画面の中、賢司の瞳は次第に色を深め、舞子の小さな顔を凝視したまま、不意に問いかけた。「俺たちの関係を公にしたいのか。それとも、公にせざるを得なくなったのか?」舞子の長い睫毛がわずかに震える。「公開したいと思う」二つの答えに大きな違いはない。少なくとも舞子にとっては。「ああ」賢司は短く応えた。その精悍で整った顔立ちには、感情の揺らぎ一つ見えなかった。「まだ少し緊張してる」舞子がぽつりと漏らす。「怖がる必要はない。俺がいる」「うん」その言葉にうなずいた瞬間、胸を締めつけていた不安は、まるで霞のように消えていった。――コンコン。ちょうどそのとき、ドアが軽くノックされた。舞子は入口を見やりながら声をかける。「どうしたの?」「牛乳を一杯持ってきたよ。飲んでから寝なさい」母・幸美の声だった。「はい」舞子は返事をすると、スマホを伏せてベッドに置き、立ち上がってドアを開ける。そこには、穏やかな笑みを浮かべた幸美が立っていた。「舞子、さっき誰と話してたの?」やはり入口で聞かれていたのだ。「友達よ」舞子は淡々と答える。幸美は意味深な眼差しを向けながら、やわらかく言った。「お酒飲んだんだから、早く休みなさい」「はい」舞子は牛乳を受け取ると、すぐにドアを閉めた。これ以上、母と一言も交わしたくなかった。幸美も怒りを見せることなく、静かに踵を返して去っていった。ベッドに戻り、スマホを手に取ると、賢司の姿はまだ画面にあった。彼はスマホを固定しているようで、俯いたまま何かを処理している。「まだ忙しいの?」舞子が怪訝そうに尋ねる。「緊急の処理がいくつかある」舞子は牛乳のカップを両手で包み、一口含んでから微笑んだ。「じゃあ、お邪魔しないわ。頑張って」「邪魔にはならない」顔を上げた賢司の視線が、ふと止まった。「どうしたの?」じっと見つめられ、舞子は思わず首を傾げた。自分が映る画面には気づかず、舞子はずっと彼だけを見ていたのだ。柔らかな唇の端に、白い跡がひとすじ。無邪気で純真なはずなのに、なぜか人を惑わせる艶を孕んでいた。賢司の喉仏が上下に動く。「唇に牛乳がついている」その言葉に、舞子もようやく気づき、頬を赤らめて舌先で慌てて舐め取った。賢
舞子がレストランに戻ると、幸美がすぐに駆け寄ってきた。赤く腫れた瞳の縁を見て、幸美は娘がひとりで涙を流していたのだと悟る。「舞子、ご飯にしましょう」「……うん」舞子はほとんど感情を表に出さず、幸美がいくつか言葉を投げかけても、まともな返事は返ってこなかった。そのため幸美は、それ以上話しかけることを諦めた。舞子が席を立ったあと、幸美はすぐさま裕之に電話をかけ、先ほどの出来事を報告する。裕之は怒気を込めて叱責し、何としてでも舞子を宥めるようにと厳しく命じた。なぜなら、優子は今や瀬名グループの社長秘書を務めており、賢司と親しくなるのも時間の問題だったからだ。賢司との縁談は、どうしても舞子でなければならない。事の重大さを悟った幸美は、必死に舞子を宥め、何とか彼女を連れ戻した。舞子さえ賢司と結ばれ、結婚してくれるなら……それ以外のことなど取るに足らないのだ。食事を終えた母娘は別荘へと戻った。幸美はすでに臨時の家政婦を雇い入れており、客間も整えられていた。彼女は自室で簡単に身の回りの整理を済ませ、廊下に出たところで舞子と鉢合わせる。「もう休むの?」「うん、ちょっと疲れちゃって」「そう」幸美は頷き、柔らかく微笑んだ。「じゃあおやすみなさい。ここ数日はお母さんもここにいるわ。何日かしたら、一緒に行きましょう」その言葉に舞子はわずかに眉をひそめたが、何も言わず寝室へ戻り、ベッドに身を投げ出した。自然とため息が漏れる。これから、どうすればいいのだろう。帰国したら、すぐに賢司との関係を公表するの?両親がどんな顔をするか、容易に想像がついた。苛立ちは募り、ベッドの上で何度も寝返りを打つ。そのとき、スマホが一度だけ震えた。賢司からのメッセージだった。【家に着いた?】【着いたよ。夜ご飯は食べた?】【食べた。会いたい】張りつめていた心が、たちまち羞恥に染まっていく。なによ、もう。さっき会ったばかりじゃない。瞳がかすかに揺れ、舞子は思わず自分の顔を撮って送った。【私の写真、見せてあげる】【ああ、綺麗だ。もっと会いたくなった】頬がさらに熱を帯び、舞子はスマホを伏せて返信をやめた。しかし次の瞬間、ビデオ通話の着信音が鳴り響く。イヤホンを耳に差し込み、しばらく迷ったのち、通話に
背後から足音が迫り、次の瞬間、誰かが彼女の手首をつかんだ。振り返る間もなく、その人物が彼女の前に立ちはだかる。「俺を見て……どうして逃げるんだ?」賢司はわずかに不機嫌そうに、赤みを帯びた舞子の瞳をじっと見つめた。その瞳は彼の視線に耐え切れず、やがて涙で曇り、透明な雫が今にも零れ落ちそうに揺れていた。その瞬間、賢司の胸の奥が締めつけられる。まるで見えない手で心臓を握られたかのように、息が詰まりそうな鈍痛が走った。彼は手を伸ばし、人差し指の関節でそっと彼女の目尻をぬぐいながら尋ねる。「……誰にいじめられた?」舞子は鼻をすすり、視線を逸らしたまま小さく答えた。「大丈夫よ」涙を流しながら、それでも「大丈夫」と言い張る。賢司は心の奥でため息をつき、次の瞬間には彼女を強く抱き寄せていた。片手で後頭部を支え、もう片方の手で優しく背を撫でながら、言葉を差し挟まず、ただその温もりで彼女を包み込む。舞子の頬は彼の胸に触れ、耳元には力強い鼓動が響き渡る。その体温が冷えきった心を溶かし、不安を静かに洗い流していった。彼女は瞬きを繰り返し、抑えきれない感情が胸の内でせめぎ合っていた。――それでも、かろうじて堰き止めることができた。やがて舞子はこもった声で打ち明ける。「……エミリーが私を見つけたの。あの子、私を狙ってるみたい」賢司の瞳が深い闇のように濃さを増し、低く言い放った。「怖がるな。俺が処理する」「……うん」舞子は静かに答え、その胸に身を預けた。拒もうとする気持ちは、どこにもなかった。しかし、突如として携帯の着信音が静寂を破る。舞子は名残惜しげに彼の腕から離れ、画面を見やった。表示されていた名前は――幸美。「もしもし?」声はまだ少しこもっていた。受話口から、母の優しい声が響く。「舞子……お母さんが悪かったわ。あんなこと言うべきじゃなかった。もしまた彼女たちがあなたをいじめるなら、お母さんが守るから。桜井家は世間で一番の富豪じゃないけれど、それなりの財産もある。だから、お母さんは絶対にあなたを放っておかない」少し間を置き、さらに言葉を重ねる。「戻って一緒にご飯を食べましょう?夜にお腹を空かせるのはつらいでしょう」態度を和らげ、舞子を宥めて帰らせようとしている。その意図は透けて見えた。
「こいつを押さえつけろ!」エミリーが怒声をあげ、二人の子分に命じた。舞子はその声を聞いた瞬間、眉をひそめて身を翻し、逃げ出そうとした。だが、一人の少女が素早く彼女の髪をつかみ、頭皮を引き裂くような痛みに耐えきれず、舞子は引き戻されてしまう。もう一人の子分は彼女の腕をねじり上げ、自由を奪った。エミリーは悠然と前に歩み出ると、舞子の頬を乱暴につかみ、冷たい声を吐いた。「よくも逃げようとしたわね?」言うが早いか、彼女の手が振り上がり、鋭い平手打ちが舞子の顔に迫った。だが舞子は、美しい瞳をぎらりと見開き、うつむきざまに身をひねる。頭皮に走る激痛をこらえつつ、間一髪でビンタをかわした。次の瞬間、彼女は子分の腕に鋭く噛みついた。「きゃっ!」甲高い悲鳴とともに、その子分は思わず手を離す。舞子はその隙を逃さず駆け出し、トイレを飛び出した。振り返りざま、冷たい眼差しでエミリーを射抜き、低く告げる。「あなたの身分がどんなに尊くても、権力を笠に着ていじめをしているとネットに広まったら……どんな末路を迎えると思う?」この国では銃の所持が合法だ。権勢をかさに横暴を働けば、たちまち誰かの怒りを買い、命を顧みず彼女を狙う者が現れても不思議ではない。そうした事件は毎年のように起こっている。エミリーの顔色はたちまち曇り、唇を噛んだ。やがて彼女は二人の子分に首を振り、追撃を止めさせる。国民の敵になるわけにはいかなかった。舞子の背が遠ざかっていくのを見送りながら、エミリーの青い瞳は陰鬱に濁り、唇から憎悪が漏れた。「あの女……絶対に許さない……!」席に戻ると、幸美が舞子の顔を見てすぐに眉をひそめた。「どうしたの、その姿……?」舞子は淡々と答える。「ちょっとしたトラブルに巻き込まれたの。さっき誰かに引き止められて、殴られそうになったから逃げてきたのよ」幸美は驚愕し、怒りをにじませる。「なんてこと!誰がそんなことを?」舞子は母をじっと見つめ、静かに言った。「賢司の追っかけよ。しかも身分が高くて、王女の娘。お母さん、私が賢司に近づくとこういう目に遭う。それでも私に続けろって言うの?」それは試しでもあった。もし本当に命の危険にさらされたら、親はどんな態度を取るのか。幸美はしばし黙り込み、ようやく言葉を絞り出した
エミリーとその取り巻きたちが、ぐるりと舞子を取り囲んだ。彼女たちの目に、舞子をそう簡単に立ち去らせるつもりなど毛頭もなかった。エミリーは腕を組み、顎を小さく反らし、軽蔑の色を浮かべて彼女を射抜くように見据える。「あなた、前に言ったわよね。自分は賢司の人生におけるただの通りすがりに過ぎず、いずれ二人は別れるのだって。だったらこっちからも言わせてもらうわ。未来を待つ必要なんてない、今すぐ賢司から離れなさい」賢司に拒絶されたとき、エミリーは烈火のごとく怒りに燃えた。だが、すぐに考えを改める。あれはきっと東洋の男なりのけじめなのだ、と。舞子が傍らにいる限り、自分を受け入れられなかったのだ。ならば、舞子さえいなくなれば、二人は自然な流れで結ばれるはず。彼女は既に人を雇って舞子を尾行させていたが、まさかこんな場所で鉢合わせするとは思わなかった。まさに棚から牡丹餅。尊大な態度のエミリーを前にしても、舞子は落ち着き払っていた。「悪いけど、それは無理よ」静かに、しかしはっきりと告げる。エミリーの眉間に険しい皺が寄った。「約束を破るつもり?この前の言葉は全部嘘だったってわけ?」舞子は淡々と答えた。「エミリーさん、前にも言ったはずよ。未来のことは誰にもわからない。でも少なくとも今の私は、賢司と別れるつもりはないわ。だから……その考えは諦めて」「やっぱり私を騙してたのね!」激昂したエミリーは一歩踏み出し、振り上げた手で舞子を叩こうとした。だが舞子はすでに警戒しており、すばやく身をかわす。眉をひそめ、冷然とした声で告げた。「エミリーさん、これ以上しつこくするなら警察を呼びますよ」その言葉に、隣にいた二人の少女がフンと鼻で笑った。そのうちの一人、褐色の肌をした少女が挑発的に言う。「通報すれば?知らないかもしれないけど、エミリーはプリンセスの娘なのよ。誰が彼女を拘束できるっていうの?」エミリーはすぐさま得意げに顎をくいと上げ、吐き捨てるように言った。「舞子、賢司と別れるなら面倒なことにはしないであげる。でも、そうじゃないなら……ただじゃおかないわよ」その声音には露骨な脅しがこもり、彼女の態度からしても、本気で実行しかねない迫力があった。舞子は眉を寄せた。ここは異国の地、軽々しく揉め事を起こすわけにはい
舞子の態度は冷ややかで、どこかよそよそしかった。その無機質な空気が、幸美の胸に小さな棘のように突き刺さる。幸美は表情を引き締め、問いかけた。「舞子、あなたはまだ私たちを恨んでいるの?」「そんなことはありません」即答する娘に、しかし幸美は首を振った。「本当に恨んでいないのなら、そんな態度で私と話したりしないでしょう」短い沈黙ののち、幸美はさらに言葉を重ねる。「あなたがどんな考えを持っていようと構いません。ただ言っておきます。私たちがしてきたこと、選んできた道は、すべてあなたのためだったのよ。あなたが以前選んだ紀彦を思い出してごらんなさい。表面上は申し分なく見えたかもしれないけれど、実際のところはどう?別れを逆恨みして、彼は直接私のもとへ来て、『舞子さんが海外であなた方との関係を壊そうとしている』なんて言い出したのよ。あの男は見かけだけの偽善者。もし本当にずっと彼と一緒にいて、結婚までしていたら、後で傷つくのはあなた自身だったはず」その声には悔しさがにじんでいたが、すぐに調子を和らげて続けた。「舞子、あなたが束縛を嫌い、自由を求めていることはわかっているわ。でも一つだけ、はっきりと理解しなければならないことがあるの。あなたは私たちのような家に生まれた。だからこそ、犠牲を払う運命を背負っているのよ。あなたは女の子。私たちはこれまであなたを甘やかして育ててきた。けれど、あなたが果たすべき唯一の義務は、家の取り決めに協力して、見合い結婚をすることなの」なおも冷たい表情を崩さない舞子に、幸美は一歩前に出て、その手を取り、強く握りしめた。「私たちはあなたを愛しているからこそ、あの手この手で賢司様に近づけさせたの。彼の家柄、容姿、財力――そのすべては錦山でも群を抜くもの。もし私たちがただ見合い結婚を望むだけなら、もっと気楽に釣り合いのとれる相手を選ぶことだってできたはずよ。そうすれば、相手がどんな人物か気にする必要もなかった。でもそうしなかったのは、あなたのためなの。舞子、私の言いたいこと……わかってくれるわね?」舞子はしばし母を見つめ、それから静かに手を引き抜いた。「……わかりました」「そう、わかってくれて良かったわ」幸美はほっとしたように微笑んだ。舞子は視線を落とした。もちろん彼女は理解して