おかあさんっ!」 「朱華(あけはな)。わたしはもう、この世には存在しない、茜桜の御遣いなの。だけど、至高神のお情けを受けて、ときどき、夢の狭間から、あなたを見ていたわ……一緒に死んだ、茜桜と」 くすりと笑って、帰蝶は朱華へ言葉を紡ぎつづける。「茜桜は、貴女を自分の神嫁にしたがっていたのよ。わたしがただの神官と結婚したのを根に持ってね。だから産まれたときから、至高神にも目をつけられちゃったのよ」 茜桜が莫大な加護を赤子に注ぎ込むから。 朱華は流れるように話しだした帰蝶に、待ってと手で制止をかける。「お母さん。あ、あたし。記憶が、ないの。だから、ごめんなさい。お母さんが言っているぜんぶが、理解できないの」 「わからなくても、夢から醒めて忘れても、別に構わないわ。ただ、わたしは伝えそびれたことを伝えたかっただけ」 病であっけなく死んでしまった母は、茜桜に蝶の姿を与えられ、帰蝶という名の御遣いに生まれ変
朱華は夢を見ていた。 いつもと同じ、茜桜の夢。 けれど、朱華はこの夢が、いつもと異なることに気づく。 まず、自分が身につけている装束が、白い。そして、桜の花が、ほんのり薄紅色に染まっている。 ――紅雲の娘が来たわ。花王に愛でられし娘が来たわ。 八重桜の樹々の上空から囁かれる声も、ふだんより明瞭で、ひとつひとつの言葉が耳元まで飛び込んでくる。この声は、花神の御遣いである|帰蝶《きちょう》さまだろうか。 「……いま、何を」 そこまで考えて、朱華は唖然とする。なぜ自分は茜桜の御遣いの名をあたりまえのように思いだせたのだろう。それより、茜桜はどこにいるのだろう。いつもの夢なら、すでに茜桜は朱華の前に現れて、いつもと同じ言葉を語りかけてくるはずなのに。 「誰も、いないの?」 純白の袿をはためかせながら、朱華は茜桜の姿を探す。いない。 ――花王に愛されたフレ・ニソルの裏緋寒、貴女は誰を、探しているの? そのかわりにきこえてきたのは、謳うような女性の、帰蝶と呼ばれる茜桜の御遣いの声。 朱華が声のする方へ顔を向けると、ひらひらと虹色に輝く蝶が天空に舞っていた。 「帰蝶さま、茜桜がどこにいるか、わかる?」 すると、虹色の蝶はまたたく間に形を変え、朱華より年上の、三十路前後の女性の姿に変化する。藍色の、夜空を彷彿させる長い髪は、水引でひとつに結いあげられている。そして、夜空の星のような白銀の瞳が、朱華の菫色の双眸へ目を止める。白い衣をまとっただけの姿なのに、神々しさを感じさせる容姿だ。 土地神の御遣いと呼ばれる精霊は、ふだんはちいさな動物の状態で、神の傍から離れないでいる。けれどいま、帰蝶の傍に、花神はいない。だから彼女は人型に姿を変えたのだろうか。朱華と直接、話ができるように。 「貴女がそれを、わたしにきくの?」 わたしの方が、知り
「それよりなぜ逆さ斎がこちらに? 狙いは裏緋寒ではないのか?」 「その、裏緋寒を自分のモノにするために、あたくしの逆さ斎のちからを奪おうとしているみたい……彼は、幽鬼と接触して、闇鬼を同化させている。この印が完成したら、あたくしはただの紅雲の娘に戻ってしまう……」 おろおろする里桜の姿は、年相応の幼さが顔をのぞかせる。夜澄はそんな里桜の言葉を反芻して、ぼそりと呟く。「……フレ・ニソルだったのか」 「ええ。雲桜が滅んでから、逆さ斎になることを選んだ。いまさら、ふたつ名を名乗れないただの『雲』に戻りたくなどない」 「だが、この術を解くのは容易ではなさそうだ」 「夜澄でも無理よね」 「無理だ」 きっぱりと告げる夜澄に、里桜はくすりと笑う。 「でも、裏緋寒の記憶を取り戻すことはできるのではなくて?」 「さあな」 里桜に指摘されても夜澄は素早くはぐらかす。 雲桜が滅んだ際の記憶を朱華は完全に思いだしたわけではない。絶頂とともに顔を歪ませた朱華は夜澄の腕の中で意識を失ってしまった。まだ未晩が施した術は完全に抜けていないということだろう。まるで桜を捕えた暗色の芥子の花のように、朱華の記憶は幻に囚われている。 「けれど、彼女の記憶が戻るのを待つ時間も、ちからが解放されるのを待つ時間も、大樹さまが戻られるのを待つ時間も、あたくしたちには残されていないわ……ついに幽鬼が現れてしまったんですもの」 すぐにでも竜神を起こして、竜糸の結界を強化しなくては。 焦りを見せる里桜は、率直に命じる。 「裏緋寒を、竜神の生贄に」「できるか!」 言葉を遮るように、夜澄は反発する。けれど里桜は仕方がないのよと悲しそうに告げる。 「……そうすれば、竜頭さまは眠りから醒め、結界は元通り。竜神さえ目覚めれば、あたくしにかけられたこの呪詛だって簡単に解けるし、彼女を狙う逆さ斎は身動きが取れなくなって自滅する」
未晩の姿が一瞬でかき消える。存在自体が幻だったかのように。 緊張の糸が切れたかのようにがくりと膝が床に落ちる。 けれど里桜はこれが現実であることを痛感する。右手の甲に施された逆斎のちからを無力化する呪詛。これは逆さ斎が使うことはまずない、忌術。 「……瘴気が、なかった」 闇鬼に堕ちた人間なら、瘴気を身体中から迸らせているものだ。けれど、未晩からはまったく瘴気が感じられなかった。考えられる可能性はふたつ。ひとつは未晩自身がいまなお闇鬼を飼いならした状態でいるということ、そしてもうひとつ。 「……彼自身が幽鬼になった?」 幽鬼は自ら瘴気の存在を操ることができる。もしかしたら未晩も瘴気を操れる幽鬼となったのではなかろうか。この竜糸に侵入している幽鬼と接触したことで。 裏緋寒の番人として対面した桜月夜は彼が闇鬼を飼っていることから瘴気を払うことで難を逃れたが、裏緋寒を連れて行かれた未晩は、闇鬼を操るだけでは神殿に歯が立たないことに気づいたのだろう、それゆえ、幽鬼と接触を試み、自らの裡に飼いならしていた闇鬼と自我を同化させることにしたのだ。 朱華を神殿から取り戻す、それだけのために彼は幽鬼と契約し、その身を幽鬼へ変化させたのだ。なんということ。 未晩が消えてからも膝をついたままの状態で途方に暮れていた里桜の前に、清涼な空気が雪崩れ込んでくる。ハッとして顔をあげると、不機嫌そうな夜澄が突っ立っていた。「なんだこの気配は」 「……逆さ斎が現れたわ」 それだけ口にして黙り込んでしまった里桜を見て、夜澄はふん、と鼻を鳴らす。だが、視線を里桜の右手に移したことで、その表情は瓦解する。「お前、その手……!」 「やられたわ。彼、ただの逆さ斎じゃない。幽鬼と手を組んだことで更に禍々しくなっている」 夜澄が里桜の右手の甲へそっと手を乗せると、黒い羽虫は霧散するものの、もぞもぞと抵抗するように暴れながら再び蹂躙をはじめる。どうやら神術で消し去っても、施されたもともとの術が解けない限り、次から次
逆さ斎は土地そのものに仕える斎。神からの加護を受けずとも果敢に生きるが、地母信仰に基づいた独自の象徴を抱いている。 それが、神皇帝の紋章にも使われている印璽に描かれる、月。 逆井一族に認められた男児は月の影という称号のもと、神皇帝とともに神々の守護する国の補佐をするのだ。 けれど未晩はその月の影になることの叶わなかった、逆井一族に認められなかったなりそこないだ。 だから至高神が情けをかけて裏緋寒の番人に召したのかもしれない。 そこまで考えて、彼は自分と同じ銀髪に緑の瞳を持つ逆さ斎でありながら、まったく別の、自分とは反対の位置にいる人間だということを改めて悟る。 それは、彼とはけして相容れることないだろうという諦めにも似ている。 里桜は未晩の言葉を撥ね退けるように鋭く言葉を発す。「月の影のなりそこないの言葉など無用よ。闇鬼の呪力をつかって竜糸に悲劇を起こしてまで自分の望みを叶えようとは思っていないの」 「残念です。神に逆らう斎たる貴女が、代理の神という座に甘んじているなんて」 「何をっ……」 悲しそうな未晩は里桜の腕を掴み、手の甲へ口づける。「貴女が竜神の花嫁になれるよう、祝福してあげましょう」 にこやかに微笑む未晩の翡翠色の瞳は、笑っていなかった。「そんな外法で竜頭さまが惑わされるわけがない!」 口づけられた手の甲を衣でごしごし拭いながら、里桜は抵抗する。それでも手の甲の周りはむず痒さがつづいている。目を凝らせば、蟻に似た羽虫が皮膚を喰らうように集い、里桜の手に印を刻みつけている。これは幻覚。呪詛なんかじゃない。自分と同じ術者なのだから、撥ね返せばいいだけのこと。 「――土地に仕えし逆さ斎が命ずる、我が身を襲いし悪しき幻よ、失せよ!」 古語を使わない詠唱は逆さ斎特有のもの。土地神ではなく土地そのもののちからを分けてもらうことで術を発動させる逆さ斎は、地面の上にいる限りどこででもちからを具現することが可能になる。 里桜は竜糸の代理神だが、それ以前に椎斎の、逆井を名
至高神がすべてを仕組んだ張本人であるのなら……里桜は思考をめぐらせる。 まずは大樹を返してもらい、完全な代理神となって、竜糸の結界を締め直すのだ。 そうすれば、裏緋寒である朱華のことで煩わされることもないし、たとえやむを得ず竜頭を起こしてしまったとしてもふたたび眠らせることができる。そもそも大樹がいれば竜頭のもとに花嫁を送る必要もなくなる。だが。「……至高神がカイムの地にいる可能性は低いと思いますよ?」 そう、あっさりと釘を刺した颯月の言うとおり、至高神がそこにいる可能性は低い。 至高神を探し出すまでの時間を考えると、竜神を起こすのが正解なのだろう。 けれど、里桜はムキになって言い返す。「そ、それでも、大陸随一の大神殿なら……」 「あたるだけあたりますが、いいかげん竜神さまに起きてもらった方がいいような……」 颯月は意地になっている里桜を見て、困ったように言葉を濁らせる。「と、とにかく頼むわ!」 里桜は颯月を追いだし、はぁと息をつく。 もし、ほんとうにすべてが至高神に仕組まれているのなら。天の姫神は代理神を廃して、本来の竜神にすべての統治を頼むのだろうか。傍に、花嫁となる朱華を置いて……「そんなこと……」 花神に愛され、それを裏切った後も逆さ斎の裏緋寒の番人に愛され、あげく桜月夜に傅かれ竜頭の花嫁にと選ばれた少女、朱華。 ――なぜ彼女なの。「恨めしいのですか?」 フッ、と里桜の脳裡に少しかすれた声が入り込む。「恨めしいんだね」 まただ。影のある、けれど聞き覚えのある声が。「恨めしいんだな」 しずかに、追い詰めるように自分を責めていく。 そのうち、鈴を転がしたような声が割り込み、甘い誘惑を振りまいていく。「――素直に認めればいいのに」 なにかがおかしい。 この場所に、なにかがいる。 里桜はあたまを抑えて呻き声を漏らす。「だ、誰があ